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粛清されたサーカス芸人ヤマサキキヨシ

共同通信配信記事(1997年)


 海を渡ったサーカス芸人の足跡を追うというテーマにとりつかれてから、十年あまりになる。ひょうひょうと海を渡り、自由に国境を行き来した日本人たちの姿を通じて、国家の呪縛(じゅばく)を逃れ、海外でしたたかに生き抜いた庶民の姿を浮き彫りにできないかと思った。
 しかし、その過程で、自由と代償に死を余儀なくされた者たちがいたという事実に遭遇することになってしまった。

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 シマダパントシ。彼はヤマダサーカスの一員として一九一〇年ころロシアに渡り、革命後もソ連に残り、シベリアで移動サーカス団の団長をしていた。しかしスターリンの粛清が吹き荒れた一九三九年にシマダは、粛清される。
 もうひとりヤマサキキヨシも粛清されていたことが、加藤哲郎著『モスクワで粛清された日本人』(青木書店)で明らかにされている。
 ヤマサキは一九〇〇年、東京生まれ。サーカス団の一員としてロシア入り。三七年に反ソ活動をした容疑で銃殺され、その後、六六年に名誉回復されたとある。加藤氏の好意により、私はヤマサキの調書記録のコピーを手に入れることができた。
 この調書によって、何故サーカス芸人が粛清されなければならなかったかを知ることができる。
 彼の逮捕の直接的な理由は、職場で反ソ的発言をしたことであるが、尋問者は彼が日本からサーカス芸人としてロシアに来たことを執拗(しつよう)に問いただし、その部分には赤線がひかれてあった。それは革命前からロシアに潜入したスパイではなかったかと疑っていたことを暗に示唆していた。
 彼もまたヤマダサーカスの一員であった。
 もうひとり、ヤマダとともにロシアに渡り、革命後もソ連に残った女性がいたことを最近知った。しかし彼女はスターリンの魔手から逃れ、三八年に命からがら日本に帰ってきていた。この女性山根ハル子は同年、『月刊ロシア』という雑誌に「私のロシア放浪記」という回想録を残していたのだ。
 ヤマダサーカスに在籍して三人のたどった数奇な運命。歴史の修羅場に引きずりだされたこの運命が語る意味は、私に重くのしかかってくる。

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 昨年十二月、私はロシアでヤマサキの息子アレクセイと会うことができた。ヤマサキが粛清された時、まだ四才だった彼は、ほとんど父のことを覚えていなかった。ただ母が臨終を前に「おまえの父親の兄弟が日本にいるはずだ、それを探せ」と言われ、それを果たせずにいまでもきてしまったと、語っていた。
 歴史の闇に葬り去られた、彼ら海を渡ったサーカス芸人たちへの墓銘碑をたてる意味でも、シマダ、ヤマサキ、そしてヤマダの足跡を明らかにしなければならない。


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