クマのお仕事日誌
2001年12月分


2001年12月3日(月)

6時起床、1時間ほどジョギング。
駅でサンスポを購入。昨日のラクビー早明対抗戦の余韻を噛みしめる。昨日はここ数年にない、壮絶な闘いだった。早稲田が14年前に全勝優勝した時の、雪の決戦を思い出した。
まさか早稲田がロスタイムで逆転できるとは思いもよらなかった。
10時前にホテルに到着。今日はロケ。
MMとデビッド、通訳の5人で10時すぎに出発。
途中パーキングで二回休み、14時すぎには現場に到着。ロケになると、車が休憩室兼楽屋になる。
セッティングに時間がかかる。リハが始まったのは、17時すぎ。本番はさらに時間がかかり、19時すぎから。
風が強く、いろいろ不都合なことがおき、そのたびにセットの直しが入る。
自分はやることがないので、ひたすら車の中で寝まくる。何度か自分のイビキで目を覚まし、ドライバーのTに呆れられた。
なんと撮影が終了したのは、朝の1時半。全員疲労困憊の様子。
高速をぶっ飛ばす。この時間の高速はまさに男の世界、トラックの定期便がばんばん走っている。
3時半ホテル到着。途中コンビニに寄り、ビールを買い、今日は会社泊まり。
ビールを飲みながら、メールをチェックしたあと、寝袋にくるまり、4時半就寝。雨が降っていた。明日というか、今日のロケはどうなるのだろう。

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2001年12月4日(火)

8時目覚ましの音で寝袋から這い出る。コーヒーを入れて目を覚まし、髭をそって、昨日のお仕事日誌をアップしたあと、会社を出る。
雨。朝家に電話した時は、昼過ぎにはあがるという話し。
ホテルの近くの立ち食い蕎麦屋で朝飯を食べ、9時45分ホテル到着。
バルとデビッドのふたりは、さすがに疲れていたのだろう。集合時間を10分過ぎてから下に降りてくる。
12時少し前にロケ現場に到着。雨はもう上がっていたが、風が冷たい。
明日の予定を確認する。どうも明日はアテンドする必要はなさそうな感じ。
13時すぎから撮影開始、30分ぐらいで収録は終了。これで終わりかと思ったら、16時半から次のロケ地に着いてくれと言われる。
車中ふたりは寝っぱなし。無理もない。
とにかく中途半端な時間なので、ロケ地に向かうことに。約束の時間より、1時間早く着いたが、ふたりは相変わらず寝っぱなし。
17時半からロケ開始。20分ぐらいで終了。これで今回予定されていた収録は全て終了。
18時すぎにホテル到着。飯でも食べようと誘ったが、やはり寝たいらしい。ということでこの時点で今回の仕事は終了。
明日の取材には立ち会わなくてもよくなった。
Tと一緒に車を戻し、近くの居酒屋でビールを軽く飲む。
20時半帰宅。疲れた。23時には就寝。

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2001年12月5日(水)

朝6時に目が覚める。10キロほどジョギング。
久しぶりの通常業務。
午前中は、若宮丸漂流民の会のもろもろの準備。会報準備号つくり。
考えてみたら、総会まであとわずか。いろいろ心配なことがでてくる。
アメリカにいるミンスクサーカスのフョードルから電話。実に久しぶりだ。なんでもいまマイアミにいるという。アメリカに娘と一緒に渡って、もう3年になる。
アメリカでの仕事にもずいぶん慣れたようだし、契約内容もそんなに悪くないという。
フョードルのように、アメリカになかば移住したロシア人アーティストは結構いるのかもしれない。
キエフのクリューコフに電話、西田のキエフ行きのスケジュールを確認する。
いまごろになってキエフでの公演がなくなったという。ぶぢりと切れそうになる。
それだったらそれで早く連絡してくれたらいいのに、これでまたスケジュールを変更しなくてはいけなくなる。
西田に連絡、代理店にも連絡してフライトスケジュールを確認してもらう。
クリューコフなりに、いろいろ考えてやっているのだろうけど、少しはこっちのことも考えてやってくれよという気になる。
のんびりムードがこれでふっとんでしまう。
Mマシシャン(MM)の件で電話、21日からの大阪公演を手伝ってもらいたいと言われる。
もうスケジュールが入っているとお断りしたが、大変なのはわかるし、どうしたもんか。
19時会社を出る。

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2001年12月6日(木)

