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【連載】長谷川 濬―彷徨える青鴉

第15回 王道夢幻

 長谷川が、満洲を書くことに真剣に取り組むきっかけがいくつかあった。ひとつは大同学院同窓会が、発行を予定していた「大同学院史」を書かないかと、同期生にすすめられたからである。

「1960年7月17日
私が昭和七年五月十五日(五・一五事件)に日本を立って満州に渡った時の印象はあざやかである。大川周明の試験にパスして、自治指導部訓練生の一人として日本青年一〇〇名の一員として集団で満州に渡ったのである。門司で私は父に手紙を書いた。
日本はどうなるのですか?その返答は結局、昭和二十年八月十五日の敗戦として私に返ってきた。
あの大同学院生活(南山嶺の)で私は何を学び、考えたか。
私は関東軍の手先、日本、資本家、官僚、軍閥の手先と満渡したのか?
私の満州国観は何であったか?
私は満州国で何をしたのか?
当時の大同学院一期生は何をなさんとしたか?
これを書けと金沢すすめる。現代の日本とかつての満州国の問題より、青年の夢に生きた「人生劇場」であったのか?」

 一九六一年大同学院同窓会は、大同学院創立三〇周年を記念して「大同学院史」を刊行することを決定し、編纂委員会を立ち上げる。ここにでてくる金沢とは、長谷川と同じ大同学院一期生の金沢辰夫で、編纂委員会の常任委員のひとりに選出されていた。金沢は同期で、バイコフの翻訳で知られる長谷川こそ、学院史の執筆者としてふさわしい人物だと見込み、事前に執筆に打診していたのであろう。この誘いが、長谷川に火をつけることになる。そしてこれが導火線となり、そしていくつかの出会いと絡み合いながら、満州崩壊という自分のドラマと立ち向かうことになるのである。
 かつての満映時代の同僚であった大塚有章に会うために、わざわざ和歌山の白浜を訪ねているのは、この金沢の打診があってから2カ月半後のことであった。いつものようにソ連からの材木を積んだ船に通訳として乗りこんでいた長谷川は、今度の帰港地が和歌山だと知って、この機会にぜひ大塚の住む白浜に行こうと決めていた。
 大塚は、三・一五事件で、共産党幹部がほぼ一網打尽に逮捕されたあと、地下にもぐり共産党活動を続け、闘争資金確保の為に大森の銀行を襲撃、強奪には成功するが、のちにスパイM事件として知られる共産党幹部松村らの裏切りにより、逮捕された経歴をもつ、筋金入りの共産党員であった。13年の懲役を終えて、満洲に渡り、満映に入社。たまたま配属された調査室で長谷川と机を並べて仕事をしている。終戦後も中国に残り、中国共産党活動に従事、1956年帰国、和歌山の片田舎にひっこみ、雑誌に自分の半生を綴った『未完の旅路』を連載中であった。
 満映時代にかたやぶり社員同志としてウマがあった大塚が、中国から帰国し、中国仕込みの毛沢東思想普及のために精力的な活動をしている様子は、さまざまなマスコミで報じられていたので、長谷川も気になったはずだ。自分と同じように満映社員として敗戦を迎えた大塚と別れてから10年あまり、中国の話も聞きたかったのだろうが、この時長谷川が、わざわざ白浜まで足を伸ばしたのは、大塚がいま「未完の旅路」という回想を連載していたことだろう。これから自分が書こうとしている満洲彷徨のドラマのヒントになるのではないかという思いから、わざわざ白浜を訪れたのだろう。
 和歌山港に着いたその日の1960年9月29日の夜行列車に乗りこんだ。

「29日二十三時十九分で白浜向け出発。二時二一分白浜口着。駅車なし。ベンチに横たわり、夜明けを待つ。眠られず。五時半駅員に富田観福寺の在所を訊ねる。紀伊富田駅下車と判明。六時一〇分の亀山行きにのり赴く。
 富田駅で一老女の案内で観福寺に行く。古き風格ある寺なり。このはなれに大塚氏住む。山の上なり。風雅なる平屋。楓庵と称す。戸をたたき、大塚氏に会う。満州時代と変わりなき風姿なり。老妻と詫住居。「未完の旅路」の執筆にふさわし。久々に会談。夫妻の案内で水旅館、植物園、文殊温泉に行く。温泉、俗塵なく野趣に富めり。帰宅後ビールをのみて、快談す。大塚氏の中国談を傾聴す。・・・枕を並べて寝る。寝つき悪し。色々もの思う。」

