月刊デラシネ通信 > ロシア > 金倉孝子の部屋 > ツングースカ川のエヴェンキ

金倉孝子の部屋
ツングースカ川のエヴェンキ
2004年4月9日から4月13日

 クラスノヤルスク地方の北に、エヴェンキ自治管区という地方自治体があります。ロシア連邦のちょうど真ん中に位置します。エヴェンキ自治管区の面積は日本の約2倍ですが、人口はたったの一万七千七百人です。ソ連時代エヴェンキ自治管区は、ハカシア自治州やタイミール自治管区と同様、クラスノヤルスク地方(というひとつの自治体)の中に、含まれていました。今は、ハカシア共和国、エヴェンキ自治管区、タイミール自治管区と、それぞれ独立した自治体になっています。ちなみに、クラスノヤルスク人は、今でも両自治管区はクラスノヤルスク地方に含まれると思っています。私もクラスノヤルスクに住んでいるので、なんとなく、エヴェンキもタイミールもクラスノヤルスクの一部だと思っていました。それで、いつも近場を旅行している私は、次の目的地をエヴェンキにしたのです。

 でも、その方面は、夏の旅行シーズンでもない限り、旅行会社は扱っていませんから、個人的に手配するほかありません。エヴェンキ自治管区の管区庁(県庁)所在地はトゥラ町(人口6200人)なので、ガイドブックで調べて、そこのホテルに電話してみました。電話に出た受付の人の話によると、各部屋にトイレもシャワーもないような寂れた宿のようです。もっと状態のいいホテルはないかと尋ねると、管区庁の知事室受付に電話がまわされました。小さな自治体なので、管区庁の渉外部が旅行者も含め来客の受け入れをやっているのでしょう。
 クラスノヤルスク市ですら、仕事で来たりスポーツ大会や国際会議参加などの用事で訪れたりする人はいても、観光客となると夏場の短い観光シーズンにちらほらと見かけるだけです。ましてや、クラスノヤルスクから小型飛行機で3時間以上も北のトゥラ町へ仕事でもないのに、ただ観光で訪れる人など、まず、いないのでしょう。ですから、トゥラ町の知事室受付の電話の相手も「日本人だが、トゥラ町とその周辺の観光を予約したい」と言われて、返事に困っているようでした。ホテルは予約できるが、これと言った観光はないということでした。そうかもしれません。

 そこへちょうど、私の旅行好きを知っているある知り合いが、タチヤナというヴァナヴァラ村から来ている女性を紹介してくれました。エヴェンキ自治管区は3つの区に分かれていて、ヴァナヴァラ村はそのうちのひとつ、ツングース・チュンスキー区の中心で、人口三千三百人です。つまり、エヴェンキ内では管区庁所在地のトゥラ町が一番大きく、その次がバイキット区の中心バイキット村、それに次いでツングース・チュンスキー区の中心ヴァナヴァラ村は人口の多い村です。この村から60キロほどのところに1908年有名な謎のツングース大隕石が落ちました。今でも、夏の観光シーズンに、落下地点跡を見がてらハンティングやフィッシングに外国人観光客が訪れることがあって、タチヤナはそういう外国人の受け入れをしているそうです。
 タチヤナと会って話したところでは、隕石落下地点へはヘリコプターでないと行けない、今行ってもまだ雪に埋もれていて何も見えない。村から1時間ほど車で行き、さらに数キロ、スノーモビールで行ったところにハンター小屋がある、そこに泊まってハンティングやフィッシングをするというのはどうか、ということでした。ヴァナヴァラ村滞在中は、田舎の不便なホテルではなく彼女の家にホームスティしたらいいと言うことで、料金(六百ドルとかなり高額)と日程を決めました。

