2002年8月2日(金)
東京駅から10時すぎの新幹線に乗る。朝ジョギングしたので、名古屋までぐっすりと寝る。
13時半Y社O氏と面会。秋のイベントについてプッシュ。
15時なんばに出て、Y社に。M氏の案内で、劇場関係の責任者や、招聘関係の責任者を紹介してもらう。
劇場で、現在公演中のマイム・ダニエルのショーを見る。マイケル・コーエンの鵞鳥パフォーマンスを思い起こすようなマイム。なかなか面白かったのだが、客席が完全に冷えきっていた。
ショーのあと楽屋へいったら、ダニエル君もかなり落ち込んでいた。いままでは結構受けていたらしい。
18時から会議。来年開催予定の大きなイベントについての会議。内容について意見を求められる。
タマゴが先か、ニワトリが先かと同じレベルの話。まだまだ構想が具体化してくるのは先の話だろう。
20時すぎにY社を出て、新大阪へ。最終の一本前ののぞみに乗車。
23時30分すぎには上大岡に着いて、楽勝かと思ったのだが、各駅に乗りかえたときに悲劇が・・・
冨岡で降りようと思ったら、リックサックの紐がドアに挟まったままで、とれない。金沢文庫でこちらのドアが開くかと思ったのだが、開くのは向こうのドアばかり。結局横須賀中央の2つ先の堀ノ内でやっと開いて、ひもがとれる。当然上りの電車は終わっていて、タクシーで帰るはめに。
1時前にやっと家にたどりつく。
とんだ一日だった。
2002年8月5日(月)
午前中メールの返事や、書類を整理しているうちに時間がすぐに経ってしまう。
12時半前に会社を出て、横浜にぎわい座へ。
坊屋三郎追悼のボーイズ公演を見る。もぎりのところで、久しぶりにS氏に会う。元気そうだった。
2時間ぐらいの公演かと思っていたのだが、ぎっちり3時間の公演となった。なかなか面白かった。
今日はもう会社に戻れないということで、中央図書館へ。ところが月曜日ということで17時閉館。しかたなく家に帰る。
今日はキエフ組が、ビザ申請のため大使館に行く日。クリューコフの携帯に電話。
今日は書類が足らないということで、受け取ってもらえなかったという。何の書類が足らないかをFAXで送ってもらうことになったのだが、家のFAX用紙が切れてしまった。
しかたないので会社に送ってもらうようにする。
しかたない。明日突貫で書類を作成して、送るしかない。
2002年8月6日(火)
キエフに送る査証書類の作成でふりまわされることになる。
今回はメンバーの一部が、途中で変わるということが、話を複雑にさせている。期間のちがうアーティストが3グループなるので、書類を作成するのも大変だ。
しかもコピー機がおかしくなり、時間ぎりぎりの勝負となった。
確認のためキエフに電話したりもする。ほとんどまる一日これにかかりきりになる。
15時半糖尿の検査。食後とはいえ、血糖値がまた高くなっている。ちょっとへこむ。
ヨドバシでフール祭の写真をもらって会社に戻る。
今日から気功に通うことになった。今日は第一回目。初めてなので少し緊張する。
40分ぐらい身体を触ってもらいながら、少しずつ気を入れてもらう。
首の痛みについては、ムチウチをやったことがないか聞かれる。そういえば四年ぐらい前に交通事故にあって、肩を強打したことを思い出す。たぶんそれでしょうといわれる。
それとインシュリンの分泌を請け負う膵臓の機能が弱っているともいわれる。
かなり身体が軽くなった感じがする。
2002年8月7日(水)
朝5時半かや子が吹奏楽の合宿のため出発。かみさんはほとんど寝ていないのではないだろうか。
朝全員そろってのミーティング。フール祭まであと一ヶ月ちょっと。券売は8月1日から始まっているが、PGで売れることは期待できないし、手売りが勝負。
DMは、今月末に送付することになったので、自分のリストをチェックして、ラベルをプリントアウト。
ウクライナのメンバーリストを作成し、リトルにFAX。
こうじが9月にやるソロライブのチラシを持って来社。週末から福岡で神山君と組んで仕事。
こうじも9月のソロ、10月のフール祭と忙しくなる。いいことだ。
19時渋谷で、T氏と一杯やる。神彰の原稿16章を渡す。ピッチが鈍ってきましたねと言われる。
そうなんだよなあ。身体と相談しながらやらないと、いけない状態だし。でも少し気合を入れないと。
22時半帰宅。
2002年8月8日(木)
