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マンフレッド沢田について

サンケイ新聞掲載エッセイ


 ブリーズベイホテルにチェックインする時、マンフレッドは、宿泊カードの職業の欄にアーティストと記入した。彼はたしかに、芸人として野毛の街にやってきたのだ。

 マンフレッドサワダはいまから6年前の1991年、大道芸フェスティバルに特別ゲストとして招待された、日系の元サーカス芸人である。彼の父−沢田豊は、横浜出身のサーカス芸人で、明治32年日本を飛びだし、ドイツで、当時ヨーロッパ最大のサーカス団サラザニサーカスの看板スターとなった男である。ひょんなことから沢田豊のことを知った私は、その足跡を追うことになり、ふたつの大戦で運命を大きく狂わされながらも、サーカスにしがみつきながら懸命に生きたこの男の生涯を、『海を渡ったサーカス芸人』(平凡社刊)という一冊の本にまとめることができた。歴史の闇に埋もれていた芸人の足跡を掘り起こせたのは、ドイツでマンフレッドと出会ったことがきっかけとなった。初めての出会いで、マンフレッドは日本に帰ることを夢みながら、ついにそれを果せぬままドイツで死んだ父にかわって、いつか父の故郷ニホンをこの目でみたいと語った。この話は新聞に大きくとりあげられ、野毛の街が、よし夢を叶えてやろうと神輿をあげてくれたことから、マンフレッドの来日が実現したのだ。

 この時マンフレッドは72歳、もちろん芸ができるわけではない。それでも野毛は芸人として彼を迎え入れてくれた。なによりもそれがマンフレッドにとっては嬉しかったに違いない。大通りを歩くだけでマンフレッドの回りには人垣ができた。芸人たちが声をかけてくれた。彼はこの街で、2日間芸人として振る舞った。憧れの日本で、そして横浜で忘れられない一時を過ごした。そしてそれは彼の人生の最後を飾る花道となった。

 1994年1月8日マンフレッドは74歳の生涯を閉じた。亡くなる2週間前、ニュールンベルグに見舞いに行ったとき、マンフレッドは意識もほとんどなく、それでなくても小さい身体が骨と皮だけになっていた。呂律もまわらず目の焦点もあわない。ただ手を握ると、力強く手を握りかえしてくれ、そしてなにか英語で一生懸命話してかけてきた。意味は分からないのだが「ヨコハマ、野毛、ビデオ」という単語だけは聞き取れた。家族の人に聞くと、野毛で撮ったビデオを見たいとずっとうわ言のようにいっていたという。彼にとって、夢にまで見た日本に来て、そして芸人として野毛の街で過ごせたことが、人生最大の喜びだったかもしれない。

 野毛も粋なことをしてくれる。人生の半分をサーカスの芸人として過ごしたマンフレッドに、父の故郷横浜でたとえ芸ができなくても芸人として活躍の場を与えてくれたのだから。きっと天国で待っていた父沢田豊へのなによりのお土産になったに違いない。


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