 クラスノヤルスク地方には、南はモンゴルから北は北極海へと、南北にほぼまっすぐ、長さ4000キロのエニセイ川が流れています。その一番大きな支流は右岸のニジナヤ・ツングースカ川で、長さ2989キロあり、エヴェンキ自治管区の中ほどを西から東に流れてエニセイ川に合流します。中流にトゥラ町があります。ニジナヤ・ツングースカ川より少し南に、やはり西から東に流れてきてエニセイに合流する長さ1865キロのパドカーメンナヤ・ツングースカ川があり、その上流にヴァナヴァラ村があります。

 クラスノヤルスク市からヴァナヴァラ村への交通手段は飛行機だけです。飛行時間は2時間で片道の料金は約1万円です。ヴァナヴァラ村の住民なら、飛行機代は25%引きです。村民の足だからでしょう。景気のよかったソ連時代は毎日飛んでいましたが、今は週2回だけです。きっと小さくて、古くて、ゆれゆれに揺れて、時間通りに発着しない田舎便だろうと、チケットを買ったときに思いました。一応定期便ですから、そう簡単には落ちないでしょうが。
 クラスノヤルスクからヴァナヴァラ村へ飛ぶのはAN24と言う飛行機で、乗ってみると、意外と大きくて、52座席もあるのでした。ほぼ満席で、乗客は皆ヴァナヴァラ出身者らしく、何せ人口3千人の村ですからお互い知り合いのようでした。飛行機も、この1台だけが飛んでいてスチュワーデスも乗務員もみんな顔見知りのようでした。飛行機が古いことにはもう驚きません。座席が多少傾いていても、背もたれが倒れたままになっていても、エンジンさえ正常に動けばいいのです。機内には、手洗い用の水は出ませんでしたがトイレすらありました。窓からはプロペラと着陸用滑走車輪がよく見えます。
 予想に反し、AN24機はダイヤ通り正確に離陸しました。予想に反し、揺れもしません。下を見ると針葉樹林(タイガ)と低い山、その間を無数の川が蛇行して流れ、河跡湖を残しています。シベリアの典型的な空からの眺めです。何度見てもその雄大さには見飽きることがありません。そのうち雲が出て下の景色は見えなくなりました。
空からのエヴェンキ 1時間半も飛び、後30分で目的地と言う所まできて、ヴァナヴァラ村の飛行場が吹雪で着陸できないから、出発点のクラスノヤルスクに戻ると言うアナウンスがあり、飛行機はユーターンしました。せっかくこんなに遠くまで、ブルンブルンとプロペラを回しながらがんばって飛んできたのに、また元のところへ戻るとは、と思いました。後で知ったことですが、以前は、こういう時は近くの空を旋回して吹雪のおさまるのを待つか、最寄りの飛行場へいったん降りていたそうです。しかし、数年前、そうして旋回しているうちに燃料切れで墜落して以来、悪天候の時は直ちに引き返すことになったそうです。また、最寄りの飛行場と言っても、この人口希薄な地方のくさはら空港は、今の不景気で閉鎖されたり、臨時の給油ができかねたりで、結局、クラスノヤルスクに舞い戻った方が一番便利で安全と言うことなのです。
 そういうわけで、元のクラスノヤルスク空港の待合室でさらに2時間半、天候の回復を待ち、それから、再度手荷物検査をして、またもとの飛行機に乗り込みました。今度は順調で2時間後にヴァナヴァラ空港に無事着陸しました。つまり、2時間の飛行機代で5時間飛行できたわけです。

