クマのお仕事日誌
2001年2月分


2001年2月1日(木)

あまりよく寝れない。7時ぐらいに起きて、シャワーを浴びる。
日本から持ってきたインスタントラーメンを食べる。
中山日記を読む。荷物の整理。
9時半すぎに、レストランへ。コーヒーだけ飲む。フロントでチェックアウトを12時頃にしてもらう。電話代の精算。空港は機能しているかどうかフロントのお姉さんに聞くと、今朝電話したところでは大丈夫だという。
三々五々皆が荷物も持って私の部屋に集まる。最終的にユネッサンに呼ぶ芸人と、期間を整理する。
10時すぎにクリューコフ来訪。メンバーと期間を確認するほか、衣装、音楽、契約内容について再度確認。
契約についてはあくまでもクリューコフとして、クリューコフがサーカス学校と契約をしてもらうことにする。
これが一番無難な方法だと思う。
12時チェックアウト。日本大使館に勤める旦那に荷物を届けて欲しいと、奥さんのマリーナが黒パンやら、魚の燻製やらいろいろ持ってくる。
予想はしていたが、また帰りも担ぎ屋をやらされることにいささかうんざり。でも断わるわけにいかない。
田中、野崎、西田はタクシーで一足先に空港に向かう。
私はクリューコフの車で、自宅近くでナージャを拾う。
ナージャはわざわざ私のためベルチンスキイのCDを買うために、あちこち奔走していたのだ。
ナージャからみんなへのお土産を預かる。今日はお母さんの見舞いのため、空港まで行けないという。
ナージャたちは、昨日アンドレイとリューダ夫妻と朝まで飲んでいたという。
今日は、今回のわれわれのためにいろいろ宴席を用意してくれた人たちに集まってもらい、打ち上げをやると言っていた。ナージャとお別れ。
心配していたより道路はすいており、13時半すぎに空港に到着。
田中さんたちを迎えに行ったあの霧の夜のことが思い出される。こんな広々とした道を走っていたのか、あの時はとにかく視野はほんのわずかだったのに。
田中さんたちのチェックイン。しかし税関で一悶着。田中さんも野崎さんも所持金が結構あって、しかもリボフに到着してたときに、税関の申告をしなかったため、トラブルに。
要は、1000ドル以上の外貨を持ち出すときには、許可がいり、入国の時に申告しておれば、それでよかったのだが、それもしていないため1000ドル以上は持ち出せないという。
結局は、1000ドル以上の金を我々がとりあえず預かることに。この間およそ1時間弱。ギリギリでのチェックインとなった。
見送りしたあと、クリューコフ、西田と打ち合わせ。
15時すぎにチェックイン。金を見せろとはいわれたが、問題なく通関。クリューコフとお別れ。
バーでビールを飲んで、少しほっとする。
30分ほど遅れて、18時ぐらいに離陸。
モスクワ時間20時半にシェルメチボ1空港に到着。ターンテーブルのところにプロコエアーの係員が来ていた。ノボホテルまで案内してくれるつもりだったらしい。税関は、1000ドル未満だったら、フリーだという。あっさり通関、2年前のことを考えたら、ちょっと拍子抜け。
新井が出迎え。新井の車でノボテルまで。チェックインしたあと、ホテルで食事。
パスタバイキングと、ビールで軽い食事。
明日11時に迎えにきてもらうことにする。
部屋に戻り、少しバーボンを飲んで、12時前に就寝。

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2001年2月2日(金)

