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金倉孝子の部屋
トゥヴァ(TYVA)共和国旅行記
2004年7月16日から7月27日

トゥヴァ共和国地図(クリックで別窓に拡大表示)
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トゥヴァ共和国について
旅行会社を選ぶ
クラスノヤルスクから首都クィジール市へ
ユルタ村『アイ』
小エニセイ川に沿って
大エニセイ川の川くだり
日本人観光グループ
モングレーク山麓の鉱泉場へ
『ジンギスカン像』
青銅器時代の石画
南へ、タンヌ・オラ山脈を越えて
トレ・ホレ湖
昔の首都サマガルタイ
クィジール市見物
ユルタ訪問
トゥヴァ人文大学
後記


トゥヴァ共和国について

 トゥヴァ共和国はあまり知られていません。モンゴルの北、クラスノヤルスク地方の南にあって、今はロシア連邦の一自治体です。
 私の住むクラスノヤルスク地方はロシアのほぼ中心にあって南北に長く、北は北極海から南はサヤン山脈まで続いています。サヤン山脈を越えるとトゥヴァ共和国です。クラスノヤルスク地方を南から北へ流れて北極海に注ぐエニセイ川も、サヤン山脈の奥のトゥヴァ共和国に源を発します。東サヤン山脈から流れてくる大エニセイ川(ビー・ヘム)とモンゴルから流れてくる小エニセイ川(カー・ヘム)が、トゥヴァの首都クィジールで合流して偉大なエニセイ川(ウルグ・ヘム)となります。この合流地点がアジアの地理的中心と言われています。これは、19世紀末イギリス人の探検家によって測定されたのですが、その時は、ヨーロッパとアジアの境界がはっきりしていなかったので、正確には、クィジールからずれるかもしれません。でも、この辺にアジアのお臍がありそうです。合流地点に『アジアの中心』碑が建っていて、観光スポットになっています。
 第1次世界大戦から第2次世界大戦までの間、ソヴィエト社会主義共和国連邦とモンゴル人民共和国以外で独立の社会主義国だったのは、トゥヴァ人民共和国の3国だけでした(と言っても、後の2国はソ連の勢力圏内ですが)。これも、あまり知られていないことの一つです。1944年にトゥヴァはソ連に編入され、ソ連で最も新しい自治州になりました。その後自治共和国になり、1991年にロシア連邦を構成する共和国になりました。ロシア連邦は21の共和国と、6つの地方、49の州、10の自治管区など89の『主体』からなっています。クラスノヤルスク地方やイルクーツク州のような『主体』とトゥヴァ共和国やエヴェンキ自治管区のような『主体』との違いは、歴史的な事情によります。現在、それら自治体の自治性にも差があります。
 ちなみに、トゥヴァとクラスノヤルスクとの間の『国境』に税関と入国検問所が置かれていていますが、あまり機能していないようです。先日、トゥヴァから大量のマリファナがトラックでクラスノヤルスク地方に流れたのですが、税関ではチェックされず、たまたま交通事故があって露見したというくらいです(テレビニュースによる)。マリファナを取る大麻はクラスノヤルスクでもトゥヴァでも、雑草のように道端や野原に生えていますが、トゥヴァのが美味しいのだそうです。
 トゥヴァ共和国の面積は日本の半分弱で人口は30万人、そのうち68%の約20万人がトゥヴァ人です。トゥヴァ人はモンゴルに約3万人、中国にも約5千人と合計23万人余もいます。クラスノヤルスクの南西でトゥヴァの北西にあるハカシアでは、先住民のハカシア人はたった13%の7万人しかいなくて、首長もロシア人、宗教もロシア正教で公用語もロシア語なのにハカシア『共和国』です。それに比べ、奥地にあるトゥヴァは大統領もトゥヴァ人、公用語もトゥヴァ語(とロシア語)、宗教もラマ教とシャマニズムというふうに、『共和国』らしいです。
 エニセイ川上流のトゥヴァの地には、やはりエニセイ川流域にあるハカシアと同様、古代遺跡が豊富なことでも有名です。動物や人間の姿が打刻された先史時代の石画がエニセイのほとり、草原の中や丘の斜面などで見かけます。さらに、紀元前に栄えたエニセイ・スキタイ文化のクルガン(墳墓)も多く残っています。その中でも、トゥヴァ北部で最近発掘された紀元前7世紀の『アルジャン2』遺跡は、盗掘されていなかったこと、スキタイ文明がよくわかる出土品の多さ、金細工の美しさで有名です。
 また、この地がチュルク人のウイグル帝国やキルギス帝国の一部だった6世紀から12世紀の遺跡として、ゴロディシュ(城壁)が、エニセイ川やその支流のヘムチック川が流れるトゥヴァ盆地に沿って転々と残っています。宗教儀式用の杯と剣を持ち、立派なひげを生やしたチュルク人の石柱も多く、一部は博物館に保存され、他はもともとあった場所に立っています。
 13世紀は、他の中央アジアの国々と同様、トゥヴァもモンゴル帝国に征服されました。モンゴル帝国没後も、中央アジアのモンゴル系有力ハン国の支配下にあり、1757年から1911年までは清朝中国の一地方でした。辛亥革命後清朝の支配を離れて、こんどはロシア帝国の保護国になりました。1921年、ロシア革命政府は帝政ロシアが結んだすべての不平等条約を廃棄したので、1944年の再合併までの23年間トゥヴァは独立国でした。その間に発行された切手は、トゥヴァらしい民族的図柄で、収集家の間では珍重されているそうです。未知の国トゥヴァのことを、この切手から知ったという人も少なくありません。

