月刊デラシネ通信 > サーカス&パフォーマンス > 神彰 > 神彰−幻を追った男 > 第三部第七章-2

『神彰−幻を追った男』

第三部 赤い呼び屋の誕生
 第七章 ボリショイの奇跡 その2

ジェット機でやって来たレニンフィル

ジェット機でやって来たレニンフィル

 ソ連が初めて鉄のカーテンを開き、ムラビンスキイ指揮のレニングラードフィルをロンドンの国際芸術フェスティバルに送りこんだのは、1954年春のことである。神は『幻談義』に、この公演のことを、あたかもその場で見たかのようにこう書き留めている。

 「チャイコフスキイの交響曲第六番を奏でたオーケストラの旋律は、スラブ民族のもつ物憂い北国の憂愁を背景に、萌えさかる短い春の歓喜を描きつつ、重厚な人生の叙事詩を語らい、ロシア人の心を唱いあげた。古都ペテルブルグの匂いすら感じられるほどの高感度な演奏は、聴衆の思惑を完全なまでに裏切ってしまったのであった。しかも、その聴衆たちを、かつてない香り高い夢幻の世界の虜にしてしまったのである。
 ときを超え、ところを異にしても、芸術の根源は瑞々しく生きつづけいることに聴衆は気づいて、感応したのであろう」

 この感動を日本でも味わいたい、そのために神は、狸穴のソ連大使館の厚い鉄の扉をこじ開けたようと立ち向かったのだ。
 ドン・コサック合唱団の時は毎日新聞、ボリショイバレエは読売新聞が主催していたが、今度のレニングラードフィルは、朝日新聞が主催することになった。三大新聞社をつかいわけるという、離れ業を神は演じたことになる。これだけ大きい企画になると、当時は新聞社と共催することが絶対条件となっていたが、ある一社とつきあうと、そのあとの企画も同じ新聞社でというのが定石だった。その裏をついて、あえて神は、大手の新聞社を秤にかけるという大それた道を選んだのだ。一社べったりになるのではなく、等距離を保ちながら新聞社と付き合うことで、神は公演のイニシアティブをとろうとしたのだ。
 『怪物魂』の中で、彼はこう書いている。

 「共催関係をそのように多彩にしたのは、それなりの考慮があった。ある特定の新聞社の丸かかえになるような状態や、そういう印象を世間に与えることさえ、私は極力回避しようとした。
 ひとつは主体性の問題がある。仕事をする場合には、主体性を確立することは私の信条であった」

 主体性を保てるだけの企画がこの時彼の手に握られていた。ボリショイバレエ、レニングラードフィル、ボリショイサーカス、レオニード・コーガンという、まさにドル箱を彼は抱えていたのだ。新聞社にお願いするのではなく、有利な条件を出してくれる新聞社を、神が選ぶことができたのである。神はすでに、したたかなプロモーターになっていた。
 ロンドン公演から四年後に実現したレニングラードフィル日本公演は、大阪からスタート、およそ一カ月間にわたって行われた。

 4月15日〜18日 大阪フェスティバルホール(第一回大阪国際芸術祭)
 4月21・22日  東京・日比谷公会堂
 4月24・27〜29日 新宿コマ劇場
 5月1日〜3日   大阪フェスティバルホール(第一回大阪国際芸術祭)
           八幡市、福岡市、名古屋市で公演
 5月11・12日  東京・日比谷公会堂
 5月14日     東京・東京体育館

 この公演には、ムラビンスキイが病気のために参加できなかったが、ヤンソンス、ザンデルリングと、ムラビンスキイの先生にあたるガウクの三人が指揮をとることになった。さらにチェロ独奏者として当時三十一歳、現在も活躍する世界的チェロリスト、ロストロポービッチもやって来た。

