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『神彰−幻を追った男』

第四部 驚異の素人集団「アートフレンド」
 第十一章 革命の時 その1

レニングラードバレエと安保騒動
黒い陶酔−アート・ブレイキー
輝かしい一年の始まり

レニングラードバレエと安保騒動

 イブ・モンタン公演の中止がまだ明らかになっていなかった1960年4月7日、読売新聞朝刊に「ソ連国立アカデミー・レニングラード劇場バレー団」日本公演の社告が掲載された。社会面の中央、4段抜きという異例ともいえる大きなスペースを割いている。来日メンバーは120名、6月4日から29日まで東京の宝塚劇場、7月2日から9日まで大阪のフェスティバルホールで公演が行われることが発表された。
 ソ連国立アカデミー・レニングラード劇場バレー団は、1738年に首都ペテルブルグで創立された、2年前に来日したボリショイバレエ団よりも古い歴史をもつ、ロシアバレエ発展の歴史をかたちづくってきた老舗のバレエ団であった。アンナ・パブロワ、ニジンスキイなどバレエ史に残る巨星を生み出したことでもしられている。
 ボリショイバレエ団の成功から二年後、満を持してAFAが準備してきた、ドル箱商品だった。しかも今回は、有名作品から抜粋された名場面集を演じたボリショイバレエ団とはちがい、「白鳥の湖」、「『ジゼル』・『シルフィード』」、「石の花」を、それぞれ全幕上演するのも、バレエファンの夢をかなえたものだった。バレエファンで、レニングラードでこのバレエ団の実際の舞台も見たことがある、女優杉村春子は「こんどのレニングラードバレーは百二十人という豊富なメンバーで、かつてない充実した舞台です。それに、だしものも全幕通してやるなんて初めてですから、こんなめったにないチャンスを逃すのはウソですよ・・・」と新聞でコメントしている。
 レニングラードに行っても、「白鳥の湖」が見れるとは限らない。本場でもなかなか見れない作品を日本で、そっくりそのまま見れるということが話題になり、前評判も上々だった。そしてボリショイバレエの時がそうだったように、海外、特にアメリカからたくさんのバレエファンが日本交通公社を通じて観劇を申込んできた。
 最初は1週間分の前売りしか売り出さず、売れ切れにしておいて、「見たいけど買えない。だからますます見たくなる」というムードをつくり、タイミングを見て、追加公演を発表するという手法も、ここまでうまくいっていた。
 なにもかも順調にいっているように見えたのだが、追加で発表した入場券の売れ行きが、はかばかしくない。ボリショイバレエ団の観客動員の大きな柱になっていたアメリカからの団体客のキャンセルが日毎に増えていった。

 この年日米安全保障条約改定をめぐって、日本は政治の季節の真っ只中にあった。戦後最大の反体制運動が日本各地で展開されようとしていたのだ。大衆は劇場ではなく、国会をめざしていた。
 公演社告が出た日に書店に並んだ雑誌『世界』5月号・特集「沈黙は許されるか」で清水幾太郎が、のちに有名になるアピール文「いまこそ国会へ」を発表し、国民に国会請願行動を訴えた。これを契機に、市民は国会へと向かいはじめ、世の中は騒然となっていく。一週間後の4月15日から安保改定阻止国民会議が第15次統一行動を呼びかけ、全学連が国会請願デモをし警察と衝突する事件もおきる。時代は大きく動きはじめていた。
 バレエ団一行は、5月23日、29日、30日と三陣にわかれ来日しているが、第一陣が来日する3日前の20日未明、自民党は衆議院本会議で新安保条約・協定を単独強行採決した。これに反発した野党三党は審議をボイコット、以後国会は空白状態となり、連日国会周辺をとりまくデモの渦は大きくなっていく。
 6月4日、デモの渦がとりかこんでいた国会からそう遠くない日比谷の宝塚劇場で、レニングラードバレエ劇場は、チャイコフスキイの『白鳥の湖』で日本公演初日の幕をあけた。
 この日国鉄労組と動労が早朝ストを断行、安保阻止第1次実力行使が行われていた。日本がこの先どうなるか、そんな危機感をもった人々は街頭に繰り出していた。鶴見俊輔はあるエッセイで「東京の会社員が家にかえってテレビをつけると、国会をとりまく「岸を倒せ」のデモが映っている。夕食もそこそこに、家を出て、国会のまわりにゆき、隊列に入る。それは、組合の動員による数あわせとはちがう性格のものだった」と、市民たちの高揚ぶりを伝えている。
 そして6月15日。
 安保阻止第2次実力行使が行われたこの日、全国で580万人という市民が参加した。清水が呼びかけた闘いの場、国会のまわりを「安保反対」のシュピレヒコールがなり響くなか、何万人もの人が取り囲んだ。午後5時すぎ参議院第2通用門前で、全学連のデモ隊に右翼が襲いかかる。国会周辺でも幾十にも取り囲んだ人の渦のなかに警察が雪崩込み、大乱闘となった。そしてデモに参加していた東大生樺美智子さんが、警察隊と衝突して死亡する事件が起きた。22才の学生の死は、デモに参加していた人々の怒りに火をつけ、国会周辺は騒然となる。