旅行会社を選ぶ

 トゥヴァ旅行は早くから計画していました。数年前までは、トゥヴァ旅行と言えばダイヤの不正確な公共交通機関を乗り継ぎテントを担いで回るか、資金があるならヘリコプターをチャーターしガイドを雇って、大自然の中の川辺や湖へ行くといったイメージでした。でも、最近ではトゥヴァを扱う旅行会社も出てきました。それで、手ごろな値段のツアーはないかと、首都クィジールの『シベリア・ヤマネコ』という旅行会社や、『サヤン・リング』というクラスノヤルスクの旅行会社と、電話や電子メールで交渉してみました。どちらも主に外国人観光客相手にハカシア、トゥヴァ地方を扱っています。
 トゥヴァのようなところは、普通のロシア人観光客には人気がないようです。自然を楽しむスポーツ派のロシア人たちは、旅行会社を通じないで自力で、サヤン山脈(トゥヴァの北)のトレッキングをします。トレッキング・コースは70年代から開発されていて、山小屋もあります。旅行会社を通じるのは、ほとんど外国人団体客で、それも、ここ数年「世界中どこでも回ったから、どこか珍しいところを探している」というツーリストが多いようです。ですから、旅行業も発展しつつあります。旅行会社は、そうした大きめの団体を受け入れる他、5,6人の小グループ客も扱っていて、ガイド付きでマイクロバスかジープで回るというコースも宣伝しています。『サヤン・リング』社が「7月17日から26日の『トゥヴァの真珠』というコースなら、すでにモスクワから2人の希望者が申し込んでいるので、ここに合流したらどうか」と勧めてくれました。9日間の食費付き滞在費と観光費が全部で8万8千円と、ロシアにしては高かったのですが、申し込みました。その後、さらにウクライナから2人の申し込みがあり、5人という少人数で旅行できることになりました。

クラスノヤルスクから首都クィジール市へ

 クラスノヤルスク市から『トゥヴァの真珠』コースの出発点クィジール市までは自力で行かなくてはなりません。クィジール市は、東西に伸びるシベリア鉄道からあまりに離れた奥地にあるので、鉄道は通っていません。ハカシア共和国の首都アバカン市までは、シベリア鉄道の分岐線が通じています。そこまでは寝台車で行き、あとはバスで行きます。クラスノヤルスクから直接クィジールまで、飛行機で行くこともできますが、特に急ぐ旅でもないので陸上交通を利用することにしました。
 クラスノヤルスク市からアバカン市まで自動車道では410キロですが、鉄道では遠回りで500キロ以上になります。田舎の線なのでゆっくり走るのか、10時間半もかかります(片道2500円)。これは、寝台車で行くのにちょうどよい時間です。夕方8時にクラスノヤルスク駅を出発して、まだ明るいのでシベリアの景色を眺めています。暗くなった頃、寝て、起きた頃はアバカン駅です。アバカン市からクィジール市までの436キロは長距離バスが1日に3本出ています(片道1200円)。朝一番のバスは、列車が到着して30分後発車と言う都合のいい時間です。
 ところが、その日の列車はなぜか(ロシアではよくあることですが)、1時間遅れたので、ちょうどいいはずのバスには間に合いませんでした。昼のバスまでは何時間も待たなくてはなりません。でもタクシーで行くこともできます。このタクシーというのは乗合タクシーで、乗客が4人集まると出発します。すぐに集まれば、すぐに出発できますが、タクシー乗車希望者がいないような中途半端な時間だと、1時間も待たなければならないことがあります。今回は、列車が遅れてバスに間に合わなかった乗客がたくさんいたので、運転手は素早く他の乗客3人を集めてきました。一人2200円とそれほど高くはありません。相客がいやなら、一人で4人分の8800円払えばいいのです。確かに一人で貸し切ると、好きなところに止まってもらって写真を撮ったりできます。一人でなくても助手席に座って運転手と仲良くなれば、頼んだところで止まってくれますが。

