クマのお仕事日誌
2001年8月分


2001年8月1日(水)

今日から8月だ。サーカス学校の先生の在留資格認定証をキエフに送る。金曜日には着くようだ。
カザフの航空券の手配の確認。今回は入りもバラバラ、帰りもバラバラで、その手配がたいへん。
先に入る三人のうち二人がまた10月小樽で仕事するかどうかで、手配がかわってくる。しかも来日が14日なので、結論をいそぐ必要がある。
小樽にメールを入れておく。
大分の韓国の宿の手配の確認。二食付きで平均7,000円の宿がとれた。やったあという感じ。
小樽からの福岡への移動の航空券の手配。JASが誕生日割引全線1万円というのをやっているので、これが使えるかと思ったが、もう一杯だという。
小出からメール。昨日来月の重森と小出のライブのお題を決めてメールでおくっておいたことへのお礼。
「別れ」「ウィルス」「初恋」の3つだったのだが、どう料理するのだろう。
ローマに電話。航空券の送り先、舞台道具の輸送などについて、確認をとる。
昨日からクリューコフに電話しているのだが、留守電になっている。
先生の航空券を手配してもらわないとならないのだが。
18時前に帰社。

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2001年8月2日(木)

午前中、カザフ来日以降のスケジュールをつくる。我ながらイヤになってきた。
これを本当にひとりでやるのという感じだ。
このスケジュールに沿って、自分の国内移動の手配に取り組む。
カザフの航空券の発券にそなえて、小樽の最終的な結論をだしてもらうために、予算書を作成。
ローマからFAX。大使館に出す書類のうち、先に来日する3名のリストをなくしたので、大使館に直接FAXしてくれという。
頼むからなくさないでよ。
2時から打合せ。主に、8月のスケジュールについて。大野も結構ハードなスケジュールになっている。
14日からがとにかく地獄になりそうだ。
リトルに出すビデオの編集。
サーカス文化の会。今日はいまキエフから一時帰国中のよっちゃんの報告。
いつもよりたくさんの人が聞きに来ていた。
話しの内容も濃かった。やはり自分の体験したこと、しかも異国での生活、説得力がある。
ただ気になったのは、クリューコフがすっかり悪者になってしまったこと。
実際のところ、だらしないところがあるし、詰めも甘いし、いい加減だし、しよもない男なのだが、昔から付き合っている自分としては、ちょっと気の毒になる。
23時ごろ家に着く。駅のツバメは、やはり巣立ったようだ。

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2001年8月3日(金)

小樽の10月のメンバーをどうするかで、I氏とやりとり。
3人については、こちらの提案を受けてもらう。これでカザフのメンバーの行きと帰りの航空券の日取りが確定。
旅行会社に連絡、日取りが確定したことで発券の手配をしてもらう。
小樽については4人の場合の予算書をつくり直し、FAX。
こうじに電話。小樽が決定した旨を伝える。
リトルに提案する企画書を作成。
渋谷のイメージフォーラムで『白夜の時を越えて』を見る。
緊張感のある映像で、面白かった。
帰宅してから、カザフのローマに電話。査証の確認、チケットの送り先、舞台上にウィンチがいるかどうか聞く。
ウィンチはいらないが、ローラースケートの台を現地でつくってくれないかという。来週の打合せの時に聞くことにする。
ウクライナ組のホテルに電話。オクサーナの腰はだいぶ良くなったというが、今度はナースチャがのどが痛いという。症状を聞くと風邪。明日薬をもらえるように手配することを伝える。
CDが聞けるプレイヤーと、ロシア語の歌のディスクを貸して欲しいという。ロシア語の歌は、キノとかDDTしかもってないといったら、それでいいから持ってきてくれという。
要は寂しいということだろう。

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2001年8月4日(土)

今日から世界陸上が始まる。また眠い毎日になりそうだ。初日は男子マラソン。20キロぐらいまで見て、家を出る。
13時から両国のシアターΧの会議室で国際サーカス村協会の総会。
サーカス学校の立ち上げについての経過報告などを聞く。
14〜5人の人が集まった。
15時に終了。急ぎ、千石の三百人劇場へ。今日からはじまる『ロシア映画の全貌』のお目当てバラバノフの『ロシアン・ブラザー』を見る。
すべりこみセーフ。5回券を購入する。
『フリークスも人間も』がかなり面白かったので、期待していたのだが、ちょっと当てが外れる。
『デラシネ通信』で面白そうと書いたのに・・・
19時帰宅。

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2001年8月6日(月)

世界陸上ハンマー投げの二投目で、室伏が82メートル以上を投げトップについたところで、家を出る。
結局銀メダルだったようだ。今日の室伏は気合が入っていた。
プレゼン用のビデオと企画書を仕上げる。
カザフのサーカスの時、流すカザフ紹介のビデオをダビング。
今日はロシア関係の人たちが集まっての飲み会。
先日翻訳書を出した木村さんの出版祝いもかねる。
途中ナースチャから電話。明日小田原駅で10時に待ち合わせることにする。
帰る時、渋谷からキエフの先生に電話。
大使館に行ったものの、書類が足らないという指摘をうけたことと、問題は、提出後三週間かかるという。
芸人さんたちの場合は一週間で出るのに、これでは間に合わなくなる。
問題だ。とにかく明日書類をつくってまず送らないといけない。
一気に酔いが冷めてしまう。

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2001年8月7日(火)

小雨まじりの涼しい日。10時小田原駅。メンバーは来ていない。西田に昨日の先生からの電話の内容を連絡。
10時半にメンバー集合。ロマンスカーで新宿へ。
頼まれていたCDプレイヤーとロシアのCDを貸してあげたら、ナースチャが大喜び。
電車に乗って、どうしても聞きたいというのを制止したのだが、それであきらめる連中ではない。
プガチョーワの歌を聞きながら、一緒に唄っていた。車掌に注意される。
新宿に着いて、まずは両替をしたいというので、駅前の銀行で100ドルを日本円に両替してあげる。
そのあとはまず飯ということになり、マクドナルドへ。マクドナルドなんて入ったことがないので、注文にとまどう。
セットメニューにトッピングしたようなつもりだったのだが、受付のお姉ちゃんが混乱。
自分は食べずに、4人がバクツクのを眺める。
タイムスクエアで少し放し飼いにしておく。会社に戻り、キエフに送る書類を作る。
3時に待ち合わせ場所に。サーシャが来ない。この間にウクライナの日本大使館に電話。
昨日の先生の話しを説明する。たぶん何も問題がないのではということに。明日もう一度大使館に来るように本人に言って下さいと言われる。
西田に報告。これで少し安心。
アムラックスシアターのシルクドゥソレイユの「ジャニーオブマン」を五人で見る。
皆大喜び。サーカス学校出身の芸人さんが出た時は、大騒ぎ。静かに見てろよ、頼むからという感じ。
タイムスクエアの広場のところで写真撮影だといって、4人がアクロバットや倒立しはじめる。人が群がってきた。
映画を見て、少し昂ってくるものがあったのかもしれない。
住友ビル50階にある、しゃぶしゃぶ屋で食事。途中Nさんも合流。
最初はもう日本食はいいとあまり、嬉しくなさそうだったが、食べているうちに、肉が美味しいと、バンバン食べてくれたので、ほっとする。
東京駅まで送る、今日はあまり時間がないので、新幹線で帰すことに。小田原駅まで新幹線で帰るN氏にあとはまかせる。
家に着いて、夜11時にキエフの先生のところに電話。先生の旦那さんが出たので、今日の大使館との話しを説明。明日大使館に行くように伝える。
カザフのローマのところにも電話。荷物の送り先について連絡したことを奥さんのイリーナに説明。
疲れる一日だった。

