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文化二年長崎日露会談の裏舞台を見る
−通詞たちから見た日露交渉−

第一回 最初の日露会談

通詞たちが残した日記『魯西亜滞船中日記』
会談前夜−事前交渉のかけひき
会談当日−第一回日露会談

通詞たちが残した日記『魯西亜滞船中日記』

 レザーノフの『日本滞在日記』を訳しながら、一番興味深かったのは、奉行所とレザーノフの間に立って通訳していた、長崎通詞たちの行動である。
 レザーノフに煙たがられ、ことあるごとに激しくやりあっていた通詞たちが、日露交渉が決裂したあと、幕府の意向とは別に、再びレザーノフに来航をもとめ、具体的にそのための策を与え、最初は歯牙にもかけなかったレザーノフが、次第にこの意見に耳を傾ける過程は『滞在日記』の最大のよみどころといってもいい。
 通詞たちの真意はどこにあったのだろう。
 それにレザーノフが描きだした、本木庄左衛門、馬場為八郎といった通詞たちの人間像にもひかれた。単なる通訳では甘んじたくない、海外の学問を吸収し、それを生かしたいという熱気が伝わってきたのだ。
 レザーノフ来航事件のもうひとりの主人公は、長崎通詞たちであったといってもいい。
 通詞たちが残した資料がないか、ずっと気になっていたのだが、格好の資料が、長崎に残っていた。(参照 レザーノフの『滞日日記』を追う
 シーボルト記念館に、ロシアと交渉にあたった通詞たちが書き残した『魯西亜滞船中日記 中山控』が保存されていたのだ。
 文化元年九月六日ロシア船来航から、ほぼ毎日書かれたこの日誌は、ロシア側との交渉にあたった大通詞三名(石橋助左衛門、中山作三郎、名村多吉郎)、小通詞二名(馬場為八郎、本木庄左衛門)が交代で書いたものだと思われる。
 時に怒りや落胆ぶりをあらわに書き記したレザーノフの日記とちがって、感情を交えずに、出来事だけを淡々と記したこの日記を読み比ベることによって、いままで知られなかったことが、ずいぶんと明らかになった。
 なによりも日本とロシアが、初めて正式の交渉のテーブルについた会談の模様、さらにはその裏舞台がはっきりと見てとれたことの意義は大きい。
 『魯西亜滞船中日記 中山控』とレザーノフの『日本滞在日記』という、いわば当事者同士の日記を読み比ベることによって、この会談を立体的に捉え直してみたい。
 日露会談は三回にわたって行われたが、今回は第一回目の会談を中心にとりあげる。

 日露会談は、文化二年三月六日・七日・九日と三回、立山にあった長崎奉行所でおこなわれた。日本側からは、江戸からの特使である目付の遠山景晋、長崎奉行肥田豊後守、成瀬因幡守が代表として、ロシア側からはレザーノフ、フリードリッヒ、フォッセの三名が、この会談に臨んだ。
 会談は、いきなり緊迫した雰囲気につつまれるのだが、その前に両国のメンツをめぐって、駆け引きが演じられた会談前夜の場面から検証してみたい。

会談前夜−事前交渉のかけひき

 江戸から特使として派遣された目付遠山景晋ら一行が、長崎に到着したのは、文化二年二月三十日である。
 ロシア船来航の目的は、江戸で将軍と面会し、皇帝からの献上品と国書を渡したうえで、通商を求めることであった。これに対して幕府は、鎖国を盾に取り、すべてを拒絶するというのが最終結論であった。これを伝える下知状は、同年一月十九日に長崎奉行所に届いている。
 あとはこの決定をどうレザーノフに伝え、穏便に帰国してもらうか、これが、長崎奉行所、そして遠山の使命であったといっていい。
 遠山と奉行は、打合せのうえ、三月六日と七日に日露会談をもつことにした。
 通詞たちがこれを知らされるのは、三月四日のことだ。
 レザーノフ来航以来、通訳団の指揮をとっていた、大通詞の石橋助左衛門、中山作三郎、名村多吉郎の三人が、この日奉行所に呼びだされる。
 三人は、この日はじめて目付遠山とひきあわされた。豊後守より「去年の秋ロシア船来航以来、ロシア船を担当を申しつけた大通詞です」と紹介されたあと、遠山から「オランダ語と違い、通訳もむずかしいところもあったと思うが、よく務めてくれた。満足している」と慰労の言葉をかけられている。
 そして早速、会談の段取りについて打合せがはじまる。
 まずは形式的なことをひとつひとつ解決しなければならなかった。
 会談には、いろいろな手続きがある、この中には儀礼的なことも含まれている。どちらの国の形式で行うか、国と国との交渉の場合、重要な意味をもつ。
 この時のやりとりが、通詞日記に書かれている。

