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地平線の群像−語り継ぐ破天荒人生−
−沢田豊・海を渡ったサーカス芸人−

 以下掲載したのは、私ことクマ(大島幹雄)が、国際協力事業団(JICA)が、出している月刊誌『KAIGAIIJU(海外移住)』3月号に書いた連載「Iju Who‘s who」の第18回目「地平線の群像−語り継ぐ破天荒人生−沢田豊・海を渡ったサーカス芸人」を『KAIGAIIJU(海外移住)』誌(e-mail アドレス jica3rk@jica.go.jp)の承諾を得て、転載したものです。
 掲載誌には、写真が6点おさめられています。


「Iju Who‘s who」第18回
「地平線の群像−語り継ぐ破天荒人生−沢田豊・海を渡ったサーカス芸人」

「幾時代がありまして 茶色い戦争がありました」(中原中也「サーカス」)

歴史に埋もれた物語

 幾時代にわたった茶色い戦争を乗りこえて技ひとつ、からだを張って生きたひとりの日本人がいた。彼は海を渡ったサーカス芸人だった。沢田豊という。歴史の奥底に埋もれていたこの男の生涯は、ふとしたきっかけで掘り出されることになった。
 1990年9月、ドイツのニュルンベルグで、沢田豊の次男マンフレッド沢田と会ったところから、この物語は始まる。私が戦前に海外に渡り活躍したサーカス芸人の足跡を追っていることを知った人が、かつて家族と共にサーカスで働いていたという日系二世の彼を紹介してくれたのだ。
 マンフレッドは、父についての思い出を語ってくれた後、父の故郷日本をこの目で見ることが自分に残されたの最後の夢だと呟いた。この話は朝日新聞の社会面を大きく飾り、思いもかけない大きな反響を呼ぶことになる。親戚の人たちが次々に名乗りをあげただけでなく、横浜市の野毛大道芸フェスティバル実行委員会が、特別ゲストとして彼を日本に招待したいと申し出てくれたのだ。
 日本を一目見たいというマンフレッドの夢はこうして実現する。1991年4月、マンフレッド沢田は初めて日本の地を踏む。父が日本を離れてから、実に91年ぶりのことであった。
 明日ドイツに帰るという日に、彼は思いがけないことを口にした。父がブラジルで公演していたときに、半生を語ったインタビュー記事が日本の新聞に載ったというのだ。
 国会図書館の特別資料室に保管されているブラジルで発行されていた邦字新聞のマイクロ資料の中に、「SARRASANI E SAWADA 流転三十年のサーカス生活を語る」という記事が確かにあった。サンパウロで発行された『日本新聞』に16回にわたって連載されたこの記事には、沢田豊の生い立ちから、サラザニサーカスの一員として南米公演に参加するまでの、波瀾万丈の半生があますことなく語られていた。歴史の奥底に埋もれていたひとりの日本人の生きざまが、これで蘇ることになった。

海を渡る

 医者の息子だった沢田豊が、サーカスの道に入り込んだのは、浅草で見た玉乗りの「横田一座」に夢中になったことがきっかけだった。彼は医者になる道を放り捨て、家出をして横田一座に飛び込み、そのままロシア公演に向かう船に乗りこんでしまう。1902年沢田豊16歳の時である。
 横田一座は、ウラジオストックを皮切りにロシア各地で公演、人気を博した。帝都ペテルブルグでは皇帝一家の観閲を仰ぎ、勲章を授かるという名誉も手にしている。しかし1904年に日露戦争が勃発し、ロシア領ヤルタで公演をしていた時一座全員は、捕らわれてしまう。
 日本を去り、海外で生きる道を選んだ沢田豊の前に、この後何度となく茶色い戦争が大きな壁となって立ち現れることになる。この時は賄賂で役人たちを買収し、ヤルタから脱出することに成功した。一座は、船でコンスタンチノーブルにたどり着き、その後ギリシヤやエジプトなど地中海沿岸の国を旅してまわったあと、イタリアを皮切りに、欧州巡業の旅につく。

サラザニサーカスとの出会い

 1907年、ドイツの新興サーカス団サラザニサーカスと契約し、ここで大評判をとったことが沢田の運命を大きく変えることになる。サラザニサーカスは、この時はまだテントで移動する小さなサーカス団だったが、この後事業を拡大、ドレスデンに1万人収容という巨大なサーカス常設館を作るなど、欧州でも指折りの大サーカス団にのし上がる。
 ここで沢田は、揺れ動く青竹の上を頭だけで倒立する荒技をあみだし、サラザニサーカスのトップスターとなる。しかも彼は芸人たちのまとめ役としても活躍、サラザニは全幅の信頼を寄せる。沢田にとってもサラザニは父のような存在になっていた。沢田はドイツ人アグネスと結婚、子どもも生まれ、異国でしっかりと根を下ろしたかに見えた。しかしまた戦争の暗い影が、幸せな生活をおくっていた彼のもとに立ちはだかる。
 第一次世界大戦が勃発、ヨーロッパは戦火に包まれる。日本がドイツに宣戦布告、反日ムードが高まるなか、沢田や横田一座の団員は、敵国人として拘束される。約半年間辛酸な捕虜生活を送った沢田たちは、日独間で民間人を捕虜としないという取り決めが交わされたあと、やっと解放された。
 しかし、戦争一色のヨーロッパでサーカスで生計をたてることはもはや不可能であった。横田一座は解散、沢田はサーカスから足を洗い、スイスのチューリッヒで電気技師としてしばらく働くことになる。
 戦争が終わって間もなく、サラザニから呼ばれてドイツに戻った沢田は、再びサラザニサーカスのスターとして再びリングに立つ。沢田は五人の子供たちと一緒に「サワダファミリー」を結成、頭倒立をしながら青竹を渡る芸や、娘三人による足芸など日本情緒あふれるショーをつくり、サラザニだけでなく、当時ベルリンを中心に隆盛をきわめていたキャバレーなどでも活躍、名声を得る。