オヤ湖とヤナギラン
オヤ湖とヤナギラン

 飛行機にしなかった理由は、アバカンからクィジールまでの、西サヤン山脈の山越えの景色が素晴らしいので、ゆっくりと眺めたかったからです。私たち乗客4人を載せた車は、オヤ川の水源で年中冷たいことで有名なオヤ湖のそばを通り、ウス川に沿ったウス街道を登っていきました。遠くに巨人が横になって寝ている形の『眠れるサヤン』の山並を眺め(たかったのですが、残念ながら、その日は霧が出ていて視界が悪かったので、見えるはずのところを眺めただけ)、さらに山道を登っていくとトゥラン盆地が見渡せる峠に出ます。その峠を越えるとトゥヴァ共和国で、形式的な国境があります。警備員も休憩中なのか検問所の周りに人影もありません。

 ちなみに、帰りは、運転手がわざわざ「外国人が乗っている」と警備員のところに報告に行ったので、呼び出されてパスポートを調べたり旅行日程を聞かれたりしました。これは10日以上滞在する旅行者はトゥヴァ共和国内務省パスポート・ビザ課に出向いて登録しておかなければならないと言う規則があるからです。でも、私が何日に入国したか記録がないのですから、これは形式的なものです。一通り聴取した後、トゥヴァ人の若い国境警備員が、「あんたに娘さんいるかね」と聞きます。「いるわよ」と言うと「仲人してくれないかな」などとふざけていました。日本女性の奥さんをもらってもあまりいいことはないのですが。

 アバカンからクィジールまではいくつも山を越えたり、国境があったりするので、バスでは11時間かかりますが、タクシーでは6時間弱で行きます。トゥヴァに入ってはじめのトゥラン盆地でも高度1000メートルはあります。さらに山を越えると、東西に400キロ、南北に25キロから75キロの広いトゥヴァ盆地にでます。盆地を囲んで高い山脈がそびえています。トゥヴァは山国です。

ユルタ村『アイ』

ユルタ村『アイ』遠景
ユルタ村『アイ』↑遠景、 ↓中景
ユルタ村『アイ』中景

 クィジール市から大エニセイ川(ビー・ヘム)に沿って20キロほど上流にいったところの風光明媚な河岸段丘に、私が8日間宿泊するユルタ風(遊牧民の移動式組み立て住居、モンゴルではゲル)バンガロー村『アイ』があります。ユルタは直径数メートルの丸い形で円錐形の屋根があります。木の枠の外側を何枚ものフェルトの毛布で覆い、紐でぐるぐると縛ってあります。中は地面の上に直接じゅうたんが敷いてあります。東側に低いドアがあるだけで、窓はありません。真ん中に煮炊き用と暖房用のかまどがあり、その上の天井はフェルトをずらして開閉ができ、煙が出て行ったり、明かりを取ったり、空気の入れ替えができるようになっています。ドアの右側は女性用スペース、左側は男性用で、正面に長持ちがあり、その上に祭壇があります。本物のユルタは家財道具がたくさん置いてあり、料理のにおいがしますが、『アイ』のユルタは清潔で、かまども飾りです。トゥヴァ風長持ちと、トゥヴァ風模様の布団のベットが2台あって、電気蚊取り線香もついていました。

本物のユルタ、最後の日に訪問する
本物のユルタ、最後の日に訪問する

 そんなユルタが16棟と食堂厨房とトイレ・シャワー棟があります。トイレはバイオ・トイレットという薬品で処理する簡易水洗トイレです。深い穴があって板が渡してあるだけというようなロシア田舎風トイレ小屋では、外国人が困惑するので、この『アイ』にあるようなバイオ・トイレットは、シベリアで下水道の発達していない郊外や山奥のちょっと高めの宿泊設備で度々見かけるようになりました。ちなみに、シャワーは横のエニセイ川の水を電力でくみ上げて沸かします。
 私たちのグループと言うのは、モスクワからのターニャ(女性35歳)とその息子ワーニャ(14歳)、ウクライナからのアントンとサーシャ(30歳くらいのカップル)と、クラスノヤルスクからの私の5人です。私以外の4人は飛行機便の都合で、前日、『アイ』に到着していて、その日は朝から体が沈まないくらい濃いという塩湖へ出かけていて留守でした。夕方到着した私はと言えば、到着日の観光プログラムはないので、一人で大エニセイの写真を撮ったり、ユルタ村を見て回ったり、部屋係のオユマー(トゥヴァ人女性)と親しくなり、ユルタのたたみ方や組み立て方を教えてもらったり、近くの岸辺で司法官組合の運動会をしていたので見物したりしていました。