今日は良く寝れた。9時ぐらいに起床。バスタブにお湯を入れて、入浴。やはりシャワーだけよりはこっちがいい。
部屋の電気がつかない。おおもとの電源が切れているようだ。
持参してきた中山日記の読む。レザーノフが帰国するところまで読んで、荷物の整理。
新井から電話、モスクワは昨日から雪が降り、道路も混んでいるので、迎えの車が少し遅れるということだった。
11時すぎにチェックアウト、荷物をクロークに預ける。外は雪、キエフの雪は牡丹雪だったが、モスクワの雪は、目が細かい。
なんとなく雪を見ているとほっとしてくる。
11時30分車が到着、道路は混んでいる。市内に入るまで1時間かかったと思うが、ずっと寝ていた。
新井の会社に寄り、それからモスクワ川に面した5つ星のホテルの二階にある将軍という日本レストランで食事。
刺身、天ぷら、カツカレーに、松茸の土瓶蒸しがつく。それにキリンビールの生。もうすっかり日本ムード。
新井は今度モスクワソニーの社長に就任するとのこと。たいした出世だ。15年前は一緒にサーカスのクマや犬の面倒を見ていたのだ。昔話にはなが咲く。
近くのトレチャコフ美術館へ。ここは一度も入ったことがない。
プーシキン美術館は、近代から現代のヨーロッパ絵画を中心にしたコレクションだが、ここはばりばりのロシア絵画、しかも土の臭い、草の臭い、ウォッカの臭いが漂う、19世紀の写実派、移動派と呼ばれた画家のコレクションが中心。
写実主義なんてと最初は馬鹿にしてみていたが、ド写実の迫力にだんだん引き込まれていく。
特にレーピンのコーナーには圧倒された。イワンの子殺しや、アレクサンドル3世の絵などは、絵に描かれた人間が、カンバスから飛び出てくるような妙なリアル感があった。
1時間ほどの駆け足見学だったが、面白い体験だった。
ミュージアムショップで、ロシア・アヴァンギャルドのビデオを購入する。
4時新井と別れて、ホテルに戻る。あいかわらず、雪が降りしきり、道路はすごい混みよう。またずっと寝ていた。
1時間半かかって5時半すぎにホテルに到着、荷物をピックアップして、空港へ向かう。
すでにチェックインは始まっていた。通関で所持金の検査があったが、問題なく通過、ただ預けた荷物は、エクセス以内だったのに、手荷物まで測られ、5キロオーバーと言われ、68ドルエクセスを払わされたのにムットする。
これは奥さんから大使館のシャリーパに渡すように言われた荷物の重さに相当する。
免税店でちょっと買い物、飛行機は1時間ほど遅れて離陸。機内はほぼ満員。西田はほとんど食事以外は寝ていた。
3時間ぐらいは寝たと思う。キエフを発つときから読みはじめた『略奪』を読む。
ただ途中ビデオの上映中、機内の電気が消え、読書灯がつかないので、スチューワデスに言ったら、席を変えろと言われ、そこに移って、しばらくしたら、今度はま電気が切れてしまう。
今日の朝から電気とは縁がないと諦め、またしばらく寝ることに。
1時間半遅れて、3日午後0時20分成田空港に着陸。
青空がまぶしい。思えば、25日旅立ってから、キエフでも、モスクワでも、青空を見たことがなかった。
成田エクスプレスで横浜に向かう中で、『略奪』を読了。なかなか面白かった。
午後3時無事に自宅に帰還。

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2001年2月5日(月)

10時すぎ打ち合わせ。留守中の報告を聞く。
13時planBで、2月のプラコメ5daysの打ち合わせ。月一回やっていたものを、5日間連続でやることになった、というかしてしまった。
別に深く考えてやったわけではないのだが、ちょうど新旧交代の時期にあたり、いろいろな意味で、重要な意義をもつことになった。
メンバーの調整をしたあと、意見交換。
古くから来ているメンバーにすれば、最近入ってきたメンバーたちに対しての不満が溜まっているようなので、それを吐き出してもらいたかったし、最近入ったメンバーには、どんなつもりでここに来ているのかも知りたかった。
基本的には平行線、というか交わらない意見。
お互い意見をいい放し、反論するわけでもない。リーダー不在ということかもしれない。
5日間続けてやるなかで、またいろんなことが見えてくるような気がする。
とりあえず、公演が終わったあとまたミーティングの場を設けることにする。
打ち合わせ終了後小出君と、『挑発』の精算。本人にとってもいろいろ勉強することの多かった公演だったようだ。
4時半帰社。
クリューコフに電話。いつもかけている0071でなかなか通じなかったが、001でかけてやっと話せる。
査証入手のための書類をいま準備しているところ、なんとか明日には送れるのではないかと言っていた。
ちょっと安心。
8時すぎに退社。

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2001年2月6日(火)