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2001年8月8日(水)

京急が信号トラブルでダイヤが乱れているというのでちょっと焦るが、9時すぎには羽田に到着。
9時40分発福岡行きに乗る。機内ではほとんど寝ていた。11時30分に福岡着。そんなに暑くない。
博多駅で少し時間があったので、本屋を見ると、規模は小さいのにレザーノフの「日本滞在記」が、2冊もあったのにちょっと感激。
12時25分発の特急に乗る。ホームでYのN氏と会う。
北九州博覧祭の会場で、舞台関係の打合せ。大きな問題はないと思う。ただリハと仕込が、夜しかできないのがちょっと辛いとこ。
ステージでやるイベントがかなり混み合っているようだ。
ステージを視察。吊りものは問題ないだろう。もしかしたら床も、絨毯を敷かなくてもいいかもしれない。
小倉に出て、のぞみで帰ることに。飛行機より1万円安いのが決め手。
小倉駅で、四つ味弁当というのを買う。高菜飯、明太子飯、穴子寿司と四つのおにぎりサイズのご飯とおかずがついて800円。おかずが、洋風というのが気に入らなかったがまあまあ。
「オールドルーキー」を読みはじめる。広島ぐらいまでは、ちょっとかったるかったが、岡山過ぎて弁当を食べ終えたあとからは、ぐんぐん引き込まれていく。新横浜に着いた時は、あと50ページぐらいが残る。
ちょうどメジャーリーグに再挑戦するところ。上大岡まで読んで、残りは家でパーボンでも飲みながら読むことにする。
家に着いてのは10時すぎ。風呂に入って、キエフの先生のところに電話。今日無事書類は受け取ってもらったという。月曜日に電話した時の取り乱した感じはなく、落ち着いていた。あと心配なのは、日本語をつかってうまく教えられるかどうかだという。心配することはありませんよ。慣れですからと答えておく。
電話を切るときに、「さよなら」と日本語ではなしてくれた。
これであとは24日発の飛行機を手配してもらうことだけ。
クリューコフに電話。ちょうどバカンスから帰ってきたばかりだという。航空券購入の依頼をする。
これでこの件は、一山越えた感じだ。

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2001年8月9日(木)

落ち着いて会社で仕事できるのも、あと2日弱。大分、小樽、北九州の仕事の段取りをこの間にやってしまわなければならない。
ユネッサン組の帰国の手配もしなくてはならない。
気持ちだけは焦るのだが、次から次へと他の用事が入ってくる。
大分の件が一番詰まっていないことが多い。ちょっと心配だ。
きっとかなり混乱するだろう。
14時にあがって、猫劇場を見に行く。
下の娘とかみさんがもう会場に来ていた。
招待券をもらう。かなりの人出。ここ数日当日券の伸びがすごいという。
ロビーで、ククラーチョフの奥さんが描いた絵の展示即売会をやっていた。
悪いけど、売るような絵でないことだけは確かだ。会場はほぼ満杯。反応も良かった。
実際にそれなりに面白かった。今度のはつまらなかったと聞いていたけど、そんなことはない。十分に入場料に見合う内容だった。
ただ感じたのは、サーカス好きでなく、猫好きの人たちが観客のメインになっていることである。
興行的には、うまくいく要素はあるかもしれない。
今日はこのまま家族で食事することにする。家にいるかや子に電話。上大岡で落ち合うことにする。
残った仕事は、明日エンドレスでやりましょう。

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2001年8月10日(金)

デスクワークができるのは今日が最後。
韓国のスケジュール表をまずつくる。つくっているうちにいろいろ疑問点が出てくる。これは毎度のこと。
入りの時間を確認するためメールをだしておく。
小樽組のためにロシア語でスケジュールをつくる。
これでだいだいアップアップ。予定では、北九州のスケジュールをロシア語でつくりたかったのだが、来週にしよう。
月曜日もいったん会社に来るのだが、もっていく書類等の準備をする。
やはり落ち着かないものである。なんか忘れていることがあるような気がしてならない。
クリューコフに電話。先生の飛行機の手配の確認。8月24日発、25日着で手配できたという。
電話を切ったあと、アエロフロートのスケジュール表を見ていたら、言っていた便名が26日着の便になっているので、不安になってもう一度確認の電話を入れる。
向こうでも電話で確認してくれることに。
再度電話して、間違いなく25日着だという。東京のアエロのオフィスにも電話。まちがいなく25日着という。いい加減なスケジュール表をつくるなよといいたくなる。
これでとにかく、この件は落着。
19時会社を出る。

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2001年8月13日(月)

世界陸上の男子400メートルリレーを見てから、家を出る。
午前中ミーティング。皆が揃うのも今日ぐらい。あとはみんなバラバラで、おそらく9月あたまぐらいまでは、こうして揃うこともないだろう。
カザフの航空券の請求書を見ていたら、人間車輪のグループの行きが福岡ではなく、仙台になっているのにびっくり。すぐに代理店に電話。まだ発券していないようなので、すぐに変更を依頼。
きちんとチェックしなかったのは、こっちが悪い。それじゃなくても、今回は行きも帰りもバラバラ、きちんとチェックする必要があったはずだ。うまくとれてくれるといいのだが。
昼飯を食べにでると、どこも店が閉まっている。どうも今日はお盆らしい。
街が静かなのはそのせいだった。野方ホープ軒でラーメンを食べる。
カザフに電話。ローマはいなかったが、兄貴が電話に出て、ビザも航空券もなんも問題はない、今日の深夜にアルマトゥイを出発するという。
先週できなかった、北九州のスケジュールをロシア語にする。
15時会社を出る。16時の東京発新幹線で仙台に向かう。
若宮丸友の会の発起人のひとりに名乗りをあげてくれた石巻高校の石垣先生と食事。
この会は、やはり地元が中心になる、先生が中心になってくれるのが、一番だと思っていた。
快諾していただく。
そしてこれからの会のやりかた、すすめかた、めざしていくものなどを話し合う。
イルクーツクにある漂流民の墓探し、善六の出自、漂流民たちの末裔探し、この会を通じて追いかけたいテーマだ。
楽しい話しができた。
22時前に、実家に戻る。
いよいよロードがはじまった。
今日のアルコール。缶ビール大2、小1、日本酒三合、生ビール1杯。