トゥヴァ共和国法曹界運動会の1種目
トゥヴァ共和国法曹界運動会の1種目

 そこでは法曹界の裁判長から普通の職員までがテントを持って泊まりこみ、3日がかりで区対抗運動会をしていました。トゥヴァには全部で17の行政区があるので、17のグループのトーナメントでした。オユマーと一緒に見ていました。司法官はロシア人よりもトゥヴァ人のほうがずっと多いと、オユマーの友達の法律事務所見習の青年が言っていました。1991年トゥヴァが共和国になると、ロシア人の多くはトゥヴァから引き上げたそうです。最高裁裁判長は太めの男性で、さすが、そのチームは綱引きで準決勝までいきました。腕相撲競技でも優勝者はトゥヴァ人です。そのあとフレッシュという相撲によく似たトゥヴァ独特の競技があるのですが、なかなか始まらないのでユルタに帰って寝ました。初日に県対抗運動会を見たおかげで、トゥヴァにはどこにどんな地方があるのかだいたい覚え、トゥヴァ語の地名に少し慣れることができました。

小エニセイ川に沿って

 2日目、私たちグループの5人はユルタ村のオーナーのアルチュールの案内で、クィジールから小エニセイの右岸に沿って150キロほど上流の方向へ、マイクロバスで出かけました。全長680kmの小エニセイは険しい山岳地帯を東から流れてきて、クィジール市で大エニセイと合流します。定期船は運航していません。小エニセイが流れる東部地方はトゥヴァの中でも人口過疎地帯で1平方キロに0.6人しか住んでいないと、統計にあります(日本は330人)。この小エニセイ川のほとりにロシア旧教派の隠れ村が点在しています。旧教派というのは17世紀中ごろ、ロシア教会の改革が行われた時、それに反対した(下層)僧侶や教徒達で、弾圧を逃れてシベリアなどの辺境へ逃れてきたのです。私の住むクラスノヤルスク地方にも、辺鄙なところに旧教派村があって、自給自足で数家族が住んでいます。南シベリアのトゥヴァへ来た旧教派の人たちは、先住のトゥヴァ人も住んでいない小エニセイの中上流に、小さな集落を作って住み着きました。時代によって抑圧が強くなったりした時は、さらに奥地に入り込みました。今は、地図に載っているようなベリベイ村やシジム村などには、灯油やガソリン、マッチや塩といった自給自足の生活にも必要な品物を売っている店や、自家発電機で起こした電気もあって、世俗化していますが、さらに上流には、信仰堅固な小さな修道院村がいくつかあり、世の中からはすっかり隔絶して、数家族ずつ住んでいます。
 小エニセイはそのような旧教派の集落が特にたくさんあるので有名で、トゥヴァの観光といえば、『旧教派村を訪問してロシアの歴史を知る』という日程が入っているくらいです。観光客は、普通、クィジールから小エニセイ県の中心村サルィグ・セプまで100キロほど車で来ます。そこで道路が終わるのでモーターボートに乗り小エニセイ川をさかのぼります。途中の岸辺に観光客用のバンガロー村がいくつかあります。そこに泊って、魚釣りをしたり、水浴びをしたり、いかだに乗って早瀬渡りをしたり、ハンティングをしたり、近くの旧教派村を訪れたりするのです。

