クマのお仕事日誌
2001年5月分


2001年5月1日(火)

9時に犬山を出て、名古屋の栄へ。ワークショップの会場はBPが泊まっているホテルの近くだということを手がかりに、場所を探す。ホテルの前のフィットネスクラブがすぐに見つかった。
10時すぎ到着。すでにワークショップははじまっていた。Pに所属する10名のクラウンが今日の受講生。
BPのワークショップを見るのは今日が初めて。
ふたりでうまいぐあいに交代しながら、丁寧にクラウニングを教えていた。
クラウニングのワークショップは、ジャグリングのそれとはちがい、短い時間で、即効性で何かできるということにはならない。
おかしなことをつくりあげる、人を笑わせる、そのヒントをこの中で得ることが一番重要なことになると思う。その意味では、実にしっかりとした内容のワークショップになっていた。
ランチタイム一時間を挟んで、びっちり七時間クラウニングの基本を指導する。
興味深かったのは、舞台空間の中で、自分と他者との距離間隔を常に一定に保つ練習など、パートナーとの関係性を常に意識させることの大事さを強調していたこと。またただ舞台にあがって自己紹介をするというだけのトレーニングで、いかにお客さんとの間合いをはかることが、簡単なことではないということ、ギャグをつくるということよりは、こうした一連の他者との間合いがクラウニングにとって重要であることがわかる。
こうした過程を見ていると、かたちだけでクラウニングのスタイルをつくることではなく、観察力、なによりも他者を見る目、さらには即興の大事さ、頭よりも身体が動くようにすること、こんなことが大切であることもわかる。
クラウニングは奥が深い。
18時に終了後、ハトガーと62才でクラウンの道を志しているおじさんに名古屋駅まで送ってもらう。
購入していた指定席を、もっと早い時間にかえてもらい、大阪に向かう。
20時半ホテルにチェックイン。Y社のO氏から電話。朝日の記事が出てから、予約の電話がボンボン入っているという。初日は満杯になるのではということ。券売が一番心配だったので、これを聞いてすっかり安心する。
今日は北海道料理屋で夕食。蟹など海の幸を堪能する。BPの3人も喜んでいた。
明日の朝が早いので、23時には就寝。

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2001年5月2日(水)

朝5時起床。シャワーを浴びる。梅田に出て、地下鉄で難波まで。難波発7時のラピートの切符を購入後、近くの立ち食いそば屋でうどんを食べる。安くて愛想がいい。大阪である。
7時半関西空港着。パリからの飛行機は予定より20分早くすでに到着済。8時には舞台技術の二人が出てくる。二人とも煙草が吸いたいというのが第一声。
難波までラピート、難波からタクシーでホテルに向かう。
ホテルに着いた時はBPのメンバーが朝食を食べているところ。
やはり眠い、少し部屋で休む。
梅田に出て、とんかつ屋で昼食をとったあと、紀伊国屋、古本街をまわる。残念ながら古本屋は定休日。
2時頃ホテルに戻り、また少し寝る。
6時半新阪急ホテルで主催者のパーティー。久しぶりにHEPHALLのF事務局長と会う。なんでも昨年11月脳血栓になったという。
パーティーが終わったあと、皆で観覧車に乗ろうとぽうことになった。HEPで仕事をはじめて、乗ることをずっと拒否してきたのだが、今日は断われそうにもない。決心して乗り込む。マジに恐かった。
誰がこんなビルの屋上に観覧車をつくるなんて考えたのだろう。一緒に乗っていたフィリップが、ポケットからパーティーから持ってきた酒を出したのに大笑い。とにかく恐怖の15分だった。
これで真っ直ぐホテルに戻るかと思ったら、ゲーセンを見たいということになる。1時間ほどホテルの近くのゲーセンを見物。しかしまたいろいろとあるものだ。初めての経験。フィリップはダンスの振付にあわせて踊るゲームの前で、ずっと見ていた。
皆でプリクラをとってホテルに戻る。
1時半就寝。

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2001年5月3日(木)

9時ホテル出発。ヘップではすでに大勢のスタッフが入り、仕込をはじめていた。
10時に名鉄の荷物が到着。8階まで搬入。仕事らしき仕事をしたのはこれまで。
あとは前回BPの公演を手伝ってくれたスタッフさんにおまかせ。
会場内のロビーに机を並べて、仮事務所らしきものをつくり、パソコンでメールの確認やら、手紙書きをする。
仕込は2時半で切り上げ、3時からワークショップ。20人ちかくの人が集まる。
途中までしか見なかったが、名古屋の時よりはみんな参加者の人たちが積極的なような気がした。
YのT氏来訪。ユネッサンの件やカザフの件を打合せ。
19時すぎにワークショップが終わるのを見届けて、T氏と食事にでかける。
メンバーは音のチェックをするということで、あとで合流すること。
連休ということで、どこもかしこも一杯。お初天神のミュンヘンに入る。
22時にメンバーとスタッフも合流。ただ23時で閉店ということで、慌ただしく飲み食いするかんじ。
T氏とO氏と三人でショットバーへ。
結局2時半まで飲む。かなり飲んだと思う。
でも楽しい夜だった。

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2001年5月4日(金)