 この日レニングラードバレエ団は『白鳥の湖』を上演していた。静かな公演だった。入場券はそこそこ売れていたはずなのに、空席が目立った。
 公演前にちょっとした事件があった。

 「血だらけになった有名な日本人バレエ関係者が、楽屋に飛び込んできた、追われているから助けてくれって。こっちは劇場のなかにいるからね、安全といえば安全なわけですよ。しかも公演しているのはソ連から来たバレエ団だからね。アメリカに対立しているということもあったし、ここへ来れば助けてもらえると思ったとあとで言っていました」

 木原は6月15日に起きたこの出来事をこうふり返っている。
 出番前楽屋で、バレエ団のメンバーは国会周辺を取り囲むデモの人の渦を映し出すテレビの画面をくいいるように見つめていた。

 「革命を実際に経験している彼らにとって、いま目の前で起きていることは革命に他ならないわけです。じっと見ていたね。私なんか革命が起きているという錯覚に陥ったぐらいですよ」

 木原はこの年『現代詩』に「宣伝屋詩人論」と題された詩を発表している。このなかで、彼はこの日の出来事をこう書いている。

 「いまはテレビなどというものがあります。人々はコマーシャル・メッセージと同時に、ときには流血革命の実況放送を茶の間でねそべりながらながめることができるわけです。
 さる6月15日夜、学生たちが打ちのめされ、殺されました。いわゆる国会流血デモです。たまたまそのとき東京公演中のレニングラードバレエの人たちが、そのテレビ報道をみました。
 『あれは、なにをしているんだ?』若いバレエ芸術家がビックリしてききました。『ムゴたらしいから、もうテレビをとめてくれ』。1930年代生まれのこの社会主義国野芸術家には、それはとっさの間の理解をこえる、異様な光景だったのでしょう。
 『そうじゃ、これは革命だ!』ただ五十才をすぎた芸術家たちが、いったそうです。いかにもモノシリ顔をして。−わしらが子供のころ、あんなふうに街で射ちあいをやったもんじゃ」

 木原にとっても一九六〇年六月一五日の一連の事件は、生涯忘れることができないものとなる。革命が音を立てて、すぐ身近なところに近づいていたのだ。
 翌十六日来日予定だったアメリカ大統領アイゼンハワーが訪日延期の声明を出す。
 十七日、朝日新聞をはじめとした新聞七社は、共同で「暴力を排し、議会主義を守れ」という声明を一斉に一面に掲載した。
 十八日安保改定阻止国民会議は、東京三宅坂の国立劇場用地で、亡くなった樺美智子さんの両親も参加した国民会議を開催したあと、国会周辺をうめつくし「安保反対、岸を倒せ」のシュプレヒコールを繰り返していた。この時集まった人々の数は三三万人、女学生の死は、人々の「何かしなくては」という思いに火をつけたのだ。
 一九日参議院での決議は行われなかったが、安保条約改定は自然成立した。
 二〇日自民党は単独で参議院で決議をおこない、安保条約改定は可決された。
 二二日国民会議統一行動に、全国で六二〇万人が参加している。
 二三日条約の批准書交換式が行われたのを見届けて、岸は退陣を表明する。そしてこのあと反安保の波は、急速に退いていくのである。反逆のたいまつは燃焼しきれないまま、消えようとしていた。

