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はじめに

 私の生まれ故郷は宮城県石巻市、かつては遠洋漁業の基地として賑わっていた港町です。私の父親はクジラ捕りとして南氷洋になんども出かけましたし、親戚の多くは船乗りや漁業に携わっていました。いまからおよそ200年前この石巻から、江戸に向けて出帆した若宮丸の乗組員たちが、嵐に巻き込まれ、遭難、アリューシャン列島の小島に漂着し、このあと数奇な運命をたどり、16名の乗組員のうち4人が、故郷に帰ってきたという話を初めて知った時は、正直ショックでした。ロシアへ漂流した日本人の話としては、井上靖の小説『おろしあ国酔夢譚』の伊勢の大黒屋光太夫が、よく知られていますが、我が故郷石巻からもロシアに漂流した人たちがいたことは、その時まで全く知りませんでした。いろいろ調べているうちに、興味深いことが次々にわかっていきます。
 まずこの漂流民のうちのひとりが、和露辞典をつくるのに協力していたこと。
 さらにこの善六という男の曾孫が、ロシア革命直後領事として、函館に来ていること。
 イルクーツクには、ここで亡くなった漂流民たちの墓を、明治時代にこの地を旅した日本人が発見していること。
 『おろしあ国酔夢譚』と大黒屋光太夫をめぐる話は、椎名誠がレポーターとなり、大型ドキュメンタリー番組になってますし、緒形拳主演で映画にもなり、日本でも多くの人に知られるようになりましたが、善六と若宮丸漂流民の話は、まったくというほど知られていません。しかし私には、ここにはいろいろとんでもないドラマが秘められているような気がしてなりません。
 『魯西亜から来た日本人−漂流民善六物語』という本を書いたのですが、この漂流民をめぐる話は、これで終わっているわけでなく、あくまでもこれは壮大な物語の序論だと思いはじめています。この漂流民コーナーでは、いままで調べてきたことを随時公開していきながら、善六と若宮丸漂流民のテーマを掘り下げていきたいと思います。

若宮丸漂流民は世界を一周した最初の日本人だった

 いまから二百年前の1793年11月、乗組員16名を乗せた若宮丸は、米と材木を積んで、江戸に向けて宮城県石巻港を出帆した。途中嵐に遭った若宮丸は、五ヵ月間北太平洋を漂流したあと、アリューシャン列島の無人島にたどり着く。こののち幸運にも、ロシア人の庇護を受けた若宮丸漂流民たちは、オホーツク、ヤクーツクを経て、1796年イルクーツクに移送され、そして一行のうち4人は、漂流してから約11年を経て1804年日本に帰還することができた。日本への帰国の旅は、バルト海のクロンシュタット港を出発点に、ヨーロッパ、アフリカ、オセアニア、アメリカを巡航する世界一周の旅でもあった。帰国したこの4人は、日本で初めて世界一周をしたことになる。日本に戻った4人は、仙台藩医大槻玄沢の審問を受け、この世にも稀な世界一周の旅は、「環海異聞」という書物にまとめられることになる。

レザーノフの辞書づくりに善六が協力

 一八○四年八月長崎に向かう途中立ち寄ったカムチャッカから、遣日使節レザーノフはこの二冊の原稿を、ロシア科学アカデミー総裁ニコライ・ノシリツォフに宛てて送った。ノシリツォフはアカデミー図書館に原稿を引き渡す際に、次のような手紙を添えた。
 「日本探検隊を指揮する正侍従長レザーノフは、一八○四年八月二十日、カムチャッカから自著の露日辞典と日本語入門書を送付し、その二著を皇帝陛下に献上した。彼はこの二著の出版が、イルクーツクの日本語学校にとってきわめて有効であると説いている。」 
 しかし若宮丸漂流民を連れて日本にやって来たレザーノフが編纂した『ロシア語アルファベットによる露日辞典』、『日本語知識のための文法書』と題されたこの二冊の書は、一度も活字になることなく、一九○年あまり書庫に眠ったままになる。
 一九九四年六月、私はこの辞典を科学アカデミーサンクトペテルブルグ支部東洋学研究所で発見、このマイクロフィルムを日本に持ち帰ることができた。辞典をよく読んでいくと、これが若宮丸乗組員の協力のもとで初めてできたものであることが判明する。おそらくこの辞典は、ナジェジダ号に4人の漂流民と共に通訳として乗船し、長崎に行く途中カムチャッカのペテロパブロフスクで下船した善六と、レザーノフの合作でつくられたものであろう。いまこの辞典を本にすべく準備中なので、いずれこの中でも紹介していく予定。

