月刊デラシネ通信 > サーカス&パフォーマンス > 神彰 > 神彰−幻を追った男 > 第四部第十二章

『神彰−幻を追った男』

第四部 驚異の素人集団「アートフレンド」
 第十二章 電撃結婚

可愛い男のプロポーズ
俺は鉄人ではなかった
電撃結婚
新婚生活

可愛い男のプロポーズ

 アート・ブレイキー、ボリショイサーカスを成功させ、秋には長年の夢のひとつであったピカソ展を準備するなど、神の勢いはとまらなかった。まさに破竹の勢いで突進していた時期である。ソ連大使館で青年突撃隊と呼ばれていた神も39歳、不惑の年を迎えんとしていた。ある週刊誌の取材で、結婚しないのですかという質問に「天使のような女がいないから結婚しない」とケムにまいていた神だが、ひそかに愛の物語を紡いでいたのである。

 アート・ブレイキーの公演が終わってまもなく、神は『中央公論』の座談会「呼び屋一代論」で、女流作家有吉佐和子と6年ぶりに再会を果たしていた。この再会が神の心に火をつけることになる。
 この座談会は、1月31日虎ノ門の「福田屋」で、女性プロモーター吉田史子を交え、三人で行われたが、まさに和気あいあい、いつもは強引に自分の主張を展開する神も、女性ふたりに囲まれて、にこやかに応じている。特に有吉の突っ込みに対して、神は嬉々としてぼけているのが、なんとも微笑ましい。
 この座談会のなかには、この場を借りてふたりでひそかに自分の恋情を告白しているように読めるところもある。
 例えば有吉はこんなことを言っている。

「男性というのは頭脳的なものだという迷信があるわけよ。迷信か信仰か、それが女にはあるわけですよ。それでかえって頭脳的男性は御しやすいのですよね。話していて、とっちめたりなんか気楽にできる。こっちは馬鹿で押していけばいいでしょう。ところがいったん頭脳的でない男性が現れると、私たち手も足もでないのよ(爆笑)」

 神はまさに頭脳的でない男性として、有吉の前に現れ、この才女を金縛りにさせてしまったといえるかもしれない。
 神も座談会の最後に、「僕はチェホフの『可愛い女』みたいに可愛い男なんだな。(笑)これがいいなと思うとこれ専門にいくんだもの。もう全力投球なんだな。抱擁しちゃうのです。女は抱擁されるけれども、抱擁するほうですよ。(笑)それで自分がやった以外のものはぜんぜん惚れないんだ、僕は(笑)」と言っているが、これは有吉への愛の告白というか、愛の宣戦布告といえないだろうか。
 この日ふたりは、中央公論の嶋中社長をまじえ銀座のバーに流れていく。
 深沢七郎の「風流夢譚」掲載に抗議する右翼少年が、嶋中宅を襲撃して、夫人と家政婦を殺傷した嶋中事件は、この翌日2月1日におこっている。

 神が有吉と最初に会ったのは、ドン・コサック合唱団の契約の件で相談にのってもらったときだった。初対面の神に、こんな穴だらけの契約書みたことない、ここを直せ、やれあそこをこうしろと遠慮なくずけずけと指摘した有吉を、生意気だと思ったのは事実であるが、満州時代の先輩上野に対して、「いつかきっと彼女をものにしますよ」と言っていたように、最初から気になる女性だったことは間違いない。
 そして6年後に再会して、あの時の生意気な女がさらに美しく淑やかに変貌をとげていたのに、神は正直驚いていたのである。

 「驚いたんですよ、会って。
 まるで第一印象と違うんですね。生意気よりも、全くの正反対。淑やかで、女らしい。
 見直しましたね。この時の印象は、記憶喪失症といわれている僕でも、消すに消せないほど強烈だった」

 結婚したあとのある週刊誌の取材で、神は再会の時の強烈な印象をこう回想している。 この頃の有吉の写真を見ると、確かに魅力的である。才気を忍ばせながら、ふっくらとした丸顔のなかに、ふくやかな色気が漂ってくる、可愛い女になっている。
 この天使のような女に、神は、神流のやりかたで、まさに「全力投球」で、アタックを開始する。
 有吉はのちに、この出会いの2週間後、バレイタインデーの日には早くもデートの最中に神からプロポーズされていると告白している。
 とにかく神のやりかたは、かなり強引であった。突然電話をかけてきて、「オイ、佐和ちゃん、メシを食べにいこう」と誘ってくる。「仕事が忙しいから、今日はちょっと・・」と断りかけようとすると、いきなりガチャリと電話を切る。と、ものの数分もたたないうちに、外車で家の前に横づけして「さあ行こう! 早く、早く」ととりつくしまもない。そうかと思うと、大きな梱包をドカッと持ち込んで「いいものがみつかりました」と言って、意気揚々乗り込んでくる。なにかと思って包みを開けると、とんでもなくばかでかい豪華なシャンデリアが入っている。有吉家には広い洋間などないのにである。
 有吉は伊藤整との対談でこの時の神の猛烈なアタックぶりをこう振り返っている。

