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【連載】粛清されたサーカス芸人ヤマサキ・キヨシ追跡

アレクセイからの手紙

ヤマサキの名誉回復
アレクセイからの手紙

ヤマサキの名誉回復

 ヤマサキファイルに収められているナンバー34から40までは、ヤマサキのいわいる名誉回復に関するものである。息子のアレクセイ・ヤマサキが提出した一枚の上申書が、きっかけとなってヤマサキは無実の罪をきせられ、銃殺されたことが正式に国から認められたことになる。
 一九六五年十月十九日アレクセイ・ヤマサキはモスクワの軍管区軍事法廷へ申請書を提出した。

一九三七に検挙され、逮捕された私の父、ヤマサキキヨシについて知らせて下さい。
連絡は上述の住所までお願いします

ファイルナンバー34

 受領された申請書には、薄く「アルヒーフに該当人物なし」という手書きの跡が見える。モスクワ軍管区軍事法廷は、アレクセイに対して詳しい父に関する情報、名前、生年月日、生誕地などをを提供するよう求めた。同じ年の十一月一日、アレクセイは次のような手紙を提出している。

私の父の名前、父称、生年、生誕地を知らせてほしいという依頼がありました。
   生年  一九〇〇年
   姓   ヤマサキ
   父称  不明
   生誕地 不明
 父は5年間孤児院で育てられたが、それがどこの孤児院かは分かりません

ファイルナンバー35

 この時アレクセイが父について知っていることは、わずかにこれだけだった。
 これから約二か月半後の一九六六年一月二二日、ソ連邦検察庁は、ヤマサキキヨシに対する判決を破棄することを、最高裁判所に命じている。「秘密」とタイプされたこの異議申立書を見てみよう。

ロシア共和国最高裁判所刑事事件に関して裁判参事会へ
 ヤマサキの案件に関して

 一九三七年一二月一三日ロシア共和国刑法法典五八−一〇により内務人民委員会は、極刑- 銃殺の刑を下した。

 ヤマサキキヨシ、一九〇〇年生まれ, 日本人, 日本・東京出身, モスクワ州ナロフォミンスク郡ゴルチヒノ村に住み, 逮捕されるまでナロフォミンスクの工場で電気技師として働いていた。

 判決は実施された。

 内務人民委員会の判決は破棄され、事件は以下の根拠により打ち切りとなる

 事件で尋問されたヤマサキキヨシは、彼が反ソ煽動に関わっていないと証言した。
 彼への告発は、証人ベレージン、アベリヤーノフ、ゴドゥノーフ、ガラーノフの証言に基づいている。彼らは、被告が彼らとの私的な会話の中で、ソビエト連邦での生活への不満を語ったと証言した。しかしこうした会話が実際になされたとしても、これは通常の会話であり、国家レベルの罪を形成するにはいたらない。
 他の有罪の証拠は、ヤマサキに関係しない。

 こうした状況により、ヤマサキの刑事責任を問うことは、根拠のないものである。

 以上のことを踏まえて、刑事訴訟法法典371項に従う。

                  依頼事項

 ヤマサキキヨシに関しての一九三七年一二月一三日内務人民委員会の判決は、彼の行動のなかに犯罪を認めるものがないことから、破棄し、事件を打ち切ること

ロシア共和国ソ連邦検察庁検察庁副長官 A・シェイキン

 参考: 事件は、A.K.ヤマサキ( モスクワ州ナロフォミンスク郡カメンスキイ村カメンスキイ通り六七に住む、受刑者の息子) の訴えによって審査された。

ファイルナンバー36

 検察庁のこの異議申立を受けて、ロシア共和国最高裁判所刑事課は、裁判長チェルニショフ、判事オフチニコフ、ヴァーシキン出席のもと、一九六六年二月八日裁判会議でヤマサキの案件を討議した。そして最終的にヤマサキの無罪を認める決議を下している。