 この間宝塚劇場では、六月二九日までレニングラードバレエ団はずっと公演を続けていたのだ。ボリショイバレエの時のように、客足が伸びるということはなかった。大阪公演はそこそこ人が入ったが、なによりも売れていた入場券の払戻が続出したのは、大きな痛手だった。公演の収支は、完全な赤字となった。最後に支払う予定になっていた数百万のギャラを払うにも、AFAの金庫には、もう金が残っていなかった。
 神は、工藤を伴いソ連大使館に出向き、支払い延期を申し出た。来年夏に予定しているボリショイサーカスの時に、今回払えない残りのギャラ分を支払いたいと提案する。ソ連側も、今回の公演が、神にとって不利な条件の元で行われていたことを認めていた。当時のソ連にすれば、日本での公演は外貨稼ぎというよりは、あくまでも文化を通じてソ連を理解してもらうという文化戦略の色合いが強かった。しかもソ連と日本をつなぐ人脈のなかで、神は欠かせない存在であった。神との窓口になっていたソ連文化省音楽公団は、神のこの申し出を受け入れる。
 神は銀行から借金するのではなく、ソ連に借金することで、この急場を逃れることができた。逆風が続いていたが、時代は神に向けていい風を運ぼうとしていた。

 岸内閣が総辞職した翌日、七月十六日レニングラードバレエ団一行は帰国の途についた。新しく総理となったのは、AFA理事田村敏男が事務総長をつとめる宏池会の池田勇人であった。

 「去る七月十六日、われわれは羽田空港に、レニングラードバレエ団一行一二〇名をのせたTU一一四最新型ジェット機を送り出しました。規模の壮大さと内容の完全さにおいて、世界に例をみないその日本公演は、同時に日本の芸術運動に一大エポックメーキングな金字塔をうちたてました。
 そして戦後すでに十五年。芸術と芸術交流の運動もますます充実し、新たな段階を迎えるでしょうし、またそうならなければなりません。」(神彰「一人が二人を!」『アートタイムス16号(一九六〇年九月発行)』)

 神の革命は、これからスタートするところだった。

黒い陶酔−アート・ブレイキー

 1961年1月2日東京大手町の産経ホールの入り口には酒だるがおかれ、新橋のきれいどころが、日本髪すがたで、入場者に御神酒をサービスしていた。押し寄せた学生や若いOL、さらにはキャンプから、バスで駆けつけた黒人兵たちは、このサービスに大喜びしていた。この様子を見ながら、胸に白いバラを飾った神は、ニンマリと微笑んだ。

 「だいたい、正月の二日から公演するなんて、非常識な話だし、それに呼んだのはニグロのジャズ楽団と聞いたので、絶対に当たらないと思った。正月早々ジャズを聴きに行くバカはないと考えていた・・」

 こうあるベテラン興業師は語っていた。
 AFAでも黒人ジャズの公演なんて、あまりにも唐突だと、反対する声が多かった。
 しかし神のカンは的中したのだ。
 アート・ブレイキー&ジャズメッセンジャーズ日本公演は、正月二日から、東京、大阪、神戸と、九日間にわたっておこなわれ、大当たりする。
 週刊文春は、一年前煮え湯を呑まされた白いモンタンを黒いブレーキーに乗りかえた神が、不死鳥のように蘇ったと、センセーショナルに報じている。
 『1961年の日本は、この若い『不死鳥』のような興業師が招いた『黒い陶酔』−つまりモダン・ジャズの力強いリズムから明けたのである」と。

 アート・ブレイキーというジャズミュージシャンがいることを最初に神に教えたのは、銀座の料亭「出井(いずい)」の若主人出井宏和だった。出井は、1958年冬ブリュセル万博にてんぷらの店を出しに行った帰りに、パリのオランピアというミュージックホールで、はじめてアート・ブレイキーの演奏を聞いた。大きな口をあけてまるで爆笑しているように、大粒の汗を全身からふりまきながら、延々と15分間もドラムソロを聞かせるそのパワフルな演奏に圧倒された。たまたまパリにいた石原慎太郎を引っぱり、ふたりは連日アート・ブレイキー通いをすることになる。神は出井の話に興味を覚えた、なによりもアート・ブレイキーのジャズが、従来のジャズとちがう、世間でファンキーと呼ばれていることに何かを感じとった。爆発する、火薬の匂いを嗅ぎつけたのである。モンタンから賠償金をとりに行ったアメリカで、ハリウッドで用件を済ませたあと、ニューヨークに向かう。ナイトクラブ『ヴィレッジ・バンガード」で初めてアート・ブレイキーの演奏を聞いた神は、必ず「当たる」と確信する。

