クマのお仕事日誌
2001年11月分


2001年11月1日(木)

8時起床。ここのホテルに泊まって初めて朝食をとる。帰り際にクレアと大野と会う。
9時15分ロビー集合。9時半、HEPへ。搬入のトラックはすでに到着。
搬入が終わったのは、10時半すぎ。ロビーで自己紹介を兼ねてミィーティング。
11時すぎに、クザンのメンバーも到着。
最初は舞台関係の問題を整理、そのあと照明の仕込。
時間があるのでのんびりとした感じで、仕込が進む。
16時、クザンのデモンストレーション。三人四脚の格好で、HEPの店内を歩いてくれる。
手を抜いていない。約50分あの窮屈な格好で店内を歩いてくれる。
素敵な連中だ。テンションが全然さがっていない。一生懸命客集めをしようと協力してくれる。
17時終了。仕込も19時前に終わる。
20時ホテルロビーで集合。近くの居酒屋で食事。
ニュープロジェクトについて話し合う。本当にいい連中だ。
もう十二年来の友だちなのだ。みんなでいいものをつくりたい、そんな熱気だけは、十二年前と同じ。
俺たちは年をとったかもしれないが、サーカスを愛する気持ちはいつも変わらない。そんな友だちなのだ。
レ・クザンとは。

このページのTopへ

2001年11月2日(金)

10時すぎに目が覚める。ローマに電話。今日NGKに行くことを伝える。11時15分ロビーでクレアと待ち合わせ。
少し遅れてクレアと合流、NGKへ。
12時からショーが始まる。ビデオ撮影。
ショーのあと、クレアが炊飯器を買いたいというので、このありりに詳しいローマの案内でDutyFreeショップへ。
クレアが炊飯器を購入、近くのお好み焼き屋で食事。
15時すぎにHEP入り。
17時半クレアとローマたちが劇場入り。
19時ショーが始まる。HEPの公演は、客席と舞台がとても近いのでクザンにとってはとてもいい。
ローマたちも大満足。めちゃ笑っていた。
ただ3人はいまいちなようだった。
受けない時の三人は、いつもしょげている。こんな三人がとても好きだ。ショーがルーティーンになっていない。いつもテンションを高く、観客と一緒に喜びを分かち合いたいのだ。
たとえ観客に受けていても、自分たちが満足できないと、彼らは嫌なのだ。
そんなところがたぶんクザンの連中の一番好きなところだと思う。
21時から打ち上げ、ローマたちも参加。
例によって、ウォッカ持参。
いよいよローマたちとは明日がお別れ。本当に明日は俺、泣くかもしれない。それを一番分かっているのはローマかもしれない。明日のことを言うなという。
何よりも嬉しかったのは、ローマたちがクザンの連中のショーをとても好きになってくれたこと、そしてクザンの連中もカザフの連中を好きになってくれたこと。
明日ショーを見に行くといってくれた。
みんな友だちになってしまう。ジュロもレネもロロも、ハートで分かってくれる、そしてローマもデニスもイーラもクザンを分かってくれる。
こんな出会い、とても素敵だと思う。
クザンの連中に、カザフのサーカス状況を説明して、それを俺がヘルプしたいというだけで、彼らはすぐ分かってくれる。
クザンもツィルカッチ。そんな連中と仕事している、それだけで俺は満足、幸せだと思う。
いい宴だった。

このページのTopへ

2001年11月3日(土)

11時すぎに目が覚める。体調は最悪。シャーワーを浴びて、とりあえず地下鉄に乗って、なんばの駅にでる。ホテルを出る時は気づかなかったのだが、外は雨。
12時40分にクザンのメンバー全員とNGKの前で落ち合い、ローマの案内で楽屋から客席へ連れて行ってもらう。
超満員。背伸びするようにして、観覧。終わった後、また楽屋により、ローマたち挨拶して劇場を出る。
クザンたちもヘロヘロ気味。特にルネがボロボロ。こんな早くから起きてくれて、疲れているのに義理堅い連中だ。
近くのソバ屋で食事。ほんとうに日本食が好きな連中だ。
14時すぎにホテルに戻る。そのまま少し横になって寝る。これで少し体調が戻る。
17時前に劇場入り。サンケイ新聞の記者T氏や、ダスキンのTさんが見に来てくれた。
まだ体調がすぐれず、今日は客席では見ず、ロビーで待機。
途中大野に連れられて、なきじゃくる娘さんとお母さんが出てくる。クザンのギャグで、ガキンチョが嫌いだといって、ロロが子どもの前で花束を床に叩いてボロボロにする場面があるのだが、そこでびっくりして恐くなって泣き出したらしい。
公演後、大野が詫びを入れに入ったら、父親が大剣幕だったという。クザンにというよりは、主催者側に事前に子どもたちを前にすわらせないとかするべきではないかということらしい。
こんなこともある。
公演後、明日帰るクレアとお別れ、クザンの連中やスタッフ、HEPの人たちに挨拶して、タクシーでローマたちのゲストハウスへ。
今日はゲストハウスのママさんと、Mさんも参加してのお別れパーティー。
ローマのつくったプロフは大好評。ローマが、今日は日本に来て一番嫌な日だ、なぜなら大島と一緒に飲む最後の日だからだとスピーチ。
俺も同じだよ。
M氏は途中例によって沈没、デニス、イーラも2時すぎに沈没。結局ローマと4時半まで乾杯を繰り返す。