クリューコフからのファックス、予定していたひとりのパスポートがないので、メンバーをチェンジしたいという。7月から来るアーティストと交換できないかということだが、これについてはあまり問題はないだろう。
田中さんに確認の電話、了解をもらう。
カザフの契約書についての詰め。
午後大道芸人のしゅうちょうとチイが子連れで来社。会社にあるパフォーマーのビデオを観覧。
夕方クリューコフに電話、アーティストの交換を了承した旨を伝える。とにかくあまり時間がない。
今日はサーカス文化の会。ゲストは山本光洋氏。めずらしくたくさんの人が集まった。
何故パントマイムを始めたのか、から話ははじまり、アメリカでの3年弱の生活までを一通り語ったもらい、あとは参加者からの質問を受けて答えるという形式だったが、これが実に面白い話になった。
特にマイムとダンスの比較論については、白熱した討論になった。
石井達朗氏、西田氏、光洋ちゃんと四人で近くの居酒屋で、この話の続きをする。
5月と7月にソロ公演をする光洋ちゃんは、ここでモノをつかうことをひとつのテーマにして作品をつくっていくという。クラウンへのひとつの挑戦になるような気がする。

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2001年2月7日(水)

クリューコフからファックス。結局昨日メンバーを差し替えたのに、交代したメンバーが6月までナイトクラブで契約していたので、別のメンバーに替えてもらいたいという。
嘘だろう。しかもクリューコフが言っている交代のメンバーは、オーデションでこちらが選択していない連中。
時間がないのに、いまさらという感じ。
昼過ぎ田中さんと連絡がとれ、この件を報告。ちょっとムッとしている。当たり前だ。
クリューコフがきちんと演出するという条件で、オリガというデビルスティックのサーカス学校の卒業生を、招聘することに決定。
また同じようなことがおきてはさまにならないので、とにかくクリューコフに確認したあと、明朝連絡をとりあうことにする。
プラコメ2月の5days公演のDM資料を作成。
カザフの空中アクロバットのメンバーから電話。3年前リトルに出演したメンバーで、去年アルマトゥイで会った男だ。
空中アクロバット以外に、新しい番組をつくったので、そのビデオを送ったが、見たかということだったが、まだもらっていない。
もらって見たら連絡することにする。
夕方クリューコフに連絡。確認した上明日ファックスをもらうことにした。

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2001年2月8日(木)

クリューコフからFAX、オリガで最終決定。3人のパスポートコピー、芸歴書が送られてきた。
これで査証の手配を進めることができる。
田中さんに最終決定の連絡をする。今年一年のユネッサンに出演するアーティストのリストを作成して欲しいと言われる。
大野からメール。今日のふぐは行けないという。また次の機会ということに。
木村さんに電話、今日は暇だというので、ふぐのお誘い。これで昨日予約を入れた3人がそろったことに。
3時に村本氏来訪。昨年『シベリア漂流』を読んで、いろいろ教えてもらいことがあると言って会社を訪ねてきた。
前回もそうだが、今回も訪問意図がよくわからない。広島の紅葉饅頭と、地酒をもらう。
村本氏が帰ったあと、何故か話題が、7〜8年前に来日したアルメニア人の芸人、スーレンの話題に。
大野が写真を取り出し、スーレンの思い出話でおおいに盛りあがる。
いろいろな芸人と付き合ってきたけど、スーレンは破格の変な人だった。
6時会社を出て、東横線桜木町駅で、木村さんと落ち合い、野毛の一千代に。
今日からふぐ半額セール。店にはすでに福田さんと森さんがいた。
木村さん、辻君とこちらは三人。フグ刺し、フグチリ、おじやとふぐ三昧。ついでにヒレ酒を飲む。
こちらのテーブルはロシアの話題で盛りあがる。
一千代を出て、万里放題亭で今度は紹興酒と、餃子。よく食べた一日だった。
12時すぎに帰宅。

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2001年2月9日(金)

ちょっと二日酔い。
会社に行く前に、銀座の床屋で散髪。銀座の本屋と山野楽器店をちょっとのぞく。収穫なし。
クリューコフからFAX。ユネッサンに出演する芸人のリスト。パスポートの写真は、DHLの送り、13日には会社の着くとのこと。
来週の金曜日には入管に申請ができそうだ。
ということは、必要な書類をそれまでに用意しなくてはならない。
二日酔いで頭が痛いのだが、まずはロシア語で契約書つくり。
2時頃、東村に行っていた西田が帰社。サーカス学校のため地元住民との話し合いをこのところずっと行っているのだが、
なかなか理解が得られないようで、ちょっとお疲れのよう。
地元の了解を得ても、今度は運営資金をつくることが待っている。
まだまだ道は遠い。
契約書は全部できなかったが、7時には会社を出る。考えてみれば、今日から三連休。
パソコンを持って帰る。
帰り電車の中で、山口猛『哀愁の満州映画』を読み終える。
なかなか得るところの多かった本だ。

