クマのお仕事日誌
2001年4月分


2001年4月3日(火)

朝病院に寄って、糖尿の検査。1月に行ったきり、しばらく病院に行ってなかった。
薬も飲んでいない。どんな結果が出るのだろう。
13時半R社のT氏と面会。プラコメのあとの展開として考えている、ヴォードビルナイトのプレゼン。
あまり興味なさそう。大島さんにはなんとか協力したいのだけど、難しいかなということ。次の展開をかんがなければならない。
15時半新橋でマスクマンのアシスタントプロデューサーのA氏と打合せ。スケジュールなど多少見えてきた。さらに何をやらなければならないのかも見えてきた。
とにかく15日来日してから、帰るまでびっしりと拘束されるということなのは間違いない。
打合せを終えて新橋駅前に出ると、号外が配られている。メジャーリーグのイチローが二安打したという。
銀座の本屋二軒回り、地下鉄で新高円寺へ。待ち合わせまで時間があったので、高円寺の古本屋を三軒回る。ほんとうに久しぶりに本の世界につかることができた。
都丸書店で、N氏とばったり。やはり時間があいたので、古本屋回りをしていた。
7時高円寺駅で、元平凡社のT氏、元国書刊行会のKさん、いつも本の装丁をしてくれるN氏と落ち合い、菊寿司へ。
ここは4〜5回目だが、とにかく穴子が群を抜いて美味しい。美味しい魚を食べながら、本談義、映画談義に話がはずむ。
みんな本好きだし、T氏もKさんも現役の編集者ではないけど、やはりいい本を出したいという気持ちはとても強い。
N氏も工作舎を辞めて、独立して好きなことをやろうと思っていたのが、食べるためにPR誌の編集に時間がとられ、思うように好きなことができない。
そこで最近ばっさりとこの仕事をやめたという。
どうやら機は熟したということではないか。俺たちで本当に出したい本を出そうということになった。
これで食っていこうと思うとたいへんだが、片手間で、持ち出しでやろうということであれば、できるのではないか。
そんなんで盛りあがる。
うまい穴子(鯖の昆布しめ、ホタルイカの寿司もうまかった)と、うまい酒といい仲間とのいい話。
楽しい一夜だった。

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2001年4月4日(水)

風が強く、せっかくの桜も散りはじめている。
1時間遅れて会社へ。
マスクマン関係の自分なりのスケジュール表をつくる。結構ハードになりそう。
ただ少しこれで自分が何をしなくてはならないか読めてきた。
今日はななちゃんのソロライブ。プログラムやらアンケートをつくる。
6時すぎに会場へ。今回の公演の監修をしている光洋ちゃんはもう帰ったという。
ほぼ満員。知った顔がたくさんいる。
公演は一時間ちょっとで終わる。う〜んという感じだった。
ななちゃんがいままでやってきたものとは、ちょっと違う。いつものななちゃんはどこにいったのという感じだ。
それは本人が一番感じているらしく、消化不良という感想をさかんに言っていた。
収穫はゲスト出演したダメじゃん小出。亀井静香のネタは傑作だった。
公演後、またいつものように飲みはじめているうちに、帰れなくなってしまった。
奥さんに今日帰ってこれなくなるのではと言われたのが本当になってしまう。
楽屋に毛布を敷いてもらい、結構あったかい状態で、寝ることができた。

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2001年4月5日(木)

10時すぎ、一緒に楽屋で寝ていたplanBのS氏の「大島さん、10時だよ」の声で目を覚ます。
しかしよくこの狭い楽屋でふたりも寝れたものだ。後片付けは任して、会社へ。
キグレサーカスのO氏から電話するようにメッセージ。早速電話すると、昨日クマが逃げるという事件があり、たいへんだったという。舞台に連れていく途中に逃げられ、クマ自体はすぐに捕獲されたらしいのだが、これを目撃していた人がいて、警察に通報したことで、地元マスコミ、警察が大挙で訪れたいへんな騒ぎになったらしい。
調教師のシャムシュールに一言注意してもらいたいとのこと。
実際にシャムシュールを招聘しているわけではないが、いきがかりもある。電話でシャムシュールと話す。結構落ち込んでいた。10年前同じ福島県のいわき市でボリショイサーカスの虎が逃げて、射殺されたこともあり、マスコミも警察も敏感になっているようだ。
彼がさかんに心配していることは、この事件がどう決着がついたかということと、この事件のせいで二度と日本にこれなくなるのではということだった。
O氏の話によると、二度としませんという始末書を提出したことで、決着はついたということなので、このことを説明。
どうもシャムシュールは10年前の虎の調教師のエミール・キオと連絡をとっているようで、この虎事件も、同じ4月4日に起こったと言っていた。
相当心配だったようで、この日2回も電話が来て、日本に二度と熊を連れてこないという始末書を出したのではないかと心配していた。
ちょっとした油断なのだろうが、相当参っているようだった。
キエフのクリューコフからFAX。劇場つくりの進行状況を説明してきた。西田が5月にキエフに行くので、その招待状をもらわなくてはならないので、電話をする。さかんにこの劇場つくりにいろいろアイディアを出して欲しいと言っていた。
T社から、マスクマンの荷物を保管する倉庫の件で電話がくる。倉庫の間口が1間しかないという。道具自体一個300キロぐらいあるので、フォークリフトの手配をお願いするかもしれないと伝える。
6月にモスクワ公演にでかけるこまつ座の舞台監督H氏より電話。モスクワでつくってもらう予定のセットの図面をかいたので、ロシア語に通訳してもらいたいとのこと。なんでも制作の人が9日らモスクワに行くので、その時にこの図面を渡したいらしい。
あまり時間もないので、今日中に受け取らなくてはならない。字幕のチェックをしている吉祥寺の前進座までとりに行く。
舞台用語でわからない言葉の意味をいくつか聞いておく。
井の頭公園へ来る花見客が結構いた。
マスクマンの送迎の手配について、いま現在のスケジュールを流す。月曜日にこの会社と打合せすることにする。
翻訳のことがあるので、18時すぎに会社を出る。

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2001年4月6日(金)

