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日本人の足跡−沢田豊

第1回

沢田豊「棒上頭倒立」 沢田豊の「棒上頭倒立」
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以下は産経新聞のHP、産経Webからの転載です。


【日本人の足跡】
平成 13年 (2001) 4月19日[木] 仏滅


日本人の足跡(86) 沢田豊(1886-1957)1


サーカス芸人
【天性のバランス感覚】
喝采浴びた棒上頭倒立

 ドイツのサーカス劇場。長さ三メートルほどの竹竿(たけざお)が天井から吊され、大人の背丈ほどの高さで大きく揺れ始めた。二本のロープが両端を支えているだけ。竿の下に安全ネットはない。

 “不安”を増幅させる竹竿の動きに、観客の心も揺れ動く。

 ステージに男が現れた。東洋人の風貎(ふうぼう)。竿の近くに立った。揺れる標的を射るような目で追う。集中力を高める。男に注目する観客の緊張感も、否応なく高まる。

 一瞬、男の体が飛び上がった。弧を描いてひるがえり、竿の上に着地した。といっても、足ではなく頭で立った。

 〈棒上頭倒立(あたまとうりつ)〉

 五秒、十秒、十五秒…。両手を広げてバランスを保ちながら、頭を竿に押し付けて倒立を続けた。

 喝采(かっさい)がステージを包んだ。拍手の嵐。客の多くは、この荒業(あらわざ)を目当てに集まっていた。

 男は、仲間たちに「タカ」と呼ばれていた。沢田豊(さわだゆたか)。十六歳で列島を飛び出した、型破りの日本人である。

 ドイツ人たちは第一次世界大戦の敗戦で、精神的な拠所(よりどころ)を失っていた。

 そこに現れた東洋の芸人。エキゾチックな容姿と衣装。天性のバランス感覚で、だれもなし得ない荒業に次々と挑戦するアーティスト(芸人)にドイツ人は熱狂的なエールをおくった。そして、ヨーロッパ中のサーカス団から引き抜きの声が絶えなかった。

 今年二月、私はドイツ南部のミュンヘンを訪れた。降り積もる雪が、家々の屋根の上できらめいていた。

クローネ・サーカス 「クローネ・サーカス」の常設劇場は、このアルプス山脈の麓(ふもと)の街にあった。沢田もステージに立ったことのある、世界最大級のサーカス団の本拠地である。

 ここで、あの〈棒上頭倒立〉をしていたのだろうか…。少し、感傷的になりながら会場に入った。

 「グリュース・ゴッド」

 グーテン・ターク、こんにちは、という意味だ。ショーは、このバイエルン地方独特のあいさつで開幕した。

 最初に「ババリアンドリーム」という市民グループが登場した。前座である。中世のカラフルな民族衣装を着た女性たちが歌い、踊った。

 メーンイベントは、プロの芸人による一輪車の芸や、どんな物体でもお手玉のように操ってしまうジャグリングだった。そして、コミカルなクラウン(道化師)が、観客参加型のステージをユーモアたっぷりに演出した。

 閉幕寸前、興奮覚めやらぬステージに立ってみた。子供たちの満面の笑みと拍手。その渦の中心にいる芸人たちは、客席からの熱い視線を全身で受け止めていた。自らの芸に対する誇りに満ちた充実感も伝わってきた。ステージと客席が一体化していた。

 「アーティストにとってこれほど幸せな瞬間はありません。演技中の熱い視線、演技を終えた後の拍手は体中を震わせ、再びステージに立つ夢を見させてくれるのです」

 遠く中国から、このショーに駆けつけた一輪車の芸人、叢天(そうてん)さん(三八)は興奮気味に話した。

 ミュンヘンを訪れた目的のひとつは、沢田の孫、ベッティーナ・カバリーニさん(四四)に会うためだった。サーカスで会計や、VIPを接待する仕事をしていた。

サーカスについて語るベッティーナさんたち(ミュンヘン) 「サーカスは私にとって命。人生のすべてです」

 日本語は話せないが、その黒髪が日本人の血が流れていることを示していた。

 クローネ・サーカスは、一八七〇年に創立された老舗(しにせ)サーカス団である。劇場には、プレートが掲げられていた。

 〈すべての市民の楽しみのため努力を怠らない〉

 当時も今も、観客に夢を与えることを目的としているのである。

 「祖父ユタカは、ここのステージに立っていたんですよね」

 感慨深く話すベッティーナさんは、サーカス巡業中に生まれた。内縁の夫のパトリック・オッセルさん(四七)はサーカスのマネジャーだ。ベッティーナさんは、その生涯を沢田と同様、サーカスに注いでいる。

 「国籍の異なる個性派揃いがサーカスチームをつくって、協力し合うプロセスがサーカスの醍醐(だいご)味(み)。お客さんにとって最高のステージをつくることだけが目標ですから、けんかをしていても、最後は必ず仲良くなります」

 沢田のサーカスに対する情熱は、しっかり孫に引き継がれていた。

 公演後、ベッティーナさんは出演者と打ち上げ会を開いた。スイス国籍を持つベッティーナさん、中国人の叢さんのほか、十カ国以上からサーカス関係者が集まった。酒場はドイツ語や中国語、スペイン語、イタリア語、英語、ロシア語などが入り乱れた。

 〈インターナショナルであり続けなければならない〉

 これは、沢田がのちに親のように慕うことになる「サラザニ・サーカス」の団長、ハンス・シュトッシュ・サラザニの言葉だ。その理念は今も、生きていた。(奈良支局 田伏潤) 

 ≪サーカス事情≫ 近代サーカスの原形は、一七七〇年代のイギリスに生まれた。元軍人がロンドン郊外に設置した乗馬学校で、曲馬ショーやアクロバット、綱渡りなどを披露し、人気を呼んだという。

 沢田が主に活躍したドイツは、ボリショイ・サーカスを持つロシア、ハリウッド映画『地上最大のショー』で有名なリングリング・サーカス(通称)を誇るアメリカとともにサーカスの三大国だ。

 第一次世界大戦直後のドイツは、最大四五%の失業率や天文学的なインフレに見舞われて人心は荒廃した。サーカスの全盛期は、その敗戦による困難な時代への反動ともいえる大衆文化の開花によって訪れた。サーカスのほか、芝居や音楽など多様な芸術に熱狂する「ワイマール時代」が生まれたのである。しかし、その自由な精神が、ナチズムの台頭を許す皮肉な結果ともなった。

 日本ではどうか。散楽という雑技が奈良時代に中国から渡来、江戸中期に興行的存在になり、明治に入ると玉乗りが評判を呼んだ。曲馬団という名称で公演されていた芸は、昭和八年にドイツのハーゲンベック・サーカスが来日したことをきっかけに「サーカス」と名を代え、十七年には三十以上のサーカス団が存在していた。

 ところが、三十年代に、テレビが出現してサーカスや芝居は衰退し始め、昭和三十四年の皇太子ご成婚のころから娯楽の主流は、完全にテレビに移った。国内では現在、木下サーカスやキグレサーカス、柿沼サーカス、ポップサーカスなどが活動している。

 <さわだ・ゆたか> 1886−1957。東京・浅草の軽業(かるわざ)一座の一員として、16歳でロシアに渡り、「帝室技芸員」の称号を贈られる。ドイツ最大級のサーカス団だったサラザニ・サーカスにも出演し、ヨーロッパ一流のサーカス芸人となる。現地で死去。71歳。


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