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2001年2月13日(火)

終日ロシア語の契約書つくり。ロシア語はワードでつくるしかないのだが、これが曲者。
途中何度もフリーズして、そのたびに文章が消えてしまう。どうもコピーアンドペーストが嫌いなようだ。
ワードは嫌いだ。
やっと夕方に完成し、キエフにFAX。しかしこれも曲者。7枚送付しなければならないのに、一枚ずつしか流れない。
とりあえずナージャに言って、FAXのスイッチをオン状態にしてもらう。
しかし3枚から全然いかなくなったので、電話すると紙がなくなったという。
やになってしまう。
結局8時ぐらいまで会社に残り、やっと送付完了。
FAXを送るだけで、なんでこんなに労力をつかわなくてはならないのか。
ただこの国と付き合うときはしようがないのである。
現実をありのままに受け入れるしかない。

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2001年2月14日(水)

査証の申請のための書類つくり。
芸歴書、契約書の邦文をつくり、吉本との契約書をつくる。
書類の中で、ユネッサンに関して記入する欄があり、確認のためユネッサンに電話。
野崎さんがいつになく元気ない。先週の連休の時に、客が押し寄せ、二千人ぐらいを帰してしまったという。
野崎さんは苦情係を担当していたらしい。
それだけ好評だということだろうが、二千人もあふれるとなると、実際の現場は大混乱になったのだろう。
午後2時頃に、ほぼ作業が完了。
今度は来週に迫ったプラコメのチラシを送る作業。
夕方またキエフに書類をFAX。息子のボーバしかいない。今度は一枚ずつでもいかない。
送付を諦め、8時すぎに帰社。
夜自宅から電話してみる。今度はクリューコフがいた。
FAXは順調に流れる。もしかしたらアナログ同士で、機械の馬が合っているのかもしれない。

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2001年2月15日(木)

査証の申請のための書類つくり。
今日は大阪。昨日ネットで新横からの新幹線指定席を予約していた。
しかし新横の大きな窓口ではビューカードが使えないというではないか。篠原口まで行かされる。しかもここは窓口ひとつ。あまり時間がないので焦ったが、なんとか間に合う。
車中、マクベイン87分署シリーズの最新作『ラストワルツ』を半分ぐらい読む。
新大阪に着いて、会社に電話。昨日クリューコフが招待状のオリジナルが必要だと言っていたので、それをDHLで送ってもらうように手配。
読広の小野田氏に電話。13時に会社でということになる。
梅田の立ち食いそばできざみうどん。270円。さすが大阪は安い。
小野田氏と5月に予定しているBPズームの件で打ち合わせ。もうあまり時間がないので、公演の日程、予算を決めておきたかった。当初予定にあったワークショップは日程的に無理かと言われていたのだが、クザンの時も大好評だったし、ヘップでやる意義付けとしても、欠かせないのではと強調。
小野田氏もやる方向で考えてみたい、あとは他の日程との調整を来週あたまぐらいにやるということになった。
ナビオの古潭でラーメンを食べる。
15時吉本興業。田中さんと2時間ぐらい、北九州博覧祭とユネッサンの件で打ち合わせ。
3月からユネッサンに入れるアーティストの件で請負契約書にハンコをもらい、それを会社にFAX。これで入管の申請は明日できるはずだ。
新大阪からの18時の新幹線に乗る。
浜松を過ぎたあたりで『ラストダンス』を読み終える。前作の『ビック・バッド・シティー』といい、50作目になる今回の作品といい、なかなかいい出来だ。
携帯を見たら、会社から留守電。クリューコフから電話があったらしい。
21時半帰宅。
食事をしてから、クリューコフに電話。家にいない、ボーバがクリューコフの携帯に電話してみろと言うので、かけてみる。
通じた。査証申請の件で、日本大使館に行ったら、いろいろ必要なものを言われたので、それをFAXで送ったという。
クリューコフはちょうどタミラと稽古中とのこと。
携帯に日本から電話がつながり、喜んでいた。

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2001年2月16日(金)