10時前に出社。マスクマンの荷物を現地でピックアップしたというFAXが入っていた。
こまつ座のT氏が図面をとりに来る。
昨日翻訳はしておいたが、とりあえず現地で図面を見ながら、ひとつひとつ確認しないとわからないと思うと言っておく。
辻君と表参道の日本ステージに、今日ユネッサンに持っていくリノリュームをとりに行く。一人でもてると思ったのだが、辻君が重いはずなので、手伝いを志願してくれたのだが、これは正解だった。結構の重さだった。
表参道で照明のM氏と待ち合わせ。M氏の車にリノを積み込み、一路箱根へ。
道路が混んでいて、2時ぐらいにユネッサンに着く予定だったのだが、40分ぐらいに遅れる。
Y興業のT氏はすでに到着。新たにユネッサンだけでなく、ホテルも含めたイベント展開を考える必要があるということで、本社の担当の人が、打合せのためユネッサンに来ていた。
T氏が考えていた、GW、夏休みの外での公演ではなく、いま人があまり集まっていないギャラリーをつかったイベント展開をすべきではないかという話になる。
今日照明のM氏に来てもらったのは、外での公演のための照明器材をどうするかということだったのだが、ちょっと話が変わってくる。
とりあえずは、リノを敷く。それから外の公演予定地を下見。動力電源の場所を確認し、コードがどれだけいるか、計測。そのあとギャラリーを下見。
ここにステージを組んだ場合に、どこがいいのか、そして照明をつける場合に、電源をどうするかを下見。
このあとミーティング。結論としては、ギャラリーにステージを組んで、ここで集中的にショーをすることで、イベントを展開していこうということになる。
時期としては夏休みからをスタートとすることに。
イベントの告知やパブをどうするかについても打合せ。
確かに、いまの総合受付前でのショーをするよりは、この場所の方が、天井も高いし、パフォーマーはやりやすいと思う。
またあらたな展開を仕掛けていかなくてはならない。
T氏は人事移動で総務部長になるので、これからはあまり動けなくなるという。
四時半M氏と遅い昼食を、イタリアレストランでとる。
5時20分ビータの最後のショーを見学。春休みは昨日で終わり、ほとんど客がいない。やっている方は大変だ。
ショーのあと、楽屋へ行く。現時点での問題を聞く。GWに予定されていた野外での公演がなくなることに関しては、彼らは喜んでいた。いま彼らにとって一番大きい問題は客のいないところでショーをやることの辛さだ。客がおらず、客とからめないときは、いまの20分にこだわらずに、15分ぐらいのショーで対応するように言う。
やはりまわりに何もないということで退屈しているようだ。トランプをかしてもらいたいという。
今週の休みの日は、3人で歩いて、箱根湯本まで行ったという。二時間ちかくかかったという。
GWがあけたあとにでも、どこかこっちが交通費をもってやって、横浜とか、秋葉原とか連れて行ってやろう。
19時すぎにユネッサンを後にする。M氏の車で横浜まで送ってもらう。
21時半に自宅へ。

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2001年4月9日(月)

出勤前に病院に寄る。検査の結果は最悪。血糖値が178まであがっている。いままでの最高。確かに薬を三週間ぐらい飲んでいなかったのだが、それにしてもひどい。
ここのところ酒を飲み過ぎていたことは事実。少しというか相当節制をしないといかん。
ミーティング。スケジュールの確認をする。
M社から電話。マスクマンの荷物は無事成田に着き、今日中に通関をするとのこと。
2時にTのT氏のところへ。マスクマンの送迎関係の打合せ。大体の予算もわかった。
便利な会社があるものだ。
ユネッサンのN氏から電話。明日アーティストを箱根見物に連れていってくれるという。
カザフのローマに電話。4月20日からまたアルマトゥイの郊外にある映画館で、国立サーカスの自主公演するらしい。
皆元気だという。
映画会社を出て、電車に乗ろうと思ったところで、携帯に電話。去年のカザフのわれわれの珍道中をモチーフに映画をつくろうとしているI監督からだった。
シナリオを書く人が見つからないので、自分で書こうと思っている、そのために一度ホテルで缶詰になって話を聞かしてくれという。
かなり急いでいるようだが、こっちは来週からは、時間がとれない。
とりあえず24日の日をあけて欲しいと言われる。
planBへ。今日は本当の打ち上げ。20人ぐらいのメンバーが集まってのにぎやかな宴会。
朝の検査の結果のことも多少は頭にあったのだが、結局はビール、日本酒、ウィスキーとずいぶん飲んでしまう。
また楽屋泊まり。

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2001年4月10日(火)

8時すぎに目が覚める。先週に引き続き、またplanBの楽屋で迎える朝。
ロービーにもうひとり誰かが毛布にくるまって寝ていた。
歩いて中野駅まで。駅前の立ち食いソバで朝飯。一応昨日もらった薬を飲む。あれだけ酒飲んで、薬を飲んでもなあという気はするのだが。
10時前会社に出勤。
チュルタギのアンカーとして使う予定だった街灯が使えなくなったという話を聞く。
ずいぶん前に現場で打合せをしたのに、いまさら何って感じだ。
とにかく明日から韓国に行く西田に、チュルタギのメンバーときっちり打合せをしてもらい、対応するしかない。そうでなくても、西田に途中でバトンタッチして迷惑かけているのに、なんか申し訳ない。
明日から西田が韓国に行き、しばらく全員が顔を揃えることがないので、最終的なスケジュールの打合せ。
二日酔いで頭が回らない。とりあえず、BPの動員のためのDMリストをつくり、宛て名ラベルをプリントアウト。案内文を作成する。
マスクマンの荷物の件で、明日13時倉庫に搬入という段取りで進めていたのに、倉庫側から連絡があり、9時になったという。
ドライバーの勝手で変更させられてはたまったもんじゃない。頭に来て、名鉄に電話。
折り返し確認の電話があり、予定通り13時搬入という連絡、勝手なことを言ってすいませんとのこと。
ダメだ。今日は頭が回らないということで、19時前に退社。

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2001年4月11日(水)