このページのTopへ

2001年11月4日(日)

11時すぎにローマに起こされる。10時に起きるはずだったのだが、寝坊。たしか一度デニスが起こしてくれたようなのだが・・・
ローマの部屋で昨日の残りのプロフを食べる。デニスとイーラとお別れ。ローマがタクシー乗り場まで送ってくれる。自分をタクシーに乗せた後、手短にアルマトゥイに着いて一週間後には電話する、明日も電話する、兄弟、また会う日までと言い残したあと、去って行った。
窓から自分も見送ろうしたら、ちょっと振り返ったローマの目に涙が。
ほんとうによく飲んだし、よく語り合ったし、泣き合ったこともあったし、別れが辛い。ローマらしい別れ方だった。
新大阪発ののぞみに乗り込む。広島までずっと寝ていた。博多の駅からタクシーでキャナルへ。
ギリギリ15時のショーに間に合う。4人のメンバーと挨拶。みんな元気そうだ。
楽屋で少し横になっているうちに寝てしまう。3人の女性がちょうど着替えている気配だったので、ずっと目をつぶっていた。
着替えが終わって出て行ったのを確認して、起きて最後のショーを見る。寝不足で身体がフラフラ。
17時のショーが終わって、荷物の後片付けとパッキッグ。
20時から吊り物の撤収。1時間くらいて終了。
タクシーでホテルに戻る。チェックインしたあと、近くの居酒屋で食事。会えなかった一ヶ月の出来事を全部話してくれる。
一個だけ問題があるのだけど、オリガが言いにくそうに切り出す。サーシャが酔った勢いで、ホテルの部屋の壁を叩いたら、穴が開いたという。自分たちで弁償するので、いくらか聞いてもらいたいという。
とにかくあとで見ることにする。
食事したあと、海に行こうと言い出す。歩いて10分ぐらいに海があるのだが、そこで飲みながら海を見ようというのだ。
気が進まなかったのだが、例によって断われそうもないので、行くことにする。近くのコンビニでウィスキーを買って、海へ。
1時間近く、海を見ながら、ウィスキーを飲む。たしかにおつなものだ。
1時すぎに部屋に戻り就寝。

このページのTopへ

2001年11月5日(月)

11時すぎに起床。サーシャの部屋に行って、穴を見る。結構大きな穴だ。会社に電話、保険が効くかどうか確認してもらう。
一応写真を撮っておく。
12時すぎにバスでキャナルまで。雨が結構降ってくる。13時すぎにトラックが来て、荷物の搬出。
そのあと、銀行に行って両替することになっていたのだが、両替する前にいろいろ買い物があるらしい。雨が降ってきて、傘もささずに、すれ鼠になりながら、買い物に女性陣は走る。
時計を見たらもう14時半。とにかく急がせてなんとか15時15分前に東京三菱銀行に着く。
自動両替機で五回かかって、みんなの分を両替してあげる。最後の両替が終わったのがちょうど15時。とりあえずこれで一安心。
バス停のちかくの和食屋さんに入って刺身定食を食べる。
タクシーに乗っていったんホテルに戻る。小一時間寝ることができた。少し元気回復。
タクシーでまたキャナルへ、今日から始まるチェッカーボードのショーを見る。
そのあと20時から歓送会。最後にオリガが感謝の言葉で締めくくってお開き。
Fさんの車でホテルまで送ってもらう。フロントで穴のことを報告する。あとで見積をもらうことになった。
今日も海に行こうと行っていたが、雨がひどいので、サーシャの部屋でパサショークの乾杯。
スミルノフがいかに酷い奴かの話になって結構盛りあがってしまった。
結局2時まで飲むことに。
17人のグループで来て、バラバラに四回にわけて帰られると、たまったもんじゃない、さよならパーティーだけで、どれだけ飲まされることになったのか。
でもみんな喜んで帰ってくれること、これが一番だ。
最後のお別れパーティーははこうして終わった。