 長谷川の中に、「大同学院史」を書くうえでいろいろなアイディアがふくらんでいく。そしてまた猛烈な勢いで書きはじめる。長谷川に執筆の打診をした金沢は、次々に渡される原稿を見て、これは大同学院同窓会がいまつくろうとしているものとはちがうと感じはじめた。「大同学院史」は、あくまでもここで学んだ人々の記憶をまとめるものであった。長谷川個人の満洲は、そのなかの一部でしかない。長谷川にやってもらいたいことは、集められる大同学院卒業生の回想をリライトしてもらうことだった。
 この学院史となる『大いなる哉満洲』の編集後記に、「満州国が、日本帝国主義の走狗であったという歴史しか残らないということは、わたくしたち満洲建国に挺身した者にとってはまことに残念なことである。ことの是非は後世史家の批判をまつとしても、身命を捧げて満洲建国に馳せ参じその理想を実践した五族青年の「善意の歴史」をこの際のこしておきたいという切なる願い」からこの書をつくろうとしたとある。
 大同学院同窓会が求めていたのは、「身命を捧げて満洲建国に馳せ参じその理想を実践した五族青年の「善意の歴史」」であるが、長谷川自身が書きたいことは別にあった。それは満洲国にたまたまたどりついた人間の思想遍歴であった。
 金沢から相談を受けた一年後の日記に彼は、こんなことを書いている。

「ぼくは大同学院史をやめた。金沢氏とぼくの構想に開きあり。満州国の認識よりして・・・。それに編集センスなし。ありていに云えば、満州国の一切より脱却したい。書くとすれば、一人の男の思想彷徨である。昭和七年五月一五日より書き起こし、昭和二十年八月一五日、この十三年間の満州における日本人の生活である。一つのロマンとして」(一九六一年八月二八日)

 おそらくこの時、長谷川から渡される原稿に、編纂委員会常任委員の金沢は、確かに打診はしたけれど、ここまでくると、どう処理したものかすっかり困り果てていた。大同学院同窓会が編纂しようと思ったのは、学校の歴史であった。しかし長谷川が送ってくる原稿は、長谷川濬という男の「満洲」でのドラマであった。金沢は、原稿を預かりながら、大同学院史を書いて欲しいと何度か説得したのだろう。ここで長谷川は、大同学院史執筆をやめてはいないが、いったん定めた方向を、変えることができなかった。なにより彼のなかで、ひとつのテーマがはっきりと見据えられたからである。
 長谷川のなかに、「満洲」を書かなければという気持ちはますますふくらんでいた時、尾崎秀樹から「会いたい」という速達が届く。1963年2月1日のことだった。すぐに返事を出した長谷川は、翌々日の2月3日に尾崎と新宿の二幸前で待ち合わせをして、喫茶店で話し、そのままAFAが呼んで、コマ劇場で公演していた北京曲技団に誘っている。

「満州国についてはなす。満州についてこんなに語ったのは戦後はじめて。満州文学についても。・・とにかく満州国実体探求よりの結論が現代にプラスするか。
尾崎君はゾルゲ事件の尾崎秀実の実弟で、アジア植民地文学の研究家、評論家なり。」(1963年2月3日)

 尾崎秀樹は、1960年から岩波書店発行の『文学』で行われていた「戦争下の文学」という共同研究のメンバーであった。この研究は、竹内好を中心に、尾崎の他に、平野謙、橋川文三、安田武、石田雄、内川芳美が参加していた。この研究は1961年5月から6回にわたって『文学』で発表されている。このあとも『文学』で、1963年2、5、6月、さらには66年2月に『「満洲国」における文学の種々相』という発表しているので、尾崎はこの連載のために、急いで長谷川と会う必要があったのだろう。そして2月14日に、尾崎に誘われて、長谷川はある会合に呼ばれる。