二日酔いと寝不足でフラフラ状態で、朝飯を食べる。ベルジー夫妻が食事をしていた。10時にフィリップとベルジーを会場まで連れていくことになっている。
フィリップの部屋に電話。あとで行くという。なんでも技術者のふたりとフィリップは朝四時まで飲んでいたという。
上手がいた。
会場についてもほとんどやることはない。Aさん、Y夫妻に舞台のことはまかせぱなし。前回もやってくれているし、信頼しているので、下手にくちだすことはない。
それにしても調子が悪い。ホテルに戻って30分くらい横になる。
4時前、西田が到着。リトルから大阪に入ったもの。
4時からBPのデモンストレーション。ヘップのなかを周回するパフォーマンス。およそ一時間じっくりとまわる。いままでヘップでやったデモンストレーションとはまったく違う。
実にユニークなパフォーマンスだった。
5時半受付開始。早い出足。三島子ども文化ステーションのYさん、灘生協のTさんご夫妻、パフォーマーの揚野君ら顔見知りと旧交をあたためる。
開演6時半前にはほぼ立ち見状態。椅子を急遽足したりと、会場整理が今日はたいへん。
今日は会場で見るのはあきらめ、楽屋で大野とモニターを見ることに。
最初のシーン、車に乗ってワイパーを使ってのギャグで、早くも場内は笑いの渦。いい感じで始まる。
モニターなので客席の様子はわからないが、リアクションはいい。
終演、客席から出てくるお客さんの顔がみんな満足気、笑いがまだ口許に残っている。Yさんたちのお母さんグループも、面白かった、口がカラカラになるぐらい笑ったわと声をかけてくれる。揚野君もいいですよ、無理して来たかいがありましたと言ってくれたし、T氏もいい気分転換になったと、評判は上々。Y社のO氏も、スポンサーさんも大満足と教えてくれた。
今日は207人だったという。大成功だろう。
近くの居酒屋百番で打ち上げ。HのK氏、さらには舞台監督のF氏も入り、賑やかな宴会に。
ベルジーがジョークを交えながら、日本側に感謝のことば述べる。
私の時は、今回は大島をアテンドにつけてくれたことに社長の西田に感謝したい、Butもう少し給料をあげて、あまり大きくないジャケットを買えるようにして欲しいというスピーチだった。
というのもBPのふたりは、今日着ていたジャケットが大きめで、袖が長すぎることが可笑しくてしようがなかったらしい。
10時半にお開き。
昨日が昨日だったので、そのままホテルに戻るが、西田は、舞台監督のA、Y、Fらと二軒目へ向かったようだ。
12時すぎに就寝。

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2001年5月5日(土)

久しぶりにゆっくり寝れたような気がする。朝食をとりに下のレストランへ。西田が食事中。
なんでも昨日は、あれから2軒回って、舞台スタッフのYは、家に帰れず、西田の部屋で寝ているという。
ちょっと打合せをして、西田と別れる。西田はこのまま東京に戻る。
大野から昼過ぎ電話。なんでもいま起きたという。かなちゃんがもう大阪に来ているとのこと。一緒にラーメンを食べにいくことにする。
ロビーで舞台のフランソワたちと会う。彼らもいま起きたばかりだという。
かなちゃん、大野、フランソワたちと一緒に美味しいと評判のラーメン屋揚子江に行く。
スープは薄味、麺がのびているのがちょっと興ざめだが、ちょっと癖になりそうなラーメンかもしれない。
大野たちは、お茶を飲みに行った。自分は、そのままHEPへ。
またロビーに机を並べてオフィスを開設。メールなどのチェック。デラシネ通信用の原稿も書く。
東京の辻君に電話。ミクロバンドもとてもいい評判だという。今回が現場をひとりで担当するのが初めての辻君もどうやら落ち着いて仕事をこなしているようだ。
これでずいぶんと成長するだろう。ひとつの仕事をなし遂げたことが、なによりも自信になる。
16時からのデモンストレーションは、途中から見る。
17時半ロビー開場。昨日と比べて出足が遅いような気がしたが、それでもほぼ満員。
S社のK家族、N氏、ダスキンのTさん、パフォーマーのH、Sらも見に来てくれた。
デラシネ通信の愛読者のひとりAさんと、お友だちのM氏も来場。差し入れをもらう。
Tさんは去年も民博でのBPズームの公演を見てくれた。Tさんがでも一番傑作だったのは、最後に挨拶したN教授をBPのふたりが徹底的に茶かしたことだよね、と言っていたら、舞台監督のYが、あっN教授だと叫ぶ。
絶妙のタイミングで、受付のところにN教授が現れたのに、一同びっくり。
ACCも、舞台監督も、大野も、N教授にはずいぶんと振り回されたので、誰も会いたいとは思っていない。結局そのままにしておく。
スタッフは立ち見で見ているのに、Tさんに席をとってもらい座って今日は見ることにする。顰蹙もの。
いやあよく笑った。去年シアターΧでも見ているのだが、あの時は精神的にも肉体的にも疲れのピークの中で見たので、確かに面白かったが、のめり込んで見るという感じではなかった。
今日はすっかり客のひとりとして爆笑できた。隣のTさんもよく笑っていた。
公演後、AさんとM氏とナビオで食事、そのあと大阪駅の近くのホテルのラウンジでちらっとビールを飲む。
楽しい一時だった。
23時ごろ部屋に戻る。
ツォイの原稿を書き上げる。
2時就寝。

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2001年5月6日(日)

10時過ぎに目が覚める。ホテルで朝飯を食いそびれてしまう。
結局昨日行った揚子江で、ラーメンの大盛りを食べる。
12時前にHEPに。今日はF事務局長も来ていた。朝からHEPには、BPズームの問い合わせが殺到しているとのこと。
おそらく口コミなのだろう。
13時からデモンストレーション。今日はエントランスにあるクジラのオブジェをつかって1Fでたっぷりとパフォーマンス。
東村や名古屋でワークショップを受けた人たちの姿も。
皆日帰りの予定で駆けつけたという。
デモンストレーション終了後、フィリップとベルギーに拙著「サーカスと革命」をプレゼント。ベルギーはラザレンコのことを知っていた。ふたりとも喜んでくれる。
15時開場。今日は出足が早い。席を増やすよりは、全員入れるように立ち見席を増やすことで対応しようということになる。
クザンのセールスをしてもらっているM氏、さらにはACCの催し物をよく見に来てくれるKご夫妻も東京から見に来てくれた。
今日はメモをとりながら観劇することに。立ち見で見ている人が30人ぐらいいた。
最後ということもあり、エンディングはいつもよりもくどくやってくれた。
今日はなんと、当日売りが48枚でたというので、HEPのひとたちもびっくり。 見終わったM氏やK夫妻も、ちょっと興奮気味で、笑いのケタが違うよねと言っていたが、的を得た言葉だと思う。
撤収は、早かった。20時すぎにはすべて完了。打ち上げは21時半だったので、時間があいたので、F事務局長とビールを飲みに行く。
来年は、ワークショップを少しながめにやって、そこでつくったエチュードを発表するところまでやりたいという。
21時半居酒屋で打ち上げ。BPのふたりから、世話になった人々へのプレゼント。私はリンゴをもらう。
いったんばれたあと、ホテル近くのバーでメンバーと舞台監督のAさん、Y夫妻、通訳のMと二次会。
ベルギー夫妻と、A夫妻は早めに引き上げる。ベルギー夫妻とはここで今回のお別れ。
2時半まで結局飲んでいたのだが、後半はフィリップとクラウンについてずいぶんと難しい話をした。
コメディアンとクラウンのちがいはと聞くと、フィリップは「答えは簡単、クラウンの方が上さ、クラウンは何でもできるのだから」と答えていたのが印象的だった。
3時すぎに就寝。

