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『虚業成れり−「呼び屋」神彰の生涯』刊行裏話

第11回 内野さん死す

 キョードー東京の生みの親のひとり、内野二朗さんが、6月15日亡くなった。永島達治と共に、戦後進駐軍で、プロモーターとして活動をはじめ、永島氏と共に、日本の音楽業界を支えてきたひとりであった。アーティストの交渉は、永島氏が、そして制作現場は内野さんがやってきた。永島達治の生涯を追った野地さんのルポ『ビートルズがやってきた!ヤァーヤァーヤァー」を読むと、永島氏はいつも、自分は契約を決め、あとは全部内野がやってくれたんですよと語っていたようだ。内野さんは現場が似合っている呼び屋さんだった。

 最初に内野さんと会ったのはいつ頃だったのだろうか?10数年前になるかもしれない。内野さんがセゾングループに引っ張られ新しいプロモーション会社の社長をしていた時だったと思う。アルカオスというフランスのパンクサーカスをこの会社にプレゼンするために、ビデオを見てもらっていた時、ちょうど通りかかった内野さんが、立ちどまり見はじめ、ついにはイスに腰掛け、最後まで見てくれた。「面白いねえ、こんなサーカスいいんじゃない」という内野さんの一声で、俄然アルカオス日本公演が、現実味をおびてきた。内野さんは、この翌年にフランスまで実際にアルカオスを見にいってくれた。結局は会場の問題などがネックになり、公演はできなかったのだが、それからこの会社をやめ、オデッセーという会社をたちあげてからは、よく青山の事務所に遊びに行った。秩父宮ラグビー場が見下ろせるビルに事務所があった。
 私はサーカスの呼び屋であり、音楽関係ではないのだが、内野さんはいつも楽しそうに私の話に耳を傾けてくれた。

「僕はね、キョードーが一時期苦しい時、赤坂のサテンドールに色物を入れるため、ヨーロッパのキャバレーやサーカスをひとりで歩いて、芸人を探してきたんだよ。だからねえ、サーカスとかは好きなんだよ」

 なるほどと思った、音楽だけでなく、サーカスにこんな興味をもつのが不思議だったのだが、この言葉を聞いて納得したものだ。
 結局いろいろなサーカスのネタをプレゼンはしたものの、内野さんと一緒に仕事する機会はなかった。ただ会っていろんな話ができたことは、私の財産になっている。内野さんと会って話した帰りは、いつも元気をもらったような気がする。

 好奇心が旺盛で、ジャンルを問わず新しいものには常に関心をもっていた。当たる当たらないということよりも、現場で仕事しているそれが楽しくてしかたがない、それが呼び屋内野二朗だったように思える。
 ここ数年お会いすることはなかった。神さんの伝記を書きはじめた時、一度内野さんに会って話を聞いて、神さんのことどう思っていたのか聞きたいものだと思っていたのだが、その機会を逃してしまった。ほんとうに残念なことをしたと思う。
 多くのミュージャンに好かれ、そして現場のスタッフに好かれた内野さん。最後までずっと興行界の現場で生きてきたこと、それがなによりだったのではないだろうか。
 内野さんは、昭和の興行の歴史をつくってきた最後の「呼び屋」だったのではないだろうか?ご冥福を祈りたい。


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