クリューコフからのファックスを見ると、大使館に出す書類がえらい増えているのにちょっと驚く。
いままでは招待状だけでよかったのに。
午後大使館に電話。
いままでは、大使館に必要書類を提出したあと、外務省に書類がまわって、そこで連絡がきて、必要書類を提出するという段取りだったのだが、これからは、大使館で審査して査証を発給するという。
これは格段の進歩である。ただ大使館の審査は二週間かかるという。
ちょっと焦らなくてはならないということだ。
今日入管に事前審査の申請を提出。また綱渡りが始まる。
大使館に提出する書類のフォーマットがあるという。
クリューコフに電話して、この書類をもらい、会社にファックスしてもらうよう指示。

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2001年2月19日(月)

午前中簡単な打ち合わせ。
野毛の大道芸がある4月第3週から、ゴールデンウィークまで結構仕事が詰まっている。
これをどう回していくのか、大きい問題。
サーカス文化の会の会報つくり。
1時からplanBで、プラコメ5日連続公演の総見。5日やるとなると、出演者の数が半端じゃない。
ただ今回は、いろいろな意味できちんとやっておきたかった。といいながら2時間ぐらいでぬける。斉藤君が風邪で調子悪そうだったが、最後まで付き合ってくれた。なんと9時間かかったという。
5時5分前に神楽坂で西田と待ち合わせをしていたのだが、大江戸線で中野富士見町からまっすぐ行けるとタカをくくっていたのが、大間違い。とにかく中野坂上、飯田橋と接続するときの距離が長すぎる。結局10分遅れで神楽坂に。
東阪企画の澤田社長と面会。
二回ほど会って、いろいろ話しているうちに、いつか仕事を一緒にやりましょうといわれていた。
今日はその仕事についての打ち合わせ。
4月末からテレビの番組に出演するパフォーマーの招聘に関する一切の仕事をやってもらいたいという。
査証、荷物、アテンドもろもろだ。
大変そうだし、仕事が重なる時期にもあたっているが、なにせチャンスであることは間違いない。
6時神楽坂で西田と別れる。そのまま帰宅。

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2001年2月19日(月)

朝5時起き。7時半に東京医大の検診センターで受付。ここでは3年ぶりの人間ドック。
ここのところ体力の衰え、身体のあちこちに痛いところができてしまい、多少心配になっていた。
早く受付できたので、10時前には検診を終了できる。
検診している人たちのあいそうのなさにあきれる、きっと毎日同じことを言っているのだろうが、つまらなくないのだろうか?余計なことだけど。
結局待ち時間を利用して『日本怪奇幻想紀行・芸能・見世物録』と司馬遼太郎の『ペルシャの幻術師』を読み終える。
午後食事のあと、検診結果を聞く。胃とか、肺、心臓は問題なかった。糖尿関係、血糖値、コレストロールが高い。酒を控えるように言われる。
ちょっと安心。
2時出社。サーカス文化の会の会報とプラコメ通信を作成。今日から始まるプラコメの問い合わせが結構きている。もしかしたらあふれるかもしれない。
日本ユーラシア協会に原稿をメールで送る。
6時planBへ。
いつもだとアンケートとプラコメ通信を渡して、ラーメン屋いくとこなのだが、皆に渡した切符の当日精算の段取りとかあって、受付の打ち合わせをしているうちに、開場。
予想していた通り、大混乱。次から次へと客が押し寄せる。結局100人ぐらい詰め込んだ。
出来も良かった。出演者全員が、ネタを練ってきた。昨日の総見と内容をかえてきたのもいたし、しまった公演になったと思う。
公演が終わったのは、10時半、あわてて帰る客もいたが、みんな満足したのではないだろうか。
光洋ちゃん、こうじ、小出、手塚らと朝まで飲みながら話す。2時ぐらいにダウン。楽屋で毛布にくるまって寝る。

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2001年2月22日(木)

午前中、ウクライナにある日本大使館に提出する書類を作成。昼過ぎに書留で、事前審査終了証が入管より届く。
思ったよりは早く着いた。
今日中にキエフに送れば、来週あたまには着くであろう。
契約書その他必要書類を作成して、DHLで書類を送付。
念のためクリューコフに電話で、今日書類を送ったことを伝える。
5時すぎに会社を出て、planBへ。会社から電話。澤田さんが至急連絡をとりたいと言っているらしい。
電話すると、ロシアの超能力者にテレビ局が興味をもっているので、連絡を撮ってもらいたいと言う。
プラコメ3日目。今日はさすがに客足が遅い。40人ぐらいだった。
リトルの鈴木さんが見に来る。
早めに会場を出て、新宿へ。2時ぐらいまで鈴木さんたちと飲む。

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2001年2月23日(金)