 なによりも話題を呼んだのが、ジェット機で一行が来日したことだった。ソ連側にすれば、レニングラードフィルという世界に誇る交響楽団の来日公演は、自国の恰好のPRの場であったわけだが、ジェット機での来日は芸術水準の高さだけでなく、技術の高さを知らしめるいいチャンスとなった。
 冷戦時代、しかも安保体制のもとアメリカ軍が日本各地に駐留しているなか、この申し出を簡単に日本側が受け入れられる状況にはなかった。この許可を得ることが、今回の公演の最大の懸案事項となった。政治力が要求される問題であった。神は、満州帰りで、岩崎から紹介され知己を得ていた宏池会の田村事務局長を通じて、宏池会会長池田勇人に相談を持ち込んだ。池田から当時の首相岸信介を紹介され、ソ連からのジェット機来日を認めてもらうように陳情するが、岸は相手が相手だけに自分の判断では認められない、アメリカ駐留軍の見解を聞く必要があると逃げの姿勢に終始した。アメリカ駐留軍の了解さえ得られれば、認めてくれるという言質をとった神は、主催者の朝日新聞と共にアメリカ駐留軍司令官と面会、最初はソ連からのジェット機来日は認められないとかたくなに拒んでいたのを、強引に説得して、遂にソ連機による来日を認めてもらう。
 ジェット機の羽田乗り込みは、昭和28年イギリスのコメット機以来二度目になるが、今度はソ連機ということで、大きな話題を呼んだ。神にすれば、ここまでこぎつけるのは大変だったにせよ、この話題がもたらす影響ははかりしれなかった。主催者の朝日新聞だけでなく、各紙がこぞってこのソ連製ジェット機に乗って、レニングラードフィルが来日した記事を掲載している。

 1958(昭和33年)4月12日午後0時15分と45分、相次いでアファナシー・ポリマリヨフ総裁らレニングラードフィル一行147名を乗せたジェット旅客機ツボレフTU104二機が羽田空港に来日した。
 「モスクワから東京まで八千九百キロを飛行時間約十時間で飛んだ。途中オムスク、イルクーツク、ハバロフスクの三ケ所に着陸。全ルートを通じて快適な飛行だった」と一番機の機長ブガーエフは、語っている。
 空港には神のほかに、主催の朝日新聞社、ザブロージンソ連代理大使、二十人の大使館員、帆足計衆議議員など多数が出迎えるほか、ソ連からのジェット機を見ようと四千人の見物客が集まった。このあと午後1時半から、朝日新聞社主催のジェット機見学会が開かれ、日航など航空関係者百七十人あまりが、ソ連乗員の案内で、機内を見学、一般から公募した千人も、フィンガーから見学したという。このジェット機は、翌13日に帰国することになっていたが、事故防止のため空港当局では警務課員5名、蒲田署員30名が徹夜で警戒したという。

 4月13日朝8時50分東京発「さくら」で一行124名は、大阪に向かい、4月15日から三日間、大阪国際芸術祭に出演した。
 「実に圧倒的な演奏であった。ベルリン、ウィーン、そのほか世界第一級の交響楽団に比べて、いささかもヒケをとらない。しっかりした技術、豊富な音量。また、ガウクの指揮ぶりといい、曲の解釈といい、まことに正統的だ」と17日の朝日新聞に、日本を代表する指揮者朝比奈隆が、コメントを寄せている。なによりも日本のクラシックファンを唸らせたのは、弦楽器の響きの重厚さと、美しさであった。
 朝比奈は続けて「ことに弦楽器が美しい。ハイフェック、ピアティゴルスキーなど多くの世界一流の弦楽器奏者を生んだロシア民族の伝統はロシアがソ連に変わろうとも、やはり脈々として流れている」と書いているし、山田耕作も「弦楽器の柔らかく、しかも力のある響き、管の音もよく響いていて、その高い技術がしのばれる」と絶賛した。なかでも最も注目を浴びていたのは、ロストロポービッチであった。
 ロストロポービッチは、第三日目に登場、プロコフィエフのチェロ協奏曲を演奏したが、この曲は作曲家が彼に捧げたものであった。

 「ロストロポービッチ氏はまだ三十一歳で、ステージに現れた時にははにかんでいるように見えたが、チェロをもってザンデリルリンク氏と並ぶと、両氏ともかなり背が高く大きい。まずチェロのピッチをあわせると、高いピーンとした張りのある音が聞こえた。この人のチェロは上から下まで音がねれていて非常に高い技術をもっている。・・・ロストロポービッチ氏は速いところで軽くきざむ右手の弓使いがまことに見事であったし、音程のむずかしいところでも技巧を感じさせない。三度もアンコールで出てきた時には、最初現れた時のようなはにかんだところがなく、ザンデルリング氏の手をひっぱってうれしいそうに上を向いて出てきた。レニングラード交響楽団のおみやげのひとつであるロストロポービッチ氏の独奏は大成功であった」