雨が降る寒い日。雪でも降るのではと思うぐらいだった。
朝ウクライナ大使館に寄って、西田のキエフ行きの査証申請。領事館の場所が、同じ敷地内で変わっていた。
来週月曜日には出るとのこと、早くなったもんだ。
会社に戻ると、キエフ行きの件でチケットをお願いしているC氏からのメッセージ。予定していた日程だとフライトがとれないという。
焦ってしまう。C氏と協議、いくつか方法を考える。とりあえず東京−モスクワを押さえてもらう。西田とも相談して、モスクワのAに連絡して、モスクワからキエフまでの夜行列車がとれるかどうかを調べてもらうことになった。
その後C氏から、アエロフロート以外にもモスクワ−キエフのフライトがあることを知らされる。多分これがとれればベスト。少しホットする。
安い航空券一枚とるのに、C氏にはずいぶんと迷惑をかけてしまった。
少しメドがたって一安心。
今日は、MMとデビッドが帰国する日。ホテルまでお別れを言いに行く。今日の朝もテレビに出演したという。
会社に戻り、少し落ち着いたのでローマに電話をしてみる。自宅にはいなかったが、携帯を買ったという。ハーリックと一緒にキルギスのビシュケクに移動中だった。
全然電話が来なかったので心配していたという。ハーリックとも話す。久しぶりに馬鹿話をたっぷりと聞かされた。ローマたちは来年1月5日から中国公演なので、12月に来てくれたら嬉しいとのことだが、無理だろう。
元気そうなので嬉しくなる。サーカス場を取り戻すのも大事だが、なにより国立サーカスが仕事を増やしていき、アーティストたちが戻ってくるというのが、一番大事な気がする。ハーリックも電話で言っていたが、お金なんかよりもまず健康、そして家族が幸せであることが一番なのかもしれない。
21時駅で塾帰りの長女をピックアップ。今日来春の高校受験を前に親子面談があったので、少し気になっていたのだが、期末の成績がアップしたことで、本人はおおいにやる気を出している。
夜エンマに電話。来年4月のスケジュールを確認する。空いているという。久しぶりに声が聞けてこれまた嬉しかった。
4月の仕事がうまく決まるといいのだけど。

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2001年12月7日(金)

明日が若宮丸漂流民の会総会ということで、やらなくてはならないことを準備。
そのあと来年のGWに出す企画の見積を作成する。
合間に古本屋のネットで、欲しい本を検索。ずっと欲しかったクルウゼンシュタインの日本紀行が、なんと8,000円で売りに出されている。
すぐに購入手続き。ついでに村山先生の『漂流民の言語』も4,500円で購入。なんか得した感じになる。
14時半会社を出て、野毛の万里へ。
来年の大道芸フェスの打合せ。エンマの招聘は正式に決まる。その他の招待パフォーマーについては、予算案を出すことになった。
18時たろうちゃんのところに行ってマッサージをしてもらう。前回行った時は、身体がカチンカチンで驚かれたが、だいぶ元に戻ったと言われる。
20時帰宅。

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2001年12月8日(土)

5時半起床。朝飯を軽く食べて、7時44分発のやまびこに乗車。今日の総会の段取りをメモする。
少し本を読もうと思ったが、すぐに眠くなる。
目が覚めたらもう仙台、このやまびこは上野と大宮しか止まらない。
仙石線に乗り換え、またも寝込む。11時前に石巻に到着。歩いて石巻文化センターへ。
北上川の川沿いを歩く。なかなか気持ちが良かった。
11時半すぎに石巻文化センター到着。石垣先生、平川氏、庄司氏らと打合せ。
13時から会場準備。加藤さんが来てくれて、受付の準備。13時すぎには人が集まり始める。14時すぎ開会したが、ほぼ満員の入り。
重美や博も来てくれた。加藤さんが受付をやってくれたので大助かり。
持ってきた本も売れる。『海を渡ったサーカス芸人』は持ってきた6冊全部売れてしまった。残りは加藤さんに託すことにした。
40人以上の人が来場、27人の人が入会してくれた。
17時すぎ友福丸という料亭で、懇親会。参加者14名、みんななんのことはない、漂流者ばかりだ。
瀬之口が酒を飲まずにいてくれ、仙台まで車で送ってくれることになった。
車から光洋ちゃんに電話、おやこの例会の公演はいい感じで出来たという。22時ぐらいには仙台に着くはずなので、合流することにする。
22時15分光洋ちゃん、ななちゃんと加藤さんの4人で、市役所近くの飲み屋へ。
それにしても国分町は凄い人だかり。
1時半ぐらいまで飲む。家に着いてばったり。長い一日だったが、なんとか一区切りついた。

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2001年12月9日(日)

7時起床。朝飯を食べずに、とにかく風呂に入る。8時タクシーに乗り、山羊山の東北放送に向かう。北風がビンビン吹き込む寒い日、時折雪も舞う。
9時前には東北放送に到着。
9時すぎから打合せ。友川さんとは久しぶりに会う。
9時54分番組スタート。二回ぐらいコメントしたあと、番組の最後で明日の光洋ちゃんの公演の案内。かなり押していたので、あまり時間がなかったので、どれだけ効果があったのか、ちょいと疑問。
番組終了後、友川さんとそばでも食べに行きましょうということになる。
大町の戸隠蕎麦屋へ、司会の田沼氏と三人で行くことに。友川さんは、12時30分の新幹線に乗りたかたったらしいのだが、結局はあきらめて、14時近くまで、そば焼酎をふたりでボトル一本空けることになった。
タクシーで家に戻るが、連日の睡眠不足で、そのままソファーに倒れ込み寝込む。
18時すぎに晩飯を食べて、またそのあと睡魔に襲われ、ソファーで寝ていたが、布団で寝ることにする。
このまま朝まで寝込む。