西田が今日から韓国へ。サーカスを視察するためなのだが、自分が担当していたチュルタギのアンカーの件で金さんたちとの打合せが目的になってしまった観がある。
それなのに昨日いいですね、うまいものが食べれてなど脳天気なことを言ってしまった。じゃうまいもの食ってくるからよと出て行った。ゴメンなさい。
13時マスクマンの荷物搬入に立ち会うために青海の倉庫へ。13時過ぎになってもトラックが来ないのでまたイライラしたが、20分遅れで到着。巨大な箱八個合計1・6トンの荷物。
キャリーがついていたので15分ぐらいで搬入が終わる。
この倉庫を手配したT企画のSさんは、なかなか快活で元気な女性。やはりマスクマンにベタでつくという。
16時四谷でA氏と落ち合い、喫茶店でマスクマンのおもにスケジュールに関する打合せ。
ここへ来て、まだ読めないスケジュールがいろいろあって、A氏もいささかイライラ気味。
17時半会社に戻り、スケジュールの変更を送迎を担当するTに連絡。道具の搬出入に関してM社のY氏に連絡。
18時半サーカス文化の会の例会会場の千駄ヶ谷区民館に行き、準備。
今日は東京かわら版の大友氏の報告。いつものメンバーにめずらしくTさんが顔を出す。
笑いと身体というテーマにそくして報告してもらう。後半は元気いいぞうのライブ録音を聞きながら、熱の入った元気いいぞう論を聞かせてもらった。
大友氏にとって、元気いいぞうというのは、非常に大きい存在であることがわかる。
元気の歌を実際にききながらだと、説得力がある。
大友氏とTさんの3人で近くの居酒屋で、軽く飲む。
24時すぎに帰宅。

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2001年4月12日(木)

朝ウクライナ大使館に査証の申請書を受け取りに行く。1月キエフに行った時、宅急便がわりに荷物を往復で運ばせた一等書記官は、3月一杯で帰国したという。
ひとつわかったのは、大使館は品川より五反田の方がずっとちかいことだった。
来週から10日近く会社に来れないので、とにかくこの間やらなければならないことを、エンドレスでやる覚悟。
まずはチュルタギ、BP、ミクロバンドの案内DMの発送。
14時ぐらいに終了。
マスクマンに関して、いろいろ電話がかかってくる。スケジュールの変更、確認、手配の変更。
いよいよ来日まじかになり、本格的に動き出してきたという感じだが、結局いろいろ穴が見えてくると、こちらに振られてしまうという感じだ。
相当ストレスがたまる仕事になりそう。情報が一本化されていない。きっと来日して、撮影が始まってもこれは続くような気がする。
保険はどうなっている、食事のケアーなど、次々に仕事が増えていく。そしてスケジュール、手配の変更がこれからはあたりまえになるのだろう。
その時切れずに対応していくことがなによりも大事になるのだろう。
気が重いが、引き受けたこと、とにかくやるしかない。
18時近くに韓国の西田から電話。チュルタギのアンカーの件はなんとかクリアーになったようだ。
良かった。
ユネッサンの7月から来るグループのための契約書つくり。5月8日まではたぶんなにもできないだろうから、いまのうちにやらないとまた前回のように焦らなければならない。
21時半までかかる。

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2001年4月13日(金)

山のように残っている仕事をとにかく今日中に片づけなければならない。まずはユネッサンの契約書をクリューコフに送る。
BPとミクロバンドのDM案内の残りを送付。マスクマンのスケジュールを作成。
マスクマンの荷物の手配、スケジュール、送迎の手配の件であちこちから電話がはいる。
大野、辻はフジテレビでミクロバンドの打合せ。
これだけでもたいへんなのに、今度はユネッサンN氏ら電話。客がいないこともあって、アーティストがだれているという指摘があったらしい。
20分のショータイムを短縮する方向で考えて欲しいといわれる。
アーティストに電話したうえで、スケジュールを変更することを伝える。今度はゴールデンウィーク用の宣材つくりのために、アーティストへの質問をロシア語にする。
文芸春秋ネスコから電話。「シベリア漂流」の中でつかった玉井の写真をかしてもらいたいという。
ユネッサンから電話。スケジュール変更について、オーリャが自分だけがソロの公演がないのはどういうわけだ、私のショーがよくないのかと言ってくる。よくあること。観客を相手にするアクトが多いので、客がいないからそうしたのだと説明。電話口では了解したと言っていたが、内心穏やかでないだろう。
スケジュールをつくりおえたところで、カザフの企画書つくり。来週にはテーマパークにオファーを出したいので、なんとか今日中につくりあげなければならない。
企画書をつくり終えて、今度は明日のミーティングのために提出するマスクマンの見積書を作成。こういう請負形式の仕事は初めてなので、どう作ったらいいものか迷ったが、まあニュートラルなものがつくれたと思う。
9時半に会社を出る。あと一週間たぶん会社に来れないと思う。何か忘れ物がないか確認。でもきっとあるんだよな。あれがないとかこれがないとかというのが。

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2001年4月14日(土)

携帯にユネッサンN氏から電話。やはり客がいない時のアーティストの態度に問題があるので、注意して欲しいとのこと。演じているとき、客がいないので、他のアーティストたち、特にオーリャの態度が悪いという。オーリャに電話に出てもらい注意。
昨日頼まれた玉井の写真を探すが見当たらず、その旨を留守電に入れておく。
一時半自宅を出る。駅に行く途中に、またユネッサンから電話。ビータが話したいという。オーリャのソロがないので、彼女がかなり落ち込んでいるという。オーリャのソロをつくってくれないかという。オーケーを出す。
ビータは一番若いのだが、しっかりした娘だ。仲間のことを心配し、その対策を考えてくれる。
彼らもたいへんだと思う。初めて来た外国での仕事、客と一緒にやってみるのも初めて、客がいないところでやるのも初めて、ユネッサン側もどうパフォーマンスを見せていいかまだ暗中模索。いろいろ指示も変わる。こんがらかってくるのだと思う。
本来だったら来週ぐらいに顔をださなければならないのだが、いまはとにかくそんなことはいってられない。電話やファックスで連絡しあうしかない。
ただ微妙な時期だと思うので、来週もこまめに連絡をした方がいいだろう。
15時T企画で、まずプロデューサーと見積の件で、打合せ。予算が厳しくなっているらしい。ある程度の目安をつけなければならないということだ。
そのあとプロデューサー、ディレクター、ADを交えてのスケジュールの確認。
やっとマスクマンの担当者全員と顔合わせできた。明日マスクマンが来日するという時に。本来であればずっと前にこういう顔合わせがあって、いろいろ連絡とりあいながらスケジュールをつくりあげるということなのだろうが、そんなこと今言ってもしようがない。
いずれにせよ、こうした確認作業ができたことと、一緒に今回の仕事をする人たちとミーティングできたことはよかった。
ある程度仕事の流れが見えてきた。そしてとにかく全体のスケジュールが決め込みで動くのではなく、その場対応という感じで動くことも読めてきた。
16時半打合せ終了。真っ直ぐ帰宅。
杉田の駅で降りて、買い物をしている時に携帯に電話。ユネッサンからだった。またビータと話す。インタビューの答えについてと、ショースケジュールの確認だった。
帰宅すると、ユネッサンからインタビューの答えがファックスできていた。
これを訳して、ユネッサンに送る。
月曜からユネッサンで短縮バージョンでの公演が始まる。またいろいろ問題が出てくると思う。連絡を待つのではなく、こちらから頻繁に連絡をとったほうがいいだろう。
いよいよ明日マスクマンが来日する。