レザーノフの滞日日記も一九〇年ぶりに刊行される

 文化元年(1802年)秋長崎に来航、日本に通商を求めたニコライ・レザーノフは、半年間半ば幽閉状態のまま、何の成果もあげられず、漂流民を引き渡したあと、カムチャッカに戻る。この彼が、長崎滞在中に毎日書いていた日記が、一九九四年初めてロシアで刊行された。彼の辞典と同様、書庫に眠っていたこの日記が公開されることにより、日露会談の真相が初めて明らかにされることになった。
 またこの日記に、レザーノフと交渉の窓口となった長崎通詞たちの人間性が浮き彫りにされているのも、興味深い。これについては漂流民とはまた別なテーマとしてとりあげる必要性を感じている。

 この日記ができた背景、読みどころをまとめたエッセイをナウカ書店発行の季刊誌『窓』に書いているので、興味のある方は、ここを見て下さい。

善六の曾孫がソ連領事として函館に赴任していた

 昭和三年七月一二日ロシア人ドミトリー・キセリョフが、領事として赴任するため函館に向かった。キセリョフは函館へ向かう前、東京日日新聞社の記者のインタビューに答えて、自分の先祖が百年あまり前にロシアに渡った日本人であったという、興味深い事実を明らかにしている。これは東京日日新聞に、「百余年ぶりに奇しき帰郷−文化年間にロシアへ定住した邦人の曾孫が領事で来朝」と大きく報道された。
 この記事によると、キセリョフ領事の曾祖父は、日本に捕らえられ函館に拘禁されたロシア船の艦長ゴロウニンの通訳をしていたが、その後ペテルブルグに連れられ、当時大きな権勢を誇っていたキセリョフ伯爵の目にとまり、彼の名をもらい、キリスト教の洗礼を受け、ロシアに帰化した。その後ロシア人と結婚し、一家をあげてシベリアに赴き、蒙古の国境トロイツコサウスク市に定住したという。そして記事の最後にはキセリョフ領事のコメントも載せられている。

「私の先祖が函館の人であるということは、小さい時から聞かされ、お伽の国日本に行って、函館を訪れたいものと始終思っていました。(中略)曾祖父の日本名がなんといったか私たちは全く知りませんが函館の生まれであることだけはわかっています。血統は争えないもので医者をしている私の従兄と従妹二人は日本人ソックリの顔です。幸い私は函館へ行ったら当時の歴史を調べて是非自分の先祖のことやまた今残っている親戚の人々も探し出し会って見たいと思っています」

 文化九年(一八一一年)ディアナ号の艦長ゴロウニンは、南千島海域を測量中に、国後島で幕吏に捕らわれ、函館から松前に送られた。南千島地域で相次いで起こったロシア人による日本人襲撃に対する、幕府の報復行為であった。ディアナ号の副艦長リコルドはゴロウニンを助け出すため、一八一二年八月国後島にちょうど入港してきた日本船をだ捕、乗っていた高田屋嘉平衛を捕虜とする。通商を求めるロシア、鎖国を楯に頑としてそれを拒む幕府との関係は、ここでいっきょに緊迫した局面を迎える。捕虜交換という手段で和平の道を探るため、一八一二年九月函館で、リコルドと幕府の間で交換交渉が行われた。リコルドと共にこの大事な交渉の場でロシア側の通訳として出席したのは、キセリョフ善六という日本人であった。彼こそがドミトリー・キセリョフの曾祖父にあたる人である。


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