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2001年5月7日(月)

9時すぎに大野の電話で目が覚める。9時にレストランで打合せをすることになっていた。大急ぎでレストランへ。舞台のフランソワたちもいた。私の寝ぼけ眼を見て、ふたりとも苦笑。
あわてて食事をとり、部屋でメールのチェック。BPズームの次の公演先のリオデジャネイロから返事は来ていなかった。
シャーワーを浴び、荷物を片づけてフロントへ。フィリップもレストランで食事していたので、3人にお別れの挨拶。
公演でつかったバッテリーを持っていくことになったので、タクシーで新大阪へ。
10時33分発ひかりに乗る。ただひたすら寝る。
静岡でこだまに乗り換え。会社と辻君に電話を入れる。
小田原の駅のコインロッカーにバッテリーを預け、バスに乗り、ユネッサンへ。
辻君はすでに到着済。連休が終わった翌日ということで、館内は閑散としている。
3人のアーティストも疲れ切った感じ。
楽屋で15分の短縮パージョンのMDをつくる。思ったより簡単で、作業も早く終わったので、森の湯(露天風呂)に入る。
あがってビールを飲んでいたら、中年の夫婦らしいロシア人カップルが2組、日本酒を飲みながら、飯を食べていた。
箱根で温泉を楽しもうというロシア人もいるのだ。
公演終了後、タクシーに無理やり5人乗って、小田原まで。すぐに西田とN氏と落ち合う。駅近くのスーパーで買い出し。
20時ごろ、N邸に到着、焼き肉の準備。
3人とも良く食べ、よく飲んでいた。3人からNさんに世話になったことに感謝の言葉。心からの言葉だった。
明日は休日、久しぶりにのんびりできたのではないだろうか。
私と辻は23時10分小田原発の東海道線の最終に乗り込む。タクシーで3人はそのまま宿舎へ。お金を運転手に渡しておく。
いつものように大船で乗り換え、新杉田まで京浜東北線。とにかく眠くてしようがなかったが、なんとかがまんして、12時半家に到着。
ながいながい私のGWはようやく終わった。

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2001年5月8日(火)

今日はくそ重たいバッテリーを持っての出社。原宿を下りたところで辻君に会い、途中まで持ってもらう。だいぶ助かった。
身体も頭もぼっとしているのが、よくわかる。
机の整理をしながら、とりあえずは5月19日からキエフに行く西田の航空券の手配。
大阪公演でお世話になった人たちに、メールでお礼。
大野が大阪から戻ってくる。朝8時のフライトだったのだが、結局オールナイトで皆で飲んでいたらしい。それは疲れるはずだ。
目の下に隈がでていた。
昼過ぎからミーティング。それぞれ担当した部分の報告。BPズームもミクロバンドも成功し、あと来年どういう展開をしていくのかという話に。
今回はみんなよく働いたとつくづく思う。
なまあくびが出でしようがない。
「デラシネ通信」の原稿を一本書いて、デスクの大野宛てに送信。
ここでほとんど身体も頭もエンジンが停まる。
18時すぎに退社。20時前に自宅に戻る。
24時前に就寝。

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2001年5月9日(水)

6時に起き、久々にジョギング。連休前はツツジが満開だったのに、いまはすっかり散り、新緑が目に滲みる。
歯医者に寄ってから会社へ。
少しは仕事をしなくちゃモードになってきた。
ユネッサンの二期分の芸人さんの契約書を作成、T氏にFAX。
査証用の書類をつくるが、いくつか不明点が出てくる。クリューコフの携帯に電話。なんでも今日はウクライナは戦勝記念日で祝日だという。明日電話くれとのこと。カザフ大使館に何度も電話してでなかったのも、このせいだろう。
西田のキエフ行きの航空券の手配。モスクワ経由だと帰りの便の繋ぎがひどく悪く、10時間も空港で待たなくてはいけなくなる。モスクワ市内観光するためには、ビザを取らなくてはならない。時間もないし、金もかかるので、それだったら
オーストリア航空の方がいいのではないかということになる。しかし結局オーストリア航空は、混んでいてウェイティングという。
結局10時間空港で待つスケジュールでとることになった。1万円でホテルで休憩できるというので、それをとってもらうことに。
気になるのは、カザフのオリエンタルアクロバットのかわりのビデオがまだ来ないこと。
7時前に退社。
少しずつ調子が出てきたかなという感じ。

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2001年5月10日(木)