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2001年4月15日(日)

10時起床。いよいよ今日からマスクマンの仕事がスタートする。今日は久しぶりの朝寝坊をさせてもらう。
12時半家を出る。まずは今日から泊まり込みになるので、四谷にとった旅館にチェックイン。一泊6,000円、新宿からもちかいのでとったのだが、名前がなかなか粋、長良川旅館。実際にかなり渋い旅館。
フロントもなく、おばあちゃんがひとり受付にいる。ただ風呂もあるし、部屋も結構広い。たまにはいいのではないだろうか。こんなところも、悪くない。
試しに歩いて新宿へ、30分ぐらいでホテルに着ける。
しかし日曜日の新宿を歩くのは何年ぶりなのだろう。紀伊国屋に寄る。レザーノフの本が四冊も並んでいたのにちょっと感激。
ただ新刊書のコーナーも、人文関係コーナーもほとんど見るべきものがない。買う気もおこらない。
目黒駅へ。遅い昼食をとる。天丼を食べた。
16時T氏とA氏の待ち合わせ、これから送迎を担当するワゴン車に乗って、成田へ。車内で簡単な打合せ。
1時間ぐらいで成田に着く。ラスベガスからの飛行機は20分のディレイ。お茶を飲んで待つ。
T企画のS社長ら電話。昨日亡くなった三波春夫氏の葬儀に出るので、携帯の電源を一時切るという。成田を出発する時に、携帯に電話を入れることになっていた。
ラスベガスからの便は満員のようだ。次から次へ日本人観光客が降りてくる。
18時30分ぐらいにマスクマンとアシスタントのデビッドが出てくる。結構な荷物。元気そう。初めて会うデビッドも陽気な奴だ。
荷物を積んで、出発。市川を過ぎたあたりで、渋滞。車中でA氏がスケジュールの確認、食事などについて、打合せ。
20時20分頃ホテルに到着。S氏が出迎え。チェックイン、荷物を置いて、ホテルを出発。日本テレビへ。
日本で制作した道具のチエック。パーフェクトとマスクマンも大満足。ふたりともかなり疲れているようだ。
22時スタッフと別れ、ホテルまで送る。食事も自分たちでとる、とにかく休みたいということなのだと思う。
地下鉄で四谷へ、駅前のうどん屋でうどんを食べて、旅館に戻る。
まずは静かな滑り出しというところか。

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2001年4月16日(月)

朝風呂に入る。タイル張りの風呂に入るのもおつなもの。おそらくこの旅館は、昔は連れ込み旅館だったと思う。
手配の件であちこちに電話。
ホテルまで歩く。いい天気だ。12時に打合せを終えたマスクマンとA氏とディレクターのO氏を乗せて、青海の倉庫へ。アメリカから送った荷物の点検。
組み立てがたいへんではと心配していたが、荷物を開けてみると組み立ての必要はほとんどない感じだ。
チェックを終え、昼食。ふたりともあまり食べない。ただテンションは高い。特に助手のデビットは、昨日からずっとはしゃぎまわっている。最後までもつのだろうか。
昼食を終えて、都内某所ロケ地へ。まだ放映されていない番組なので、このあたりの詳しい収録内容については、はオフレコになってしまうが、着いたときが14時半、リハが始まったのが16時、実際の撮影が始まったのは19時20分、そして撮影が終わったのは22時半。
とにかく長い一日だった。しかもこの間やることがないのだ。ずっとただひたすら待つだけ。
今回の仕事はアテンドとはいっても、別に通訳するわけでもなく、しいて言えば送迎アテンド、無事にロケ地やスタジオに連れていくのが仕事のようなもの。
こんなことは初めて。極端な話、まったくいる必要がない。でもいないとまずいのだろう。こんな感じで関わっている人は結構いるのかもしれない。
いらいらするのを通り越してしまう。テレビというのは、こうした無駄とも思えることが集積してできてしまうことなのかもしれない。
ただひたすら待つ、そんなことがこれからも続くのだろう。
マスクマンとデビッドは、リハが始まって終了するまで、本当に大変だったと思うが、非常に協力的だった。いい連中だと思う。彼らを怒らすような事態がこなければいいと思うが、もしもそうした事態が起きるとしたら、それは日本側の問題だろう。
途中T企画のS社長が来る。ほとんど撮影には口出しせず、ただ状況を見守るだけ。
なにか面白い企画ないかねと言われる。超能力はどうなっているとも聞かれた。5月にモスクワにも行くらしい。どこか期待されている部分があるのだと思う。これが今回の仕事の一番大きなこちらの目的だし、それに応じるような企画というかネタを出すことが大事なのだと思う。
23時ロケ終了。さすがにふたりともクタクタ。23時40分ホテルに戻る。
そして自分も24時前に長良川旅館に戻る。ロケ弁当の残りが今日の晩飯。

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2001年4月17日(火)