「午後五時より立教大学五号館教授室にて、満州国研究会の座談会に出席す。参加者、竹内好、野村浩一、尾崎秀樹、橋川文三、他二名。ぼくが殆ど一人で満州国資政局自治指導部と建国当時の青年の志向についてはなす。結局二つの満州についてはなす。一つは偽国満州国、一つは王道楽土のユートピアの満州国。結局満州国はなかったのだ。日本人の描いたビジョンであった。しかし、歴史となったのだ。所謂「満州国」として。
会員学究的にしてまじめな人ばかり。満鉄対新京、その他大同学院的一物、文学についてもはなす。九時散会。」

 尾崎と最初に会ってまもなく、長谷川はこんなことを日記に書き留めている。

「ぼくにもたくさんか書くことがある。第一は昭和七年五月十五日門司出帆で満洲国へ渡った時からはじまる。五・一五事件の号外を見てびっくりしたぼくが、父にはがきを書いた。「日本はどうなるのです?」
この返事は昭和二十年八月十五日の敗戦宣言である。奇しくも一五日だ。この間の南嶺生活からはじまるぼくの満洲生活は書いておくべき記録である。次いで、敗戦後のぼくの満洲生活。引き揚げ後の日本生活。
これだけは書いておくべきぼくのロマンである。
偽国「満洲国」にちがいない。しかし、それだけではすまされない青年のフロンテアーとしての満洲、これが色々な夢と力を創ったのだ。」(1963年2月8日)

 一時は編集の見解の相違で、おりるとまで言った長谷川だったが、彼のなかでは、「満洲」国での自分の遍歴を綴った『王道夢幻』と題した小説の構想がどんどんふくらんでいたのである。

「『王道夢幻』完成のこと。第一章、第二章、第三章として。第一章よみ終わる。本年中に第二、第三を書くこと。ノートを棋本君より返してもらうこと」(一九六四年八月二四日(サハリン東海岸航海中)

 『大いなる哉満洲』編集後記を見ると「昭和39年(1964)2月、執筆責任者として編纂に従事していた一期の長谷川濬君が、一部の作品を提出されたが、編纂委員会に対し、健康上の理由から、満洲作家として名のある棋本捨三氏を紹介した。棋本氏は、関東軍に関する史書の執筆構想を持っていた矢先であったので、学院史編集に進んで協力したい旨の希望を述べられた。3月7日、編纂委員会は、棋本氏を、長谷川君の執筆協力者とすることを承認した」とある。
 長谷川は「大同学院史」とは別に、ひとつの作品として『王道夢幻』を書こうとし、その一部は新たな執筆協力者となった棋本に渡していた。それをもとに棋本がまとめた原稿は、編纂委員会から認められず、あらためて一期生で富士急行社長室長(富士空輸社長も兼務)をしていた田中釣一が執筆責任者になるという、紆余曲折があり『大いなる哉満洲』は、一九六六年一一月に公刊される。
 この『大いなる哉満洲』に「王道夢幻」という章がある。新たに責任執筆者となった田中は、前任の責任編集者でもある長谷川の労に報いるために、この章をもうけたのであろう。
「今は持病の苦しみと闘いながら寄せてくれた原稿の中から、原文のまま二、三を拾って、若き日の彼の情熱を偲んでみたい。題して「王道夢幻」という。」
 田中のこの紹介文に続いて、叙事詩「王道夢幻」の断片が掲載されている。

「大いなる時間と空間に生れ出でた吾等、東海国――日本の運命的時限と軍鼓のひびきよ、太平洋、日本海、オホーツク海、南支那海のどよめき、深き海溝に潜む予言的波動に囲繞(いにょう)されつつ黄土大陸の広漠たる地貌と竜巻と望楼と、・・・・・・廿世紀の民族の瞼よ、深き轍に眠る王道の核を求める吾等。
 テロリズムとマルクシズムと軍国主義のレトルトに密閉された青春の幻。生れ出づる若者の触角の指向、
 「アジアは一つ」と・・・・・・玄海を彩る白き航跡の泡沫に郷愁を捨て、五・一五事件への疑問と革命的パッション。新しき王道主義者の歌う革新、交響曲のカンタータはこだまする。」