朝病院に寄って、糖尿の検査。前回血糖値178という驚異的な数字を出してしまい、これからは1ヶ月に一度検査をすることになった。
ただあの検査のあとも、かなり飲んでいるから、今回もどんな結果になるやら。
虎ノ門のアエロフロートに寄って、オリガの航空券が変更できるかどうか聞く。たぶん大丈夫だろうが、一応現地に照会してみて、あとで連絡をもらうことにする。
カザフの映画の件で、I監督にメール。
カザフ大使館に電話、北九州博覧祭のカザフサーカス出演に関し、後援の依頼をする。来週月曜日に一等書記官と会うことに。
ユネッサンの第二回目のパフォーマー派遣について、請負契約の確認のため、Y社のT氏に電話。
あれでいいということだが、大問題が発生という。昨日ユネッサンから電話があり、ウクライナのパフォーマーについては、8月一杯で終了にしたいとのこと。
こういった話を聞いてもあまり驚かなかった。おそかれはやかれ出てくる問題ではあったと思う。T氏としては、すでに二回目の分は9月一杯ということで、契約してあるので、これはくずせない。
ただ10月以降については、ウクライナ以外で考えなければならないだろう、ということに。
一度T氏と新しい総支配人と今後の方針を話し合ってもらった上で、どんなパフォーマーが必要なのかを見極める必要がありそうだ。
クリューコフに電話、二回目のアーティストの査証の件で問い合わせと、ユネッサンの方針を伝える。ちょっと落ち込んでいた。
カザフのビデオをダビング。ひとつはI監督に送る分、もうひとつはT氏に送る分。
18時半すぎに作業が完了。宅急便で送り、退社。

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2001年5月11日(金)

会社に出勤する前に、銀座の床屋で散髪。ずいぶん伸びましたねといわれたが、2月以来今年二回目の散髪。伸びるのも無理はない。
午前中ユネッサンのキエフ分の支払い関係を整理。前払いや、立替えなどごちゃごちゃあり、整理するのが結構大変だ。
リストをつくり、秋田のかなちゃんにFAX。
アエロフロートから電話、オリガの航空券50ドルで当日乗り換えで変更できることになった。なによりである。これで本人も安心だろう。
和歌山のIさんからメール。サンケイ新聞の大阪の記者が、今度「日本人の足跡」で玉井喜作をとりあげるという。沢田豊の次は、玉井喜作。笑ってしまう。今度も若い記者だという。本は出したとはいえ、まだ無名に近い沢田なり、玉井がこうやって、若い記者がまた足跡を追うというのは、嬉しい。
17時半会社を出て、野毛へ。今日は万里でデスクの大野と「デラシネ通信」編集会議。
打合せといってもほとんど打ち合わせるようなことがない。途中から万里のおやじ福田さんが入り、馬鹿話に花が咲く。
こうして福田さんの馬鹿話を聞くのが、なによりもの疲労回復になる。
万里の閉店のあと、つばき荘により、軽くハイボールを一杯飲む。
家に戻り、カザフのローマに電話。交替要員のキルギスのアクロバットのビデオは明日送るという。それよりも問題は、今回の公演期間が短いこと、ローマ自身は3ヶ月ぐらいできると言ってアーティストを押さえていたらしい。
なんとかならないかといわれる。ローマ自身もこのところ身体の調子が悪く、検査のために3〜4日入院することになったらしい。
一件落着だと思っていたが、まだまだ波瀾含みだ。
また胃の痛い日が続く。

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2001年5月14日(月)

朝、カザフ大使館に寄る。しばらく行ってなかったので、少し道に迷う。一等書記官と面会。
北九州のカザフサーカス出演について、大使館の後援をもらうことが目的。
これについてはあまり問題なさそう。いま進んでいる映画の話をすると、膝を乗り出して、いろいろ聞いてくる。
カザフのいままで知られていない部分を紹介するためには、格好の企画だと思ったようだ。大統領直轄の団体に、コーディネイトを委託することもできると言っていた。
会社に戻る。こまつ座のT氏が来社。いよいよモスクワ公演の準備で、20日からモスクワに行くとのこと。
字幕や同時通訳、宣伝・入場券販売の件で問題は山積みのようだ。
T氏が帰ったあと、この件で協力してもらっているモスクワのA氏から電話。いま日本にいるという。今回は忙しくて会えないというが、今年NHKで放映された「菜の花の沖」のビデオが欲しいという。明日宿泊先の品川プリンスに届けることにする。
ユネッサンのワジムから電話。オリガがちょっと熱があるという。Wさんに電話。解熱剤のようなものを、渡してもらうようにお願い。
ななちゃんが来社。7月7日のソロライブのチラシをコピーする。
サーカス学校の教師として招聘する予定の先生の仮契約書をつくる。
キエフのナージャに電話。クリューコフの演出する演し物が、いよいよ来週から公演ということで、かなりてんてこ舞いの様子。
それはいいのだけど、査証申請のための書類を早く送ってくれ。また前回の二の舞になる。
19時退社。

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2001年5月15日(火)

10時小田原駅。ユネッサン三人組と落ち合い、東海道線に乗り、東京へ。
今日は東京見物の日。いろいろ予定は考えて来たが、成り行きを見ながら、いろいろ案内しようと思う。
まずは定番の秋葉原。駅に着いて、電気屋さんの看板を見ただけでショックを受けた様子。
ラオックスの免税店をのぞいてみる。いつも冷静なビータが、変になりそう、こんな買いたいものがたくさん並んでいて、どれを買っていいかわからない、どうしたらいいの、そんな感じだった。
いったん店を出て、昼食をとることに。ステーキハウスで肉料理を食べる。三人ともきれいに平らげていた。
昼食後さらに免税店を見学。オリガは、いろいろ迷った末CDウォークマンと、お母さんから頼まれた血圧計を購入。ワジムとビータはさんざん迷ったらあげく、ビデオカメラを買う。面白かったのは、買うと決めてから、茫然自失となっていたこと。買えてよかったという安堵の思いと、いいのかしらこんな高いものを買ってという半ば罪悪感の気持ちが複雑に交叉していたのだと思う。
ふたりとも、6月に誕生日を迎える。ワジムが、ビータこれは俺たちが自分たちで買った誕生祝いだったんだよと、なんとか納得させようとしていた。
ものがあふれ、自由にものが買える日本とは、やはり違うのである。
一通り買いたいと思っていたものを買ったあと、アメ横に連れていく。ここでも彼らは相当ショックを受けたようだ。あふれる人、モノの氾濫、どれもこれも、初めて経験するものだったに違いない。
ビータが、靴屋で1,000円の厚底サンダルを購入。
上野から新宿へ移動。高層ビルを前にして、またしてもショックを受けていた。
住友ビルの51階にある展望コーナへ。写真を撮って、下のカフェで休憩。
三人ともいささか疲れた様子。オリガがぽつんと帰りたくないと、一言。
ワジムは、日本の感想っていろいろ着いたばかりの頃聞かれたが、いまだったら答えられるとも言っていた。
三人にとってはまさにカルチャーショックの一日だったようだ。
夕暮れの新宿をあとにして、東京駅へ。東海道線を待つ人の多さにまたしても驚く。二本電車を待って、なんとか席を確保。
自分は品川で降りる。
品川プリンスに寄って、Aに依頼されていたビデオを届ける。
しかし今日は疲れた。自分の買い物ならともかく、人の買い物に付き合うのは、大変だ。
21時に帰宅。