判事オフチニコフの報告を聴取したうえで、異議申立への対する回答として、裁判所は、以下のことを決定する

 ヤマサキは、一九三六年から三七年まで彼の周りにいる人々のなかで、反ソ的煽動をしたとして裁かれた。

 ヤマサキは自分の罪状を認めなかった。

 彼の有罪の決定は、証人ベレージン、アベリヤーノフ、ゴドゥノーフ、ガラーノフの証言に基づくものである。

 上記の証言者が証言したヤマサキの発言は、日常会話であり、政治的には正しくないとしても、その話の内容を考えれば、特別に危険で国家的な罪になるものとは認められない。

  以上のことを踏まえて、異議申立に同意し、ロシア共和国刑事訴訟法法二条三七八項を履行し、ロシア共和国最高裁判所刑事課は、以下のような決定をした。

  一九三七年一二月一三日内務人民委員会とソ連邦検察庁が、ヤマサキキヨシに関して下した判決を破棄し、罪状不在によって、これを事件としない。

ファイルナンバー3738

 「事件にしない」という言い回しに、ソ連という官僚国家の非情さがかいま見えてくる。ここで一人の人間を死に追いやった責任は一切問われていない。おそらく息子のアレクセイが父について問い合わせをしなければ、永久にヤマサキ・キヨシは有罪者として、膨大な記録のなかに埋もれたままだったに違いなかった。
 まもなくアレクセイの元に裁判所から父の名誉回復を知らせる一通の通知書が届く。

                  通知書

 一九六六年二月八日ロシア共和国最高裁判所刑事課による審議の決定により、一九三七年一二月一三日内務人民委員会とソ連邦検察庁が、一九〇〇年生まれ、ヤマサキキヨシに関して下した判決を破棄し、罪状不在によって、これを事件としないことになった。

 ヤマサキキヨシは本件について名誉回復される。

事件の資料に従って、ヤマサキは、逮捕されるまでモスクワ州ナロフォミンスクの工場住宅公共部の電気技師として働いていた。

                    ロシア共和国最高裁判所
                    次長 プルサコフ

ファイルナンバー39

アレクセイからの手紙

 アレクセイの一通の手紙によって、ヤマサキ・キヨシは名誉回復されることになった。ファイルには、アレクセイの住所も書かれてあったが、それはヤマサキが逮捕されたときの妻の住所と同じものであった。それまでずっと住んでいたところなら、もしかしたら現在もまだそこに住んでいるかもしれない。アレクセイはヤマサキファイルによれば、一九三七年の時点で、三才であった。とすれば現在は六三才、生存している確率は高い。私はヤマサキファイルを読みおわってから、アレクセイに手紙を書いてみることにした。そして加藤哲郎氏から預かったロシア語のヤマサキファイルをコピーして同封することにもした。
 たまたま来日していたモスクワに住む友人のロシア人が、それをナロフォミンスクのカメンスカヤ通りの住所に届けてくれることになった。
 一九九五年のことだった。友人は帰国してすぐに、ナロフォミンスクに行ってくれた。そして彼はアレクセイと会って、私の手紙と取り調べ記録を直接渡してくれた。友人はそのあとすぐに私に電話をかけてきた。
 「びっくりしたよ。顔は日本人そっくりだ。君にくれぐれもよろしく伝えてくれって言っていた。必ず手紙を書くとも言っていた。」
 アレクセイから手紙が届いたのは、それから半年後のことであった。

 あなたのお手紙に対して、モスクワ州ナルフォミンスキイ区カメンスコエ村67番地に住む、ヤマサキ・アレクセイ・キヨシがお返事いたします。あなたのお手紙に返事するとともに、あなたとお知り合いになることをたいへん嬉しく思います。
 親愛なるミキオ・オオシマ、あなたが私に送ってくれた資料に対して心より御礼を申し上げます、この資料は私にとって大変興味ぶかいものでした。これらの資料から私は、父について多くのことを知ることができました。
 父ヤマサキ・キヨシについて語ってもらいたいとのご依頼でした。
 私が知っていることはとても少ないのです。彼が逮捕されたとき、私は3歳か4歳でした。私は彼のことをほんとうにぼんやりとしか覚えていないのです。私の母親の話ですと、父は親切で同情心のある人だったとのことで、仕事場で同僚たち、そして住んでいるところでは隣人たちを手助けしたとのことです。父は自分について語ることはあまり好まなかった、こんな風に母は、私の父についての質問に答えていました。
 一九六五年私は、モスクワ軍管区の軍事法廷に父ヤマサキ・キヨシの捜索の嘆願書を提出しました。一ヵ月後私は最高裁判所に呼び出され、私の父が犯罪を構成するための証拠がないため名誉回復されたこと、そして彼が生きてはいないことを明らかにされました。