このページのTopへ

2001年11月6日(火)

6時半サーシャの電話と、目覚ましで起床。かるくシャワーを浴びて、下へ降りる。
大きい荷物を宅急便で送る。しかし今回も荷物持ってき過ぎ。宅急便代だって馬鹿にならない。
すでにF氏が車で迎えに来てくれていた、サーシャたちも皆降りてきて、荷物を積む。
しかし今日は寒い、まるで冬だ。風も強いし、冷たい。
7時半には空港到着。9時半出発だからちょうどいいと思ったのだが、KEは10月28日から10時に変更になったという。
女性陣は例によって買い物に走り始める。
チェックインはスムーズ。前回メンバーが帰国した10月2日の時は長蛇の列だったが、20分ぐらいで終わる。
出発まで1時間半ぐらい時間があったが、セフティーチェックのところまで、送り出す。4人と抱きあって別れを告げる。
F氏とレストランで朝食。ほっとしたというよりは、力が抜けた感じ。
F氏の車で駅まで送ってもらう。睡眠を目的に普通電車に乗って小倉へ向かう。
ひたすら寝る。1時間半で小倉に着く。途中博覧祭会場が見えた。4日に終わった会場は、撤収のためトラックが行き交っている。
まさに祭のあとという感じだ。
小倉に着いた時に、ローマから電話。いろいろチェックインであって、ずんぶん時間がかかったがとりあえず、ゲートで待っているところだという。20キロぐらい超過があったが、エクセスもとられなかったとのこと。
また連絡すると言い残して電話を切る。これでほんとに終わった。胸にこみ上げてくるものがある。
12時半博覧祭の現場を担当していたRのM氏と落ち合い、昼食。この時点ではこのまま帰ろうかという気持ちもあったのだが、飲みましょうと言われ、心が動き、結局今晩泊まることに。
14時すぎにホテルにチェックインして、ひとね。とにかく身体がボロボロ。
18時にM氏と落ち合い、近くの中華料理屋雅屋へ。美味しい店だった。次のプロジェクトの打合せをしながら、食事。
20時前に2回行ったことがあるバーへ。ローマのお気に入りA美ちゃんが、ずっと一緒にいてくれた。
カザフの思い出話がたっぷりとできた。これでカザフサーカスとお別れできたような気がする。いい夜だった。
2時すぎに店を出る。しかし6時間もずっと馬鹿馬鹿しい話をしていたことになる。いい骨休みになった。
部屋に戻ってバタンキュー。

このページのTopへ

2001年11月7日(水)

今日はもう帰るだけにすることにした。
10時半に起きて、シャワーを浴びて、チェックアウト。新幹線口の地下街で遅い朝飯。
11時37分発ののぞみに乗車。名古屋までひたすら寝続ける。途中会社から電話があったようだが、しかとを決める。
持参してきた中村先生の新著『ロシアの風』を少しだけ読む。いままで先生が書かれた短文を集めたものだが、ひとつひとつ凝縮度が高い。
16時10分新横浜着。今日は横浜線をつかって新杉田まで出て、タクシーで帰宅。とにかく疲れた。
会社から今度提出しなければならない見積のファックス。紙切れで全部読めず。メールで送ってもらう。
今日はビールを軽く飲むだけにして、0時すぎに床につく。
終わった、とりあえずカザフは。

このページのTopへ

2001年11月8日(木)

今日から日常の生活がまた始まる。
会社に着いて、郵便物の整理。辻とクライアントに提出する見積の件で打合せ。
カザフサーカスの公演は終わったが、まだ荷物の送り出しと、キャナル組の例の壊したホテルの壁の修理の件が残っている。
カーゴ会社にリストを作成してファックスで送る。福岡に連絡、明日にも壁の修理に入るとのこと。
今回の出張の精算を終わらせる。
来週公演があるカバBの案内を、メール番号を登録している人たちに送信。
デラシネの原稿を何本か作成し、デスクの大野宛てに送信。彼女も忙しそう。
と、ここまでで仕事はフィニシュッ。HテレビのU氏と会うために、野毛へ。
待ち合わせの万里に行くと、福田さんとO氏とKさんがいたので合流、まもなくU氏も参加。相変わらずの馬鹿話に盛りあがる。
来年の野毛のゲストにエンマを呼ぼうということになる。ベリーダンスは以前から候補に上がっていた。これが実現すると、また春にはエンマに会えることになる。
福田さんと別れて、一千代に。野毛に来るのが一番自分にとっては、ほっとする。なんとなくすんなりと今度は社会復帰できそうだ。
O氏とKさんの案内で、野毛を見わたせる小高いところにあるお寺へ。ビールを飲みながら、場末美の野毛を眺める。ここは自分も初めて。U氏もすっかり野毛にはまり気味。
3人と別れて23時すぎの電車で帰宅。