 飛行機のタラップのところには、ちゃんとタチヤナが車で迎えに来ていました。運転手はタチヤナ夫婦の親友で、ヴァナヴァラ村村長のウラジミルと言うグルジア人でした。車も、村長専用ロシア製ジープです。彼女の家に着くと、すぐに、夕食のテーブルにウォツカです。そして、電話をかけてサーシャと言う人を招待しました。サーシャはヴァナヴァラ村の警察署長です。外国人の私がきたので外国人滞在登録手続きをしなければなりません。サーシャはウォッカを振舞われ、「うん、4日間、タチヤナのところにお客に来たわけだね」と言って、署に電話し、「4日間なら手続きの必要はなさそうだ」と言って、帰っていきました。
 次の日、タチヤナの夫の元地質調査員兼元村会議員のアナトーリもいれて4人で、ウラジミルの車で出発しました。少し融けかかって大きな水溜りがあちこちにできているパドカーメンナヤ・ツングースカ川を通り抜け、川にほぼ平行の林道を上流の方向へと進みました。かなり厳しい道で雪にはまると出られなくなりそうです。この道を無事最後まで行くとイルクーツク州のウスチ・イリムスクに行き着けるそうです。そこからはブラーツクを通りクラスノヤルスクへ行けます。つまり、奥地ヴァナヴァラへ通じる唯一の陸路で、通行できるのは冬季の4ヶ月だけだそうです。それも、屈強なトラックでないとだめです。
 また、5月末の増水期には、クラスノヤルスクからエニセイ川を下り、水量が増して通行可能になったパドカーメンナヤ・ツングースカ川をさかのぼって、ヴァナヴァラ村へ行くことができます。パドカーメンナヤ・ツングースカと言うのは「石の多いツングースカ」と言う意味で、川底にも大きな石があって浅瀬が多く、増水期の2週間ばかりしか河川運行ができないそうです。飛行機なら年中運行していますが、貨物を運ぶには高すぎます。それで、年1回、増水期の5月末、クラスノヤルスクから食料品や日常品などを満載した船がキャラバンのように隊を組んで、ヴァナヴァラ村に来るそうです。ちなみに、村役場の物置には「歓迎2003年キャラバン、ようこそヴァナヴァラへ」と言う垂れ幕が保管してあります。今年は2004年に直せばいいです。
 それ以外の物資の輸送は、このイルクーツク州へ迂回する困難な冬季陸路があるだけです。それで、ヴァナヴァラ村の物価は高いのです。また、クラスノヤルスク市などでは冬でも売っている新鮮な野菜や果物も、ここでは、全く手に入らないそうです。空路では、値段が高く過ぎますし、陸路では、運ぶうちに腐ってしまうからだそうです。温室栽培は、零下に下がることもある夏場だけで、マイナス40度が普通の冬ではそれも不経済です。

パドカーメンナヤ・ツングースカ川の上で と、話しているうちに、目的地の小屋につきました。小屋はパドカーメンナヤ・ツングースカ川のほとりの高台にあります。ウラジミルといっしょにすぐ道具を持って魚釣りに川へ降りていきました。まず、私のために氷に一個穴をあけ、えさのついた釣り糸をくれました。ここは、南のアンガラ丘陵から流れてくるカータンガ川と北から流れてくるテテレ川が合流してパドカーメンナヤ・ツングースカ川が生まれる地点ですから、魚が多い場所のはずですが、私の釣り糸には一匹も食いついてはくれませんでした。
 じっと魚を待っているのも寒いので、釣糸はウラジミルに戻し、小屋に戻ってペチカで暖まっていました。小屋には、私たちグループの他にも、エヴェンキ自治管区ツングース・チュンスキー区担当副知事のスズダレフ氏とその友人、ヴァナヴァラ村村会議員の他、酔っ払いのジーマもいました。ジーマは私が日本人と知ると、何だかわからないことを言って絡んできたり、触りに来たりするのでした。タチヤナが追っ払ってはくれましたが、落ち着きません。スズダレフ氏が、ここからさらに、パドカーメンナヤ・ツングースカ川をスノーモビールで7キロほどのところにある小屋に行くので、そこへ来たらいいといってくれました。