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2001年8月14日(火)

韓国のメンバーがビザが問題で入国できなくなったという夢を見て、目を覚ます。
縁起でもない。
念の為に通訳のKの携帯電話の番号をメールで韓国に知らせることにする。
久しぶりに親父とおふくろと三人で朝食。親父はずいぶんと元気がよくなったようだが、おふくろに対する小言が多い。
おふくろに車で駅まで送ってもらう。仙台駅からバスで空港へ。
定刻通りに到着することを確認して、千歳行きの飛行機を一便早いのに変更してもらう。
1時間の乗り継ぎだが、たぶん大丈夫だろうとのこと。
なかなか出て来ない。出迎えの人もほとんどいなくなり、今朝がたの夢を思い出し、いやな予感がしてくる。
一番最後に通関検査をしていたのが目に入る。一安心。
ローマ、ジーマ、エンマの三人と再会。煙草がすいたそうだったが、あと20分ぐらいしかないので、急いで国内線の乗り換え手続き。
検査を受けて、一服してすぐに搭乗。
ローマもだいぶ疲れていた。昨日は見送りに22人のアーティストが空港に来て、ウォッカを浴びるほど飲んだらしい。
千歳空港から電車に乗り換えて、小樽へ。彼らにとっては長い旅だった。駅にI氏が迎えにきてくれた。
17時頃チェックイン。少し休んでもらう。ホテルのフロントのおばさんと掃除の件で、いろいろやかましいことを言ってきたので、言い争いになる。安い料金なのであまり贅沢はいえないが、少しは客のことを考えてくれよ。自分たちの都合ばかりを言うなといいたい。
19時明後日から仕事をする、小樽倉庫で食事することに。テーブルにつくまで30分ぐらいかかった。
凄い人出。
ビールはほどほどに、隠し持ってきたウォッカを、人のいないところを見はからって、コップに注いで乾杯。
3人とも、美味しいを連発、よく食べてくれた。エンマとジーマは腹一杯になったら、眠くなってきたようだ。先にホテルに戻った。
ローマといろいろ話しをする。
国立カザフサーカスの状況はかなり好転してきたようだ。もしかしたらあの建物も取り戻すことができるかもしれないという。
去っていったアーティストたちも、戻りつつあるという。昨日空港にあれだけたくさんのアーティストが見送りにきたのは、みんなが国立サーカスに戻ろうとしているからだという。
乾杯の席でハーリックが、ローマがこれから日本に出発するが、これは日本の我々の兄弟が、わが国立サーカスの現状を救うために、わざわざ企画したものであるとひと演説ぶったとき、去っていったアーティストたちは、みんな目を伏せていたという。
みんな義理や恩義を忘れて国立サーカスを離れたアーティストは恥ずかしかったのだろう。
いずれにせよ、ハーリック、ローマ、イリーナ、シューリクら残ったアーティストたちが、がんばってここまで持ち直したのだ。
うれしいことだ。ということで、また部屋に戻って、ローマと乾杯が続いた。
12時に就寝。
今日のアルコール、缶ビール小1、生ビール二杯、ウォッカ一本(ローマと)

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2001年8月15日(水)

当然のことながら、二日酔い。頭が痛い。10時前に朝食。雑炊を食べる。ローマも雑炊。
部屋に戻ってメールのチェック。大分の件で電話。昨日電話で突然公演後リハをやるというのでプツンきてしまった。
夜のリハはなくなったとのこと。
13時過ぎに、小樽倉庫3階に到着。バンドの人たちと再会。ローマたちを紹介する。
昨日ローマにショーの進め方を説明していたが、一緒につくるということに対しては、喜んでやるということだったが、一番の問題はエンマの曲だろうと言っていた。
エンマの曲をどうするか。まずはバンドさんの方で考えていた曲を聞き、エンマが持ってきた曲を聞く。
バンドさんの用意してきた曲のテンポでは踊れないということなので、エンマが持ってきた曲に近いかたちで曲をアレンジしてくれるということになった。
これでだいぶ時間を食ってしまう。エンマの要求している東洋的なニュアンスが、うまく伝えられない。
ジャグリング、レプリーズ、オープニングは、比較的スムーズにいったと思う。
前回の公演の時は、ヤマちゃんなり重森も生きた音楽と一緒にやるというのは初めてだったので、それなりにおそるおそる、バンドさんもパフォーマーとやるのは初めてで、それなりに歩み寄りながら、つくっていったし、やりながらどんどんなおしていったりしたが、
今回はローマたちの要望が全面に出てきて、それにどうバンドが答えていくかという感じで、ちょっとバンドさんたちにとまどいがあったと思う。もちろん言葉の問題もある。
途中一時間休憩をもらい、遅い昼食をとったあと、再度エンマの曲を決めに入る。
出だしのどころはフィーリングがあっているのだが、サビの部分がどうも違うようだ。
プロデューサーのI氏とバンドの方と話し合い、とりあえずはMDをつかってやってみることになった。
今日のリハのほとんどをこのために時間をとってもらったのに、こんな結果になり、申し訳ないが、たぶんこれが現時点でのベストな選択だと思う。
通しをやってみる。ジャグリングに関しては問題ない。オープニングも問題ない。エンマの時は、MDをかけながらサビの部分でパーカッションと絡む。
21時すぎに終わる。ステージをチェック。照明がまぶしいということで、ステージのバンドさんの配置をかえてもらう。それとエンマの着替えのスペースをつくる。
すべて完了したのは22時すぎ。ながい一日だった。
途中ユネッサンから電話。グリンチェンコたちが子どもにアクロバットをやらせるところで、子どもが頭を打って泣き出したらしい。大事にはならなかったが、今後子どもをつかうのはやめるようにとの指示。
もうやめるように電話。
ホテルに戻る途中、ローソンに寄って買い物。
ローマの部屋で、また飲むことに。
去年なくなった象の調教師アレクセイの事故について詳しく聞く。ベルギーでアレクセイは土地を買い、象パークをつくる計画を持っていたらしい。
象やアーティストをすべて出発させたあと、モスクワに残って一人のダンサーのビザの手続きを手伝っていたアレクセイが、それを終えてモスクワから出発する途中、運転手が居眠りして、大型トラックと正面衝突、即死してしまったという。
若くて才能があり、ビジネスのセンスもあり、人柄もよかった男だけに残念だ。
国立カザフサーカスの現状をまた詳しく聞く。一番大きい事件は、ハリックが文化大臣と会って、いまの現状を説明したことだという。
この時ハーリックは、国立なのに建物を奪われた現状、アルマトゥイのサーカス場では、入場券が高く、市民の娯楽ではなくなっている。夜にはストリップまでやっている。こんなことでいいのかと説明。しかし我々の国立サーカスを支えてくれる人たちもいる。一年前に北九州で開かれるエクスポのために、日本の友人が訪ねてきて、我々の国立サーカスのメンバーをここに派遣してくれることが決まった。
この時ハーリックはエクスポのパンフを見せたらしい。文化大臣はこの時相当驚いたらしい。そして国として援助することを約束してくれたとのこと。
今回の日本公演が、いろんな意味でハーリックたちの援護射撃になったことは喜ぶべきことだ。われわれが去年の9月にアルマトゥイを訪れてから一年間、ハーリックたちは苦しい闘いをしていたわけで、その時のひとつの支えになったことは間違いない。
モスクワ、タシケントの各サーカス団も、プログラムをスミルノフのサーカス場から招請があっても、拒否したりして助けていた。
ツィルカッチたちが、ハーリックたちを助けているのだ。
すっかりうれしくなり、またウォッカを飲むピッチがあがる。
2時半就寝。
今日のアルコール。生ビール小二杯、ウォッカボトル5分の3(ローマと)