「猛攻撃でした。電話がかかってきたり、旅先へ突然あらわれたり、私は、初めのうちは、ちょっと面白がっていたんです、神彰が変だわなんて、友達にも言ったりして。それにへんな贈り物が届くんです。でもひと月もしたら私も放射能を浴びて、あやしくなってきて、それからあわて出したんです」

 頭脳的でない男性の、いまでいうとストーカーまがいの猛攻撃に、最初はムンムンするような男臭さに強く惹かれていた有吉も、たじろぎはじめた。彼女の作家としての将来性を高く評価していた川口松太郎、亀井勝一郎、井上靖など先輩作家たちが、こぞって結婚に反対する。なによりも母親が、神との交際に強い不安の念をもっていた。神の強烈な個性、そしてハードな仕事の内容に、佐和子が振り回されるのではないかという心配であった。
 そんな時有吉に、中国訪問旅行の話が舞い込む。神の猛攻撃にどう対処すべきか、悩んでいた時だっただけに、いい冷却期間になると、有吉は5月に、3週間の旅に出る。
 そして帰国した彼女の前に、神とはまったく正反対の若い紳士が現れたことで、事態は新たな局面を迎えることになった。

俺は鉄人ではなかった

 1961年11月神はパリにいた。翌年予定されていた神にとっては、残された大きな幻のひとつシャガール展の準備のためだった。このあとモスクワに行くことになっており、外国部の工藤がパリで合流する。
 この時工藤は、「有吉婚約」の記事が載った週刊誌を持参していた。

「10月末に有吉が、京都の御曹司塚本史朗と婚約したという記事が出て、僕たちもびっくりしてね。神の結婚については、僕たちがとやかく口を出す筋合いじゃないけど、ただ有吉婚約という事実を突きつければ、神もなにか吹っ切れるかと言うか、最後のアタックをするんじゃないかと思ったことはあったね。
 そして実際に、神はこれであきらめることなく、有吉に最後のアタックをしたわけです。僕がこの週刊誌を持って行ったこと、これが有吉と神の結婚の決めてになったと思っているんですよ」

 中国から帰ってきた有吉の前に、東大の美学出身、妹が京都の裏千家の若宗匠の奥さんになっているという、美術関係書の出版社新淡交社常務塚本史朗が現れたのだ。当時東急ホテルで仕事をしていた有吉に会うために、毎日昼飯を食べに通ったという塚本の出現が、中国旅行の間にとても神にはついていけないと、結婚をあきらめていた有吉の心を揺さぶる。
 有吉にとって大きな存在であった母も、「塚本さんは係累も立派ですし、おとなしい物分かりのいい方」と、結婚を進める。
 小説家としてこれから大輪を咲かせようという30歳になったばかりの有吉は、静かな創作に専念したいという思いもあった。
 そして10月20日ふたりの婚約が発表されたのである。

 「工藤君が今朝ついた。新聞・雑誌を受け取った。そうなる様に自分で演出したのだが、そうなってみると淋しくもある。
 俺も鉄人でわ(ママ)なかった。
 どうしたらいいのかわからない。ピカソに会ってみよう。なにか得られるかもしれない。(スケッチあり)11月16日」

 神は、晩秋のパリで味わう失恋の痛みを、木原に宛てて、正直に書いている。
 「そうなる様に自分で演出したのだが、そうなってみると淋しくもある」というのは、強引に、頭脳的でない男を演じ、それによって有吉をものをしようとした自分への、痛切な後悔だったのではないだろうか。
 「どうしていいかわからない」と書く神に、有吉への捨てがたい恋を失った男の弱さが滲み出ているといえないだろうか。強がりはしてみたが、大切なものを失ったのではないか、そんなどうしようもない後悔が神を襲う。
 完膚無きまでに痛めつけられた神のこうした気の弱さが、またエネルギーとなるのである。彼は工藤たちが、ひそかに意図していたように、最後の勝負に出る。
 帰国した神は、12月17日有吉を訪ねる。パリのカルダンの店で買った革のスーツをお土産に持参していた。
 この時有吉は、塚本との婚約に自己嫌悪を感じ始めていた。