 ツングース・チュンスキー区担当副知事は先に行き、スノーモビールは折り返して、私たちを迎えに来てくれました。パドカーメンナヤ・ツングースカ川にスノーモビールごと落ち込まないように、氷の薄いところは避けて通らなければなりません。氷の上の雪の積もり方が悪いのか、あまりに老朽スノーモビールなのか、運転が下手なのか、何度も横転しました。その度に、雪の中に倒れましたが、エスキモーのように厚着をしていたので、起き上がるのが大変でした。
 2番目の小屋は先のより広く快適で、ベッドも3つあり、水差しやランプ、ちょっとは清潔そうなテーブルもありました。ここで、私たち4人と、スズダレフ氏たち2人と、スノーモビールと小屋の持ち主のイヴァンの7人が魚釣りをしたり、テーブルを囲んだり、川の上を散歩したりして楽しく過ごすわけです。テーブルを囲むと、ヴァナヴァラでは、必ずウォツカでした。もう、私たちが来る前から、先着のスズダレフやその友人はすっかり酔っていて、イヴァンがまた私に絡んでくるのでした。よほど、日本人が珍しかったのでしょうか。また、スズダレフ氏の友人は、択捉島に3年間いたと言う話を10回も繰り返すのでした。スズダレフ氏にいたっては抱きついたり、キスをしたりと、全く、こんなところまで来て、酔っ払いのお相手とは、いやになりました。
 そこでタチヤナに、今晩この小屋に泊まりたくない、ヴァナヴァラ村に帰りたい、と言ったのです。すると、イヴァンを除いて皆が正気になりました。そして、今、酔っ払いのイヴァンを寝かせ、もう迷惑をかけないから、というのです。それならと、私はいつも旅行中は持っている睡眠剤をタチヤナに渡しました。そして、皆で「イヴァン、お願いだから一眠りしてくれ」と言って、寝かしつけたのです。

パドカーメンナヤ・ツングースカ川で網を仕掛ける ここでの魚釣りは、穴をあけて釣り糸を下げるほか、氷の下に網を張って、通行中の魚を一網打尽にするやり方や、入ったら出られなくなるかごを仕掛けたりと、いろいろありました。その網は日本製だそうです。私が作ったわけではありませんが、品質がいいとほめられました。
 アナトーリはカービン銃が趣味で、自然の中へ行く時はいつも持ち歩いているようです。先住のエヴェンキ人は狩猟が生業ですから、森林の中に行く時はいつも猟銃を携えます。アナトーリは未踏エヴェンキで地下資源が見つかりそうな地質を調べて歩く元地質調査員だったので、やはり持っています。未踏の森の中では食料を確保したり、身を守らなければならなかったからです。今回も、持って来ました。的になるものには事欠きません。ウォツカの空瓶ならたくさんあります。それをポケットに入れて、私と、パドカーメンナヤ・ツングースカ川の氷上を、周りのうっとりとする冬景色を見ながら30分ほど歩いていき、この辺でというところで空瓶を立てます。自分用には少し遠めに、私用は少し近めに立て、交代に撃ちます。10メートルくらいの距離ですと照準を正しく合わせれば必ず当たるのです。空き瓶がなくなると、斧でもみの木の樹皮を一部削ぎ落としました。薄茶色の内皮が現れて、今度はそれが的になるのです。何ということをするのでしょう。空瓶ならともかく、もみの木がかわいそうではありませんか。日本では考えられません。アナトーリもタチヤナも、木はそれくらいでは決して枯れないといいます。斧で削ぎ落としたところからは透明な松脂が吹き出ているのでした。その新鮮な松脂を食べてみると、ガムのような味がしておいしいのです。アナトーリの撃った弾は幹の中に残りましたが、私のは突き抜けていきました。突き抜けたほうが木のためにはいいかもしれません。
 ハンター小屋は1泊だけで十分です。また、ヴァナヴァラ村に戻ってきました。エヴェンキ人の家族を訪問することにしました。