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2001年8月16日(木)

7時すぎに目が覚める。メールをチエックして、返事を書く。荷物の整理。鬼のように荷物が増えている。ばかでかいウォッカは、次回持っていくことにする。
9時半ローマの部屋に荷物を預け、レストランで朝飯。今日も雑炊。エンマは和食をペロッと食べていた。
朝食後、小樽市内を散歩。埠頭の方に行ってみる。運河やメルヘン通りの賑わいがうそのような静けさ。いい感じだ。
ロシア船が二隻とまっていた。中古の自転車や洗濯機、冷蔵庫を積んだトラックがとまり、日本人とロシア人がなにやら交渉していた。
運河ギャレリーの日陰のベンチでしばらくごろ寝。食事でもしませんかと、I氏より電話。小樽倉庫でランチしながら、来年以降の打合せ。
ホテルに戻り、皆としばしの別れ。ローマが駅まで送ってくれる。
13時45分発の快速で千歳空港へ。
飛行機出発20分前に到着。あわててチェックイン。2時間ちょっとフライトだったが、機内で「血と骨」を読む。凄い小説だ。最初から圧倒される。
17時35分福岡空港着。カザフサーカスの通訳をしてくれるナターシャの羽田から福岡までの航空券を購入。そのあとローマから頼まれたファックスを送る。
ちょうど韓国マダンノリの通訳をしてくれるKと落ち合う。とりあえずラーメンを食べる。
そのあと辻が頼んでくれた弁当を受け取りに寿司屋へ寄る。買ったあと、大韓航空の夕食はたしか巻き鮨だったのではと言い出す。弁当はのり巻き。しようがないか。
国際線のゲートまでバスに乗る。途中第三ターミナルで降りたが、あわててバスに戻る。いま国際線はかなり離れたところにあることを全然しらなかった。
20時すぎに飛行機到着。まもなくユー君をはじめ全員が出てくる。ユーは少し疲れた顔をしていた。
ほかのみんなは若い。全員顔に個性がある。はつらつとしている感じだ。
バスに乗る時に弁当とビールを渡す。ユー君に聞いたらやはり機内食は巻き鮨だったという。
途中小樽に電話。とりあえずはなんとかかたちになったかなという感じらしい。
およそ2時間ちょっと、23時すぎにホテルに着く。
明日は6時半に朝食、7時出発という過酷なスケジュール。
ユーとスケジュールについてちょっと打合せ。とにかく今回はいくつものスケジュールが送られてきて、どれが最終決定なのかわからない。あとは明日現場ででたとこ勝負。
それしかない。
明日が勝負というところだ。
会社にメールを送り、ビールを飲んで就寝。
今日のアルコール。カンビール小4、生ビール小1。

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2001年8月17日(金)