使節の座席について、腰掛けはどうする いらない
帯剣について 玄関前で外してもらう
槍持ちや、太鼓隊、旗持ち 認めない
入り口はどこを使うか 御大門をつかう
書簡箱を持ってくるかどうか 持って来なくてもいい
昼食の件 必要ないだろう
漂流民を連れてくるか 連れて来なくてもよい
奉行所までの道中の手段 船ならび徒歩
付き添い末席に同席すること いいであろう

 おそらく通詞側から提出されたメモをもとに、打ち合わせた結果を書いたものであろう。
 ついで奉行から、会談の内容について報告を受ける。

 1日目 豊後守からまず、来航の趣意を尋ねる。
 使節の答えが、国書にある内容と同じであれば、因幡守から、長崎に来てもいいが書簡類は決して持参しないよう松前で申し渡したのにも関わらず、今回どうして持参したのかを尋ねる。ロシア人の答えを聞いたあと、ロシア人退座。
 2日目 御教諭之書付を豊後守が読み、通詞が訳して、ロシア人に渡す。奉行申諭之書付を因幡守が読み、通詞が訳し、ロシア人に渡す。このあと目付が、綿二千把を与えることを申し渡す。さらにこのあと豊後守が、船中薪水料として米と塩を進呈することを申し渡し、そのあと来る15日に出帆できるかを聞く。
 今後ロシアを漂流したものは、オランダ人に渡すように申しつける。

 これが、遠山たちが描いていた会談の進行プランであった。
 幕府側の戦略は明らかである。
 一日目はとりあえず顔合わせ、しかしその時に、ラックスマンが根室に十二年前に来たときに、確かに長崎の入港を認める許可書「信牌」を渡したが、国書類は持ってくるなと言っておいたはずだと、まず気勢を制し、二日目に幕府からの通達を渡し、長崎からすみやかに出ていってもらう。ただお土産として、帰りの航海で必要なものを提供することでロシア側のメンツを保つ。要は、機嫌を損ねないようにお引き取り願いたいということであった。
 しかし実際、会談は日本側が思っていたほど、簡単にいかなかった。当初は二日間の予定だった会談は、一日増えて、三日間になっている。
 半年待たされていたレザーノフはロシアの名誉を賭け、必死だったのだ。

 通詞たちは、ここでの話し合いをもとに、翌日ロシア人たちの宿舎梅ケ崎に赴き、レザーノフと話し合う。
 レザーノフはこの日通詞たちとの激しいやりとりをかなり詳しく書いている。それによると礼のしかた、立ったままするのか、座ってするのか、そして畳に、椅子を使わず、どうやって座るか、実技指導まで受けたことになっている。
 レザーノフは交渉の場で、ロシアが大国であることをひけらかさず、あくまでも日本とロシアは対等であることを前提にしようとしていた。だからすべてにわたって日本人の儀礼に準じなくてはいけないと言われたことに反発していたのだ。
 これは『日本滞在日記』を読んでいただきたいのだが、レザーノフの主張は、大国の威光をかさにきて、言っているものではない。あくまでも対等であるためには、どうあるべきかを主張しているに過ぎない。
 注目すべきは、レザーノフに会談の段取りを説明するなかで、前日の奉行所での打合せでは、梅ケ崎から船に乗り大波戸に上陸したあとは、徒歩で奉行所まで行くことなっていたのを、駕籠を用意すると、通詞たちがすすんで申し出ていることである。
 レザーノフとの打ち合わせのあと、奉行所に戻った通詞たちは「使節は脚を痛めているので、駕籠を大波戸から奉行所まで出してもらいたい」とレザーノフが要求しているように説明し、了承されている。
 通詞たちには、ロシアは大国であり、失礼のないようにしなくてはという判断があったのではないだろうか。

