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週刊デラシネ通信 今週のトピックス(2001.02.23)
レザーノフ復権
中村喜和氏のエッセイ『レザーノフ復権』とテレビドラマ『菜の花の沖』

 先日NHKで司馬遼太郎原作、高田屋嘉兵衛の生涯を描いた『菜の花の沖』が、5回にわたって放映された。
 江戸後期、北方が舞台となり、しかも日露交渉を背景にしたドラマということでかなり期待して見ていたのだが、嘉兵衛という人物像の掘り下げも甘かったように思えるし、最大の見せ所である、リコルドとの友情を軸とした日露交渉の描き方も、なぞっただけに終わり、肩すかしを食らった感じがした。
 司馬遼太郎が嘉兵衛に注目したのは、商人という一民間人であるにもかかわらず、私利私欲を捨て、日本人としての誇りをもち、ロシアと対等に交渉して、日露の危機を救ったことにある。
 レザーノフの命を受けたフォボストフらロシア船のエトロフ・樺太襲撃(1806−7年)で、危機感を強め、警備を強化していた幕府は、クリシリ島付近を測量中のディアナ号艦長ゴロブニンらを捕らえ、松前に監禁する。ディアナ号副艦長リコルドは、この報復としてクナシリ沖で操業していた高田屋嘉兵衛らを捕虜として捕まえ、ペトロパブロフスクに連れ帰ることになった。
 寒冷の地で辛い生活を余儀無くされ、しかも部下たちが命を落とす中で、嘉兵衛は、ゴロブニンを捕虜として捕らえた原因が、フォボストフのエトロフ襲撃であったことをリコルドに説明、リコルドも次第に嘉兵衛の人間性にひかれ、これを解決するために、幕府への詫び状をもらうために、奔走することになる。
 カムチャッカ司令官の正式な詫び状を持って、嘉兵衛たちを乗せたディアナ号は、再びクナシリに向かう。嘉兵衛が仲介役となり無事ゴロブニンら一行は釈放され、北方を舞台にした日露の危機は回避された。
 司馬の原作では、日露間の危機を最初にもたらした人間として、レザーノフが槍玉にあがっている。このドラマで、レザーノフをどう描くのか注目していたのだが、レザーノフはまったく登場しなかった。嘉兵衛とリコルドの友情を描くのが、なによりもこのドラマの目的であり、レザーノフを登場させると話が複雑になると思ったのであろう。
 レザーノフ復権の道は遠のいたと思ったのだが、レザーノフの『日本滞在日記』が翻訳されたことで、少しずつ彼に対しての評価も変わってきているように思える。特に昨年12月に出た『窓』(ナウカ社発行)で、日露交流史の第一人者で、司馬遼太郎氏とも対談したことがある、中村喜和氏が『レザーノフの復権』と題したエッセイを発表されたことは、はかりしれない意味があるように思える。
 この中で、氏はレザーノフと共に長崎に来航したナデージュダ号艦長クルーゼンシュテルンは、カムチャツトカでレザーノフらと別れ、先にロシアに戻り、幕府との外交交渉の失敗をレザーノフが国益よりも私益を優先したと言い触らしたこと、さらにはフヴォストフたちのエトロフ襲撃の張本人とされていたことが、レザーノフの悪名を容易に拭いがたくしていたが、最近ロシアで公刊された「ロシア領アメリカの歴史」という本により、彼の名誉が、やっと本国ロシアで回復されたと書かれている。
 この本でアメリカ史の権威ニコライ・ボルホヴィチーノフ博士が、「レザーノフの日本での外交活動に関して、国益より私益を優先させたというクルーゼンシュテルンの批判には根拠がないと断定を下した」という。
 なによりものレザーノフへの供養であろう。
 今度は日本での彼の名誉を回復してあげる番だろう。
 長崎でレザーノフに接した日本人たちは、決して彼のことを悪くは言っていないのである。長崎滞在中のレザーノフについて証言する資料も、日の目を見るようになってきた。今月のスポットで紹介している長崎通詞たちの日記もそうした資料のひとつだ。
 レザーノフが司馬の呪縛から解かれるのもそんな遠い話ではないような気がする。
 中村先生のエッセイをクラスノヤールスクに住む日本人金倉孝子さんにお送りしたところ、先日メールが届き、これをロシア語に抄訳して、レザーノフの『コマンドール』を発刊したレザーノフ基金の人たちに見せたところ、大喜びしていたという。
 いまレザーノフ基金の人たちとレザーノフの新資料を共同で発表しようかというプランも進められている。レザーノフ研究も新しい段階に入ったようだ。


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