昨日あれだけ遅く寝たのに、3時ぐらいに目が覚め、あとはうつらうつら、6時5分前に起きて、シャワーを浴びる。
もしかしたらアルコールが足らなかったのかもしれない。
6時半、全員そろって朝飯。生卵をゆで卵だと思って、思い切り割ってしまったり、朝から鼻血をだしている奴とかいろいろいる。
7時バスに乗り、ビックアイに向かう。7時半前に到着。
楽屋に案内してもらうが、スケジュール表を見て、またびっくり。いままで予定に入っていなかったパレードが一回組み込まれている。それでカチンと来て、スタッフにクレーム。かなりムッとしたいい方にをしたと思う。
彼に責任はないのに。ステージを見て、今度はユー君がむっつり。以前教えていた寸法と奥行きが1メートル違っている。しかも舞台の上には、和太鼓がおきっぱなしという。これでは出来ない。和太鼓はとってもらうことになったが、練習をもう一回きちんとやらないといけなくなる。
しかしスタッフは、和太鼓のセッション部分のことのリハのことだけを言うので、またむっとくる。
やらないぞと言おうと思ったのだが、和太鼓のリーダーがやって来て、この日のセッションのために練習してきたんで、ひとまず聞いてもらえますかと言ってくる。ユー君もどういう風にやるのか興味を持ってきたし、とりあえずはセッション部分のリハをやることに。
この和太鼓のグループ、リーダーがまず強面、メンバーの若い連中はヤンキー風、ちょっと恐い。
一回やってみて、ダメだしをしながら、大体のかたちが決まる。いい感じだった。
次にマダンノリのリハーサル。ステージが小さくなった部分、いろいろ修正が必要になってきたので、念入りに。
9時前にリハ終了。とにかく段取りが悪すぎる。ケータリングはなし、ケアーはなし、冷房もなし、スケジュールは無茶苦茶、こうしたイベントを全くしたことがないのだろう。
文句を言う元気がなくなる。本当はいわないといけないのだろうけど、別にここともう一度仕事するわけでもなし、とにかくあとは18人のアーティストたちに負担がかからないようにするだけだ。
今日は特に、待ち時間が長い。このあと13時すぎまで、待ち。さらにこのあと18時まで待ち。昨日遅く、今日は朝早い。皆はゴロゴロ寝ている。かわいそうになってくる。明日も同じような感じだ。
今日はともかく明日は空き時間をなんとかしてやらないと。ユーが別府に行きたいという。ただ別府までは往復2時間かかるらしい。
前に一緒に仕事をした大分市役所のE氏に電話。大分市内の温泉を教えてもらう。明日はここにいってもらうことにする。
総合プロデューサーのS氏がやってくる。ナポレンオンズの楽屋に連れて行かれ、紹介してもらう。また先日教えてもらった一八八七年ドイツで出された飛び出し絵本に描かれている日本の足芸と、さしものの芸がでている写真を見せてもらう。
食券をもらい昼食。
みんな若いということもあるが、面白い連中だ。みんな昨日は疲れていたのかもしれないが、そっけなかったが、実際は明るくて、人懐こいやつら。楽屋は笑いが絶えない。
13時からパレード。このあと楽屋でみんな寝はじめる。それもかなり真剣に寝る。イビキがあちこちから聞こえてくる。
腹が減ってきたという。かぼちゃ饅頭を買ってくる。18時30分セッション。19時30分マダンノリのソロステージ。
いい公演だった。公演後、和太鼓のリーダーから、日本が教科書問題でいろいろ迷惑をかけてすんませんと声をかけられて、ユー君は思わず涙ぐんでしまった。
20時半バスでホテルに戻る。
今日は弁当だという話しだったので、キムチとビールを買って、色をつけることに。
みんな良く食べる。良く食べ、良く飲み、良く寝る、そんな単純さのなかに、あのノリの活力があるのかもしれない。
メンバーの何人かと部屋で酒を飲む。
カザフのコニャックを皆に飲ませる。むせるやつ、おかわりするやつ、いろいろいる。
なんで伝統芸能を職にしているのと、聞くと好きだから、楽しいからという単純な答え。これがひとつのエネルギーをつくっているのかもしれない。
ホテル内のコインランドリーで洗濯。
今日のアルコール。缶ビール小2、カザフコニャクグラス2杯、韓国焼酎1杯、ウィスキイーグラス3杯。

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2001年8月18日(土)

9時に目が覚める。あわてて食堂に。8人ぐらいがすでに朝食をとっていた。
食べる時は、ほとんど会話がない。食事に専念している。18人のメンバーの顔がだいたいわかってくる。
10時半ホテル出発。その前に荷物を整理、宅急便で大きな荷物を自宅に送る。
11時会場入り。あいかわらずの段取りの悪さ。何時から始まるのか、こっちが聞きに行かないとさっぱりわからない。
12時半パレード終了後、メンバーは近くの温泉へ。
今日はパソコンを持ってきたので、少し仕事。温泉へ行かなかったふたりは、楽屋でずっと寝ていた。
16時すぎにメンバーが戻ってくる。そしてまた寝はじめる。
しかしほんとうにこの連中は、良く食べ、良く寝る。
和太鼓のグループがやってきて、昨日できなかったことを練習したいと言ってくる。ユー君が中心に指導。
ここで遊んで、というようないい方をユー君はするのだが、それが和太鼓のメンバーにはいまいち分からないようだ。リズムを決める。
進行は押しているのだが、相変わらず連絡はまったくない。なんどか確認することに。いい加減にしてくれよ。明日の段取りの説明もまったく要領を得ない。
この人たちは、なにがしたいのだろう。さっぱりわからない。
19時半からマダンノリのステージ。今日はお客さんもたくさんいる。メンバーもかなり気合が入っていたようだ。いいノリだった。
20時半に、迎えのバスに乗ろうとすると、誰がこの時間に設定したのかと主催者側からクレーム。21時半の手配のはずではというのが、彼らの理屈。主催者が発注しているのを勝手に、時間を変更するのは何事だというのだ。
ちょっと待ってくれよ。メンバーを1時間近く待たせるというのか、どうやって飯を食べろというのだ。彼らが昼食をとったのは、だいぶ前のことだ。かなりむかっとくる。
バスがゲートを出る時に、スタッフが運転手に勝手なことをするな、俺たちが発注者だぞと文句を言う。
この人たちは、イベントのつくりかたのイロハをまったくわかっていない。自分たちのことしか考えていない。イベントの主催者は、あなたたちかもしれないが、これを成立させているのは、出演者であり、出店者なはずだ。
この人たちがやってられないよといったら、イベント自体は成立しないのですよ。自分たちは勝手に、スケジュールを変えて、お願いしますといっているではないか。
ホテルに着いて、運転手さんに、今日は迷惑をかけてしまいましたと言ったら、早く終わるようだったら、明日も電話をしてと言ってくれる。
それじゃご迷惑じゃというと、いいんです、私が主催者にいいますから。1時間も待つことはないですと言う。
骨のある人がいたことが嬉しかった。
イベントの基本はホスピタリティーだと思う。参加者をもてなせないオーガナイザーが、お客さんを喜ばせさせるわけがない。
夕食後、ユー君たちと都町の韓国料理に飲みに行く。
韓国の徴兵制のことに話しが及ぶ。通訳をしてくれたYが、日本のニュース番組で、国の為に死ねますかという質問に対して、ハイと答えた日本の若者が20%だったといったら、韓国ではたぶん80%がイエスというだろうと言っていたのが印象的だった。
彼らにとって軍隊生活は、かなり大きな意味を持っているようだ。それもかなり肯定的に捉えている。
映画『JSA』の話しになって、南北朝鮮の兵隊が38度線で交流しているという場面は、実際にあることなのだとも言っていた。
1時近くまで酒を飲む。もっともっと話したいと思うのは、彼らがいろんな問題を真っ正面に捉えているからだと思う。
音楽のこと、政治のこと、映画のこと、日本と韓国の間には、共通の話題がたくさんある。それを彼らはフランクに話し合いたいのだ。
日本と韓国が、交流する機会は増えている、でもフラットにフランクに話し合える時間が足らないのかもしれない。彼らは、日本という国に関心をとても持っている。
時間をかけてもっとゆっくりと、ジンロなのか、マッコリなのか、酒なのか、ビールなのかわからないが、飲みながら、ゆっくりと語り合う機会をつくることが必要なのではないだろうか。
ホテルへの帰り道、ユー君からチュルタギフェスティバルの進行状況を聞く。
いい感じだ。イベントではなく、夢を少しずつたぐりよせる、そんな意気込みを感じる。
野毛の時も時間がなかった、そしていまも時間が足らない、交流の場をつくることより、じっくりと話し合う時間が、いまは必要なのかもしれない。
今日のアルコール。生ビール1杯。ジンロ(300ミリ)6本(5人で)。ウィスキイー150ミリ。