 レザーノフは、通詞たちが提案してきた段取りについて、随員の数、つまり旗持ちと沓持ち2人と付き添い5名、合計8人で奉行所を訪ねたいこと、この中にふくまれる武官の帯刀を認めるよう再検討を迫った。
 このあと奉行所に戻った通詞たちは、奉行にこれを説明、いずれも了承されている。そしてこの夜、結果をレザーノフに報告していた。

会談当日−第一回日露会談

 文化二年3月6日朝7時、奉行所から検使として松崎伊助と、山田吉左衛門のふたりが、小通詞の本木庄左衛門と馬場為八郎を伴い、梅ケ崎のロシア人宿舎に到着した。
 検使の案内でロシア使節レザーノフは、日露会談の場となる立山奉行所へ出発する。
 旗持ちを先頭にレザーノフ、副官5名、沓持ち1名が、宿舎前に準備された御用船に乗り込んだ。一行はこのあと佐賀藩が用意した龍王丸に乗り移り、大波戸へ向かう。船が出島にさしかかったとき、オランダ人たちが、ベランダに出てきて、レザーノフ一行に挨拶した。
 大波戸に着いたレザーノフには、駕籠が用意されていた。ここから一行は、西役所前を通り、外浦町、大村町、本博多町、本興善町、豊後町、桜町、勝山町を経て、立山奉行所へ向う。
 肥前藩足軽3名を先頭に、旗持ち、レザーノフを乗せた駕籠、副官5名、沓持ちと列をつくり、その後ろを馬に乗った竹野金兵衛、さらには長持、打持、鑓を持った兵らが続いた。そしてこの列を挟むように両脇に、足軽や小通詞ら25名が付き添った。
 レザーノフはこの時の模様を『日本滞在日記』の中で次のように書いている。

 「町中のすべての窓は藁の日除け(簾)で閉ざされ、通りには人ひとりいなかった。十字路は板で塞がれたり、幟が垂れ下げられていた。私が来るということで、すべての通りがふさがれていたのだ。深い沈黙」