「あたしはね、今だから話せるんですが、婚約したときから傷ついたの。毎日毎日が、地獄のような苦しみを味わっていたといえは大げさだけど・・」

 神と結婚したあとに取材に応じた有吉は、神が訪ねる前の12月12日に婚約解消の決意をしていたと、語っている。
 そんなときカルダンの革のスーツを持って神は、「おめでとう、婚約よかったね」と言ってきた。これがまた燻っていた神への恋心を燃えたたせることになる。
 伊藤整との対談で、有吉は「自分に激しい生活への度胸がないんだったら、これは無事安穏ということを願うしかなくて、そういう場合には、周囲のみんなが勧めてくれる結婚に入っていけばいい、それ以外ないと思いました」と塚本と婚約するに至った心の動きを述べている。しかしそんな安易な道を選んだ自分への嫌悪感が、この才気豊かな若い女流作家にわきあがったとき、神は潔く身を引き、別れを告げにきたのだ。
 翌年1月2日に有吉は、神に塚本との婚約解消を知らせる。神が有吉の兄、善氏に「お前の妹をくれ」と切り出したのは、1月11日のことであった。
 神は有吉を再びものにしたのである。こうしてふたりの結婚への道は開いていく。

電撃結婚

 そして二月下旬、週刊誌はセンセーショナルにふたりの結婚を報じることになる。

 「有吉佐和子の二度目の婚約−神彰氏との秘めたエンゲージの真相をここに発表する」(週刊文春)
 「プロポーズをされた才女作家有吉佐和子が国際的興行師神彰と結婚する!」(週刊平凡)
 「神佐和子になることの苦悩−神彰氏の『結婚宣言』と有吉佐和子さんの『作家の立場』)(女性自身)

 こうした週刊誌のタイトルを見ればわかるように、世間は、有吉佐和子という若い女流作家が、名門の人との婚約を破棄して、神彰という男と結婚するところに注目していたのである。神はあくまでも、有吉の結婚相手としてしか見られていなかった。
 このように世間が見ていたこと、あくまでも有吉が主人公であったことが、ふたりの結婚生活を短くし、また神にとっては大きな拠り所だったAFAを解散にまで追い込むことになるのだが、それはまたあとの話だ。
 メキシコ国立芸術院の招待を受けた神は、二月二十日羽田を発っているが、その時有吉は見送りに羽田に来ていた。取材に来たマスコミに対して、有吉は神が帰ってくる三月二十日すぎには、正式に結婚について明らかにしますと語っている。しかしすでに、ふたりは結納を交わし、結婚を約束していたのだ。
 神にすればこのメキシコ行きは、どうしても必要だった。行くことは前から決まっていたことだが、今度の場合行くことよりも、日本にいないということが重要な意味を持っていたのだ。
 神が日本を留守にしている間に、木原が自分の女性関係をきれいさっぱり清算してくれることになっていた。木原はこう語っている。

 「神は本当に女にはもてたね。あの鬼瓦のような顔でしょ。当時琴桜っていういかつい顔をした相撲とりがいたけど、あんな顔じゃない、神は。でも顔じゃないんだね。神のもてぶりをみると、そう思うよ。よく気がつく男だったし、まめだった。確かに、女をひきつけるなにかを持っていたんだろうね」

 そういうわけで、神には結婚前に、手を切らなくてはならない女があちこちにいたのである。
 木原は手切れ金を持って、神がかつて付き合い、あるいは世話になっていた女たちのところをまわる羽目になる。

 「いや大変でしたよ。手形で手切れ金を持って行ったのですが、あるところじゃ硫酸をかけるとわめかれたり、もう500万出せとか言われたこともある。その時はあわてて神に国際電話かけたよ。
 この金は、函館の神の姉さんからから送られてきたね。泣きついたんだろうね。
 神が一番世話になっていたバーのママへ渡す手切れ金がなくて、宏池会の田村に借金を申し込んだこともあったね」

 神と有吉が結婚するというニュースは、神のふるさと函館にも流れる。マスコミがふたりの結婚を騒ぎ立てるのを見て、ひとりの女性がひっそりとこの町から出て行く決意を固めていた。
 戦後まもなく函館で働いていた時、神は尾崎陽子という女性と、恋仲になった。神が東京に出るまで、ほぼ結婚と等しい間柄になっていた。
 この尾崎陽子という女性について、函館の小学校時代の神の同級生佐藤富三郎は、こんなことを語っている。