しかし暑い、とんでもない暑さだ。杉田まで歩いたが、汗びしょ。会社で着替える。
日曜日に義母が喘息のため、入院した。毎日かみさんと結子が見舞いに行っていて、ずいぶん元気になっているということなのだが、来週からの白州行きがどうなるか微妙なところ。
来週は会社にいないので、やっておくべきことを整理。
ウクライナの支払い関係の表をつくる。今回はいろいろ大変だ。
結構時間がかかってしまう。
大阪Y社のM氏が来社。先週大阪であった打合せを踏まえて、今後のことを相談。
帰り際、ニューズウィークから電話。フール祭の記事を今月末に出る号で載せてくれるという。
写真三点速達で送る。
20時すぎに帰社。やはり義母は白州に行くのは、無理ということだ。
かや子とかみさんは、一日遅れて11日出発になるので、義父と結子と3人で10日に出発することになる。結子がびびりまくっていた。
2002年8月19日(月)
台風が接近しているということで、雨の中10日ぶりに出勤。
鋭気を養って、さあがんばろうモードにならなければいけないのだが、朝から体調が悪い。例のごとく胸のあたりと、頸椎のところが痛む。
とにかく8月一杯やらなくてはならないのは、フール祭の準備。チラシもあがったので、このチラシをどう配布して、券売をどうするかが問題。
出演者の顧客リストを借りながら、DMを送ること、これが先決。カバチッタの時でもそうだったが、チラシをこうしたものを見たいと思っている人たちに的確に届けることが大事になるだろう。
今週末、来週末とパフォーマンスがある。こうしたパフォーマンスのライブ情報を集めることも必要だろう。
それと団体でとりまとめしてくれそうなところを探すことだ。2年前のフール祭のリストなどを参考に、会場の近くの団体に呼びかけることも大事だろう。
昼過ぎには雨があがる。台風はどこに行ったのだろう。
夕方かなり具合が悪くなる。18時すぎに会社を出る。心臓がパクパクする感じ。
電車から降りたらずいぶん楽になった。
2002年8月20日(火)
今日は49回目の誕生日。台風一過、さわやかな天気になった。昨日のあの体調不良が嘘のよう。ベイサイドマリーナまでジョギング。
メールを開いたら、ニフティーから誕生日おめでとうのメッセージ、余計なお世話だよなあ。
とにかくいまはフール祭のことに専念。
朝日新聞の広告の条件が出る。悪くはないと思う。明日明後日中に結論を出すことに。
ミクロバンドの売り公演の件で、S氏に電話。興味はもってもらったが、予算があわない。
団体動員をどうするか、二、三アタックする。
いま中国で働いているカザフサーカスのローマからメール。またカザフで大変なことになっているらしい。すぐに返事。もう少し状況を詳しく知りたい。
18時すぎに、野毛のフラスコにフール祭のチラシを届ける。そのあと一千代で小出で落ち合う。
9月16日の鰻どんライブの打合せ。デスクの大野も合流。S氏、O氏、Kさん、Yちゃん、Tさんも一緒に。
さんざん飲んだあと、波の上に。ママさんが昨日のお仕事日誌を見て、大丈夫なのと心配してもらう。
結局3時ぐらいまで飲む。しかもママさんのランクルで自宅近くまで送ってもらうというおまけつき。ビックバースディープレゼントだった。
かくして49才も、飲みまくりで始まったわけだ。
2002年8月21日(水)
完璧な二日酔い。8時過ぎ起きたら、誰もいない。今日はみんなディズニーランド。セルゲイから前にもらった招待があったので、いとこたちと一緒に行くことになっていた。
8時半にかみさんから、モーニングコール。もう東京駅に着いているという。
しかし昨日はよく飲んだ、頭がぼっとしている。
昼前東村から西田が戻る。
午後ミーティング。特にフール祭について念入りに打合せ。それぞれの役割を決めながら、とりあえずは券売をどうするかについて話し合う。
予算書をつくる。かなりシビアな状況であることは間違いない。
またよりによって、来週から9月前半までは、イベントが重なって、それぞれ動きがとりずらいということもある。
Y社がつくったカザフのプロモーション用のビデオが届く。気になるのは、ローマが知らせてくれたカザフサーカスの現況。もう2、3日待ってみて、中国に電話してみよう。
朝飯も食べなかったのだが、食欲がわかない。昼飯も15時すぎにやっと食べる。
今日あたりウクライナのビザが下りることになっている。リーダ格のジーマに電話。不在。明日朝電話をくれとのこと。