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2001年5月16日(水)

出勤途中の電車で、上野英信の『出ニッポン記』を読み終える。ゴールデンウィーク前から読んでいたもの、ずいぶんと時間がかかったが、あえて時間をかけて読みたいと思った。記録文学として、出色の作品だった。
本を読み終え、おもわず涙が。炭鉱を追われ、南米へ旅立った炭鉱夫たちのその後をたどったこのノンフィクションは、もう少し前に読むべきだった。
13時からplanBで、6月に立ち上がるカバレットBの打合せと、ネタ見せ。
ネタをつくってきたのは、ケッチとマキちゃん、ビデオを送って来た大阪の稲垣君だけ。今回は出演メンバーも少ない。いまのところ6組。時間にして50分に満たない。他に誘った方がいい人をリストアップ。
プラコメは、「お笑い」がひとつの括りだったが、カバレットBは、ドイツのキャバレーをかなり意識しており、いろんなジャンルの人を集めて見せたいということがある。
音楽もの、美術系のパフォーマーを誘うことにする。
ネタ見せ。ケッチのは、まだ出来上がっていないが、面白くなる要素はかなりある。マキちゃんのは、まだ作品として出来上がっていない感じ。みんなからいろいろ意見が出される。結局なにを表現したいのか、それが問題なのだと思う。
今回は全員がネタを見せたわけではないが、こうしたネタ見せ、そのあとの意見の交換が、これからは重要になってくるはずだ。
おそらくは第一回目は、静かにスタート、それからまた試行錯誤が始まる野だと思う。
結局17時までかかる。
18時に会社に戻る。
メールの返事などをして、19時に会社を出る。

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2001年5月17日(木)

先週受けた糖尿の結果を聞きに、病院に寄る。前回は178という驚異的な血糖値にたまげてしまい、これから毎月検査を受けることにした。
BPとかとずいぶん酒を飲む機会が多かったし、運動もできなかったし、ちょっと心配だったが、147まで落ちていた。コレストロールもだいぶ下がった。
とりあえず薬だけは絶やさなかったので、それが大きかったかもしれない。
アエロフロートに寄り、オリガの航空券の変更。50ドル(6,200円)変更料を取られる。
11時出社。
サーカス学校の先生と交わす契約書をロシア語にする。
7月からのユネッサンに入るアーティストの査証申請の準備。クリューコフに頼んでいたものがまだ送られて来ない。もう一度キエフに電話。
来週から始まるフェスティバルの準備で、家族総出で忙しいらしい。ナージャが、書類は必ず送るからと言ってくれるが、あてにしていいのだろうか。
久しぶりに韓国のチュルタギのユーからFAX。事務所を移転し、事務員をひとり増やしたらしい。
大道芸の仕事で問い合わせがいくつか来る。
帰り道久しぶりに代々木の本屋に寄る。なにげなく「編集会議」という雑誌を見ていたら、なんと編集者にすすめる本という特集のノンフィクション部門で、目黒考
二氏が、拙著「シベリア漂流」を推薦してくれていた。うれしくて、平積みにされていた別の「編集会議」を購入。家で自慢げに皆に見せようと思ったら、なんと先月号の「編集会議」。
笑われてしまう。明日交換してもらうおう。

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2001年5月18日(金)

朝出勤途中昨日の本屋に寄り、「編集会議」を交換してもらう。
査証書類を作成。大野に渡す。
チュルタギ保存会にメールをしたうえで、T企画のS社長に電話。夏のイベントの韓国の農楽派遣が問題ないことを報告。
明日から西田がキエフに行くので、16時からミーティング。ミーティングの最中に、カザフからビデオが届く。代替えのアクロバットが入っている。
ミーティング終了後、タビングをしながらビデオを見る。4人編成だが、問題ないと思う。あとはこの人数が減ったことをどう処理するかということ。
早速YのT氏に電話。日曜日に関空に内モンゴルサーカスの新しい団長を迎えに行くので、その時会うことにする。
ローマから長々と手紙。現在の苦境が書かれている。とにかくなんとか北九州以外に仕事を探してもらいたいと切々と書いてある。
なんとかしなくちゃならない。とにかく知恵を絞って、兄弟分の苦境を救うことを考えなければならない。
18時45分からサーカス文化の会。今日は韓国サーカスの話題。先月韓国にサーカスを見に行ったM氏の報告を、一緒に行った西田が補足するかたちで進められる。
久しぶりにチャン助さんと会う。私とチャン助さん以外は、韓国でサーカスを見ているので、話が結構はずむ。
「デラシネ通信」での林さんとの対談を思い出す。少なくてもいまの韓国サーカスは、国からの援助も受け、大きく脱皮しようとしているようだ。しかしその底流は、おじいちゃんおばあちゃんといった高齢者の娯楽、ノスタルジーに異存している部分もあるようだ。
この日はあっさり解散。会に出席していたI氏に、光洋ちゃんの公演を見るように念を押しておく。

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2001年5月20日(日)