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2001年8月19日(日)

Yの電話で起こされる。時計を見ると9時。朝飯会場には誰もいないという。
起きてそのままの状態で食堂へ。ユーが、私の寝ぼけ顔を見て、笑う。ほとんど寝ぼけたまま、無理やりご飯を口に突っ込むという感じだった。
昨日は、みんな遅くまで飲んでいたらしい。結局5人が朝飯を食べなかった。
今回のメンバー18人のうち、海外公演に何度もでかけている30歳代のベテラン組と、20代前半の若者組から構成されている。
30代は皆よく飲む。昨日というか今朝の4時まで飲んでいたらしい。
11時ホテル出発。二日酔い組は、元気がない。
13時の公演のあと、買い物に行きたい連中は、シャトルバスをつかって市内に行くことになった。Yがアテンド。
昨日はそんなに飲んではいないはずなのだが、眠くてしようがなく、床に横になっていると、ユーが枕がわりに太鼓を持ってきてくれた。これがいい感じの枕になった。
14時50分からの結婚イベントにメンバーのうち4人が参加することになっていたが、突然14時になって、出番ですのでスタンバイしてくださいとスタッフがいいに来る。
まいているのだったら、もう少し早く知らせてくれよ、もうこうなると怒る気にもならない。
残っていたメンバーもこの人前式を見に出てくる。
16時半買い物組が戻ってくる。17時和太鼓のグループと今日のセッションの打合せ。今日は楽器を替えてやることになった。
19時マダンノリのステージ。客席から見てみる。できればもう少し大きいステージでさせたかった。
20時半からセッション。日韓一体となったいいステージだった。
公演後和太鼓のチームと記念写真。すっかりみんな打ち解けて、いい友だちになったようだ。
後片付け、またバスの運転手さんに電話して、早く来てもらう。帰る時も主催者側からなんの挨拶もなし。
ホテルにいったん荷物を置いて、焼き肉屋へ。
焼き肉が出てくると、みんなシーンとなり、もくもくと食べる。あちこちからご飯、キムチの声が飛ぶ。
キムチは、彼らにとってはなくてはならないものだということがつくづくわかる。
和太鼓のリーダーが挨拶に立ち寄る。何でも湯布院に荷物を運んで、、戻ってきてくれたという。しかも明日石川で公演。義理堅い人だ。
24時前に店を出る。さすがに明日の朝5時起きとなると、この日はチェックインのあとはすぐに静かになった。
今日のアルコール。生ビール2杯、缶ビール小1杯、ジンログラス2杯。

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2001年8月20日(月)

朝5時の目覚ましで、目を覚ます。顔を洗って、ヒゲをそり、下へおりる。
3人ほどロービーに下りていた。バスも到着。5時半出発の予定だったが、5分遅れで出発。上出来である。
バスの中では、自分も含め全員熟睡。福岡に入ったところで一回休憩したが、半分はずっと寝たまま。
8時ちょっと前に、福岡空港に到着。今日の大韓航空はかなり混んでいるとのことだったが、スムーズにチェックイン。
8時15分から入国審査が始まる。18人のメンバーとゲートの前で、お別れ。
実に気のいい連中だった。
よく食べ、よく寝、よくしゃべり、よく飲み、タイトなスケジュールにもかかわらず文句も言わずに、よくやってくれた。
久しぶりに笑顔が素敵な若者たちと仕事をできたような気がする。
一行と別れたあと、Yとうどん屋で朝食。コーヒーを飲んでチェックイン。
まだ寝たりなく、ほとんど機内では寝ていた。台風接近のため、上昇中はかなり揺れたらしい。
11時30分羽田着。品川でYと別れて、出社。
精算、北九州の準備、あちこちに連絡しているうちに、18時近くになってしまう。
家へ戻ってから、小樽のI氏より電話。明日から3日間休みになるので、これから軽く打ち上げするのだが、ローマがウォッカとザークスカを持ってきているが、店は持ち込み禁止なので、一言言ってもらいたいという。
ローマに代わってもらう。電話に出るなりローマは、誕生日おめでとう、健康と幸福をと大声で叫ぶ。
今日は48回目の自分の誕生日。ローマに持ち込みできないぞと言ったら、じゃホテルでお前の誕生祝いをやるとのこと。
深夜というか早朝モスクワのペーチャからも誕生祝いの電話。ロシア人たちは、誕生日に関しては敏感である。
明日から白州へ家族旅行。台風がちょっと気にはなるが・・・。地獄のロード第二弾にそなえて、英気を養わなくては。
今日のアルコール。缶ビール小1、焼酎2杯、バーボンロック2杯。

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2001年8月26日(日)

束の間の夏休みも終わり。いよいよ今日から地獄のロード第二弾。
それにしても白州での夏休み、よく寝た。四日間いい休みがとれたと思う。白州で夏休みを家族でとるようになって、5年目。ここはいたるところに水が流れ、それが心を落ち着かせてくれる。いいところだ。
久しぶりに横浜マリーナまでジョギング。気持ちよかった。
今日からローマたちが待つ小樽。その前に会社に寄り、急きょ決まったアーティストの査証書類を作成。
段取りを終えて、羽田に向う。札幌行きはほぼ満員。
夏休み期間中、ヤンソギルの『血と骨』を読んだ。圧倒的な迫力にぶちのまされてしまった。昨日買ったヤンソギルのエッセイ集を読む。
大阪をちょっと彷徨いたい気持ちになった。
18時30分ショー開始ぎりぎりに小樽倉庫に到着。辻と合流。
はじめてショーを見る。バンドの人たちのノリがいい。無理していない。自分たちが楽しもうという気持ちが、観客にも伝わってくる。
でも圧巻は、エンマの演技。彼女にはオーラがある。人を引きつけるなにかがある。ぎりぎりのエロチズム、それがベリーダンスなのかもしれない。
ショーのあと、打ち上げ。バンドの人たちといいコミニケーションができたようだ。
だいぶお世話にもなったようす。
部屋に戻り、ローマとウォッカを飲む。今日はスミルノフ。結局一本開けた。
ローマが途中泣いた。みんなここまでこれたのは、どこかに神様がいるからだと言って・・・絶句、そして涙。
俺も泣けてきた。よくみんな我慢してきたと思う。だからこそ実現できたプロジェクトだった。
サーカスを愛して、サーカスに賭けた男たちに、乾杯と言ったところで、ローマと抱き合って泣いてしまった。
お前たちは素敵だよ、サーカスを信じて、サーカスに賭けたのだから。
絶対にいいショーにしよう。
今日のアルコール。ビール(小樽地ビール生五杯、ウォッカ一本−二人で)