 レザーノフは、立山奉行所の下用部屋敷前で駕籠からおり、御門から入り、階段を上り玄関に到着する。ここで三人の大通詞石橋助左衛門、中山作三郎、名村多吉郎の出迎えを受けた。旗持ちと沓持ちは、この場所で待機する。
 レザーノフら一行は、控室まで案内された。まもなく奥から池田正兵衛が現れ「御目通りしていただきます」と会見の場へ行くよう促す。
 この池田は、レザーノフ来航以来、奉行の意を通詞たちに伝える連絡係を務めていた人物である。
 レザーノフは、昨日の打合せ通り、ここで剣を外し、従者に渡した。会見の場へは、まず中山が案内役として先頭を歩き、そのあと副官二名をしたがえたレザーノフが続き、レザーノフの横には石橋が、そして後ろには名村が付き添った。
 会見の場に着くと、レザーノフは通詞たちにうながされ、立ったまま礼をする。敷居の向こうには、レザーノフに向かって左手から、目付遠山景晋、長崎奉行肥田豊後守、成瀬因幡守が並んで座っていた。レザーノフの両脇には、大通詞の三人が控え、副官のふたりはレザーノフの後ろに座った。
 会見の場に同行した小通詞5名と通詞目付三島五郎助が隣の控えの間に陣取っていた。
 畳二枚分を間にして、面と向かうレザーノフと、遠山らの両脇には、遠山と共に江戸から来た御徒目付や、御勘定役、さらには長崎奉行所の家老や代官など九名が並んで座っていた。この中には、昨年秋に江戸から勘定役として長崎に赴任していた、狂歌師大田蜀山人こと大田南畝もいた。
 江戸から来た特使と奉行の三名だけと会談すると思っていたレザーノフは、これだけたくさんの役人たちがこの場にいること、さらにこの中に長刀を持っている侍もいたことに不信の念を抱く。彼は日記の中で「前に同意をみたように、部屋の中には私たちだけがいるのではなく、たくさんの役人たちがおり、さらにサーベルは持ち込まないというのも、すべてまやかしではないか、私も、部下たちもサーベルを持ってこの部屋に入ることができたのではないかと通訳たちに文句を言った」と書き留めている。
 豊後守がまず「去年の秋以来無事で罷りあることはなによりである」と挨拶を述べた。これを石橋が通訳した。レザーノフの日記には「日本の習慣により、私の滞在中にここで随分と退屈させてしまったことを深く遺憾に思っている」と豊後守が言ったことになっている。これに対してレザーノフは「本当です、私の人生でここで味わうことになった、このような退屈は初めての体験です。しかしご奉行たちからはずいぶんと御世話になり、こうしてあなたがたと今日お会いできて大変嬉しく思います」(日記より大意)と答えた。通詞たちの日記では、この部分は「滞船中、日用品、その他船の修理のため必要な用品をそろえていただき、大変感謝している」と答えたことになっている。
 豊後守が今回の来航の目的についてはすでに承知しているのだが、今日は直に話を聞きたいので、その次第を詳しくいっていただきたいと述べた。二日前の打合せ通りである。
 これに対してレザーノフは、次のように答えている。(通詞日記による大意、レザーノフの日記にはここで彼が何を言ったかについては書かれておらず、ただ来航の意図を説明したとだけある)

 「先年欧州では戦争があったが、いまはそれもおわり、国々は平和になっている。ロシアと信を結んでいる国は数多くあるが、いままでは日本とは交流がなかった。ただ先年ロシアに漂流してきた日本人がいて、その者らを13年前に松前で引き渡したときに、手厚くお取扱いただき、特に次に来日するときは長崎に来るようにと信牌を頂戴した。そこで今回は日本と信義を結び、また交易をすることを願い出た国書と献上品をもって、江戸に行き、そこで献貢拝礼すべく来日した。
 また今回は漂流民4名を連れてきているが、今後ロシアへ来た漂流民を日本のどこの津へ連れてきたらいいのかもご指示いただきたい。詳細は江戸に送った国書に書いてあるとおりだ」

 今度は因幡守が、「長崎へ来る許可書は渡したが、ラックスマン(松前に大黒屋光太夫を連れてきたロシア人)には、決して国書などは持って来ないように言渡したはずなのに、なぜ今回国書を持ってきたのか」と尋ねる。ここまでも打合せ通りである。
 しかし打合せになかったことが、これから起きるのである。
 レザーノフが、これに対して猛烈に反発してきたのだ。
 彼は「これがなにを意味するのか、私には理解できません。このような失礼な対応に驚いている」と激烈な調子で反論した(レザーノフの日記より)。
 これを石橋は「ラックスマンと申すもの、国王に報告しなかったのか、その時の御教諭の意味を分からなかったのか、私たちはこのことは初めて聞くことであった」と訳す。(通詞日記より大意)
 レザーノフの日記では、このあと豊後守が「使節は日本式の会見にお疲れでしょうから、ひとまず今日はここで打切りにして、また明日会見ということにしましょう」と言ったとある(通詞日記でもほぼ同じことが書かれてある)。レザーノフの返答を聞いて、とりあえず今日の会談は、終わりというのは、奉行所での打合せ通りであったが、両者にとって後味が悪いものになったことは、計算違いだったろう。
 日本とロシア両者の見解の相違が、明らかになった。
 レザーノフは日記にこう書いている。
 「その時、不愉快なことが始まったと確信した。何故ならば彼らは喧嘩を始める口実を探しているからだった」
 日本側もレザーノフが怒りをあらわにしたことに、あわてふためいていた。それは通詞たちが書いた日記の中で読み取れる。
 レザーノフたちは、この会見のあと、控室にもどり、お茶をふるまわれたあと、宿舎に戻った。
 大通詞三人と、通詞目付は、このまま奉行所に残るように言われた。そして両奉行と遠山の三人で今日の会談を踏まえて、明日どう対応すべきか、話し合いが行われている。
 このやりとりについては、通詞日記が詳しい。以下通詞日記に書いてある内容を、簡単にまとめてみたい。
 まず豊後守より、慰労の言葉があり、今日使節が言っていた来訪の目的を書面にしてもらたいという。ついで因幡守からは、松前で国書類は持参しないようにと申し渡したことが、国王には伝わっていなかったようだ、レザーノフは今日このことを初めて知ったようだ、これも書面にしてもらいたいという要請が出された。
 レザーノフが国書を持参するなと松前で言渡したことを知らなかった、つまりは国王も知らなかったということに、日本側は動揺していた。
 明日は江戸から今回のロシア来航に関しての幕府の最終結論である御教諭を言い渡すことになる。そこには、今後一切来航するなという項目がある、ただこれを一方的に通達するだけでいいのか、今日のレザーノフの怒りを見ると、ことはそう簡単なことではない、そんな認識があったと思われる。
 豊後守は、通詞たちにこんなことを言っていた。