今日も湯船にお湯を張り、優雅に入浴。だんだんこの旅館が好きになってくる。
ビジネスホテルにはない懐の深さがある。そしてリラックスできる。
メールをあちこちに出す。一番気になったのは、T企画のS社長が、モスクワに5月に行くということ、このアレンジができるかどうか、モスクワのNにメール。
11時頃出社、韓国から帰ってきた西田から、話を聞く。
13時目黒駅で待ち合わせていた車にのって、青海の倉庫へ。荷物の搬出に立ち会い。どうしてこの人たちは、自分本位に手配したがるのだろう。二台の車が本当に必要なの。とりあえずは、明日荷物をスタジオに届けることが大事。
成田に15時半到着。予定より2分遅れて、ロスからの便が到着。小一時間で女性アシスタント4名が出てくる。なんのことはない、4人の内3名は、日本に何度も来たことがある、ベテランばかり。日本語も結構しやべれる。
ホテルにチェックイン、飯は自由に食べさせることにする。この人たちはしたたかだと思う。
ある意味では扱いやすいが、コントロールが必要も。
会社に一旦戻る。
辻君とちょっと近くの居酒屋で酒を飲む。

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2001年4月18日(水)

昨日飲みすぎたようだ。6時になんとか起きて、シャワーを浴びる。7時にホテル到着。みんな下に降りていた。
8時前にスタジオに到着。荷物も着いていた。とりあえず、荷物の搬出に付き合う。
先週土曜日打合せしていたことが、なにもいかされていない。受け入れの段取りもできていない。結局ドライバーとADさんとで荷物を搬入。
スタジオは照明などの仕込の真っ最中。
デビッドの指示に従い、必要な道具をスタジオに運ぶ。
ふたりからプレゼントとしてフッディーニの帽子をもらう。ありがとう、フッディーニは大好きだし、映画も見たし、本も読んだというとふたりともびっくりした様子。
ここから先はデビッドと一緒に、道具の組み立て。結構古い道具も持ってきたようで、ネジが錆びついていたり、なかなか穴に入らなかったりと、たいへんだった。
ふたりともラテン系というか、一個どうしてもネジ留めできない部分があったのだが、いいやこれはこれでと、留めずにやることに。
このあたりから、デビッドは私のことをブラザーと呼びはじめる。
女性アシスタントのメイクの開始が遅く、結局10時30分から始まる収録が、スタートしたのは、13時近く。2時間半ほど押しでスタート。
今日は3つのネタを収録する予定。ネタ自身の収録は、そんな大変でもないのだが、ネタバラシの部分で予想外に時間がかかる。
驚いたのはデビッドの献身的行動。少しの合間を見て、マスクマンの世話に走り回る。
ブレークタイムの時に、デビッドと少し話す。驚いたのは、彼のおじいちゃんがアメリカの有名なクラウン、レッド・スケルトンだったということ。レッド・スケルトンは俺も大好きだよといったら、デビッドは夢中になって、いろいろな話をしはじめた。
自分とマスクマンと出会い、そしてどうして自分がマスクマンのことをどれだけ愛しているか、そして自分に起こった不幸な出来事も。
すごい話だった。
自分はおじいちゃんのスケルトンを見て、人が笑ってもらうことにどれだけ自分に喜びをもたらすか知った。だからいつも自分は、人が喜ぶためだったら喜んで道化になっていいという。
彼のテンションの高さの秘密はここにあったわけだ。
オフレコの話も一杯してくれた、時には涙を流しながら。
デビッドが最後に言った言葉は忘れられない、「神は自分を見ている」。
結局彼らが働いている時は、自分はやることがないのだが、これは結構辛いものがある。でもこんないい奴らと仕事できたことは、ラッキーと言ってもいいかもしれない。
収録が終わったのは、予定を三時間オーバーして23時、みんなヘトヘトだ。
女性アシスタント4名だけを車に乗せて、ホテルに戻る。マスクマンとデビッドは、A氏が送ってくれることに。
ながいながい一日だった。
とにかくあと3日。

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2001年4月19日(木)

7時目覚ましの音で目を覚ます。身体が重い。簡単にシャワーを浴びて、今日は歩いてホテルまで。
8時ホテルでアーティストをピックアップ、スタジオへ。
デビッドとマスクマンは昨日1時半まで道具の組み立てをしていたという。
時差ぼけ、連日連夜の過密スケジュール、そうとうへばっているはずだ。
昨日完成できなかった道具の組み立てを手伝う。道具をブラジルに置いてきたので、新たに作らせ、しかも日本に道具を発送するその日に、完成したので、現物もみてなければ、設計図もない、あるのは完成した状態の写真だけ、これだけを頼りに組み立てるのだから、パズルを解くようなもの。
昨日どれだけたいへんだったかがわかる、疲労困憊、寝不足で、頭も手も機能しなかったにちがいない。
途中までやったところで一本目のネタとバラシの収録。時間通りにはじまり、昼過ぎに収録が終わる。昨日とうってかわって順調なすべりだし。
昼飯は吉野屋の牛丼。めずらしくマスクマンが残さずに食べる。食欲があることはいいことだ。
昼食後再び道具の組み立てにかかる、最初はADと3人で作業にあたっていたが、大道具さんや美術のスタッフが、手伝ってくれ、二本目のネタを収録する前に、ほぼ完成する。
T企画のS社長と管理部長のM氏がやってきて、出演料の支払いについて相談をうける。
いよいよ三本目のネタの収録開始。その前に組み立てた道具のチェックをしているうちにトラブル発生。この時は、S社長と打合せ中だったので、現場をみていない、道具の一部が破損、かなり危ない状況だったらしい。
結局この日は収録をとりやめ、明日撮り残しをとることに。マスクマンとデビッドは残って修理にあたり、女性陣は先に帰すことになった。
19時前に女性陣4名を乗せ、ホテルへ。少し休んでもらい、20時にロビーで落ち合い、近くの居酒屋へ連れていく。
日本料理が食べたいというので、居酒屋がいいと思った。
喜んでくれたようだ。
20時前にサンケイ新聞の田伏記者から電話。沢田豊の記事が、一日予定が早まり、今日から始まったという連絡。
22時すぎに旅館に戻る。おばちゃんが、今日は早くてよかったですね、と言ってくれる。
ほんとうにそうだ。でも明日明後日は確実に遅くなる。あと2日、ここは耐え忍ぶしかない。
今日のショックな出来事は、ユネッサンの担当のN氏が、ゴールデンウィーク明けに移動でいなくなってしまうということだった。本人もショックだったようだ。
来週今後のことを打合せにユネッサンに行くことにする。
今日は韓国から無事チュルタギのメンバーも来日、そして明後日から野毛の大道芸、いよいよ会社も忙しくなる。天気だけが心配だ。
旅館で早速、田伏記者の記事の第一回目を読む。
躍動感があるいい文章だ、おもわず引き込まれる。これからが楽しみ。
少しは元気が出てくる。