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2001年8月27日(月)

頭がガンガンする。昨日あれだけ飲めばなあ。8時に辻と落ち合い、下のレストランで朝食。
昨日ローマが、頭が痛いから明日は雨だと言っていた通り、雨がしとしと降っている。
8時半小樽を出て、10時前に札幌に着く。
今日は営業。せっかく小樽で仕事を見つけることができたので、北海道でも少し仕事を増やして行きたい。
わりといい感じで話しが進む。現地を引き続いて視察することにする。
これが遠い。バスで2時間。しかも雨がずいぶんと強くなってきた。
バスの中では、ただひたすら寝るだけ。
およそ2時間かけて視察。18時30分札幌に戻る。ローマから電話。腹減った、いつ戻るのかという問い合わせ。
19時半にホテルに戻る。I氏より電話。ジーマが楽屋にコスチュームの一部を忘れたという。
小樽倉庫の近くのレストランで飯を食べ、その帰りに寄ることにする。
ジーマに聞いても、何を忘れたのだろうと訝しがるだけ。
今日は炭焼き屋のレストランに入る。ローマは二日酔いで今日は一日ずっと寝ていたという。
海鮮品を炭焼きで食べるという今回の食事は、ずんぶんとお気に召したようだ。ローマがまた用意よろしく、ペットボトルにウォッカを入れてくる。
普段は飲まないエンマも、この料理だったら飲みたいと、何杯もウォッカを飲む。
帰りに小樽倉庫に寄る。ちょうどバンドさんたちだけのショーの三回目。3人で、声援を送る。
ほんとうにいい人たちだった。エンマとジーマは、9月末にまた戻ることになるが、ローマはこれでお別れ。
結構ジーンと来ていたようだった。
みんなとお別れして、ホテルに戻る。明日は5時起き。今日はウォッカのダメだしはなし。シャワーを浴びて23時に就寝。

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2001年8月28日(火)

5時、目覚ましの音で起きる。窓を開けると、雨は上がっている。
9月末のエンマとジーマ、こうじの部屋を予約しておく。いろいろ不愉快なことはあったが、3,500円という安さは捨てがたい。
5時40分ホテルを出て、6時の快速に乗る。これだと7時50分の飛行機には余裕かと思ったら、札幌までは各駅、空港には20分前に着くことになる。結構時間がない。
車中ひたすら寝る。
空港に着いて、チェックイン。荷物検査でローマがナイフを持っていてひっかかり、ぎりぎりの搭乗となる。
羽田で乗り換えも、あまり時間がなかったが、とりあえず煙草を吸う時間はあった。
JASの機内誌に、北九州博覧祭の記事が出ていた。カザフのサーカスの案内も。今回は来ない、いろいろ問題のあったムィシナの写真を見て、みんな苦笑。
11時40分福岡着。国際線のターミナルに移動。ナターシャを見つける。5人で食事。なにも食べていなかったのでペコペコ。
12時40分過ぎに飛行機が到着。アシアナの係員がやってきて、メンバーがイミグレーションで引っかかっているというので、ちょっと焦ったが、滞在先のホテルの電話番号を教えたら、これで問題ないといわれ、ホッとする。
10分ぐらいして全員ゲートに現れる。
ローマがここで張り切りだし、いろいろ仕切り始める。久しぶりだよ、ローマが仕切るのを見るのは。
バスで小倉のホテルまで。1時間ぐらいだった。
今日から四泊は、ここに泊まって、あとは会場近くのウィクリーマンションに移動することになっている。
19時からみんな食事をすることに。それまで4時間ぐらいは部屋で休んでもらう。
部屋を出ようとすると、ローマが突然皆を自分の部屋に集めて、ちょっと来いという。
ローマの机には、次から次へカザフのお土産が並べられる。ローマがスピーチ、われわれの兄弟オオシマの誕生日は8月20日だった。それをみんなで祝いたいという。
カザフのウォッカ2本はじめ、お土産屋ができるのではないかと思われるくらいお土産をもらう。
19時すぎに、飲み屋街にある居酒屋へ。
みんなよく食べてくれた。またローマが、ウォッカが必要だといいだし、息子のジーマがホテルまでウォッカをとりに行く。奥さんのイリーナは、道に迷うからやめなというのに耳をかさず、結局ジーマは出かけ、道に迷うことになる。
ローマが探しにでかけ、サーシャも探しにと、結局1時間後にローマとジーマが戻ってくる。
酒の瓶に、ウォッカを詰め替えて、また乾杯。
ムィシナの代わりに参加することになったキリギスの4人の姉ちゃんたちは、かなり飲めるようだし、陽気だ。
21時半店を出て、ホテルで、ウォッカ三兄弟、ローマとサーシャとウォッカを飲み直し。
話題はまた国立サーカスの今後について。ローマはとにかく今日みんな無事に来日できてよかった、もしかしたらいまカザフサーカスの建物を持っているスミルノフが妨害するのではと心配していたという。
サーシャも、とにかく今回の公演の反応を伝える新聞記事などをたくさん集めて、カザフに持って帰りたいという。
国立サーカス団がサーカス場を取り戻すという話しは、かなり具体的になっているのだろう。
めずらしくサーシャがへろへろになる。2時すぎにお開き。
3時すぎ就寝。
今日のアルコール。生ビール二杯、日本酒一合強、ウォッカグラス六杯。

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2001年8月29日(水)