 「いきなり、ドラム・ソロが爆発するように鳴り出した。びっくりしました。そして、気がついてみると、私は彼らの演奏に陶酔しきっていた」
 「なんと言ったらいいのかな、ドラムを聴いていると、原始への憧れというか、非常に本能的な欲望を感じた、・・・・これだ、これを日本に招けば、若い人たちに受ける! と思った」

と週刊誌のインタビューで神は答えている。
 木原は、神が持ちかえったアート・ブレイキーのレコードを初めて聞いた時、「なんだこりゃ、日蓮宗のほっけの太鼓と同じじゃないか」と思ったという。
 木原たち、AFAのスタッフにすれば、なんでまたジャズ、しかも黒人のファンキージャズなのかと、違和感を感じていた。しかしジャズ通や、マスコミの話を聞くと、若い人の間で、モダンジャズがブームのきざしを見せていることを知った。都内のジャズ喫茶を廻って歩くと、去年一年だけでも都内で十軒から四十軒に増えているという。しかもそこでは高校生や大学生が、モダンジャズのリズムに合わせて、体を動かして聞いている。「死刑台のエレベーター」、「大運河」、「危険な曲がり角」といったモダンジャズを使ったフランス映画が受けていた。レコード店を回って聞いてみると、このところモダンジャズのレコードが飛躍的な伸びで売れているという。みんな神の直観はあたるかもしれないと思うようになった。
 アート・ブレイキーの白い歯を剥き出した笑い顔をアップにした写真が表紙に載せられた『アートタイムス』十八号(1960年11月発行)の巻頭に、こんなメッセージが掲げられている。

 「われわれはアメリカ、ヨーロッパ、ソ連、全世界にわたって、すでに六一年から六二年にかけての文化交流スケジュールを決定した。それは、かつて世界のどのようなプロダクション、マネージャーもなしえなかった遠大、最高のプランである。
 ここにザックバランなアート・ブレイキーの言葉を紹介しよう。
 『ワシントン誕生日のイヴ−あの時もかなり外国人が来ていたが、彼らに必要なのはSaulさね。俺はあの時以来どこの誰にも通じる唯一の言葉、JAZZをMessageしようと思ってきたのさ。
 俺にいわせりや、米国政府がアリ金はたいて対外政策の伸展をやってるけど、ありゃムダだね。そんなことするより、もっと効果のあがるJAZZでも送ってごらんよ。そりゃ絶対だぜ』
 まず六一年元旦、われわれはアート・ブレイキー&ヒズ、ジャズメッセンジャーズを迎える!」

 アート・ブレイキー(ドラム)、リー・モーガン(トランペット)、ウエイン・ショーター(テナーサックス)、ボビー・シモンズ(ピアノ)、ジミー・メリット(ベース)、ビル・ヘンダーソン(ヴォーカル)の六人の黒人が羽田空港に到着したのは、1960年12月31日の大晦日のことである。
 「いやびっくりしたね。まったく黒い、とにかく黒い、テカテカに黒い、人間じゃないと思った、火星人じゃないかとね」と木原は、いまでも来日したときの最初の強烈な印象を正直に語っている。
 いままでAFAが相手にしたことがないようなアーティストたちだった。スタッフは、彼らの常軌を逸した言動にふりまわされることになる。

 「なにもかもびっくりすることばかりだった。大阪公演の記者会見で「ジャズは我々黒人の抵抗の武器」とぶちあげたかと思えば、一升瓶の酒をラッパで飲んでステージに立つでしょ。麻薬もやっていたね、とにかくギリギリまでステージに出て来ないんだね。しかし一番びっくりしたのは、大阪だったかな、舞台袖で小便をしはじめた時だったなあ。舞台係の人も、注意するより、ただ唖然とするしかなかったね。
 アート・ブレイキーは、新宿の厚生年金会館の近くにあった「キーオ」というところに通っていたね。黒人たちの溜まり場で、ブレイキーもどこかで、ここで女をひっかけられると聞いてきたみたいだった。
 こっちはアーティストだからいろいろ面倒見てやったわけ、ブレイキーにすれば、こんな至れり尽くせりの日本側の歓迎ぶりに驚いてたようですよ。神は、彼らが居心地がいいんで、アメリカに帰らないんじゃないかと本気で心配していた」