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2001年4月20日(金)

長い一日だった。これを書いているのは、21日の午前2時。20分前に長良川旅館に帰還した。
だんだんいまかかわっているこの仕事が、気違い沙汰のような気がしてきた。
朝7時に目が覚める。少しは寝た感じはしたのだが、やはり身体が重い。
サンケイ新聞を購入して、ホテルへ。
田伏記者の記事は、いい感じだ。合計7回の連載だと言うが、いいノリできてると思う。
9時前にスタジオ入り。昨日撮れなかったネタを収録。いつもよりネタバラシの撮りが、簡単で、いいかなと思っていたら、道具の調子が悪くて、結局一時間半押しでスタート。
引田天功の収録がはじまり、マスクマンご一行はブレイクタイム。昼食は今日も吉野屋の牛丼。今日は卵付。結局今日食べた食事はこれのみ。
エバがサラの風邪が移ったみたいで調子悪そうにしている。
明日マスクマンの取材があるので通訳を頼むと言われる。これが一騒動になった。僕は出来ませんよ、と答えたのだが、じゃ誰か頼むということになり、あちこち電話をして探す。
そしたらプロデューサーから電話があり、何で通訳を探しているの、簡単な取材なんだから、あなたに頼んだのよと言われる。
話が違うと答えたら、誰がそういう指示を出したと問い詰められる。ふざけんなよといいたいところだ。
押しに押しているうちに、エバの調子がさらに悪化。そしてこの風邪を移したサラの咳も激しくなる。
薬を買ってこいということになる。すでにこの時は、23時を回っていた。
ADのSさんと、開いてる薬局を探す。やっとみつかり、Sさんが走る。
カメリハの最中に、待機のダンサーアシスタントは、みんなソファーに倒れ込むように寝ている。
なんてテレビの仕事って無駄が多いのだろう。
この理不尽な待ち時間は、ロシアやウクライナやカザフ以上のものがある。
しかもやたらとかかわっている人間が多い。今日の一日で実働は一体何時間あったのか、ダンサーたちに関し言えば、二時間だ。そのために待機していた時間は、十時間以上あった。風邪が悪くなるのも無理はない。
たしかにSさんのように心配してケアーしてくれる人もいるが、ひとりやふたり倒れても、当たり前だというような感じがある。
時間が決められたなかでの仕事だから、それもわかるけど、この膨大な無駄な時間と、人件費ってまだ通用するのかと思う。
俺はこんな無駄はいやだ。
たぶんそれを一番感じているのは、マスクマンだと思うけど。
明日ですべてが終わる。終わりがあることだけは、テレビの仕事の場合、唯一の事実のような気がしてきた。
現在21日2時半、野毛の天気を心配しながら、ちょっとカリカリしながら、ムットしながら、とにかく早く今日が終わればいいと思う。
マスクマンもデビットも、ダンサーたちも早く、解放させたい。
そして俺自身も。

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2001年4月21日(土)

7時半目覚ましの音で目を覚ます。起きる自信がなかったようで、服を着たママ寝ていた。シャワーを浴び、いざ最後のお勤めへ。
いまにも雨が降りそうな空模様。今日から始まる野毛のことが心配になる。
9時ホテルへ、今日は集まりが悪い。10分遅れで出発。サラもエバも今日は多少は良くなったようだ。行きの車の中で、昨日できなかったネタの打合せ。今日が収録の本番ということで、終わりが見えたこともあるのか、みんな昨日よりは、元気なのが救い。
本番ということで、スタッフは最終打合せ。10時半昨日もめた取材の通訳。
結構英語を話すハメに、でもマスクマンは一生懸命わかりやすくしゃべってくれる。
この取材の通訳を通じて、彼が孤独なマジシャンであることを痛感する。
何度も何故ネタバラシをするのか、それはマジックに関心をもってもらいたい、特に子供たちにということをさかんに言っていたのが印象的だった。
最後の質問に答えたあと、マスクから汗がしたたりおちてきた。緊張していたのだろう。
僕の夢は、もっともっと多くの子供たちにマジックの良さを知ってもらいたいと語っていたことに嘘はない。彼は真剣にそう思っている。
マスクマンのことが本当に好きになってきた。
12時半30分押しで本番収録が始まる。スタジオには入らず、モニターで様子を見る。ゲストの反応がとてもいい。
最終的には1時間押しだったが、苦労しただけあって、いい番組になったと思う。
収録終了後、3つのネタについて撮り直し。
この間荷物のパッキングに付き合う。デビッドが、とにかく終わったということで、大騒ぎ。
彼らなりのこの番組に対する意気込みがあり、それがほぼうまくいったということがあるのだろう。
デビッドやマスクマンが、この4日間の中、俺のことをだんだん信用してくれたことが嬉しい。英語はできないけど、俺が彼らのことを好きになっていたことを彼は感じてくれたのだと思う。
他のスタッフ、特に今回重要な役割をしていたA氏やディレクターにとって、彼らは商品だった。でも俺にとっては彼らは商品ではない、それはこの企画を最初に思いついたS氏も同じだと思う。
マジックのネタをばらす、それを子供たちのために言っていた、マスクマンやデビッドの本当の気持ち、俺にはわかったような気がする。
9時半ダンサーたちをホテルに戻し、またスタジオに戻り、荷物の出しに付き合う。
マスクマングッズを貰う。
23時半スタジオを出発。明日以降のスケジュールの説明。24時にホテル到着。
終わった、終わった。
達成感はあまりないが、いろんなことを勉強できたと思う。
また会えるというか、もう一度仕事をしたい。

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2001年4月22日(日)