車を渡し舟に乗せる
車を渡し舟に乗せる

 私たちの日程はもっと簡単で、サルィグ・セプ村から先に道がなくても車で進み、ベリベイ村の近くの渡し舟で左岸へわたり、そこの川原に4年前にできたという『ワシリエフカ』バンガロー村で1泊し、翌日、ベリベイ村の旧教派宅を訪れるというものでした。でも、ここトゥヴァでは予定は予定、よく言えば、状況次第で臨機応変に変えていきます。それは、下見をしておくなどということはトゥヴァの旅行社はしないからです。初回の旅行客と一緒に行くのが次回への下見を兼ねるようです。つまり、私たちがアルチュール案内のグループでは、初回と言うことです。ですから、行ってみて状況によって判断して、その先の行程を決めます。まず、車を渡し舟に乗せるにもかなり苦労しました。乗らないのではないかと思いましたが、乗せてしまうと、川幅にそって渡してあるワイヤーと川の流れる力で、動力なしに向こう岸に渡れます。トゥヴァだけでなくシベリアでは橋というものは大都市にしかなくて(それも最近できた)、たいていの川は渡し船で向こう岸に渡ります。
 『ワシリエフカ』は小エニセイ川峡谷の少し開けた草原にあって、周りの景色の美しさは言うまでもありません。3つの宿泊用小屋と食堂、蒸し風呂小屋がありますが、手入れがしてなくて、荒れ放題でした。私の小屋は魚のにおいがし、マットレスが汚れ、窓にカーテンもなく、壁も穴だらけでそこに昆虫が巣くっていて、とても泊まる気にはなれないのでした。ガイドのアルチュールに「何とかして」というと、バンガロー村のオーナーに一応伝わったようでしたが、いっこうに改善されません。そこでオーナーに、直接「シーツもないわよ」と言いに行くと、やがてシーツをもった女性がバイクに乗って現れました。オーナーの嫁だそうです。「シーツを敷くぐらいではだめよ、部屋が悪いのだから」というと、その通りだといって、何もしないでバイクで去っていきました。バンガロー村は広いのでこの人はバイクで移動しているようです。
 今度はアルチュ―ルを連れてオーナーのところへ行き「部屋で落ち着けないと、川で水浴びもできないでしょう」ときつく抗議すると、少しはましなベッドを運び込むから、それでがまんしてくれとのことです。アルチュールは運転手のサイ・ディム君と車の中で寝るそうです。「部屋を借りると、またどれだけ吹っかけられるか知れないから」と言っていました。
 だいたい私達が到着した時には酔って寝ていたというオーナーとの交渉は、それで終わったわけではありません。シーツといって持って来た布切れから足がはみ出します。暑いのに日よけカーテンがありません。夜暗くなるのでランプがいります。それも、みんな3回ほど言わないと実行されません。2度目に言いに行っても「ちょっと待ってください」と言われます。それで「ちょっととは何分ですか」と畳み込むと「15分です」といわれます。20分後に「もう15分はとっくに過ぎているのに、まだですか」と言いにいかなければなりません。
 食事はいくら待っても出てこないので、台所を覗いてみると、準備している様子もありません。だいたい、食事を作れるような人(せめて、作ろうとする人)がここにいるのでしょうか。それを、アルチュールに言うと、さすが慌てたようでした。急遽、車で旧教派村へ走り、食料を調達し、料理人の女性を連れて戻ってきました。
 その日は、オーナーとアルチュールに文句を言いつづけて終わるのかと思っていましたが、さすが申し訳ないと思ったオーナーが出してくれたモーターボートに乗ったり、もう暗くなり始めた頃になってやっとたき上がったロシア式蒸し風呂に手探りで入ったり、蒸し風呂を出て横を流れている冷たい小エニセイにそのままつかったりしました。モスクワからのターニャ親子に見張りをしてもらいましたし、だいたいこの辺に人はいません。
 次の日は大雨だったので、旧教派村見学は取りやめて、帰り道が通れ、川がまだ渡れるうちに引き上げないと、こんなところに長期滞在になると言うので、朝早く帰途につきました。川は、まだ渡れましたが、道は案の定ぬかっていてスリップして進みません。そのたびに、私たちは車から降りて、ぬかるみに草を敷いたり、後ろから押したりと、すっかり泥だらけになりました。

大エニセイ川の川くだり

大エニセイ川を川下りする準備
大エニセイ川を川下りする準備

 朝早く、小エニセイ川ほとりの『ワシリエフカ』を出発した上、隠れ旧教派村へも行かなかったので、私たちは1時ごろユルタ村に戻ってしまいました。すっかりお天気も回復したようなので、午後は、予定表にはない大エニセイ川下りをすることになりました。
 まず、ビニール・ボートを積んで、ユルタ村から上流の方向へ車で行きます。1時間も行ったところで舗装道路を出て、また、ぬかるみの野原を泥だらけになって長い間突っ切り、川岸へ出ます。1時間もかかってビニール・ボートをふくらまします。そのビニール・ボートを川に浮かべると、みんな中に飛び乗りました。オールはありますが、普通は使わなくて、川の流れの速さで流されていきます。ボートが流れのないよどみに来た時や、岸辺にぶち当たりそうになったときだけオールを使います。岸から見ると川の流れは速そうですが、流れに乗ってみると、見た目ほど速くはありません。流れのままに、ボートは縦になったり横になったりして流れていきます。50キロほどの距離を5時間ほどでクルーズしたわけですから、この辺のエニセイ川の流れの速さは時速10キロのようです。岸辺には村ひとつありません。鳥が巣を作っているだけです。エニセイが侵食した絶壁や、なだらかな岸辺の草原、中洲などがかわるがわる現れます。ちなみに、大エニセイ川が流れるトゥヴァの北東のトゥジャ県は、最も美しく、最も人口密度の低い地方です(1平方キロに0.1人)。

 ゴムボートや筏での川下りというラフティングは、夏のスポーツとして人気があります。自然派レジャー好きのクラスノヤルスク人たちは、エニセイ川の山の中の美しい支流を何日もかけて下ります。食料は釣った魚で、夜は陸に上がってテントを張って泊ります。エンジンも人力も不要で、川の流れが『動力』ですから環境にもいいですし、特に何もすることがないので、動きたくない人にも好都合です。
 私たちの場合は、わくわくするような早瀬や、どきどきするような激流もない安全な5時間程度のクルーズで、狭いゴムボートの上で全く何もしないで、流れのままに移り変わる景色を眺めているだけと言うのには、ちょっと長い距離でした。そのうち、また雨が降ってきて、川の上の風も冷たくなり、空も暗くなってきました。ユルタ村は大エニセイの川岸にありますから、私たちが到着するという頃、従業員が迎えに来て、ゴムボートを陸に上げてくれました。