 彼のチェロ独奏会(5月7日神田・共立講堂)も大きな反響を呼んだ。
 ロトロポービッチは、後年ソ連時代反体制派のリーダー的存在として、サハロフ、ソルジェニツィンらと共に、共産党独裁に異議を申し立てた人間としても知られている。ゴルバチョフが監禁され、軍部を中心にクーデターが勃発した時も、彼がモスクワに飛び、手をふりあげ、拳をにぎりしめ、クーデターに反対する演説をしたのを覚えている人はいるのではないだろうか。彼は、いつも全身全力で立ち向かう闘う音楽家だった。
 レニングラードフィルが来日した時、AFAに嘱託として入社した工藤精一郎は、若き日のロストロポービッチのことはいまでも忘れられないという。

 「日本テレビでロストロポービッチのチェロ演奏を放送することになり、ぼくがつきそった。彼は冗談好きでいたずらっ気の多い陽気な大男で、額にわずかに残った髪を、パリでファンの貴婦人から贈られたというオモチャのような小さなクシでなでつけるのが、機嫌のいい時の癖である。
 スタジオでディレクターや関係者たちとの打合せの際に、カメラリハーサルと音のリハーサルと二回本番と同じリハーサルが必要だといわれ、彼は冗談じゃない、おれを殺す気かと笑いとばした。当時はまだビデオがなく、生放送で、やり直しがきかない。ディレクターたちは真剣である。ピアノと椅子の位置がきまり、リハーサルが始まった。五分ほどすると彼は演奏をやめ、これで終わり、本番の時はよく見えるところに大きな時計をおき、終わりの時間とところに印をつけておいてくれ、そこでピタリと終わる、それからすぐに控室に大きなビフテキを二枚頼むと言って、さっさと控室へもどってしまった。しかたがないからぶっつけ本番でいこうということになった。
 いよいよ本番となった。その演奏の迫力にみんな度胆をぬかれた。チェロをまるでヴァイオリンでも弾くように軽々と、しかもダイナミックに弾きこなすのである。これがチェロの弾き方かと、誰もが目をみはった。そして時間通りピタリと終わった。まさに神業ともいうべきみごとな演奏だった。彼は胸のポケットから小さなクシをとり出し、額の髪をなでつけて、清々しく微笑した」(工藤精一郎「浮き沈みの記」より)

 木原は、ロストロポービッチを相撲につれていった時のことが忘れられないという。当時は栃若の全盛期だったのだが、彼は顔を真っ赤にして、「ワカノーハナ」と大きな掛け声をかけたという。気性の激しさと茶目っけをあわせもつ、ロストロポービッチの一面を伝えるエピソードだ。

 レニグラードフィル日本最終公演は、5月14日「勤労者のための特別大演奏会」と名付けられ東京体育館に、一万三、四千人を集めて行われた。ドン・コサックも、ボリショイバレエの時もそうだったが、神は労働組合とタイアップしながらこのように大きな会場で低額料金で大衆公演を行っていた。この東京体育館での公演も、総評の岩井章事務局長から要請を受けて実現した。それまで生で一流の音楽に接したことのない地方都市の体育館や学校の講堂で、ドン・コサック合唱団を公演したように、少しでも多くの人に本物のアートを知ってもらおうとする神の姿勢は、評価されていいと思う。
 こうした一流の海外アーティストの公演に生で触れたことで、もしかしたら人生をかえた人もいるのかもしれない、自分も音楽家になろうというだけではなく、ここで味わった感動を一生忘れることができないという人もたくさんいるだろう。

 5月21日レニングラードフィル一行百十四名は午後二時すぎTU104Aジェット機に乗って帰国した。
 この数時間前午後零時二十五分に羽田に着陸した、レニングラードフィルが乗って帰ることになったTU104Aジェット機の二番機には、一カ月前にレニグラードフィルが到着したあと、同じ飛行機に乗り、ソ連に飛びだった淡路人形芝居の一行二十一名が乗っていた。
 ジェット機で来日したレニングラードフィルが日本で大きな話題を呼んでいたとき、その蔭でもうひとつささやかな文化交流のドラマがあったことを知る人は少ない。


連載目次へ デラシネ通信 Top 前へ | 次へ