久しぶりにゆっくり寝れると思ったのだが、なぜかいろんなアィデイアが浮かんで早くに目を覚ましてしまう。
風呂に入り、身支度をして長良川旅館を出る。
快晴。大道芸日和だ。
野毛に向かう。12時前なのにかなりの人出。すでにあちこちにショーの始まるのを待つ人垣も。
チュルタギの会場の福富西公園に行くと、西田から声をかけられる。みんなが待っているから楽屋へ行って恋と言われる。
楽屋でユーさん、金さんと再会。ふたりと抱き合って再会を祝う。通訳のソンさんが、みんながずっと大島さん、大島さんと会いたいと言っていたから、てっきり女の人かと思っていたと言われる。
金さんから他のメンバーを紹介される。
12時50分今日一回目の公演。ソンさんもMCをするため、8ヶ月になるソンの子供を抱っこしながら見る。すごい人になった。久しぶりにこの公園でこんな人垣を見た。
金さんも気合の入った演技を見せてくれる。綱の上でジャンプするたびに、大きな歓声があがる。
いつもACCの公演を見に来てくれるTさんが、昨日も見たけど、いいね、綱の上で演技しているのを忘れてしまうよねと言ってくれたが、ほんとうにそうだと思う。
公演後みんな満足して帰るのを見ると、うれしくなる。チャン助さんを見かける。チャン助さんは昨日も見たけど、いいよね、もう一回見ようと言ってくれた。
2回目の公演が始まるまで時間があったので、やはり見に来てくれた照明のMと、他の会場を覗きに行く。
今日はどこもたくさんの人で賑わっている。途中大野とBPのフィリップと会う。フィリップとMと3人で万里で食事。
フィリップも連れて、チュルタギ会場へ。静岡大道芸フェスティバルのプロデューサーのKさんも見に来ていた。また凄い人出。一回目の時はあっさりと寝てくれた赤ん坊は、今回は泣きじゃくる。見かねた
Mが、楽屋に連れて行ってくれた。
公演後金さんたちの回りにはいろんな人たちが集まって声をかけたり、写真を一緒に撮ったりしていた。今日は投げ銭もかなり集まったと思う。
見てと声をかけた人たちが結構きてくれていた。みんな一様にいいねって言ってくれた。
18時から叶屋でいつものように打ち上げ。金さんたちも楽しんでくれたようだ。こうしていろんな国の芸人さんたちと交流できたことに感謝していた。
みんな片言の英語を交えて一生懸命交流している。
21時お開き。もう一軒ということで、韓国料理屋の「李さんの台所」に行く。
遅れて、大道芸のスタッフさんや、今日19時に成田に着いたBPのベルジー夫妻も駆けつける。
楽しい宴会になった。金さんもとても楽しいそうだった。安東で酒を酌み交わした時から、俺たちはビジネスじゃなくて、人と人としての友だちになった。これからもずっと付き合っていくんだ俺たちはと、金さんもユーさんも語ってくれた。ジンロをかなり飲んだ。
ホテルに戻る道中、金さんとずっと手を握り合っていた。言葉は通じないのだが、気持ちは通じている、そんなことを確認したかったのかもしれない。子供と同じように手をつないでいた。
ホテルで皆と別れを告げる。絶対にまた会えることがわかっているから、決してしんみりしたものではない。
最終近くの電車で、一週間ぶりに自宅へ。一週間分の荷物を抱えていたのと、かなり飲んでいたのと、疲れで途中の坂道で何度も立ちどまって、やっとのことで家に着いた。
ヘロヘロの一週間がやっと終わった。

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2001年4月23日(月)

熟睡というよりは、二日酔いで目覚めが遅くなる。今日はみんな出払っているので、会社は自分ひとり、早く行かねばならぬ。
飯も食わずに、家を出る。
会社に着いたのは11時すぎ。留守電が7件も入っていた。そのうち4件は大野からだった。
大野に頼まれたことを処理。
13時に会社を閉めて、ホテルに向かう。
S社長夫妻、A氏はミーティングを終えて、すでにロビーで待機。
今日帰国するダンサーたちも集まってくる。S社長夫人から四人にプレゼント。
14時すぎに、S社長夫妻、A氏、マスクマン、デビッドに見送りされて、空港へ向けて出発。
高速入り口で、渋滞の表示、芝浦まで下を走り、そこから高速に乗り、湾岸線を走ることになった。
連日の疲れか、うとうとする。ただ湾岸に入ると、車体が揺れるので、目を覚ます。今日は風が強い。結構ドキドキしながらのドライブだった。
15時20分成田に到着、すぐにチェックイン、ここで彼女たちと別れる。エバの風邪はまたぶりかえしていたようだし、サラの咳もあいかわらずだ。
ながい道中だが、あとはゆっくり療養してもらいたい。
空港からまっすぐ自宅に戻る。
久しぶりに家族の顔を見ながらの食事。23時には就寝。

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2001年4月24日(火)

10時出社。頼まれたことを処理して、早飯をして、ホテルに向かう。
12時45分ホテル発。S社長夫妻とA氏も見送りに来ていた。
デビッドとマスクマンを乗せて、空港へ向かう。車中で、自分の書いた本『海を渡ったサーカス芸人』をプレゼント。
ふたりとも喜んでくれた。もう5冊本を出していると言ったらびっくりしていた。
冗談めかして、次はマスクマンのことを書きたいと言ったら、ちょっと驚いていた。結構これはマジな話で、そのための牽制球だったのだが、ふたりともこれに関しては返事をしなかった。おそらく書かれて欲しくないのだと思う。でもあきらめない。
落ち着いたら正式にオファーを出そうと思っている。マジックの種を明かすマジシャンということではなく、ふたりの繋がりとか、なぜこんなことをしはじめたのか、それを軸にして書きたいと真剣に思っている。
ふたりとも空港までいびきをかきながら寝ていた。本当に疲れたのだと思う。
14時空港着。チェックインも問題なくすすみ、お別れ。デビッドがブラザーって日本語でなんていうと聞いてくる。兄弟って言うんだと答えると、「ヘイ兄弟、ありがとう」という言葉を残し、消えて行った。
ゆっくり休んで欲しい。
S社長に報告。リムジンに乗って新宿まで。会社に戻る。
T氏にカザフのオリエンタルアクロバットがイタリアに行ってしまったことを報告。
T氏も、うすうす感じていたようすもあり、冷静に次善策として、とにかく似たような番組を探すよう指示。
これは昨日ローマにも言ってある。
19時T氏との去年のカザフ珍道中をモチーフに映画をつくろうとしているI監督と、今日箱書きをすることになっている銀座のホテルへ。
監督は雑誌の取材の最中だった。これが終わったあと、和室の部屋に入って、監督が出す質問に答えるかたちで、ライターの人がワープロを打っていく。
もうひとり仲間のひとりと私に、いろいろな状況を提示しながら、話を組み立てていく。なかなか面白い作業だった。
ただこちらとしては、現在カザフの件で生々しい現実の話があるので、そちらの方に頭がいくこともしばしばあった。
朝の4時まで、いろいろ話し合いながら、粗筋ができあがった。なかなか面白いストーリーになったと思う。
タクシーで家へ戻る。着いたのは朝の5時だった。