 「神さんのことを本当に思っていたんでしょうね、尾崎陽子は。自分が神と一緒だったことが知られたら、神に迷惑がかかると思ったのでしょう。身を引いたんですよ。松前に引っ込んでしまったのです。
 彼女は、神の妹の甲子さんの親友だったしね。
 尾崎陽子が身を引かなければ、神さんも困ったことになったはずです。
 裁縫で生徒さんをとって、ひっそりと暮らしていたらしいですよ。甲子さんがずっと気にして、経済的に援助していたようでした。
 陽子さんは、神さんが亡くなる半年前に亡くなってます」

 こうした周囲の騒ぎをよそに、神はメキシコで画家のシユケロスに会ったり、闘牛をみていたのだ。そして結婚披露宴の準備について、招待者のリストのこと、段取りについて、木原に電話で細かく指示を出していたのだ。
 そして帰国してまもなく、神と有吉は三月二十七日築地教会で式を挙げる。挙式に立ち会ったのは、親戚や身内だけの二十人あまり、ひっそりとしたものだった。
 披露宴は東急ホテルで盛大に行われた。朝日、読売、毎日の新聞社社長をはじめ、三島由紀夫や、石原慎太郎などの作家や画家など、およそ五百人がふたりの門出を祝福するために集まった。
神彰と有吉佐和子 この披露宴のあと神と有吉をAFAの女子社員たちが囲んで撮った写真が、手元にある。神は勝ち誇ったような自信に満ちあふれた顔をしている。幸せというより、名誉を手に入れた勝利の顔がそこにある。神はこの時、愛は必要なかった、彼に必要だったのは、「英雄伝説」だったのではないだろうか。すべてを手にした男の満足感が、この写真から伝わってくる。まさに絶頂だった時だった。
 最後までふたりの結婚には反対していた木原は、この結婚についてこう語っている。

 「たぶん神にすれば、有名人という手形の裏書きとして、有吉との結婚が必要だったんじゃないかな。反対していたのは、私だけじゃなかった。AFA理事の白根も、必ず離婚するやめろと忠告していましたね」

 とにもかくにもふたりは、この日から夫婦として、新たな人生のスタートを切った。神彰四十歳、有吉佐和子三十歳であった。

新婚生活

 有吉は、結婚まもなく『小説中央公論』に「私の新婚報告」というエッセイを発表している。彼女はこの中で、満ち足りた新婚生活の様子をこう書いている。

 「彼の細かいことに拘泥しない性格の中で、私は小説を書くために必要な贅沢な空気を充分呼吸できているようである。抵抗があることは、かなり覚悟していたのだが、どうやら案ずるより易しという結果になりそうである」

 神もまた、同じ頃『文藝春秋』に「有吉佐和子の夫として」というエッセイを発表している。

 「佐和子にいわせると、私は、世話のかかる夫であるそうだ。
 そうかも知れない。独身時代から身のまわりのことは一さい、自分ではできない男だった。しかしそういう彼女だって、普通の奥さんとは大分ちがっている。(中略)
 しばらくすると、編集者がやってくる。妻が、作家有吉佐和子に変貌する時間だ。私は、しぶしぶ立ち上がる。作家を敬愛する私は、こんなところで、亭主風を吹かせるわけにはいかないのである」

 神のこのエッセイのタイトルが、ふたりの、そして神の未来を象徴的に物語っているように思える。「有吉佐和子の夫」というこの形容詞は、ふたりが別れてからも、有吉佐和子が亡くなってからも、一生神につきまとうことになる。
 ドン・コサック合唱団やボリショイサーカスを呼んだ男という肩書よりは、有吉佐和子の夫という肩書のほうが、ずっと有名になってしまうのである。
 木原が言っていたように、「有名人の手形の裏書き」として、有吉佐和子という女性と結婚したツケを神は一生背負うことになったのは、なんとも皮肉な話である。
 独身生活に別れを告げ、有吉という有名作家を伴侶として、まさにこの世の春を謳歌していた神は、この時ひとつの巨大なプロジェクトを独自で進めていた。
 木原が、「神の有吉への結納金のかわり」と呼んでいた「大西部サーカス」である。
 結果的には、このプロジェクトが、神の運命を、そしてAFAの運命を、また有吉との結婚生活を大きく変えてしまうことになるのである。


連載目次へ デラシネ通信 Top 前へ | 次へ