 エヴェンキに関する本は、クラスノヤルスクにもほとんど売っていません。ヴァナヴァラ村には、ウォツカを売る店はあっても本屋が1軒もありません。エヴェンキ自治管区ツングース・チュンスキー区役所へしらふのスズダレフ氏を訪問した時、そこの棚にあるエヴェンキに関する本を一通りプレゼントしてもらいました。
 そのうちの2冊は、ハバロフスク地方出身のエヴェンキ人で経済学者、現エヴェンキ自治管区議会議長のアモーソフと言う人が著者で、「エヴェンキ自治管区の北方少数民族について」と「天から印を付けられた地」と言う題です。これは1908年6月30日、有名なツングース大隕石がこの地に落下したからです。実は、天が付けたかもしれない印であるクレーターは見つかっていません。「40キロにわたって動植物は死滅し、2千平方キロ以上にわたって樹木が倒壊焼失した。これは広島に投下された原爆の2千倍のエネルギーであると学者たちが述べている」と、その本に書いてあります。
 さらに、その本には「エヴェンキ人(旧称ツングース人)は今ロシアに3万人ほどいて、オビ川の東からオホーツク海までシベリアに広く分散している。エヴェンキ自治管区に住んでいるのは3千人程度で、大部分はイルクーツク州や、サハ(ヤクート)共和国などに住んでいる。サハに住んでいるエヴェンキ人が比較的多い。中国の文献には4000年前からエヴェンキ人について記載があり、もともと、バイカル湖やアムール川ほとりに住んでいたが、より強力な騎馬民族の圧迫で、シベリア極寒の地に分散していった。現在、中国やモンゴルに数万人いる。ロシア革命後の1923年、ヤクートのエヴェンキ人は、帝政時代以上に税の取立てが厳しくなったソビエト・ヤクート自治共和国に反対して、独立ツングース共和国を打ち立てようとしたが、失敗した。(1923年7月14日から8月25日まで存続)。その後、1930年、現クラスノヤルスク地方の前身の「東シベリア地方」に、両ツングース川の流域を含めてエヴェンキ民族管区ができた。」とあります。
 シベリア、中国、モンゴルの広範囲にわたって分散するわずかなエヴェンキ人が、エヴェンキ自治管区に、さらに、ほんのわずかしか住んでいません。16世紀、17世紀に毛皮を求めてやってきたロシア人が、毛皮と交換にウォツカを与えたため人口が減ったことは有名です。これは、生業が狩猟、漁労、採集のエヴェンキ人がほとんど穀物や野菜を食べなかったので、アルコールに対する抵抗力が弱かったためだそうです。

エヴェンキの家庭 ヴァナヴァラ村にはエヴェンキ人はたった200人ほどで、タチヤナによると皆貧しく、アルコール中毒になっていて、きちんとした生活をしているのはさらに数家族にしか過ぎないそうです。そのうちの1家族を訪問しました。80歳の元気なおばあさんはエヴェンキ語の名前をエダリク(息子が生まれるのを期待していたのに娘が生まれた、という意味)と言います。若い頃はチュムと言う円錐形移動組み立て型住居(モンゴルのパオのような住居)に住み、トナカイの放牧をしていたそうです。エヴェンキ人にとってトナカイは最も重要な家畜で、交通手段にもなり、他に食べ物がない時は食料にもなります。財産はトナカイの頭数で表しました。姪は、ヂュルプタコン(2度食べる)、息子はシンゲレク(ネズミと言う意味)、亡くなった夫はモントン(美しい額)と言うのでした。もちろん、ソ連時代に入るとロシア風の名前に変えたそうです。そうでなくとも、エヴェンキ人は、生涯に何回か名前を変えたそうです。子供が病気にならないように怖そうな動物の名前を付けました。
 エヴェンキ人は射撃の名手で、帝政時代から森の動物を撃って、その毛皮で税を払ってきました。そのなかでもクロテンの毛皮が一番上等で、今でも年間何匹か撃っているそうです。内臓を出して、まだあまりなめしてない新鮮なクロテンを見せてくれました。1匹七千円くらいで売ってもいいと言われましたが、日本の冬は毛皮が必要ありません。クロテンの目に弾丸の跡がありました。背中に穴があいていたら、毛皮の値打ちが下がるからです。よほど射撃の腕がいいのでしょう。
 エヴェンキ語も教えてくれました。エヴェンキ語で書かれた初等読本とロシア・エヴェンキ語辞典もくれました。先年、中国から中国系エヴェンキ人がトゥラ町に来た時、テレビで放送されました。中国系エヴェンキ人の話す言葉は、中国訛りがありましたが、ここのおばあさんたちにもだいたいわかったそうです。