望郷の念

 ドイツは戦争の賠償やインフレで不況に追い込まれ、この機運に乗じたナチスが台頭するなど、暗い時代を迎えようとしていた。
 故国を離れてすでに30年あまり、沢田の胸の中に、望郷の念がふくらんでいく。帰りたい、そして故郷に錦を飾りたいという思いが募っていった。サラザニを離れ、欧州各地を巡業していた彼のもとに、サラザニから「帰って来い」という電報が届く。敗戦後のインフレで経営困難に陥り、またナチスの台頭を快く思っていなかったサラザニは、局面打開とナチスからの逃避という二つの思惑を秘め、南米公演を決めたのだ。
 サラザニにとって大きな賭けとなるこの巡業に、沢田は欠かせない存在であった。この公演が沢田の夢を実現することも彼は知っていた。南米にはたくさんの日本人がいる、そして一九四○年に開催が予定されている東京オリンピックの時に日本公演をしようというのだ。サラザニの勧誘にのって、沢田は家族とともに、南米公演に参加する。

断ち切られた夢

 1934年から始まった南米巡業で、沢田は多くの日本人移民と出会い、望郷の思いはますますふくらんでいく。日本公演実現のため、南米で有力者と会い奔走していた沢田にとって、思いもかけない事件が起きる。突然のサラザニの死だった。
 父と慕っていたサラザニの死去は、沢田に大きな衝撃をもたらした。さらに追い打ちをかけたのは、夢にまで見た日本公演がサラザニの息子の反対にあい、見送りになったことだ。最後の公演地アルゼンチンの公演を終え、そのまま日本に向かうものと信じていた沢田に対して、サラザニの息子は、「日本の政局が不安定ないま、日本公演は危険だとヒトラーがいっている」と言って船をハンブルグに向かわせた。
 茫然自失となった沢田に対して、ジュニアはハンブルグに着いてまもなく、解雇を言い渡す。1936年、日本で二・二六事件があった年だった。

流浪の旅へ

 夢を失い、精神に異常をきたしはじめた沢田を、家族たちが懸命に支えた。ワイマールからナチスへと時代が急展開していくなか、サワダファミリーはキャバレーを中心にショービジネスの世界でしぶとく生き延びていた。しかし過酷な運命が待ち構えていたのだ。またしても戦争である。しかも今度は日本人の沢田だけでなく、ドイツ人の妻や、その間に生まれた子供たちを巻き込むことになった。
 第二次世界大戦の勃発、さらにはドイツの敗北が、沢田一家を流浪の旅に追いやる。ソ連軍のベルリン占領直後、日本人という理由でドイツからの強制退去を命じられた一家は、満州の新京に強制送還される。ソ連軍の満州侵攻、日本の敗北に面した沢田一家は、父以外はみな青い目をしたドイツ人で、しかも日本語も話せない。そのため日本への帰国の途も断たれ、その後約三年間混乱につつまれていた中国大陸を彷徨うことになるのである。一家がやっとドイツに帰国するのは、1948年のことであった。

流浪の果て

 晩年沢田は、ドイツのゲッチンゲンに小さな家を買い、妻のアグネス、三女のユキコと一緒にひっそりと暮らしていた。沢田豊はこの頃、近くに住んでいた留学中の日本人を通じて、横浜の親戚と文通を続ける。従姉妹のひとりに宛てた手紙の中で、沢田はこんなことを書いている。

 「運悪く戦争が始まったために家やお金をロシア人にすっかり取られてしまって今では貧乏になってしまいました。いくらなんでも貧乏のままで日本へ帰りたくはありません。」(1957年6月3日)

 この手紙を書いてまもなく、1957年9月3日心臓衰弱のため沢田豊は71年の生涯を閉じた。
 沢田豊の一生は、時代に翻弄されたといっていいかもしれない。でも沢田豊は、時代や歴史に翻弄されながらも、困難と闘い、誰にも頼らずに、コスモポリタンとして見事に生き抜いていたのだ。このことはきっと語り継がれていくだろう。歴史に名前を残すことはなくても、その生きざまを知る人たちが、沢田の伝説を伝えていくはずだ。

「幾時代かがありまして 今夜此処での一殷盛り(ひとさかり)今夜此処での一殷盛り」(中原中也「サーカス」)

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