このページのTopへ

2001年11月9日(金)

今日は辻があさから千葉の方に行っているので、15時すぎまでひとりで事務所でお留守番。
クザンの現場についている大野から電話。愛媛の吉海町から三重の名張まで移動した昨日は、さすがに大変だったらしい。
バスやら私鉄の乗り換え、食事のケアー、確かに大変だったと思う。
13日の横浜公演についての打合せ。
静かなもの、電話もセールス以外はほとんどかかって来ない。
カザフの荷物も無事通関がおわったようで、来週火曜日のフライトでアルマトゥイに飛び予定。
このところ体調が思うようでない、飲み過ぎだけが原因ではないような気がする。
一度病院に行ってみてもらった方がいいかもしれない。
今日はサーカス文化の会、五人囃子のメンバーのひとりだったミキの報告。
夏のヨーロッパ大道芸修業の旅についての報告だったが、一緒に旅をした清水の芸人さんやハンガーマンも参加してくれて、かなり面白い話が聞けた。
清水の芸人さんとは初めて会ったが、なかなか面白い芸人さんだ。一度芸を見てみたいものだ。
参加者はそんな多くなかったが、原宿駅近くの居酒屋でビールでも一杯ということになったが、自分は体調不良のために参加せず、真っ直ぐ帰宅。
ビデオ屋さんで「スタリングラード」を借りて、帰宅。
久しぶりに明日明後日は家で休める。

このページのTopへ

2001年11月12日(月)

土日とふつか続けて休めた。とにかくゴロゴロしていた。
それでも体調が思わしくない。身体がパンパンな感じで、立っているのが苦痛に感じることがたびたびあった。
今日はクザンの桐蔭学園の仕込で、会社は自分ひとり。
14時すぎに西田から電話。成田に着いたという。
16時すぎに大野から電話、仕込は無事終了とのこと。
西田が重い荷物を抱えて、会社に戻る。本物の天津甘栗をもらう。
18時に会社を出て、野毛のタロウちゃんのところで指圧をしてもらう。
タロウちゃんは、最初足をちょっと触っただけで、どうしたんですか、こんなにパンパンになって、ボロボロじゃないですかと言う。
約1時間半かけて、マッサージをしてもらう。背中のあたりがガシガシに固まっている感じだった。
飲み過ぎが原因じゃないかという。確かにそれはあると思う。
かなり身体が楽になった感じがする。
22時帰宅。

このページのTopへ

2001年11月13日(火)

起きたら、身体が軽くなっている。首筋の凝りがだいぶとれたようだし、歩いてフラフラすることもなくなった。
もっと早くに指圧してもらえば良かった。
久しぶりに40分ぐらい歩いて駅まで行く。
10時新横浜プリンスHでクザンのメンバーをピックアップして、桐蔭学園に向かう。みんな元気そうだ。
11時前に到着。今日は今回のプログラム「セパドゥマージュ」の海外での最終公演。なにかやろうということで、フィナーレの時に両袖から三色のフランスカラー(白、赤、青)のテープを投げ込もうということになる。舞台監督のHさんのアイディア。
大野が車でテープを買いに走る。弁当を食べたあと、控え室のソファーに横になっていたら、寝込んでしまう。イビキまでかいていたらしい。
楽屋で、Hさんがクザンの日本語について、「風船、フウセン」と言っているところをしばらく「クサイ、クサイ」と言っているように聞こえていたという話をしたら、みんな大笑い。
相変わらず和気あいあいの楽しい楽屋だ。
15時40分開演、今日は上手の袖から見ることにする。今日のお客さんは中学一年生。はじめからなかなかノリがいい。
袖で見ていると、彼らの表情がよくわかり楽しい。
フィナーレ、Hさんの合図で、自分は白いテープ5本を一気に投げ入れる。これを拾ったクザンたちはこれを客席に投げ返し、いい感じでショーが終わる。
舞台の片づけを手伝う。クザンがきて撤収を手伝うのは今日が初めて。いい汗をかいた。
タクシーであずみ野にでたあと、打ち上げ会場の野毛の叶屋へメンバーを連れていく。
途中野毛の福田さんもちょっと顔を出す。クザンのメンバーを見るのは、初めてなのだが、一目見るなり、みんないい顔しているねと一言。
楽しい宴だった。最後に挨拶ということで、自分が一言を言おうとしたら、クザンのメンバーがまた茶化しはじめて、「アレクサンドル(これは大阪でローマとよく飲んでいたフランス産のウッオカの名前)・ミキオビッチ・バカオオシマスキイ」さんの挨拶ですと、ふざける。
オフィシャルな感じではなく、いかにもクザンらしいくだけた打ち上げだった。
当然のことながら彼らは飲み足らないようで、二軒目に行こうとしていたが、自分はここで退散。
みんなとは東村からもどってくる金曜日にまた会うことにする。
23時すぎに帰宅。
また結構飲んでしまった。