 その日、夕方、ウラジミル宅の蒸し風呂に入り、あがると、今朝パドカーメンナヤ・ツングースカ川で釣ってきたサケ・ニジマス類の魚で、ウォツカです。ウォツカを飲まない私にはグルジア・ワインが出されました。これら酒宴の費用は私の六百ドルから出ているわけですから、自分たちだけ飲むのは悪いと思ったのでしょう。
 次の日は、ヴァナヴァラ村の社会見学をすることになりました。孤児院、幼稚園、初等芸術学校、身体障害者用施設、老人ホームなどを訪れました。老人ホーム以外どこも、新しい家具、新しい設備などが入っていました。すべてここ1,2年で、このように整備されたそうです。
 孤児院は去年できたばかりです。それまでは自治管区庁所在地のトゥラ町に満員の孤児院があっただけでした。そこから新ヴァナヴァラ村孤児院が60人の孤児を引き取りました。孤児の大半はエヴェンキ人です。両親がアルコール中毒になって子供を育てられなくなるそうです。身体障害者施設は治療の技術水準はわかりませんが、家具などは日本の施設より上等そうに見えました。これらはすべて、一昨年のキャラバンで、クラスノヤルスクから届いたそうです。

 エヴェンキ自治管区は管区予算の80から85%は国家予算からの補助金でまかなわれていて、ロシア連邦内でも最も生活程度が低い地方自治体のひとつでした。しかし、エヴェンキの地下資源の豊富さは、早くから知られ、地質調査がされてきました。チュメニ油田など西シベリアの石油ガスはいち早く開発されましたが、エヴェンキの東シベリアは、今開発中です。バイキット区のユルブチェン・タホモ地域の石油ガスは、東シベリア最大の規模であるばかりではなく、約12億年前の古い地層に埋蔵さているそうです。前述の本にも書いてあり、アナトーリも繰り返し、エヴェンキ自治管区のホームページにも書いてありましたが、埋蔵石油ガスだけの価値でも、人口一万七千七百人のエヴェンキ自治管区の全住民一人当たり、千三百万ドルにもなるそうです。「でも、採掘や運搬に巨額な費用がかかるでしょう」、とアナトーリに言ったところ「いや、その費用は、他の鉱物(偏向プリズムの原料になる透明方解石や金やダイヤを含めて)の売上でまかなう」のだそうです。
 すでに、数年前から石油会社「ユーコス」が巨富を築いています。その社長が有名なホドルコフスキーでした。ロシア内でも通信施設が最も整っていなかったエヴェンキに、数年前、自動交換電話機が入り、この2、3年で、衛星通信設備ができ、区役場や村役場のコンピュータ化が進み、テレビのチャンネルも増えました。幼稚園、学校、孤児院などの社会施設も整い、村内無料バスも運行しているのは、このホドルコフスキーのおかげであると、ヴァナヴァラ村民は思っています。去年、そのホドルコフスキーが逮捕されたのですが、タチヤナによると、チュコト民族自治管区知事のアブラモーヴィッチのほうを逮捕すればよかったそうです。
 エヴェンキ自治管区知事はザラタリョフと言います。元、ユーコスのトップクラス経営陣の一人です。ユーコスは社長が変わっても、当自治管区の予算を支え、社会事業のスポンサーであることには代わりはないと、知事は広報用パンフレットやホームページに書いています。
 お年寄り用施設の方は、諸施設、内装用調度品、家具などが去年のキャラバンで届いたばかりで、まだ、設置されていないのでした。タチヤナがそこはいやなにおいがするから行きたくないと言いましたが、日本では最近お年よりは快適なホームに住むことが多く、私も、将来その可能性が大きいので、とても関心があるのだ、と説得して、見学しました。村会議員を兼ねるハカシア人の所長が案内してくれましたが、タチヤナが急がしたので、質問する時間はありませんでした。「寝たきりのお年よりは、どのように介護されているのでしょうか」と、尋ねたかったのですが、遠慮しました。その施設にはお年寄りの他、若年の痴呆者も住んでいました。