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2001年12月10日(月)

8時起床。夜中に二回目が覚めたが、あとはコンコンと眠っていたようだ。昨日19時頃には寝たらしいから、13時間近く寝ていたことになる。
久々の寝溜め。親子3人で朝飯。白いご飯を食べるのはなんか久しぶりの感じがする。
弟の結婚話のことで、いろいろと話す。奥さんになる人から電話がかかってきたようで、おふくろがえらく喜んでいた。
おやじもずいぶんと元気になっていた。年末に弟が奥さんを連れて来るらしい。なによりなことである。
11時半すぎのバスで町へ。まずは駅前の銀行に西田のウクライナビザ代の振込をする。そのあとエルパークへ。
五人囃子でお世話になったY氏やI氏と久々の再会。来年春から芝居の稽古場となるところに移動になるようで張り切っていた。
光洋ちゃんとななの楽屋へ。昨日のワークショップもオーケーでしょうとのこと。
毎度のことだが、別にやることもない。とりあえずは昼飯を食べに国分町へ。支那ソバを食べる。本屋めぐりをするが、アイエ、高山といった老舗の本屋が一番町から消えて室ったのにびっくり。
比較的大きかったフォーラスにあった金港堂もなくなっていた。
本も売れなくなるわけだ。
15時半からゲネプロ。音と明かりの合わせ。
18時半客入れ。なんでも外は雪になっているらしい。客足がいまひとつ。
10分押しで開演。受けは上々。笑い声が絶えない。いい公演だったのではないだろうか。
21時半会場を出て、ホテルにとりあえず荷物を置いてから、打ち上げ会場のあべひげへ。
去年の五人囃子の仙台公演の時も打ち上げしたところ。スタッフさんも入ってかなりの賑わい。
昨日あれだけ寝たとはいってもまだ疲れがとれないようで、早めに退散。23時半ホテルに戻り、そのまま就寝。

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2001年12月11日(火)

7時に目が覚める。しっかりと朝飯を食べて、歩いて駅まで行く。寒い。すっかり冬だ。
ちょうどいい電車があったので、あまり待つこともなく、座れた。
宇都宮まで寝た後、アレクシェービッチの『アフガンの帰還兵』を読みはじめる。またずしりとくる話しだ。
10時半東京着。五反田まで出て、ウクライナ大使館で西田の査証をもらう。
12時前に出社。
GWに提出する企画の予算書を最終的に作成し、クライアントにファックスをいれる。
そろそろ年賀ハガキの準備をしなくてはならない。いつもこの時期は結構時間があるので、住所録をつくりなおしているのだが、今年はそれができそうもない。
とりあえずリストアップをしておく。
元五人囃子のミキが来社。今年夏行ったヨーロッパのビデオをダビングする。
18時会社を出て、クラプトンの公演を見るため武道館へ。途中光洋ちゃんと小原さんと出くわす。こんなこともある。
九段下から武道館までは長蛇の列。
5分押しで始まる。最初はアコースティンクでバラードを5〜6曲やったあと、エレキギターに持ちかえてからヒートアップ。
席もスタンド席の二列目で、しかも真正面、二年ぶりだったが、すごい満足感。
アンコールでサンシャインラブをやったあと、メンバー紹介して、またアコースティックに持ちかえて、オーバーザレインボーがラスト。余韻が残る心憎いばかりのエンディングだった。
九段下の駅の近くのイタ飯屋で食事。
24時帰宅。

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2001年12月12日(水)

10時すぎに出社。
仙台の光洋ちゃんの公演の整理をする。
そのあと、年賀ハガキ用に今年もらった名刺を宛て名リストに入力。
来年の仕事のオファーをするために大野と打合せ。
来週から始まるMMのステージショーの舞台道具の搬入搬出の段取りを表にする。
基本的には関係のない仕事なのだが、舞台輸送全般について請け負っているので、仕込の日と撤収の日は現場に立ち会うことにする。
箱根で今年仕事をしていたパフォーマーから電話、いま日本にいるという。明日会うことにする。
来年の仕事の話しが2本くる。決定ではないが、かなり脈のある話し。
いいぞ、いいぞ。また頑張らねば。
18時会社を出て、シアターΧへ。ぎりぎりに会場に到着。
西田演出の芸術創造塾のダンス公演を見る。前半は、寝てしまったが、後半の死をテーマにした作品は、集中して見れた。
なかなか面白かった。
公演後、顔見知りの人たちと挨拶。21時に会場を出て、帰宅。
22時半には家に着く。ビールを飲んで、24時前には就寝。