このページのTopへ

2001年11月14日(水)

朝、外務省の外国人課に寄る。以前呼んだことがあるロシアのクラウンのセルゲイが、いま日本で働いているのだが、年末に家族を呼びたいという。
働き先が保証人になれば訳はないのだが、できないというので、自分が個人の資格で呼びことができるかどうか、照会。
大きな問題はないらしいが、必要書類を揃えるのが、結構面倒かもしれない。
昔からくらべたらだいぶ楽になったが、また余計なことを引き受けたものだ。
11時前に会社へ。お仕事日誌をアップしたあと、突如なにもやる気がなくなる。やることはあるんだよね。でも・・・・
やる気がなくなったのは、業者さんを紹介してくれと言われ、紹介した件で、トラブルが起きたとかで、お叱りの電話をもらったこともある。
こちらが善意でやったことなのに、頭に来る。
今日はこんな日なのかもしれない。
16時前にナナちゃんが、来社。1月にやる公演の仮チラシのコピーをするため。
カバBのプログラム、アンケートを作成して今日の仕事は終わり。
19時すぎにplanBへ。
全体的に静かな感じ、客も少ない。それでも開演前にはなんとなく一杯な感じになっていた。
公演自体も静かな感じではじまり、静かに終わった。
明日早いので、今日は軽く一杯飲んで、21時半すぎに会場をあとにする。
23時帰宅。

このページのTopへ

2001年11月15日(木)

6時起床。朝飯を食べずに、新横浜プリンスホテルに向かう。7時30分すぎにクリストフをピックアップ。
結構荷物があったので、タクシーで横浜駅に向かう。朝のラッシュアワーで道路が混んでおり、ちょっとドキドキしたが、15分前には横浜駅に着く。
前々日の打ち上げのあとクリストフは朝5時ぐらいまで野毛近辺で飲んでいたらしい。
昨日はひとりで中華街やMM21あたりを散歩したとのこと。
10時ちょい前に成田に着く。空港はガランガラン、チェックインもスムーズ。荷物も30キロあったが、エクセスもとられなかった。
レストランでお茶を飲んだあと、11時ちょい前に搭乗口で別れる。
また近いうちにフランスか日本で会おうと、軽く別れる。あっさりしたもんだ。
成田エクスプレスで新宿経由で会社に戻ったのが13時すぎ。ちょうど電話を変える工事の最中。いままで切り換えで使っていたインターネットも、これからはみんな同時で使えるようになる。
パソコンの設定変更、いつもここでいろいろトラブルが起きていたのだが、今日はなにもおこらず。かなり便利になった。
静かな一日だった。早めに帰社。
冨岡の駅に着いてから資料館の先生に電話。電話の向こうはかなり賑やかだった。
クザンの3人と、先生も交えて、楽しい宴が行われているのだろう。なによりなことだ。

このページのTopへ

2001年11月16日(金)

横浜駅の市政サービスで印鑑証明書と住民登録書の写しをもらう。セルゲイから依頼されている奥さんと娘の来日のための査証申請に必要になったもの。
10時半会社に着いたあと、セルゲイの査証のための書類作成。
つくっているといろいろ不明な点がでてくる。それを確認するために、セルゲイと連絡。
この書類をつくるのに午前中一杯かかってしまう。
13時光洋ちゃんとナナちゃん来社。12月の仙台公演のための打合せ。
今回はおやこ劇場主催のものと、地元の有志が主催するものと二本立てなので、作品の内容を若干変える必要がある。
どの番組をどういう構成でやるかを打合せ。
ストーリー的な要素を入れてやっていきたいという気持ちもあるようだが、とりあえずはヴァラエティーショー的な感じで構成することになる。
いくつか確認することがあり、仙台の主催者に電話。
16時半東村の大野から電話、東京に戻るのは、20時頃になりそうとのこと。
19時すぎに会社を出て、両国駅近くのちゃんこ屋をリザーブ。
20時すぎクザンのメンバー3人がホテルに到着。
西田やA、F君も交えて、最後の食事会。皆は東村がずいぶんと楽しかったようだ。
彼らも間違いなくツィルカッチだ。
22時30分店を出て、みんなと別れる。きっとまたすぐに会えるだろう。
24時前に帰宅。