6時に起きて、ジョギング。庭に出てストレッチをしていたら、半ば飼い猫のミケが、椋鳥を口にくわえて登場。雀、トカゲをいままで血祭りにあげていたが、今度は椋鳥。とにかく生き物を捕まえるのが好きな猫だ。
9時23分新横浜発新幹線に乗る。なんと修学旅行の中学生のグループと、高野山参拝の団体客のサンドイッチになる。賑やかだ。考えてみれば、来週は長女が修学旅行だ。
「声の国民国家・日本」を読み終える。日清戦争、日露戦争と日本のナショナリズムが高揚していくのと軌を一にして、人気を博す浪曲の隆盛を、語り物(オーラル)が本来もっていた天皇制的心情(例えば義理とか人情とか、仇討ちとか、内なる共同体への執着)と重ね合わす、独特な視点で分析する。
面白かった。少し寝る。名古屋で内モンゴルサーカスの通訳のGが乗り込む。結構オドオドしていた。
新大阪で、はるかに乗り換え、関西空港へ向かう。車中Gといろいろ話す。最初は日本語がよく聞きとれなかったといっていた。敬語が難しいとも。
13時半新団長を乗せた飛行機到着。おりしも大阪で開催中の東アジアスポーツ大会に出る選手団がどっーと出てくる。これを迎えるスタッフがなんとも頼りない。ほとんどはボランティアなのだろうが、かなり高齢のおじいちゃんもいた。見ていていらいらしてくる。もう少し手際よくできるはずなのに、人数ばかりいてもしようがない。
まもなく団長が出てくる。14時18分のはるかまで、あまり時間がない。はしって緑の窓口へ。18分に乗るんですかと、駅員が訝しげ。強引に切符を買って、とにかくふたりを案内。Gはかなりオドオドしていたが、とにかく改札口を通す。3分しか時間がなかったが、なんとか乗ってくれた。
ラピートで難波に出る。南海サウスタワーホテルでT氏と落ち合う。
近くの喫茶店で、打合せ。
17時10分新大阪発の新幹線に乗れる。
21時帰宅。飯を食い、風呂に入ってから、一息ついて、カザフのローマに電話。
とりあえず1ヶ月の公演で納得してくれた。ほっとする。とにかくローマたちはいま苦境にいるのはまちがいない。
去年9月カザフに行ったときから状況は決して変わっていない。それはまちがいない。
なんとかしなくてはならない。自由経済に移行するなかで、その基盤を失おうしているかつての国立サーカス団、モンゴルそしてカザフ。経済の論理から言えば、しようがないのかもしれない。かつての東ドイツのサーカス団もそうだった。
日本にいて、どうしよう、こうしようといっても限界はあるのかもしれないが、黙って見てていいのだろうか。
なんとかしなくてはならない。これは真剣に考えるべきことだ。
それはサーカスを食い扶持としてきた自分にとって、絶対に避けてはならない問題だ。
資本の論理ではなく、芸人が自立できる道を探ること、これは西田がいま展開しようとしているサーカス学校にもつながる問題だと思う。
芸人が自立しながら、生きていくする道がきっとあるはずだ。そう信じたい。だからそのための道筋をつくること、それが自分のとても大事な仕事だと思う。
明日から三日間、石巻の田代島に行く。

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2001年5月21日(月)

今日から三日間は、お仕事日誌ならぬ、お遊び日誌になる。
今日から義父のお供で、宮城県田代島に小旅行。義父がかつて富士通の役員を勤めていた時の運転手の人が、家族を置いて田代島で生活しているという話を聞いたのはだいぶ前。
たまたまこの人が今年3月義父のところを訪ねてきた。行きたそうにしていたので、私も付き合いますよと言ってしまった。
というかちょっと興味があった。それで今回の旅行と相成った。
娘が半ば呆れ顔で、お父さん本当に行くのという言葉を背に、家を出る。
新幹線、仙石線と乗り継ぎ、15時半の船でおよそ40分、田代島に到着。
Nさんが出迎えてくれた。この島に住み着いて四年になるという。精悍な日に焼けた顔、すっかり漁師の雰囲気が漂っている。
Nさんの案内でとりあえず、島を車で一周。風呂に入って、酒盛りに突入。
テーブルには今日とりたての海の幸が一杯。ばかでかいシャコ、つぶ貝、すすぎとかわはぎの刺身。ワラビもあった。
Nと義父は、勤め先での思い出話に。
10年間ドライバーを勤めていたというNさんにとって、義父は役員というよりは、おやじさんという感じだったという。
かなり酒のピッチが早くなる。一升瓶が一本かるく空く。
義父がダウンしたあと、Nさんと今度はウィスキーを飲みながら話を聞く。
会社勤めをしている時から、田舎で暮らすことが夢だったという。退職金をほとんどぶちこんで、この島の家を買って、改装したという。
いまは島の水道管理人という職を得て、ここでもらう5万ちょっとのお金で、すべての生活費はまかなえるという。
朝とれた魚をもらったり、安く譲ってもらい、野菜は家の庭で栽培しているという。
家族もたまに遊びに来るという。
いまの生活を満喫しているようだ。
うーん。なんかうらやましい。
11時すぎに就寝。

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2001年5月22日(火)

