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「海を渡ったサーカス芸人」

この記事はNECの季刊誌『コンセンサス』に掲載されたものです。


 幕末二百年以上にわたる鎖国を解いた日本から、真っ先に海外に飛び立ったのが、サーカス芸人であったことはあまり知られていない。幕末から昭和初期にかけて、千人を超える芸人たちが、世界中を駆けめぐり、その卓越した技で多くの観客を魅了していた。こうした海を渡ったサーカス芸人のなかで、最も数奇な運命を辿った男、沢田豊のことを紹介したい。

沢田豊が所属していた横田一座 医者の息子だった沢田豊が、サーカスの道に入り込んだのは、浅草で見た横田一座のサーカスに熱をあげ、魂を奪われてしまったからである。医者になる道を放り捨て、家出をして横田一座に飛び込み、そのままロシア公演に向かう船に乗って海を渡ってしまう。1902年、沢田十六歳の時である。

負けん気が強く、人一倍練習熱心だった沢田は、みるみるうちに腕をあげ、一座の看板スターに成長する。一座は日露戦争勃発のため、ロシアを脱出したあと、イタリアを皮切りに、欧州巡業の旅についた。ここでサラザニサーカスと契約したことで、沢田は欧州のトップスターとして躍り出るチャンスを手にする。日本人をメインとした公演が、大当たりをとったのだ。のちにドレスデンに、1万人を収容する夢のサーカス劇場を創設したサラザニは、この成功のきっかけは、日本人たち、特に沢田のおかげだったと、周囲の人間に語っていた。沢田豊「棒上頭倒立」揺れ動く青竹の上を、頭だけで倒立する荒技をはじめ、危険をかえりみず、果敢に新しい技に挑戦する芸人魂、さらには芸人たちのまとめ役として先頭に立つ沢田に、サラザニは全幅の信頼を寄せていた。沢田はドイツ人アグネスと結婚、五人の子どもも生まれ、異国でしっかりと根を下ろしたかに見えた。しかし彼の胸の中にはいつもニホンがあった。いつか帰りたい、故郷に錦を飾りたいという思いは、日に日に募っていった。

 第一次世界大戦を機に、横田一座は解散、沢田は子どもたちと共に、サワダ・グループを結成、サラザニを離れ、欧州各地を巡業していた。敗戦後のインフレで経営困難に陥り、またナチスの台頭を快く思っていなかったサラザニは、局面打開とナチスからの逃避というふたつの思惑を秘め、南米公演に打って出る。サラザニにとっては大きな賭ともいえるこの巡業に、沢田はどうしても必要であった。またこれが沢田の夢を実現することも彼は知っていた。南米で暮らす日本人のために一緒に行ってほしい、そしてそのあと日本公演もしようと持ちかけられた沢田は、家族と共に南米公演に参加することを決意する。南米で多くの日本人移民と出会い、彼の日本への郷愁はさらにかきたてられ、日本凱旋の夢は広がっていく。

 しかしこの夢は予期しなかったサラザニの急死によって、藻屑と消える運命にあった。死の二日前サラザニは息子と沢田を呼び、自分亡きあとはふたり力を併せてサーカスを守ってもらいたいと、遺言を残す。父とも慕っていたサラザニの死去は、沢田に大きな衝撃をもたらす。日本凱旋の夢も息子の反対にあい、実現できなくなったことが、さらに彼を打ちのめした。息子は「日本での公演は許さない、すぐに帰国するようにと、ヒトラーがいっている」と言うだけだった。

 ドイツに着いた沢田はまもなくサラザニを去る。夢を失い、精神に少し異常をきたしはじめた沢田を、家族たちが懸命に支える。しかしまだ過酷な運命が彼らを待ち構えていた。第二次世界大戦の勃発、ドイツの敗北が、沢田一家を流浪の旅に追いやったのだ。ソ連軍のベルリン占領直後、日本人という理由で、ドイツから退去を命じられた一家は、満州の新京に強制送還される。ソ連軍の満州侵攻、さらに日本の敗北に面した沢田一家は、日本への帰国の途も断たれ、その後約三年間動乱が続く中国大陸を彷徨し、やっと一九四八年ドイツに帰国している。

 晩年沢田は、子供たちが買ってくれたドイツのゲッチンゲンの小さな家で、静かに妻と三女と余生を過した。横浜の親戚に宛てた手紙の中で、「運悪く戦争が始まったために家やお金をロシア人にすっかり取られてしまって今では貧乏になってしまいました。いくらなんでも貧乏のままで日本へ帰りたくはありません。いまフットボールのトトというのをやっていますので(宝くじみたいなものです)もしうまく当たったら一度日本に帰りたいと思います。」と書いていた。この手紙を書いてまもなく、一九五七年九月三日心臓衰弱のため沢田豊は七十一年の生涯を閉じる。

 沢田豊の一生は、時代に翻弄されたといっていいかもしれない。しかし時代や歴史に翻弄されながら、困難と闘い、そして生き抜いたということも事実である。沢田は誰にも頼らずに、自立だけを最後の砦のように守りつづけた。ここにこそ、コスモポリタンとして生き死んだ海を渡ったサーカス芸人の真骨頂があったといえるのではないだろうか。


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