このページのTopへ

2001年11月19日(月)

朝3時トイレに起きる。奥さんと長女は起きていて、しし座流星群を見ていた。同じ頃起きた次女と4人で、長女の部屋から流星見物。
まあよく見えること、見えること。48年の人生で流れ星を見た数の三倍ぐらいは見えたのではないだろうか。長女は1時間で100以上は見たと言っていた。
30分ぐらい見て、また寝る。
出勤途中病院に寄って、糖尿の検査。今度はどのくらいの数値になるのだろう。あまりいい数字が出るとは思えない。
会社で、仙台の山本光洋の公演チラシをあちこちに送る手配。あまり売れてないらしい。
ついでに漂流民の会の総会案内文を作成。
13時からミーティング。こうして4人が一緒に顔を合わせるというのは、何カ月ぶりなのだろう。
報告会というよりは、いま抱えている仕事の進行状況をお互いに確認する。
総会案内文をコピーする。なんとか明日中に出しておきたい。
何人ぐらい集まるのだろうか。30人ぐらい集まるといいのだが。場所が石巻なので、そんなに集まらないかもしれない。
最初はこじんまりとスタートして、徐々にという感じだろう。
明日急遽、東京都の芸術文化助成金申請をするためのミーティングをすることになった。
締切りが今月一杯。間に合うかどうか、まずそれが問題だろう。
帰り冨岡駅で塾帰りの長女を拾う。21時が終わりなのに、20分も待たされた。
流星見物疲れで、24時前に就寝。

このページのTopへ

2001年11月20日(火)

久々に朝ジョギング、やっと走れるくらいに体調が戻ってきた。何カ月ぶりなのだろう。もう枯れ葉の季節になってしまった。
出勤途中、ローマからもらったMDを聞く。ロシアのレゲエと、エンマと縄跳びアクロバット、カザフのロックが入っていた。結構はまりそうな音楽だ。
朝、助成金申請のための打合せ。なにが必要かを確認したうえで、役割を分担して、書類を揃えることにする。大変かと思ったが、皆で手分けすればなんとかなりそうだ。
申請とヒアリングの日のアポイントをとる。28日に申請することになった。ただ前もって申請書のコピーを22日まで送らなければならない。ということは明日中には、書類を完成させなければならないということだ。
14時文化村で、石巻河北のH氏の取材を受ける。来年の新年号で、若宮丸漂流民の特集を五ページ組むことになったので、それに関連して取材。
会社に戻って申請書の作成、なんとか明日にはできるだろう。
17時半会社を出て、銀座でOさんと落ち合い、樽平で一杯ごちそうになる。玉井の件で写真を貸したことがご縁なのだが、会うのは初めて。
山形料理に舌鼓をうち、美味しい酒を飲んでいるうちにすっかり酔っぱらってしまった。
いい機嫌で、Oさんと別れる。
たぶん23時頃に、帰宅。

このページのTopへ

2001年11月21日(水)

ちょっと二日酔い。結構昨日は飲んだようだ。日本酒はきく。
10時出社、助成金の申請書を作成する。いままでは書き込みだったが、今年はフォーマットをダウンロードして、そのまま打ち込めるので楽。
13時前に完成、みんなに見てもらいチェックしてもらう。直し部分を訂正して、速達で送付。
とりあえずこの件はこれで、一段落。
明後日来日するMマジシャンの件で、電話やらメールで打合せ。前と同じで、なにも決まっていない。
とりあえずは25日までの段取りを決めておく。荷物のことやら、査証のことやらいろいろある。また嫌な一週間になりそうだ。
ただ今度は、ベタでいなくてもいい感じもする。すべては成り行きをみながらやるしかない。
今日は早めに帰宅。
自宅のFAXに、鹿児島のU氏から、若宮丸漂流民の会入会申し込みが入っていた。第一号は遠方からだった。
24時ころ就寝。

このページのTopへ

2001年11月22日(木)

