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2005年6月7日
シルク・ドゥ・ソレイユ日本公演の時、日産自動車がスポンサーになった。このときライバル会社のトヨタの車を意識して、「クラウン」という言葉を使うことを禁止されたことがあった。
広辞苑には、のっていない。
平凡社大百科辞典の「クラウン」の項(→資料)
民俗学、民族学、文学、絵画など、文化芸術全般の根っこに関わる大きな問題。
参考文献にあげてある道化のところを参照のこと。
今日、話すのはステージやサーカスで見られる「クラウン」について
現在東京現代美術館で開催中。
この中の映像コーナーで流されているサーカスについてのビデオはなかなかすぐれもの。サーカスの歴史を、さまざまな映像や絵画をつかってコンパクトに説明している。
この展覧会のモチーフとなったのが、フェリーニの「道」。
フェリーニは、サーカスやクラウンに特に思いを寄せていた映画監督。代表作の「甘い生活」、「8
1/2」にもそうした要素を見ることができる。1970年には、「フェリーニの道化師」というドキュメンタリー仕立ての映画までつくっている。
「道化師たちへのレクイエム」を参照
この「道」という映画に出てくるジェルソミーナもクラウン。「白痴」と「聖性」を重ね持った、フェリーニのクラウンの原型となるイメージとなっている。
東京現代美術館では別の会場で「ルオー展」も開催中。これも見応えのある展示会。
フランスの画家ルオーは、キリストや宗教をテーマにした絵を数多く描いているが、たくさんのサーカスやクラウンの絵を描いたことでも知られている。この展覧会でも、5点ぐらいクラウンの絵が展示されている。
ルオーだけでなく、ピカソ、シャガールなどがクラウンをモチーフにたくさんの絵を描いている。
これについてはスタロバンスキー『道化のような芸術家の肖像』(新潮社、1975)参照。
日本の画家の中では三岸好太郎がクラウンをテーマにたくさんの絵を描いている。札幌にある三岸好太郎美術館の中には、5点のクラウンの絵が飾られている。ここで開催された「日本近代美術における道化」について。
フェリーニは、「道化師」のなかで、ホワイトフェイスクラウンとオーギュストというふたつのキャラクターの葛藤のなかに、人間の本性を見ようとしていた。
「クラウンとは私のことである」と言っていたルオーの絵も、華やかな舞台をおりたクラウンの憂いの色が濃い。人を楽しませることを生業にしながらも、その影での憂愁。ここにクラウンの二面性を見る人は多い。
いままでは外側から見られたクウランについて語ってきたが、後半は実際に演じているクラウンの内側に入りこんでみる。
エンギバロフとディミトリーのビデオ。
アクロバット、ジャグリング、パントマイム、どれをとってもすべて一流。そもそもサーカスのクラウンは間をつなぐために生まれたのだが、彼のクラウニングは、それ自体として成立している。
メイエルホリドが夢見た未来の俳優像に近い。
メイエルホリドの「見世物小屋」について(→資料)
実はエンギバロフと同じ年に生まれる。いまも現役のクラウンとして活躍。個人的なことを言えば、ディミトリーと出会ったこと、そして話したことによって、クラウンのことを調べよう、そしてプロデュースしようと思うようになった。いままで5回日本に呼んで公演してもらっている。
アメリカのフィアディルフィアで「シアタークラウンコングレス」があった。その時にディミトリーも参加、そして映画でおなじみの「パッチアダムス」も出ていた。
パッチ・アダムスにとってクラウンは手段、自分が目指す夢の病院を実現するためのもの。
ストリートでどうしてやらないんだとディミトリーに絡んでくる。
ディミトリー「クラウニングで大事なことは、真似をしないこと」、パッチにとっては医療のための手段であるクラウニングは、ディミトリーにとってはすべて。人を楽しませるために全てをなげうった人間の宿命であり、誇りがここにある。
エンギバロフの言葉。(→資料)
去年公開された「ピエロの赤い鼻」についてを見て、クラウンの使命がいかに崇高なものかを教えられる。
この映画に出演しているベルニーは、BPズームというクラウンデュオのひとり。彼もまたクラウン道を追求しているアーティスト。(→資料)
ルオーのクラウン像は、彼が同じようにたくさん描いているキリスト像とだぶるものがある。
日本でクラウン芸を育てていきたい。クラウンも育てていきたい。そうしたひとつの試みが、「フールB」、そして「東京国際フール祭」。
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