頭が痛い。ガンガンする。二日酔い。散歩がてらに駅の方まで行ってみる。
地下に安い朝飯屋があったので、そこで遅い朝食。
以前メールで問い合わせがあった名古屋のテレビ局に電話。小一時間ぐらい取材を受ける。
気がつくと12時近く。しかし今日は暑い。太陽が照りつける。
ホテルに戻り、全員そろったのを確認して、出発。
みんな陽気。特にアクロバットチームはにぎやかだ。
13時前に会場に到着。まずは荷物を受け取る。いろいろな確認事項をチェック。絨毯の問題、火吹き用のホワイトガスの問題、コントーションのテーブルの電源の問題などなど。
荷物を組み立てる必要があるものは、組み立て。ないものは会場内をぶらぶらする。
NHKが自分を取材したいという。今日はこういう日なのかもしれない。
14時半会場内のサテライトに行き、取材を受ける。
6日が本番生だという。リトルにもいかなくてはならないと思っていたし、大阪でも打合せがあるので、4日までこっちにいて、名古屋、大阪をまわり、6日に北九州に戻ることにする。
15時メンバーは武漢のサーカスを見学。
ステージが空いたところで、ステージを見学。いろいろ問題が出てくる。
バンブーを吊るとき、支えるワイヤーを留めるところがないこと、もうひとつが大問題になったのだが、綱渡りの支柱を支えるワイヤーを留めるために、ステージに穴を開けなければならない。
ステージに穴は開けられないということを前提にしていたはずだと、会場側は主張。これは当然なことだとは思うが、その態度が、どうも気に食わない。
18時の武漢のサーカス公演が終わった段階で、もう一度ステージをチェックすることにする。
ローマはかなりカリカりしはじめる。
17時すぎに、客入れの時に流すビデオの編集に立ち会う。団側からもらった28分ぐらいのカザフ紹介ビデオを、8分ぐらいに編集。字幕もつける。
19時半、再びステージのチェック。バンブーは持ってきたロープで固定できることが判明。これは問題なし。
あとは綱渡り。ローマがいろいろアィディアを出すが、会場側はどうしても納得がいかないようだ。ひとつはステージに穴は開けないという前提で、番組を組んでもらうことで了承したはずだというのが、大きい。
舞台を施工したところに穴を開けて、補強できるかどうか確認するということで、今日はとりあえずはエンド。
21時前に会場を出る。ローマはなにも食べていなかったようだ。
ホテルに戻り、ローマの部屋で少しウォッカをひっかけたあと、居酒屋へ。
ちょうどロビーにいたサーシャも誘う。またしてもウォッカ三兄弟。ローマはまた缶コーヒーのペットボトルに入れたウォッカを持参。
サーカスの仲間を肴に、また三人でぐたぐた話す。
1時ちかくにホテルに戻る。テレビを見ながら横になっていたらそのまま寝てしまった。

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2001年8月30日(木)

10時前に起床。外は、大雨。昨日の暑さが嘘のような肌寒さ。
11時ビデオにかぶせる音の件で、M氏来訪。ローマと3人で音楽を選ぶ。わりと簡単に決まる。
携帯に電話。綱渡りの件で、打合せをしているN氏から。床に穴を開けるのは、ダメ。ウェイトを置く方法でしか対応できないという。
ローマは、昨日も提案した二本の支柱を三角形状に組み合わしたものを、ふたつここでつくる方法が、ウェイトよりも簡単だと主張。
昨日ローマが出した提案のなかでは一番現実的だと思っていた。もうこれしかないだろう。
M氏がすぐにこれをつくれそうな業者さんを探す。この方法でどうだろうかと、現場のK氏に連絡。K氏も納得。とにかくパイプの手配を進めてもらう。
キャナルに行くのをやめて、17時に現場で業者さんと打合せをすることに。
一歩進んだかな。
16時20分にホテルを出発することにする。
部屋で少し休んだあと、街へ繰り出す。朝飯兼昼飯を食べた後、時計のバンドを買う。
13時に部屋に戻って、あちこちに連絡。
17時現場入り。業者さんが、パイプを持ってきてくれた。ローマは溶接で二つのパイプを接合したらと言っていたのだが、業者さんは別の器具でジョイントさせる方法を提案、それを見せてくれる。
最初は訝しげに見ていたローマも納得。あとは、トラのとり方を打合せ。ウェイトをつかわないやり方をローマが発見。あらかたこれで行けるだろう。あとは協会側にK氏が説明することに。
これで一段落。
18時からの武漢のサーカスを見る。
10年前の雑技団のショーを見ているようだ。演出も振付もはっきり言ってひどい。
19時半メンバーが揃い、リハーサル。オープニングを音と合わせて、まずリハ。
やっと始まったなという感じだ。
オープニング、フィナーレ、縄跳び、オリエンタルアクロバットのリハ。
22時半リハ終了。雨もやんでいた。ローマもずいぶんと楽になったようだ。
23時すぎにホテルに戻り、ローマの部屋で例によってウォッカとザクースカの簡単な食事。
旧ウォッカ三兄弟のひとりデニスを呼ぶ。2時ぐらいに部屋に戻ろうとしたが、ローマがクロスワードをはじめ、ロシア語の練習だと、もう少し残れという。
結局4時ちかくまで飲んでいた。
今日のアルコール。ウォッカ2本(3人)。

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2001年8月31日(金)

またしても二日酔いで頭が痛い。掃除をしてもらうあいだに、駅の方に行って、ガード下の立ち食いうどん屋で、冷しうどんを食べる。
13時ホテルを出発。ローマ夫婦、オリガ、オクサナ、サーシャと6人で博多に向かう。
14時半すぎにキャナルに到着。
火吹き用のホワイトガソリンを購入。16時から神山(クローン)のショーを見る。大野も東京から到着。いままでとは全然ちがったキャラで、なかなか良い。
Fさん、Kさんに挨拶、みんなを紹介。上のオフィスで、オクサナたちが10月にキャナルで公演できる可能性があるかどうかを中心に打合せ。
最初はあまり脈がないと思ったのだが、そうでもない。予算さえあえばという話しになる。
17時のルーシーのブランコ、ジェトンのジャグリングを見て、キャナルを出る。
19時半ホテルに着く。
20時にM氏と落ち合い、まず炭火焼きの店へ。見かけは真っ黒、焼きとりとは全然違う代物なのだが、これがなかなか美味い。
二軒目は、サーファーが握っている寿司屋。
箱根に行ってもらっている辻から何度か電話。今日でおわりにグリンチェンコたちが、ぐずっている。
要はラストショーなのに、ユネッサンの人たちは誰も見に来ないし、お前も来てくれないじゃないか。
まだまだ子どもなのである。なんとかなだめる。
三軒目は、台湾の女性がやっているバー。ここで呉さんという日本に来て2年目という台湾の人と意気投合。
日本語が全然しゃべれない、台湾の人がやっている店があるというので、懐かしくて、今日初めて来たという。
筆談や、ホステスさんの手を借りて、しゃべっていたが、2時間もすると、日本語がかなりうまくなっている。
日常の生活で日本語をしゃべれる機会が少ないのだろう。東村にいるナジェジーダ先生のことを思い出す。
来日してから何度か電話で話したが、日本語がわからなくてたいへんだし、寂しいと言っていた。
言葉がなくても、コミニケーションはできるけど、やはり日常の生活を営むうえで、言葉で意思疎通がはかれないということはかなりの負担になるのだと思う。
結局3時すぎにホテルに戻る。
ここ数日ロシア語で話しながら、ローマたちと飲んでいたが、たまには日本語で会話しながら飲むのもいい。
いい息抜きになった。

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