出勤すると、ローマからFAX。6日に帰国してから何の音沙汰もなかったので心配していたところ。ハーリックと中国に行っていたという。
荷物も受け取ったということで一安心。最後に寂しい、早くアルマトゥイに来いと一言。行きたいけどなあ・・・。
韓国のユー君からメール。いよいよ来年南北朝鮮統一祈願綱渡りツアーをはじめるらしい。着実に夢の実現に向かっている。
午後2時今度28日にやる講演の件で、プロデューサー役のS氏が来社、打合せ。
ビデオを何本か見せながらやることになった。
午後4時過ぎ、大阪のY社のO氏来訪。来年のゴールデンウィークの企画の打合せ。
なんとかひとつひとつ細かい仕事を拾っていかなければならない。
帰宅途中、TのS氏から携帯に電話、大まかなスケジュールを聞く。

このページのTopへ

2001年11月24日(土)

13時半家を出る。考えてみればいま三連休の最中。今日は横浜からリムジンで成田まで行くことにする。
やはり連休中ということで、道路が混んでいて、2時間ぐらいかかった。
一階のところでカーゴ会社のO氏と待ち合わせ、別送品通関の手続きについて確認。
連休中で空港内は多少は混み合っている感じもするが、O氏の話しによると、全然人がいないという。
確かに16時代は、10本近く到着便があるのだが、降りてくる人はパラパラ、出迎えも少ない。
いつもドッと降りてくる、シルバー世代の団体客が見当たらない。テロの影響だろう。
とはいいながらも、Mマジシャンらはなかなか降りて来ない。結局到着してから1時間以上経ってからゲートに現れる。
別送品の申告書をもらい、O氏に渡し、通関手続きをしてもらう。彼らとはここで別れ、荷物を見に行く。
結構な量だ。
東京まで成田エクスプレス、東京からは横須賀線に乗り、20時すぎに帰宅。

このページのTopへ

2001年11月26日(月)

出勤途中病院に寄って、先週受けた糖尿検査の結果を聞く。前回から比べたら血糖値が40以上、コレストロールも50以上落ちた。といっても高いのに変わりない。
もう少し節制が必要だ。
午後昨日リトルワールドの楽日に言ってきた西田と大須賀が会社に戻る。最後の公演は観客からカーテンコールが巻き起こったという。こんなことはいまだかつてなかったこと。
それだけいい公演だったのだろう。担当した大野もやった甲斐があったろう。
大野は明日の帰国まで犬山に残っていたが、4人でミーティング。
今年の冬休みは22日から1月6日までということが決定される。二週間以上休める。冬の長期休暇は、毎年恒例のことだが、今年は働きづくめだっただけにありがたい。
明日からMマジシャンのアテンドが始まる。その準備や打合せを電話でする。
また長い一日が始まるわけだ。
サーカス文化の会の会報つくり。そのあとは封筒にラベルと切手貼りと会報のコピー。
20時半すぎに会社を出る。今日から中野坂上のウィクリーマンション泊まり。駅でラーメンを食べて、コンビニでビールを買ってチェックイン。駅からは近いが部屋は狭い。
まあしようがないわな。

このページのTopへ

2001年11月27日(火)

7時起床。よく寝れなかった。歩いてホテルまで。デビッドと二カ月ぶりの再会。
車でスタジオに向かう。8時半スタジオ入り。また長い一日が始まる。
荷物の搬入、一個来ない荷物があったため、再配達を依頼。結局この荷物がくるまで、道具の組み立てができないことに。
11時ダンサーをホテルに迎えに行く。みんな元気そう。
13時半荷物到着。組み立ての手伝いをする。デビットのお母さんが二週間前に亡くなったという。前回来たときさかんに自慢していた彼女とも別れたとのこと。
陽気にふるまってはいたが、辛そうだった。
16時ダンサーたちをホテルに戻し、近くのレストランで食事。
スタジオに戻り、道具の最終的な組み立てをみんなで手伝ってもらい、終わらせる。
結局スタジオを出たのは23時前。ビールと鍋焼きうどんが夕食。
メールのチェック、デラシネ通信の原稿を書いて、1時半就寝。

このページのTopへ

2001年11月28日(水)