8時朝食。今日の食卓も海の幸でにぎわう。義父は5時半に起きて、1時間半散歩したという。
それにしてもNさんはよく動く。朝早く起きて、水道管理人としての仕事をこなしたあと、港に行って魚をもらってきて、食事の支度。とにかく身体が休みなく動いている。
食べてからも、すぐに食器を洗い、洗濯。生活にしみついたリズムがある感じだ。
勝手にしてくださいというありがたい申し出にしたがい、とりあえず島内を散歩することに。
午前中は島の半分をおよそ2時間かけてまわる。とにかく人がいない。いま住んでいるのは100人ぐらいで、ほとんどがお年寄りだという。
散歩していても生活の音が聞こえない。鶯やカラスの鳴き声、海鳴り、風の音しか聞こえて来ない。小さな灯台のある岬まで行く。これがなかなかの難路。昨日の雨で濡れた草を踏みしめていくうちに、ズボンがすっかり濡れてしまう。
昼御飯を食べたあと、一休みしたあと、こんどは残りの半分を歩く。
この島では犬が飼うことが許されていない、猫を大事にしているからだ。確かに猫があちこちで大手を振って歩いている。そして猫神様まである。
散歩から帰り、横になりながら相撲放送開始から結びの一番まで見るという、十年来やっていなかった贅沢をする。
今日の晩御飯は、とりたてのひじきの煮物と、かわはぎの天ぷら。
今日も一升瓶1本半。義父はこうしてかつての部下にこの島で会えたことがとても嬉しかったようだ。Nさんももう上司ではないが、ここまで会いに来てくれたことが嬉しかったようだ。
田代島ももちろん良かったけど、なによりこうした出会いの場に立ち会えたことが一番よかったと思う。
ずいぶんと贅沢な休日をおくったように思える。
23時就寝。

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2001年5月23日(水)

昨日は5時半に起きて散歩した義父も、連日の酒盛りで疲れたようで、今日は8時まで寝ていた。
携帯に不在着信の通知。公衆電話からだった。Yで働いているメンバーからだったと思い、ホテルに電話するが、繋がらない。
会社に電話、会社には電話がないという。
玄関前で記念撮影して、船着場へ。10時58分発の船に乗る。
Nさんが、シャコ、つぶ貝、わらびを詰めてくれたお土産をくれる。
ほんとうに世話になった。
船にいるときYのKさんから電話。オリガの具合が悪いということで、病院に連れて行き、今日は休んでもらったという連絡。
こうやって楽しているとなにかある。
仙台で昼食をとり、新幹線で東京へ。ほとんど寝ていた。
こちらは雨。なんとなく梅雨の感じだ。
17時前に家に到着。TのKさんから最近刊行されたというレザーノフの辞書の訳本が送られてきた。
21時にビータから電話。オリガはこの数日何を食べてももどすということが続いていたという。いまは薬も飲んで休んでいるから大丈夫だと思うと言っていた。
明日の様子をもう一度連絡するように伝える。場合によっては箱根へ行かなくてはなるまい。

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2001年5月24日(木)

オリガのことが心配になり、急きょ箱根に行くことにする。家を8時に出て、箱根に着いたのが、10時すぎ。
まずW氏のところに顔を出したあと、メンバーが泊まっている宿舎へ。途中ワジムとビータと会う。ふたりともびっくりした様子。
オリガの調子はあまりよくないという。部屋へ行く途中で、オリガと会う。
顔が蒼白い、3−4日ぐらいずっと食べて戻すの繰り返しだという。風邪かと思ったのだが、そうでもないようだ。ミルクとヨーグルトしか食べてないという。
昨日から比べたら、少しは良くなった感じというが、ちょっと心配になる。
近くの昨日に行った診療所に行って、症状を聞く。胃潰瘍の軽いものか、十二指腸潰瘍、もしくは胆嚢炎ではないかという。いまのところは昨日あげた薬を飲んで、様子を見るしかないというので、明日また具合が良くないようであれば、明日もう一度来るということにする。
おかゆやうどんを柔らかく煮たものを食べるといいというので、コンビニでレトルトのお粥を購入。
W氏のところに行き、経過を報告、とりあえず今日、明日については仕事をしないということで了解してもらう。
お粥をワジムに渡す。ホテルに行って事情を説明、鍋とか貸してもらえないか聞くが、そうした設備はないという。明日コッヘルを持って来よう。
ワジムに社員食堂で茶腕とか、鍋を借りるように指示。どうしても3時までは会社に戻らなければならないので、12時半近くのバスに乗る。
3時前に会社着。明日入管に提出する書類で、ひとつ足らないものがあるので、クリューコフに電話。すぐにファックスしてくれた。キエフにいる西田も元気そう。タミラの公演も22日に終わったようだ。
3時半北海道の小樽からきたI氏と打合せ。
明日の入管は辻君に行ってもらうことにする。
YのT氏にオリガの件を報告。
つくらなければならない資料がいくつかあるので、それをまとめる。
8時にオリガから電話。また夜になって調子が悪くなって、吐いたという。とにかく明日一緒にもう一度病院へ行くことにする。
10時帰宅。切符を紛失してしまい、品川からの分470円を払う。
しかし良く降る雨だ。まだ降っている。

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2001年5月25日(金)

8時オリガから電話。少しは良くなったが、病院に行きたいという。
箱根に行くことにする。以前ウクライナ人のサーカスアーティスト、アンドレイにもらった蕎麦の実と、コッヘルを持っていくことにする。
これがあればお粥がつくれるはずだ。
今日は昨日とはうってかわって、上天気。
10時過ぎに宿舎に到着。途中ワジムと、ビータに会う。
オリガはロビーで待っていた。オリガに蕎麦の実を見せると、「グリーチカ」と言って目を輝かせる。これでお粥がつくれると喜ぶ。
昨日買ったお粥のレトルトは結局食べなかったようだ。
近くの診療所へ。今日は辞書持参。触診をして、症状を説明。やはり十二指腸か、胃の軽い潰瘍ではないかという。
とにかく薬を飲んで、柔らかいものを食べて、それで吐き気がなければ、大丈夫という。
今日は昨日とくらべてオリガの顔色も赤みがさして、症状も良くなったような気がする。
宿舎に戻り、電熱器が使えるところを教えてもらい、使用法を説明する。
明日8時に電話をもらうことにする。
Y側にオリガの症状と、対応について報告する。
バスとロマンスカーをつかって会社に2時ぐらいに戻る。
6月7月と細かい仕事が入りそうなので、その手配であちこちに電話。
夏休み期間のまた細かい仕事が入る。
今年は、とにかく仕事をとることが先決。
18時会社を出て、ラーメンを食べたあと、青山円形劇場に。イタリアの「コメディアデラルテ」の公演を見る。
なかなか面白かった。
23時帰宅。
26日朝オリガから電話。昨日はお粥を食べ、吐き気もなくなったので、今日から仕事したいという。
とりあえず今日は二回だけするように指示。Yに連絡。
オリガもあと、残すところ5日だ。
なんとなくほっとする。