日本人観光グループ

 その日は珍しいことにユルタ村『アイ』に、添乗員付きで15名くらいの日本人観光グループが宿泊しています。2泊するのだと、アルチュールが言っていました。「彼ら、変わってる。クィジール市のホテルで2泊し、ここでも2泊するんだ。彼らの観光はサンクト・ペテルブルグの旅行会社が扱っていて自分はタッチしない。ユルタが珍しいから、ここに宿泊するらしいんだ」確かに4泊も同じクィジール市周辺でしなくてもよさそうです。クィジールは20世紀にできた新しい町で観光名所もあまりありません。その団体はクィジールに宿泊しながら、日帰りで見て回れるところ、例えば、市内見物、トゥヴァ人の本物のユルタ見物、スキタイ人のアルジャン遺跡などを見物するらしいです。トゥヴァにはクィジール周辺のほか、外国人が宿泊できるようなホテルはないからでしょうか。大きなバスで日程どおり観光するので、私たち5人組のように、マイクロバスで泥だらけになって奥地へ行くと言うことはしないようです。朝、挨拶すると「日本語がお上手ですね。どれくらい勉強しているの」とほめられました。長い間ロシアに住んでいるのであまり日本人に見えなかったのかもしれません。

モングレーク山麓の鉱泉場へ

 日本人団体客が朝早く大型バスに乗って観光に出かけた後、私たち5人グループはトゥヴァの西の端へ2泊3日で出かける準備を始めました。といっても準備をするのは、ユルタ村オーナーでガイドのアルチュールとその助手のブヤンや運転手のサイ・ディツ君で、マイクロバスにテント、布団、まくら、なべ、薪、それに食料をぎっしり積み込んでいました。『ワシリエフカ』で懲りた私たちは、なんでも自分で持っていったほうが確か、と決めたのです。
 クィジールから目的地の鉱泉場までは約480キロで、そのうち400キロはエニセイ川に沿って東西に延びるトゥヴァ盆地を通り抜けます。この辺はトゥヴァの中でも人口の多いところです。盆地の南側にはタンヌ・オラ山脈が東西に長く延びています。この山脈より北へ流れる川はすべてエニセイ川に注ぎ込み、最後は北極海に流れ出しますが、南斜面を流れる川はモンゴルの草原や砂漠に出て、内陸の流出口のないウブス・ヌール湖のような塩湖に流れ込み、そこで蒸発して消えます。

ブヤンがシャシリクを焼く
ブヤンがシャシリクを焼く

 タンヌ・オラ山脈を南に見、エニセイ川を北に見て、100キロほど言ったところに、500メートルくらいの高さのハイイルカン聖山があり小さな仏塔が立っています。その近くのダライラマが祝福したと言う聖地『七人の姉妹』前の草原で、私たちはブヤンたちが焼いた羊の肉を食べました。ちなみにトゥヴァでは羊以外の肉は出ませんでした。
 ここは聖なる丘が7つあるので姉妹かと思っていましたが、出発してからアルチュールに聞くと、根元から7本に分かれている珍しいモミの木があるからだといいます。そういえばそんな木があって周りに、色リボンを縛る竿があった、と思い出しました。トゥヴァではこれを『チャラマ』と言い、神聖なところ、峠、鉱泉のほとり、土地の精霊に供え物をするところなどにおきます。
 夜、暗くなって、また雨が降った頃、やっと目的地のモングレーク山麓に着き、私たち旅行者5人が車から出ないで寒さで震えているうちに、アルチュールやブヤンたちがテントを張ってくれました。私たち旅行者は車の中でブランデーを飲んで体を温めてから、それぞれのテントへ寝に分かれました。この辺はラドン鉱泉が出るので、地元のトゥヴァ人も多く訪れてテントがたくさん建っています。

モングレーク山麓からアルタイ山脈を望む
モングレーク山麓からアルタイ山脈を望む

 次の日、起きてみるとよい天気です。まずは冷たい鉱泉を浴びてきました。粗末な木造の小屋がいくつか建っていて、そこで、パイプで引いてきた鉱泉の水を浴びることができます。それから、ブヤンたちが焼いてくれた羊肉などをたっぷり食べて腹ごしらえをしました。その日は、私たちは3485メートルのモングレーク山へ登ることになっています。もちろん頂上までは行かず、途中の2700メートルくらいまでです。それでも登って降りるには1日かかります。登山は苦手な私ですが、ここまで来て登らないでは一生後悔するでしょう。みんなと一緒に予定していた地点までは行き、遥かかなたのアルタイ山脈を見渡し、歓声をあげ、湧き水を飲み、高山の花畑に見ほれました。
 しかし、帰り道、近道を取ろうとしたアルチュールが道に迷ってしまうということが起きました。パニックにならないようお互いに励ましながら、下りに下って行きました。下っていけば必ず川に出会うでしょうし、この辺の山川は皆ヘムチック川に合流します。私はズボンを2枚もはいてきていたので、下りはお尻で歩きました。雨が降ったあとの草は滑ります。登りは心臓がぱくぱくしますが、帰りは膝ががくがくします。疲れて立ち止まると蚊の大群に襲われます。道のないところを草や小枝に掴まって、下へ下へと下っていきました。歩いている地面に突然洞(ほら)があって足を突っ込んで捻挫しそうになったり、知らずにハチの巣を触って刺されたり、手足を茨で引っかいたりしながら、何とかキャンプ地にたどり着きました。