 私の父と一緒の房にいて、同じ五八−一〇条で逮捕された人の住所を渡されました。私はモスクワ州ナルフォミンスク町レーニン通りにある彼の住まいで彼を見つけることができました。
 私がこの人の部屋に入ったとき、彼は言いました。あなたはヤマサキですか? 私は言いました。そうです。彼は私が父ヤマサキ・キヨシと大変似ていると答えました。彼は、彼らが同じ房にいたこと、対審のために呼び出されたとき、彼らがお互いに知っているかを聞かれ、ふたりは、そうです、お互い高く評価しあっていること、ナルフォミンスク町の紡績工場で一緒に働いてたと答えました。そのあと君のお父さんが聞かれたんだ。日本とソ連のどちらが住みやすいかと。彼はいま私たちがいないあっちのほうがいいと答えたんだ。このあと私は連れ去られ、彼はそれから房には戻ってこなかった。私はそれから彼を見たことがない。
 これで全部なのです。親愛なるミキオ・オオシマ、私がこの人から聞いたことは。この話があったのは、一九六六年のことでした。彼はもう亡くなっていません。
 私の母は父について多くを語ってくれませんでした。彼女が話してくれたのは、彼がどこでなにをして働いていたか、一九三七年ナルフォミンスクの町で彼が逮捕されたとき、どんなに悲しんだかということだけでした。どうして捕まったのか、彼女は知りませんでした。彼女は私に、父が絵を描くことが好きだったとも言っていました。また彼女は父がモスクワの孤児院で養育されていたとも言っていましたが、それがどこかは知りません。あたかもお祖父さんが彼をモスクワに連れてきたようにも言っていたようですが、それから先はやはりわかりませんでした。しかしあなたの資料によって、私は父が日本の東京で生まれ、彼の両親がサーカスの芸人に彼を預け、そのサーカス団がモスクワに来て、一九一四年までソ連領内を旅していたことを知りました。母はこれについては私になにも話してくれませんでした。父は自分のことについて話すことが好きではなかったのだったら、母も父の幼い時のことは知らなかったのかもしれません。
 でも一九八一年、母が死ぬ二日前危篤状態となったとき、その時は彼女のいうことを理解するのはかなり困難な状況でした。彼女は、父にはひとりかふたりの兄弟が日本にいると話したのです。私は彼女に聞きました。どうして前にそれを言わなかったのだと。彼女は非常に手短に答えました。父は話すようには命じなかったと。三日後彼女は亡くなりました。私には日本で親戚を探すための手段も、時間もあるわけがありません。
 これで全てです。私が父について、あなたにお話できることは。
 親愛なるミキオ・オオシマ、あらかじめあなたに感謝したい。
 あなたが私の父の運命を調査のために努力していただけることに本当にお礼申し上げます。
 もしモスクワに来られるときがありましたら、是非あなたとお会いできるようにお願いします。
敬具

アレクセイ・ヤマサキ

 何でもいいから父のことについて知っていることを教えてもらいたいという内容の手紙を書いたのだが、先に見た上申書で父のことについて知っていることは、名前と生年だけだったことから考えても、彼が知っていることはわずかであるのは無理もないことであった。彼自身にとっても父親の生涯はあまりにも謎が多すぎたものであることがわかる。
 ただアレクセイが、父と一緒に逮捕された男と会っていること、そして死の直前母親から日本に親戚がいることを初めて知らされたことには驚かされた。
 もしかしたらアレクセイは、父のことをもっと知りたいと思っているのではないか。会ってみよう。いや会わなければならない、その時そう思った。


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