 木原は、1961年の新年に吹き荒れた黒い旋風をこうふりかえっている。
 ちょうど私が木原にこの話を聞いたとき、CMでボビー・シモンズの「モーニン」が使われていた。この曲について木原は、ボビーはこの曲は腹が減って倒れそうになったときにつくった曲だと言っていたなあ、なつかしそうに語っていた。
 AFAにとっても印象深い公演となったアート・ブレイキーであったが、もうひとつの知らざれるエピソードが残っている。この時神は、ドキュメンタリー映画を制作していたのである。木原の話によると、当時新人だった羽仁進を監督として抜擢、アート・ブレイキー日本公演のドキュメンタリーをつくらせていたという。これは、八重洲の地下ニュース映画館で上映されたが、版権をもっている代理人と名乗る日本人がクレームをつけ、すぐに上映は取りやめられた。これを見た映画評論家草壁久四郎が「幻の映画」と言ったことで、話題になったが、そのままお蔵入りとなり、そのフィルムはAFA解散と共に、行方知らずとなっている。キネマ旬報の日本映画ベストテンで、羽仁進の「不良少年」が一位となるのは、この翌年のことである。
 さまざまな話題を呼んだアート・ブレイキー日本公演だったが、これが神にとって復活の狼煙となったのである。

輝かしい一年の始まり

 彼は、この公演の直後毎日新聞のインタビューでこんなことを語っている。

 「文化交流という仕事も、ことしあたりから新しい段階へはいってゆくだろう。私たちは、いまから五年前、一つのテーゼをかかげて仕事をはじめた。全世界の芸術を愛する人びととたがいに結び合い、その人びとが国境をこえて純粋な美をわかちあいつつ未来の建設につとめる、というものだ。そのわかちあいつつというところまでは実現してきたし、また道をひらいてきたつもりである」
 「これからの相手は宇宙。火星人にもわかってもらえるものでなくてはならない」
 「観念とか、理屈ではなくてこれが人間なんだ、ということを知らしめるもの。ジャズ・メッセンジャーズなんかその典型といえるだろう」
 「いずれにしても、切り売りはしない。サーカスであればそのフル・スケールをみせようと思うし、ピカソの場合は、先ごろロンドンで行われた彼の一代展をそのままもってくる」(毎日新聞1月18日夕刊)

 レニングラードバレエの公演を終えて、五年間の文化交流事業にひとつの区切りをつけた神は、つぎなるステップを踏み出そうとしていたことはまちがいない。それは呼びたくても来れないと思われた幻を追いかけることから、自らが仕掛けることで、観客をリードしていくこと、いわば幻をつくりだすということではなかったか。芸術に国境がなくなったいま、神は未来に向けて、大きく方向転換をしようとしていた。ジャンルにこだわらず、ソ連ものにこだわることなく、バタ臭くてもいい、人間の魂に訴えかけるようなものを積極的に呼んいこうという姿勢を、このアート・ブレイキー公演で見せつけた。そしてこのあとにも、イタリアから「ニコロとナポリ・クインテット」、夏には前回を上回る規模の「ボリショイ・サーカス」を、さらには「クリス・コナーとモダン・ジャズ・オールスターズ」、「モスクワ合唱団」、「ピカソ展」と次々に意欲的な企画で、観客を挑発していくのである。
 神は、週刊文春のインタビューに対してこんなことを言っている。

 「一九六〇年は、私にとって辛い年だった。四年間、そのあいだに五回もパリに追いかけて行って、やっと来日を承知させたイヴ・モンタンから、来日延期を申し渡されたからだ。興行の世界へ足を踏み入れて七年目。一九六〇年はモンタンに明け、モンタンに暮れた。つらい一年でしたよ。
 だが、一九六一年は輝かしい年になりそうです」と。

 確かにこの年は、神の人生の中でも最も輝かしいといってもいい、一年になるのである。それを決定づけたのは、第二回目のボリショイサーカス公演であり、ここに出演した魔術師キオであった。


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