『ジンギスカン像』

ジンギスカン像とアルチュール
ジンギスカン像とアルチュール

 次の日は、足が言うことを聞かないかと思っていたのですが、ちゃんと前後へ動きました。この日は、途中トゥヴァ盆地にある遺跡を見物しながらクィジールまで帰ることになっています。
 クィジールまで、まだ300kmというところに村民5900人のクィジール・マジャリゥク村があります。人口15400人のバルン・ヘムチック県の中心です。その近くの広漠とした草原に古代チュルク人の石柱が一体立っています。トゥヴァの地にはこのような石柱が200体見つかっているそうです。これも、数年前偶然土中から見つかり、今、見つかった場所に立っています。口ひげを生やし儀式用食器を持っているこのような古代チュルク人の石柱はキルギスタンやハカシアにもたくさん残っています.でもこの石柱は顔つきがあまりに立派なので『ジンギスカン像』とさえいわれています。もちろん13世紀のジンギスカンよりずっと古く8世紀くらいのものです。トゥヴァ人は「ジンギスカンの母親はトゥヴァ人だった」といっていますし、トゥヴァの民族的英雄の一人はモンゴル軍の武将スブタイ・バガティールだそうです。また古代ウイグル人の作った城壁跡を『ジンギスカンの道』と呼ぶなど、ここでは、なんでも偉大なもの古いものはジンギスカンと結び付けられているようです。

青銅器時代の石画

スィイン・チュルク山
スィイン・チュルク山

 次に寄ったのはスィイン・チュレク(トゥヴァ語で『鹿の心臓』)山です。草原の中、ぽつんと突っ立ったピラミッド型をした小さな山ですが、この斜面に虎や馬、山羊、豹、人間、太陽などを打刻した岩石画がたくさんあるそうです。見ると斜面がかなり急です。高所恐怖症の私には登れても降りられないかもしれません。アルチュールも「下で待っていた方がいいのでは」といいます。古代人にとってこの程度の斜面を上り下りするばかりでなく、打刻という芸術活動をするのも平気だったのでしょうか。運動神経のいい古代人芸術家でした。私以外の観光客は運転手のサイ・ディム君までも上ってしまい、私はひとりで車の番をしていました。草原の中、周りには誰一人いなくて、退屈だったので、ともかく少しだけでも登ってみることにしました。アントンやターニャはもうずっと先にいます。しかし、この岩だらけの急斜面を数メートルも登ると、やはり怖くなって座ってしまいました。下の草原には20個ほどのクルガン(古墳)が見えます。みんな考古学者たちによって発掘調査済みで、旅行案内書(モスクワ『アヴァンガルド』出版社、トゥヴァ共和国観光局との共同執筆)によると、このうち5つのクルガンでは葬られた人体が見つかったそうです。もう少し高いところに上れるかと立ち上がったところで蜂の巣を触ったらしく刺されてしまいました。結局、また車に戻って、みんなが降りてくるのを待っていました。最後に戻ったサーシャが「すばらしい打刻画だった」と感動して話しています。そうでしょう。私は、ここまで来て、『鹿の心臓』山の有名な打刻画が見られなかったことが残念で仕方ありません。
 クィジールのユルタ村『アイ』に帰ってからも、その悔しさは増すばかりでした。アルチュールにそのことを言うと「石画ならここにもある」といいます。この『アイ』はクィジールから大エニセイ(ビー・ヘム)にそって20キロほど上流の川原に、数年前作ったものですが、その前は、ただの草原の岸辺だったわけです。宿泊施設を作る時、石画や住居跡が見つかりました。それがいつのものなのか特定するためには、考古学者に頼まなくてはなりません。しかし、もし、この場所が古代史的に価値のある場所なら、史跡に指定され、発掘調査されることになります。そうなると、アルチュールはせっかく作りかけたユルタ施設『アイ』を捨てて立ち退きをしなければなりません。それで、誰にも知らせないのだそうです。
 石画はユルタのすぐ隣の川岸の高みにありました。ここは河岸段丘になっているのです。住居跡らしいもの、壷の破片などもありました。石画は大きくて重くて動かせませんが、壷のかけらは拾ってわが家に持って帰りました。もしかしたら本当に古代人のものかもしれません。