昨日は、大野の家に泊めてもらう。イビキをかかないという条件だったのだが、
静かに寝ていたらしい。
大野のマンションは、新宿の柳町にある。なかなか雰囲気のある街だ。
考えてみれば、柳町は、いま調べている神彰の呼び屋の会社アートフレンドの事務所があったところだ。
10時前に会社に出勤。
ユネッサンの査証の件がとりあえず、落ち着いたので、溜まっていた書類の整理や、手紙を書いたりする。
13時すぎに、大野康世女史が来社。日記の更新方法を教えてもらう。これで大野女史の手を煩わせず、日記の更新ができるはず。
遅めの昼食。
17時すぎに会社を出て、planBへ。いよいよプラコメも4日目。
香代ちゃんが来れないので、ゆいちゃんと受付。出足は昨日よりも悪かったが、昨日よりはお客さんが多かった。
23時すぎに、ななちゃんと辻君と3人でタクシーに乗り、新宿まで。
最終一本前の電車に乗れた。
長い長い一週間だった。

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2001年2月26日(月)

久しぶりに秋田からかなちゃんが出社。午前中ミーティング。
野毛が始まる4月21日からゴールデンウィークの期間まで、仕事がけっこうつまってきたので、この対応をどうするかが一番の問題。
去年のゴールデンウィークは家族で北海道旅行したのだがら、今年はそれだけ仕事があるということになる。
いいことなのではないだろうか。
13時planBで先週の5Daysの反省会と、これからプラコメをどうするかについての話し合い。
5日やった感想としては、みんなそれぞれ続けてやったことで、見えてきたことがあったようで、その点については満足し、発見があったこともそれぞれ語ってくれた。
最近問題になっていた新旧メンバーのコミニケーションについても、この5日間でずいぶんとれるようになったという意見もでた。

ただ制作面、リハの問題、裏方の問題その他、いままで1日だけではみえなかった部分について、このままでいいのかという意見はかなり出された。
planBのS氏からは、コメディーという括りを一回外してはどうか、タイトルを考え直す必要もあるのではないかという指摘もあった。
大勢としては月に一回やることが、果たして意味のあることなのか、今回のように何カ月に一回、連続して2日とか3日とかやるという方法もあるのではないかという意見だった。
それとプロデューサーとして私が、プラコメのことをどう思っているのか、今後どうしたいのかという意見もあった。
プラコメは、planBという場所があり、ここでなにか出来ないかと相談を持ち込まれたとき、大道芸やイベントで飽き足らず、なにかステージで表現したいというパフォーマーが何人かいて、じゃ一緒にやろうということで始まったことだ。
宣伝もショーの構成も、受付も自分たちでやる、planBも私もあくまでも、サポートする立場でいるというのが、原点だった。
話を聞いてみると、あくまでも私がプロデューサーで、私の意向が一番大事だと思っている人もおり、それを何で演出や、広報、制作の部分で手抜きしているんだと思っていた人もかなりいたようだ。
タイトルを変えるということも出てきたし、最初の頃に比べて出演者も多くなり、毎月ネタをつくるよりは、その中身をもっと充実させたいということも出てきたので、この際一から出直しということで、プラコメについては終わりということにしよう、これが結論であった。
まる3年やってきて、参加したメンバーのうち、それぞれが問題意識を持ってきたことはいいと思う。
ミーティングでも言ったが、私抜きで自分たちで運営する時なのかもしれない。
3時間半のミーティングで出た結論が、プラコメ解散。本当にこれが発展的解散になるのかどうかは、メンバーひとりひとりの問題だろう。
自分としてもいい潮時のような気がする。
ただ今度は、自分が本当にプロデューサーとして、やりたいもの、キャバレーライブのようなものは、planBでやっていきたいと思う。
なんか疲れた。それが正直なところだ。
こんな風にして、あっけなく終わるものなのかもしれない。
会社に戻るとクリューコフからファックス。DHLが届いていないので、レファレンスナンバーを知らせろという。
キエフに電話。大使館は午前中しか、申請を受け付けないという。次の受付日は、水曜日。順調にいって14日にもらえることになる。16日が出発だから、ギリギリだ。
問題は大使館が書類を受け付けてくれるかどうかだろう。
この件が落ち着いてから、ナージャにロシアの超能力者について、その後どうなっているか電話で聞く。
いまはほとんどアメリカでショーをしているという。
S氏にこの件で電話。
なにか疲れる一日だった。