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2001年5月28日(月)

今日はデスクワークに終始。
午後久しぶりに全員そろってのミーティング。これから入りそうな仕事についてが中心。
キエフから戻った西田の話では、サーカス学校に通っているよっちゃんはかなり身体も引き締まり、ロシア語でほとんど会話できるようになっているという。
頼もしいかぎりだ。
重森が来社。小樽の仕事について打合せ。
本人はかなりやる気がある様子。
夏のホテルの仕事で、マジシャンの手配。
T企画のS社長と水曜日に会うアポをとる。
いろいろやらなくてはならないことがある。特にカザフの仕事は、なんとか一カ所ぐらいはとりたい。
19時退社。

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2001年5月29日(火)

出勤前に、歯医者に寄る。これで治療は終わり、あとは半年後に検診。
歯医者を出るころ雨が降ってきたので、傘をとりに一旦家に戻る。郵便局から、先日田代島で世話になった、N氏に写真と、お礼の品を送る。
原宿で降り、オリエンタルバザールでオリガのお土産を購入。結局ゆかたにした。
会社に戻る途中、雷が鳴り、雨が降り出す。
もう梅雨ということだ。
会社に着いたのは1時。
『デラシネ通信』を開くと、3007件のヒット。ついに3000件を突破。日々の更新が大事ということ。
見積やら、カザフのビデオのダビングやら、こまごました仕事をこなす。
6時に会社を出て、歩いて新宿のシアターブラッツへ山本光洋の公演を見に行く。途中マスクマジシャンと仕事をしたとき、長良川旅館からの通い道にあったラーメン屋に寄る。
バリバリの九州ラーメン。結構旨かった。替え玉まで頼んでしまった。
7時にシアターブラッツ到着。開場したばかり、顔見知りが何人も。
1時間ちょっとの公演。今回はものを使っての「モノプレイ」ということで、いままでの光洋ちゃんの世界とは、ちょっと違っている。
いつものひねりにひねったオチがないのだが、光洋ちゃんのひらめいたアイディアが、へんに練られていなく、素直にそのナンセンスさに浸れる。
転機となる公演だったはずだが、とても良かったと思う。
公演後、舞台を手伝った人たちとの打ち上げに参加。光洋ちゃんも今回ばかりは、かなり緊張していたようだ。いままで幕間でやっていたようなネタばかりを並べて、果たして客はどう受けとめてくれるのだろうと、かなり神経質になってしたようだ。
それはいつも照明・音響をしているスタッフにも伝わったようだ。
ただモノと戯れることにより、モノが全面に出て、自分が背景にまわるようだけにはなりたくないということで、かなり自分を出すとうことを意識してやったとのこと。
それが結果的には、よかったのだろう。
お客さんの反応に確かな手応えを感じたようだ。
11時半店を出る。
品川から大船行き最終に乗り、磯子まで行き、そこからタクシーで帰宅。
光洋ちゃんのライブを見るようあちこちにメールを送る。
2時就寝。

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2001年5月30日(水)

カザフのビデオをダビング。企画書の確認。
小樽の見積を再作成、ファックスで送付する。
16時T社のS氏を訪ねる。夏の大分のイベントについて打合せ。S氏所蔵の日の出グループ(戦前欧州で活躍していたサーカス芸人)のポスターの写真撮影。
かなり良く出来ているポスターだ。ついでにカザフのサーカスの売り込みもお願い。
タクシーで新国立劇場へ。開演10分前に到着。井上ひさしの新作『夢の裂け目』の公演に仙台のKさんが誘ってくれたのだ。
Kさんと落ち合い、チケットをもらう。前から一〇列目ぐらいのど真ん中というかなりいい席。
東京セブンローズと同じように、終戦直後の日本の庶民の姿を描いたもの。今回は極東裁判が、大きなモチーフになっている。連合国側の証人に呼ばれた、紙芝居師の家族やそこで働く人々を通じて、庶民(普通の人)の戦争責任について語る人間喜劇。
テーマはかなり重いのだが、軽演劇仕立てで、楽しめる芝居にしているのはさすがである。
3時間役者さんたちの熱演もあったが、じっくり楽しめた。
公演後、こまつ座の制作のEさん、Kさんと新宿の飲み屋で、軽く一杯。
Kさんは明日からこまつ座のスタッフと一緒にモスクワへ行く。
23時過ぎに店を出て、今日は京急の最終に乗って帰る。

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2001年5月31日(木)

今日から長女が修学旅行。いってらしっしゃいぐらいは言いたくて、5時半に起きる。
次女も6時前に一旦起きて来て、見送る。
昨日外交史料館に調査に行って来た奥さんの報告を聞く。ヤマサキらしき人物の記録は見つからず。
今回は旅券記録に載っていないということを確認するための作業になるかもしれない。
でもどうしてないのだろう。今度は金曜日に、1908年以降を調べてもらうことになっている。
10時カザフ大使館へ。呼鈴を押しても、なかなか出てきてくれない。今日はYのT氏と来る約束になっていたので、ふたりじゃないということで、開けてくれなかったらしい。
領事部から入れてもらう。再度後援申請のお願いと、映画の件で打合せ。
いったん事務所に戻り、新宿南口でYのK氏と待ち合わせ。ひっこりこうじが現れ、お疲れさまですと声をかけてくる。
偶然会っているのに、あまりにもそのいい方が自然なのでびっくり。
K氏とロマンスカーの中で打合せ。
15時Yの支配人と打合せ。7月以降のパフォーマーについてが主なテーマ。
オリガのラストショーを見る。
いったんホテルにチェックイン。少し横になって休む。
19時半イタリアレストランでさよなら会。オリガもだいぶ食べていた。
21時解散。
部屋で横になって、「コンゴ」というB級アクション映画を見たあと、おとなしく酒も飲まず就寝。

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