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2001年4月25日(水)

起きたのは10時すぎ。雨が降っている。一風呂浴びて、朝飯を食べて、箱根に向かう。
睡眠不足で途中はとにかく寝まくる。
14時ユネッサン到着。まずは異動になるN氏、後任になるW氏とS氏と引き継ぎ事項の確認。
そしてそれが終わったあと、ゴールデンウィーク用のショースケジュールと場所について打合せ。
打合せを終えてから、楽屋を訪ねる。
N氏が異動になるということは、かなりショックだったようだ。
ショーを見たらかなり、工夫して構成しているし、表情にも余裕が感じられる。だいぶ慣れてきたようだ。今日は3人ともよくしゃべる。冗談もよく出るし、やっとここへきて慣れてきたようだ。
手紙を書かせる。明日会社からファックスで送ってやると言ったら、3人で机に向かい必死で手紙を書く。こんな姿を見ていると、まだ子供なのだなあとつくづく思う。
3人でいろいろいい合いながら、せっせと手紙を書いていた。どうも学校の同級生たちに書いているようだった。
公演後ゴールデンウィーク期間中の公演場所を見に行く。かなりやりやすいと思う。
ゴールデンウィーク明けにまた来ることを約束、別れを告げる。
N氏の真っ赤な外車に乗せてもらい、小田原まで送ってもらう。N氏にとっても今回の異動は晴天の霹靂だったようで、かなりのショックだったようだ。
ただうれしかったのは、これからもサーカスやパフォーマンスは見続けていきたいし、関係をもっていきたいといってくれたこと、そしていま基金集めをしているサーカス学校設立のために募金をすることを申し出てくれたことだ。
最初会ったときはサーカスもパフォーマンスもまったく見たことがなかったN氏が、短い期間の中でキエフに行ったりとか、いろんなパフォーマーと付き合うなかで、サーカスに関心をもってくれたことは大きな収穫だと思うし、たとえ東京に異動になってもずっと付き合いは続いていくと思う。
20時帰宅。食事を終えて、カザフのローマに電話。代わりになる女性パフォーマーを二組見つけたという。稽古して、来る予定だった演目をそのままやれるようにすると言ってくれた。
一通り懸案事項を話し合ったあと、ローマがとても残念な知らせがあると言い出す。
空中アクロバットのペーチャが、4月15日カラガンダで公演の最中に地上22メートルから落下して、亡くなったという。
ペーチャは、3年前リトルに来た時のメンバーのひとり。よく酒を飲んだ仲間だった。気性が激しく、怒ると手におえないところはあったが、根はいい奴だった。ローマの親友のひとりでもある。
言葉がでなかった。命綱を着けないのを売りにしていた演技だったが、結局それが仇になってしまったのだろうか。
一緒に仕事をしたことがあるツィルカッチの仲間をうしなってしまった。辛く、悲しい、どうにもできない話だ。

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2001年4月26日(木)

今日明日は事務所で留守番。
たまった書類の整理、メールの返事などの事務処理をする。
電話もほとんどない。静かな一日だった。
クリューコフのところに昨日あずかったユネッサンのパフォーマーたちの手紙をFAXする。あいかわらず一枚ずつやらないと入らない。
T氏に、カザフの状況を説明。少しは安心してくれたようだ。
S氏から電話、8月大分ドームオープニングイベントに、韓国のサムルノリを企画として提出するが、いいかという確認。
本当に久しぶりに一日事務所で過ごす。18時半に退社。

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2001年4月30日(月)

雨が結構降っている。10時55分発のひかりに新横浜から乗り込む。BPの3人と大野が東京から乗っていた。
途中人身事故がどこかの駅であったとか20分ほど遅れる、ほとんど車中は寝ていた。
名古屋駅に着いて、荷物を一時預かりに預ける。連休でたくさんの人が荷物を預けている、ここの横柄な係員が、こんな日はこんな荷物は自分で持って言ってよという。
ムカっとくる。名古屋駅は人でいっぱい。
リトルに着いたのは2時過ぎ。事務所には誰もおらず。韓国亭で食事。
3時からの内モンゴル雑技団を見る。ひとつひとつの芸は、なかなかすごいものがある。頭の上で百キロちかくの椅子をいくつもかさねてバランスをとる技や、一輪車に乗りながら、茶碗を投げ合って頭でキャッチする技には見応えがある。ただ全体的にテンポがないような気がした。
公演後団長に挨拶にいく。西田がカリカリしている通訳君、やはり日本語がよくわからない。これじゃたいへんだ。
S氏もいささかお疲れのよう。タックが今日はショーをしているというので、ドイツの館へ。すでに楽屋にはおらず、また入り口へ戻る。所長と少し雑談。
タックたちの控え室に行く。一年前もそういえばリトルにディック・フランコを連れて、GW期間中に来たことを思い出した。あの時もたいへんだった。
タックの車で駅まで送ってもらう。ホテルにチエックイン。
六時半白木屋へ、BP、大野、ハトガーがすでに来ていた。ハトガーに遅ればせながら赤ちゃんのお祝い。
BPはちょっと疲れている感じ、ただフィリップだけはあいかわらず、ずっとふざけまわる。
名古屋に宿をとっているBPたちは早々にひきあげる。ハトガーと、リトルのKさん、S氏と11時ぐらいまで飲む。ハトガーはずいぶん日本語が上手になった。ほとんど日本語で会話できる。
内モンゴルの通訳君への不満がかなり大きい。通訳はこう仕事の場合、重要な鍵を握っている。辛いところだ。
24時就寝。

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