20時会社を出る。
家に帰り、昨日できた若宮丸の会報を封筒詰め。明日には発送したい。
24時前に就寝。
2002年8月22日(木)
朝雨戸を開けると、野良猫のゴンが庭にじっと座り込んでいる。こいつは嫌いなタイプなので、追い出そうとしたのだが、いったん引き下がるものの、またしっかり戻ってくる。
ジョギングに出発しようとしたら、なにか地面に鼻をつけているなあと思ったら、なんと地中から出たばかりで、まだ木に登れないでいたセミをくわえている。あとでこの話をかみさんにすると、猫の貴重なタンパク源だからねえと言っていた。生まれたては柔らかくて美味しいんじゃないとのこと。でもなあ・・・。食われたセミはよっぽど運が悪いということなのだろうか。
フール祭関係であちこちに手紙を書く。
チェコのエージェントに洪水は大丈夫だったの、とメールをだしていたのだが、ずっと家族とバカンスでプラハを離れていたとのこと。事務所も家も被害にはあっていなかったということだ。
なによりである。
昨日あたりウクライナチームのビザが下りているのではと思い、リーダに電話を入れる。まだ早いという。明日あたり電話するつもりとのこと。途中大使館から電話がないので、たぶん問題はないと思うのだが・・
在日ロシア人やウクライナ人にもフール祭の案内をした方がいいという話があったので、ネットでいろいろ調べているうちに、横浜でウクライナ写真展をやっているという情報を入手。さっそく行ってみることにした。
18時すぎに山下公園近くの会場に着く。きっとしょぼいだろうなあという気はしたのだが、予想を越えるショボサ。写真の数も15点ぐらい。リトルで写真展をという目論見もあったのだが、これじゃ無理。
展示のしかたも、海外交流協会の事務所の中になんとなく展示されているだけで、ついでに見てもらおうという感じ。かすってしまったようだ。
新杉田経由で帰宅。
2002年8月23日(金)
フール祭で案内を出すDMリストの整理と、手紙を書く。
幼稚園向けのDMの文書も作成。今回はDMは大きなポイントになるような気がするので、少していねいにやりたい。
リトルにウクライナサーカスの件で、問い合わせていたことの回答。なんとかものはありそうだ。
これをキエフのアーティストに連絡。不在だったので留守電に用件を入れておく。
来週からまたバタバタと現場が続く。みんなで顔を合わせることができるのはたぶん二週間後になるはず。
18時すぎに会社を出て、中野のポケット劇場へ。
亀田雪人と橋本ふさよのライブ『茶色の小瓶』の初日。初日ということもあったのだろう、結構緊張気味だった。
あのじんわりわいてくるような和みというか、あったかさは、亀田さんの持ち味だろう。
終演後亀田さんにちょっと挨拶してそのまま帰る。
2002年8月26日(月)
幕張で開催されるイベントに出演するオーストラリア・トランポリンチームは無事来日。今日は仕込で大野と辻は現場。
重森がDM用のリストを持って来社、フール祭の演し物のことで、なにか言いたそうだったが、とりあえずはつくったものをまず見せてくれと言っておく。
チラシの折り込みの件で、CHiCAちゃんと連絡。
12時六本木のアークヒルへ。T氏と待ち合わせ、37階のクラブへ。こっちは打合せだと思っていたので、いつものGパンに半袖にリックサックという軽装だったのだが、ジャッケット着用が義務つけられているということで、受付でジャケットを借りる。
高級ランチをいただきながら、打合せ。ワインを2杯飲んじゃう。
打合せを終えて会社へ戻る途中、小出から電話。毎日の夕刊に記事が出ているのだが、2面の半分もあるという。電話での問い合わせがたくさんくるかもしれない。
招待も出しているので、一応70人で切ろうということにする。
案の定電話での問い合わせが16時すぎから来はじめる。
18時すぎに会社を出て、両国の気功の先生のところへ。身体を触ってもらって確かに前回よりも身体の感じが違うような気がしてきた。
再来週また予約を入れる。
両国の駅で毎日新聞を購入。あけてびっくり、まあ大きくでている。2面の全5段という破格の扱いである。電話が結構会社に来ているかもしれない。
22時帰宅。
2002年8月27日(火)