 「明日は江戸からの御諭之趣を申し渡すことになる、これは長文でまた意味深き文意になっている。この時ロシア人への心遣いもすべきであろう。御教諭の中には『其事再ひに及んで深く我国に望むところあるも又切なるをしれり』とあるが、この切なりという言葉に込められている意味は深い。我国を慕い、遠海危難の波濤人命をもいとわず、再びやって来た気持ちを理解していないと聞こえるかもしれないが、この切なりという言葉に、そのことを言い含めているのだ。薪水料を与えるというところでも、酒食その他船中必要な品々を含むというように訳してもらいたい。
 今回の通訳の仕事は、通詞始まって以来の大事なものとなるだろう。
 自分たち御用のものは、通訳できないので、これをどう伝えていいかわからない、あとはあなたがた通詞たちが、この教諭の意味をよく理解し、訳してもらうしかない。
 とにかく速やかに帰帆するように通訳してほしい」

 この最後の言葉、早く日本から出立してもらいたい、これが幕府、長崎奉行所の共通見解、本音であった。
 幕府の特使遠山もこう言っている。

 「再願あっても、決して認められることはない。だから御教諭の趣をよく踏まえたうえで、『穏に帰帆いたし候通弁いたしたく候』」

 最後に豊後守は、江戸からのご教諭書と奉行からの申渡書の二通をよく熟読したうえ、どう伝えるかも考慮して、明日出向いてもらいたいと、言い残したのちこの場を去る。
 幕府、そして長崎奉行所にとっては、この会談のあと日露関係の今後がどうなるか、そんなことよりも、とにかくロシア船に早く出ていってもらいたい、それがいま一番肝要なことであった。そのことを言い含めるように通訳してほしい、あとは君たちの責任だ、そんな風に読み取れないだろうか。
 つまり日本にとって、大事なことはロシア船に一刻も早く出ていってもらうこと、それだけだった、そしてその責任は通詞たちに背負うことになったともいえる。
 奉行所で打合せが行われていた時、レザーノフのもとを馬場、本木が訪ねている。明日の会談にはもう出席しないと言い張るレザーノフに対して、ふたりは懸命の説得を続けていた。
 日露が最初に同じテーブルにつき、交渉をした、記念すべき最初の日露会談の第一回目は、こうして終わった。
 第二ラウンドとなる第二回日露会談では、両国の思惑がぶつかりあい、さらに激しく火花が飛び散ることになる。
 そしてこの交渉の舵取りをする、いやさせられたのが、長崎通詞たちだったのだ。
 日露交渉第二ラウンドは、嵐の中で行われた。


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