 いまとなっては原稿自体が散逸し、この叙情詩自体どのくらいの分量のものだったのかはまったくわからないし、辛うじて活字となり残ったこの断片から、なにをどう読み取ったらいいのか、正直言ってわからない。

「本夜大同学院の思い出、起草について構想
1、ウラル丸と五・一五事件
1.玄界灘にて――笠木良明氏を知る
1.大連
1.旅順にて
1.長春着
1.南嶺宿舎に入る
1.王道主義」(1962年6月20日)

 引用したのは叙事詩「王道夢幻」の冒頭であるが、これに続く詩は、日記に書き留められたメモにしたがって進行している。
 叙事詩以外にも小説「王道夢幻」の第一章にあたる部分であろうと思われる断片が、大同学院同窓会が『大いなる哉満州』の続編として公刊した『碧空緑野三千里』(一九七一年刊)に掲載されている。
 これは、大同学院の入学試験となった大川周明との面接、うらる号に乗船直後に五・一五事件のニュースを知ったこと、大連港についてから、五月二十日長春郊外の南嶺の学院に到着するまでの汽車の旅、学院での生活、八月に行われた農村実態調査、そして十月の卒業式の思い出が綴られている。
 この回想の最後は、次のように締めくくられている。

「いますべては終った。満洲は毛思想で改革された。大同学院はすでに過去である。当時、新しい民族独立と解放に挺身した青年の行動をいまの人々はドン・キホーテとして語り草にするかも知れない。しかし新しい歴史の渦中に入った青年はハムレット的よりむしろドン・キホーテ的傾向にかたむくのが青年らしいところだ。また現代史に於いて満州国は何人も抹殺出来ない事実であり、満州国で純粋に行動した青年の行跡も事実だ。この評価は規制の観念(イデオロギー)では計量出来ないと思う。大同学院の第一期生は満州国を独自に解して星雲状態のなかで積極的に勝手な行動をとった。これが却って次の学生に色々な暗示を与えたのではないかと思う。」

 おそらく「王道夢幻」という断片しか残されていない作品は、大同学院での自らの思い出をまとめたものだろうと思われる。ただ長谷川にとって、これはあくまでも彼が書こうと思った壮大な「満洲崩壊」のドラマの一章であった。
 「大いなる満洲哉」が出た翌年の四月日記に長谷川はこんなことを書いている。

「満蒙同胞援護会に赴き「夢は荒野を」を金沢へ。(略)とにかく大同学院史は終わり、資料返還も完了。次に私が「夢は荒野を」の第二編150枚にとりかかるつもり。」(一九六六年四月一五日)

 そして続けて彼がこの「夢は荒野を」を書き続け、それも集中的に書いていたことが、わかる。

「4月19日終日執筆「夢は荒野を」
4月20日雨風強く雨戸あけず。執筆。南嶺壮士小説風ルポルタージュなり。「夢は荒野を」10枚執筆。
4月27日執筆に従事。風強し。100枚突破す。
5月2日原稿手直し。原稿執筆。第三篇(満映について)
5月3日原稿手直し。
5月6日新橋で金沢に原稿渡す。
5月31日新橋金沢を訪ねる。原稿返して貰う。第二部発刊の予定なりと。」

 『大いなる哉満洲』が出版されてから半年後には、「大同学院史」の続刊を出すことは決まっていたのだろう。ただ長谷川に執筆してもらうかどうかについては、編纂委員会はなにも決めていなかった。続刊がでるという話を金沢から聞き、おそらく『王道夢幻』の続編のつもりで書いた『夢は荒野を』の原稿を渡したのだろう。『大いなる哉満洲』でもそうだったように、長谷川の原稿をそのままつかうことは難しいのを知っていた金沢は、それならむしろこれを独立した本として出版した方がいいのではないかと思い、当時「満洲」ものを何冊か出していた出版社番町書房に、出版を打診したのではないだろうか。この年の七月二四日の日記に「番町書房社員『夢は荒野を』見たいとやって来た由。明日また金沢の処へ行こう。」とあり、翌々日の日記には「7月26日 番町書房で編集長に会い『夢は荒野を』を三部と雑誌二部提示す。どうなるか」とある。
 結局この原稿は渡されたまま、活字になることもなくそのまま埋もれてしまった。
 どんな小説だったのかは、原稿そのものが残されていないので、想像するしかないのだが、ある意味で長谷川濬の満洲ものの集大成となるものだったと思う。何故なら、この作品を書いて、原稿を提出してから、ほとんど彼の日記には、満洲のドラマについての構想メモ、作品メモはほとんど書かれることがなくなるのである。