8時起床。昨日はあまり食べれなかったので、がっちりと朝飯が食いたくなる。代々木で降りて、吉野屋で納豆定食を食べる。
9時半出社。今日は現場には大野に行ってもらう。
クリューコフからFAXが来ていた。西田の12月のキエフ行きのスケジュールについて。地方公演があるので、スケジュールをかえてもらいたいということだ。
西田と連絡して、日程を決める。今度はフライトの状況を調べる。
先生のフライトスケジュールも確認。
これを終えてから、助成金の申請書を再度チェックし、コピーをとる。
14時半東京都国際文化財団で申請書を提出、20分ほどヒアリングを受ける。多分今年で五回目になるので、慣れたもんなのだ。和気あいあいとしたやりとり。昨年のフール祭について、いかに助成金なしで大変だったか、そしてそれでもやりとげたことで意義があったかを強調する。
なかなかいい感触だったと思う。しかしこれはあくまでも書類が受理されたということであり、審査は別な人たちがやるわけだから、決まったわけではない。
ただ先週からみんなで協力しながら書類を準備したので、なんとなく重荷から解放されたような気持ちになった。
現場の大野からたびたび連絡が入る。12月3日以降の取材のスケジュールがばんばん入っている様子。いやになってくる。
会社に戻り、今日やる講演の準備のため、ビデオをチェック、頭出しをしておく。
19時15分前に亀戸に到着。駅からすぐの亀戸文化センターへ。用意していたプリントがなく、ちょっと焦る。しようがないのでネットを開いてもらい、デラシネ通信からプリントアウトすることに。
10人ぐらいの参加者。最初はいきなり寝ている人が目に入り、すべった感じで始まったが、ビデオとか見てもらっているうちに、調子が出てくる。
最後にディミトリーのビデオを見てもらったのだが、しばらくぶりで見て、その演技の確かさにあらためて感動してしまう。もう一度見てみたいものだ。
21時終了。ウィクリーマンション近くのコンビニで餌を買って、部屋で食事。こんな生活やなもんだ。早く解放されたい。
現場から明日のスケジュールのことで何度か電話。
神彰の原稿を書きかけるが、1時すぎにダウン。

このページのTopへ

2001年11月29日(木)

10時ホテルに迎えに行く。ダンサーのうちのひとりは、ロシア人。ロシア語でいろいろ話す。彼女は七年前にアメリカに旦那さんと一緒に来たという。
英語はペラペラ。サーカスの仕事をしていたということで話しがはずむ。
10時半ホテル出発。11時スタジオ入り。
前の撮影を待っている間デビッドと話す。昨日はバーで遅くまで飲んでいたという。
お母さんが亡くなり、彼女とも別れて、一体俺はなんでこんなについていないんだろうとぼやく。すべてはあの交通事故からだ。
慰めようがない。
13時半からセットアップ。14時すぎから撮影開始。
どのくらい今日は押すのだろうと思ったが、16時すぎには撮影完了。
明日撮影する道具のチェックをして、17時30分にスタジオを出発。
男連中は、劇場公演のための打合せ。部屋に戻り少し休み、21時ホテルへ。
渋谷のしゃぶしゃぶ屋へ。
食事をしながら打合せをするなかで、明日の取材のため、スタジオにおいてあるものが必要になる。
明日7時半デビッドをピックアップするためホテルに行くことが決まる。
1時すぎウィクリーマンションに戻る。バーボンをちらっと飲んで就寝。
カザフの時とちがって、実に健康的だ。

このページのTopへ

2001年11月30日(金)

6時半起床。ホテルへデビッドをピックアップに行く。途中事故渋滞があったが、8時すぎにスタジオに到着。
今日のTV撮りに使う衣装をとる。帰りは高速が混んでいるので、電車で戻ることになる。
ラッシュアワーにあたり、大きな荷物をもった我々は顰蹙君だった。デビッドは日本で電車に乗るのは初めてだと言っていたが、びっくりしたようだった。
9時20分ホテルにデビッドを戻し、宿舎に一旦帰り、仮眠をとる。
12時ホテル、メンバーをピックアップ、13時すぎにスタジオ入り。
とりあえずは順調に撮影は進んでいるようす。
ドンリーとTと三人で道具のバラシ。ロシア製と言っていたが、なんとなく親近感を感じる。前よくこんなゴツイ道具の組み立てやらバラシをさせられたもんだ。
2時間ぐらいで箱詰めまで終わる。
撮影もすんなり17時すぎに終わる。トラックに道具を搬入。18時にはすべてが完了。
全員でホテルに戻る。ダンサーとドンリーは今日が最後の夜。みんな買い物に出かける。
ということで、今日はここで仕事は終わり。
車を戻したあとTと近くの居酒屋で酒を飲む。
ビールの美味しかったこと。
明日明後日はオフ。

このページのTopへ


デラシネ通信 Top 日誌過去ログへ戻る