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2001年2月27日(火)

会社に着くと、机にファックスが。クリューコフからだった。結局昨日午後大使館に行って、書類を出すことができたのだが、確認のため資料を要求されたという。キエフ時間の7時半ぐらいに電話くれとのこと。
なにかいやな予感。大使館が、査証をだすという形式は今回が初めてなので、いろいろチェックをいれているのだろう。
昨日プラコメの会議中にY社のO氏から電話があり、BPのワークショップに対してHEPサイドが難色をしめしているという経過報告があった。
とりあえず、HEP以外でワークショップができるかどうか、あちこちに打診。
14時キエフに電話、大使館が要求している書類をファックスすることに。また一枚一枚送る。
クリューコフから電話、契約書の字が小さくなっているので、統一してもらいたいという。
おまえのところから来た奴が小さくなってるんだよ。
キエフ時間午後2時に大使館とアポイントをとったという。声に元気がない。ナーバスというか、びっびっている感じだ。
本当に俺と同じで、気が小さい男だ。
Y社のT氏から依頼されていたカザフのビデオをダビング。なんでもT氏があちこちでカザフとキエフでの話をしたら、ある映画監督がわれわれの珍道中に興味をもち、映画をつくりたいと言っているらしい。
関西でのBPズームのワークショップについて、S社のK氏と電話で打合せ。興味をもってくれ、早速会場をあたってみることになった。
Y社のO氏から電話、クライアントに話をつけ、ワークショップを5月2・3日できるようになったという。
HEPでワークショップができれば、それにこしたことはない。よかった。
K氏に電話。HEPでのワークョップが決まったことを連絡。
家に戻り、21時にキエフに電話。ナージャが出て、まだ連絡がないという。
イライラして待っててもしようがない。旧ソ連の人たちと仕事をする時は、想像力は無用、ザッハリッヒに対応するしかない。
余計なことを考えてもしようがない。でた結論にしたがって対応するしかないということで風呂に入る。
風呂からあがって、23時ごろに部屋に戻ると、留守電が入っていた。クリューコフからだった。
すぐに電話。大使館の方はOKになったとのこと。間違いなく14日には査証を出してくれることを確約してくれたという。
一安心。あとは番組の件をきちんとしてくれよと、言うと、とたんに強気になり、作品の問題は絶対的に保証すると言う。
笑ってしまった。しかしホットする。
カザフのローマのところに電話してみる。
国立サーカスの方の状況は、良くなっているという。
ローマの奥さんのイリーナと息子のジーマは、イリーナのお父さんの具合が悪いので、モルダビアに帰っているので、いまは兄貴のシュクールと一緒に酒を飲んでいるという。
シュクールも電話に出る。結局30分ぐらい話していた。
北九州の博覧祭が始まるまで、時折チェックを入れておかないと。
2時すぎ就寝。

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2001年2月28日(水)

昨日の電話で、キエフチーム来日の件がクリアーになったので、少し気持ちの余裕が出てきた。
午前中は散らかったままの机を整理。
プラコメ解散の案内をパフォーマーたちにファックスしたり、書類の整理をする。
東村で今年4月小学校が廃校になることにともない、ここでサーカス学校を開設する計画を西田がずっと進めてきた。
まずこの小学校のある地区が、これに対してゴーサインを出すことが、先決だったのだが、ずっと返事がなく、西田は胃の痛い日々を一週間以上過ごしていた。
関口さんに電話して、この地区がゴーサインを出したことがわかった。
これでまづ第一関門通過。西田はずいぶん気持ちが楽になったと思う。
次いで、朗報がひとつ舞い込む。フジTVにプレゼンしていたマイクロバンドが正式に決まった。
去年静岡で見たが、音楽ものなのだが、演奏の確かさ、そして明るいユーモア、達者な曲弾きで、とても楽しかった。
今年はイタリア年ということで、GW中にフジがお台場でするイタリアフェアにはまったわけだ。
忙しくはなるが、いまは仕事をとることが大事。
夜、かなちゃん、大野、西田と4人で中野に、元気いいぞうの歌会を聞きに行く。
めずらしく超満員。元気君も、あまり外さず、いいノリだった。十分に笑かしてもらった。
2月1日に共演した小出君も来ていた。
月曜のプラコメのミーティングについて、いろいろ話し合う。
新宿、品川経由で家に着いたのは、23時でした。

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