 かつて彼は、「星雲」という小説メモのなかで、こんなことを書いている。

「昭和七年五月十五日満州国に渡るべく、ウラル丸にて渡海。門司にて五・一五事件をきき驚きつつ玄界灘を渡る。笠木良明氏を中心に日本青年一〇〇名と共に。
長編星雲の書きはじめはここから。すでにおよそ廿年来のテーマ。書くべき時到れり。即ち日本の満州経営ロマンなり。と云うより、或る日本人の大陸生活記と云うべし。大同学院第一期の南嶺生活にはじまるロマンなり」(1962年9月8日)

 また、こんなメモも残されている。

「昭和七年六月南嶺街道でほろをかけた馬車にゆられている一人の日本人――これが甘粕であった。ここから筆を起こし、軍法会議の直立不動の彼の姿。そして満州。エレクテー林区の甘粕。(パリーの甘粕)満映の甘粕。終戦後の甘粕。自殺。そして彼の幽霊のはなし。私の接触した彼の人間性。エピローグ。」(1965年10月13日)

「戦後の満州混乱とソ連兵のテーマにとりつきたい。主題と格闘したい。
「甘粕大尉」の死に至る十二日間を書く。
引き揚げ後の私の生活の実相
何故満州に逃亡したのか?
右四つの大テーマに全魂を打ちこんで書きたい。」(1965年12月14日)

「『一匹の驢馬大地を行く』(300枚)は未完成作品である。これをぜひまとめたい。私個人の敗戦霊歌の大陸版である。
第一章は甘粕理事長を中心にして動いた終戦に至るまでの満映スタジオの動乱で、主人公は死を怖れて逃げ廻り、終戦。甘粕の自殺で一切は終わる。
第二章より赤軍進駐による牧三郎の遍歴である。
これはフィクションであるが、赤軍占領下における日本人の生活を記述した。
「人間の条件」のように苛烈なものでない。
しかし、私個人にとって生涯の事件――敗戦を外地で迎え、色々な民族の中で生き抜き、八路軍進駐で解放された東亜人民のらつ外にエミグラントとして生き抜いた日本人の心の傷を一匹の驢馬にたとえて書いた物語で、私としてはどうしても完成させねばならないのである。」

 断片的に書き留められた作品メモをつないでいくと、もしかしたら「夢は荒野へ」になるのかもしれない。これはあくまでも想像でしかないのだが・・・。
 五・一五事件からはじまる満洲生活を、南嶺での大同学院から始め、満洲崩壊を象徴する甘粕の自殺をはさみ、戦後の混乱のエミグラントとして生き延びたドラマを、書こうとしていたのではないだろうか。

 『大いなる哉満州』の続編となる『碧空緑野三千里』は、一九七一年に出版されている。大同学院同窓会が出版したこの二冊の本のなかに、『王道夢幻』と『夢は荒野を』という長谷川が書いた小説の一部は、紛れ込んだことはまちがいない。しかし彼が書いた「満洲」への旅立ちから満洲崩壊までのドラマを描いたふたつの作品そのものは、どこかに消えてしまったのである。長谷川濬という文学者が、「満洲」崩壊、そしてそこで生きた自分の魂の遍歴を、戦後という時間の流れのなかで、どうとらえ、どう書き、文学作品に昇華させたのか、なんとかして読みたいと思い、満蒙同胞援護会を引き継いでいる国際善隣協会や親族の方々に尋ねてみたが、結局は見つけることはできなかった。もしかしたら最大の傑作となったかもしれない小説を、自分の手元から離してしまう、そんなおおらかさもまた長谷川濬らしいのかもしれない。


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