 最後の日の夕食も、村長のウラジミルの家でバーベキューにウォツカでした。いくら飲んでもあまり酔ったようには見えないロシア人が多いです。(もっともウラジミルはグルジア人ですが。)かなり飲んだあと、皆でジープに乗って村役場へ行きました。夜なので、そこは、ガードマンの他は誰もいません。村長室で、私たちはまた飲みなおしました。帰りの運転もウラジミルで、もちろん飲んでいます。田舎ですし、おまけに永久凍土のためアスファルト舗装もしてありません。今は冬で雪に埋もれていますから、スピードも出ません。交通量がとても少ないので車同士が衝突するのも難しいです。ハンドルを誤っても雪の山に突っ込むくらいでしょう。ウラジミル村長は、いつも、まず車を運転する前に、ハンドルさばきがうまくいくよう一杯飲むようです。飲まないでほしいと頼んでもだめでした。そのうち、慣れました。

ヴァナヴァラ村 ヴァナヴァラ村は、もともと、エヴェンキ人のトナカイ放牧拠点のひとつでした。2つの川の合流地点近くで魚も豊富で、ちかくの森の中には獲物も多く、定住部落ができました。革命後、ロシア人も移住してきてコルホーズができ、学校や病院が建ち、60年程前には村らしくなりました。ソ連時代住民は最高六千人もいて、その半数が埋蔵資源の調査をする地学関係者でした。ソ連崩壊後、地質調査員は職を失って村から去ったので、人口は半分の3千人になったわけです。残った3千人は何に従事しているかと言うと、役所関係、学校、病院、商業関係などです。農業などは、零細で、地域の需要もまかなえません。ソ連時代に盛んだった林業は、今の自由経済では運送費を入れるとマイナスになってしまいます。さらに、住民のために、クラスノヤルスクなどの大都市から高い費用をかけて生活物資を運ばなくてはなりません。
 村には、都市集中暖房はもちろんありません。小さな木造の家がそれぞれ自分のところのペチカを炊きます。燃料は薪で、どの家の前庭にも薪が山と積んであります。ということは、毎年多くの木が伐採され、森林が減っていると言うことでしょう。事実、森林が減ってツンドラが増えているそうです。3千人の住民がそっくり、クラスノヤルスクの南部に移住したらどうでしょう。森林も助かりますし、寒がりのロシア人も喜びます。南部に空いている場所がないわけではありません。ヴァナヴァラ村のような寒いところは、人間が無理をして住居設備を作って住むところではなく、自然のままに、動植物に任せておけばいいです。それでも、ヴァナヴァラ村が温存されているのは、将来、石油ガスの基地町になるからでしょうか。

 ここ1〜2年、国内旅行をよくするようになりましたが、どの旅行も特徴があって興味深いものでした。パドカーメンナヤ・ツングースカ川の上流にあるヴァナヴァラ村での4日間もそうでした。氷のツングースカ川で魚を釣って食べ、融けかかってもまだまだ安全なパドカーメンナヤ・ツングースカ川の氷の上を歩き、ヴァナヴァラ村の住民と知り合い、今まで何も知らなかったエヴェンキ自治管区について少しは知ることができたのですから。
 タチヤナからは、日本からの旅行者を受け入れるから連絡してほしいと言われています。6人ほど集まれば、ヘリコプターをチャーターしてツングース大隕石落下地点へ行けるそうです。ドイツからもグループが毎年来ている、日本人グループも来たことがある、日本人は、蚊に刺されるのも厭わないで、隕石落下点を裸足で歩き廻っていた、そうです。
 ちなみに、エヴェンキ自治管区のシンボルは伝説の「ホッキョク・シロアビ」ですが、ヴァナヴァラ村は「ツングース隕石」です。


目次へ デラシネ通信 Top 前へ | 次へ