小出のライブの申し込み電話がまた来るのではないかということで、気持ち早めに出勤。殺到というわけではないが、間断なく電話がくる。昼過ぎに70を突破。小出との打合せ通り、あとは次回まわしということで、住所を聞くことにする。
ステージを少し狭くして、客席を多くし、当日券希望の人には整理券を渡すようなことで対応しようと小出と打合せ。
あれだけの記事だものなあ、インパクトはある。
墨田区内の保育園にDMを発送。
そのあと個人で送るDM一枚一枚にメッセージを書き入れ、送るまでの段取り。100枚ぐらいになるので、結構たいへんな作業だった。
航空券が届いたかどうかの確認をするために、キエフに電話。ちょうど大使館に行くところだという。
ここでとんでもないことを聞かされる。メンバーのひとりの子供が、在留資格認定書を破ってしまったという。こんなことは初めてだ。なくしたわけではないので、とにかく事情を説明しろと指示。すっかり動揺している。1時間後に電話することに。
1時間後電話。航空券は今日いま届き、査証はもらったという。ただやはり問題のメンバーはまだ大使館にいるという。
大使館と直接話をしようと思い、前に電話で話をしたことがある人に電話、不在なので1時間後に電話をくれとのこと。
本人の携帯に電話、そしたら大丈夫だった、ビザのスタンプを確かにパスポートに押してもらったという。
大使館にまた電話すると約束していたので、もう一度電話。確かにパスポートにはビザのスタンプは押したが、在留資格認定書については、いま外務省に照会中なので、入国できると保証されているわけではないというつれない返事。一件落着というわけにはいかない。
とにかく明日もう一度電話することにする。
19時すぎ光洋ちゃんから電話、いまから会社に来るという。
20時すぎ来社、DMリストのことで打合せ。
21時会社を出て、近くの居酒屋で軽くビールのつもりが、結局は閉店までいることに。
品川発最終の京急で乗り、1時前に帰宅。
2002年8月28日(水)
出勤途中小出から電話。やはり今日の当日売りを受け付けるのはやめようということになる。
当日の申し込みが何件かあったが、売り切れということであきらめてもらう。
辻君が思わず、電話の申し込みを断わるのは初めてだなあともらす。確かに。
気がかりなウクライナの査証の件で、知り合いの人に相談。心配はないんじゃないと言われる。でもなあ・・。
うな丼ライブのDMを出す準備。
15時キエフの日本大使館から電話。一応外務省と入管に照会した結果、問題ないということになったという連絡。
これで一安心。しかしなあ、こんなことになるとは・・・。
いよいよ来日まであと4日だ。いろいろ波瀾ぶくみな気がする。
18時すぎにplanBに、間抜けなことに通りすぎてしまう。一階のバイク屋がなくなっていた。電話でバイク屋を目印にと言っていたことを思い出す。
久しぶりに三雲が来てくれた。
ステージをいつもの半分ぐらいにして、100人ぐらい入れるように客席のセッティング。こうじの巧みな案内で、予想された混乱もなし。
50分ぐらいのショーだった。
公演後久しぶりにみんなと会ったので、気持ちよく飲んでいたら、終電の時間はとうに過ぎ、これまた久々の楽屋泊まりとなった。
だいぶ飲んだと思う。
2002年8月29日(木)
久々にplanBの穴蔵で目を覚ます。9時半頃にS氏に起こされたのだが、結局また寝て、11時ぐらいにplanBを出る。
地下室から出ると、陽がまぶしいし、日差しが暑い。クラクラする。
会社近くの蕎麦屋で、おおもりを食べてから出勤。
うな丼ライブのチラシをコピーして、40件近くのDMを発送。
小出から「大丈夫すか」という電話。あまり大丈夫ではない。
今日はほとんどつかいものにならない。
野毛の福田さんから電話、高秀元横浜市長が亡くなったという。びっくりする。大道芝居のメンバーで、先日フランスからもらった勲章授与パーティーがあったばかりだ。
あっけないもんだ。
18時すぎに退散。
寝る前にメールをチェック。クラスノヤルスクから、レザーノフが日本から持ち帰ったものに関する資料の写真が送られてくる。ずっと待っていたもの。
ひとつわかったのは、確実にクラスノヤルスクにレザーノフが日本からもらった品があるということだ。それも168点も。
これだけのものがあれば、「レザーノフと日本展」の目玉になる。
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