南へ、タンヌ・オラ山脈を越えて

車の係りと食事の係り。モスクワからの親子
車の係りと食事の係り。モスクワからの親子

 次の日は、1泊2日の予定でクィジールから250キロ南へ行ったところのモンゴルとの国境にあるトレ・ホリ湖へ向けて出発しました。今回もテントや食料、まきなどをたっぷり積み込んだばかりではなく、コックの女の子まで乗せました。さらにテントを張ったり、焚き火を焚いたり、車が動かなくなったときに押したりするためのトゥヴァ人の男の子がいつもより多く4人も乗っていて、マイクロバスは満員です。いつもの運転手サイ・ディム君を入れて私たち一行10人は、モンゴルとの国境に向かう国道54号線を南へ南へと、タンヌ・オラ山脈を登っていきました。荷物を積みすぎていたのか、車が寿命なのか、オーバーヒートを静めるため、途中何度も休憩しなければなりませんでした。こんなことは平気です。景色のいいところでエンジントラブルのため停車すると、コックの女の子が手早くテーブルを広げてわたし達に昼食を作ってくれたり、お茶を出してくれたりしました。
 標高954メートルのシェルマイク峠を越えると、ウブス・ヌール盆地(大部分はモンゴル領)に出ます。この峠に、道路を作った労働者像の記念碑が建っていて、1938年と日付も彫ってあります。旅行案内書によると、この峠は1916年ロシア帝国の総督によって任命された親ロシア的トゥヴァ人の首長が、親モンゴル的前首長に暗殺されたところでもあるそうです。その当時のトゥヴァはロシア帝国の保護領になったばかりでしたが、それに反対する勢力も大きかったようです。

鹿の絵がやっと見える『鹿石』
鹿の絵がやっと見える『鹿石』

 峠を越えて、さらに南斜面を下ると、『鹿石』が立っているクルガン(古墳)が見えてきます。飛んでいるような鹿が何匹も打刻されたこのような『鹿石』は、トゥヴァには珍しいですが、モンゴル草原にはたくさん建ってっています。ですから、この『鹿石』を作った種族は、タンヌ・オラ山脈を北限として、ウブスヌール盆地などを含むモンゴル草原に住んでいたことになります。この種族はスキタイ人より古いと旅行案内書に書いてあります。

車のフロントガラスから見た砂地
車のフロントガラスから見た砂地

  『鹿石』を過ぎて国道54号線をさらに数キロ言ったところに、ぽつんと、ソ連時代の赤い星印の記念碑が立っています。革命後、内戦時の1921年、ここで白衛軍と赤軍パルチザンが戦ったという碑だそうです。敗北した白衛軍はモンゴルに逃げました。クィジールから215キロのエルジンが最後の村で舗装道路もここまでです。ここで私たちは食糧を買い足し、ガソリンを満タンにしました。エルジン村から南東へ50キロほどの無舗装道路を行くと、モンゴルとの国境に出ます。昔、清朝中国やモンゴルからの代官が、この道を通ってトゥヴァを支配しに来ていたのでしょうか。私たちはエルジン村から南西へ砂地の中に車を走らせました。ここは最も北にある砂漠といわれています。植物が生えていないわけではありません。点々と背の高い草が生えています。上り坂では車が砂にはまってしまい動きません。車を軽くするため、わたし達は降りて、砂漠の草の間にあるわだちの跡をしばらく歩きました。そのうち、自然保護地域監視員という人が車で通りかかり、「ごみは家にもって帰ってくれよ。どこから来たのかね。ホー、日本!」と言って握手して去っていきました。

トレ・ホレ湖

オスタネツと『チャラマ』
オスタネツと『チャラマ』

 エルジン村からトレ・ホレ湖までは19キロです。トレ・ホレ湖も近くなった頃、半枯れの草草と砂地の中に、突然、高さ数十メートルほどの岩が見えてきました。ブヤンは「ほら、オスタネツだ」と言います。オスタネツ(残丘)というのは侵食から取り残されて突出している丘陵のことです。このオスタネツは丘というより、絶え間なく侵食され続けて、縦横に裂け目が入った大岩です。ブヤンによると「わしの頭の形をしている」そうです。こうした巨大奇岩には土地の霊が宿っているのか、道しるべになるのか、岩の足元に色リボンを結び付けた竿『チャラマ』が立てかけてありました。この色リボンはもともと自分の衣服を裂いて結んだものでした。ですから、誰がこの道を通って行ったかということがわかるのです。
 ブヤンたちトゥヴァ人の男の子は身も軽く、あっという間に頂上まで駆け上りました。「おサルのようだ」と私は感心して下で眺めていました。
 トレ・ホレ湖は国境の湖で3分の1がモンゴル領となっています。湖の標高は1100メートルです。流れ込む川も流で出る川もありませんが、淡水湖です。というのは、湖の底に湧水があるからです。湖に着くとすぐトゥヴァ人のスタッフたちはテントを建て始め、コックの女の子は料理を作り始めました。私たち旅行者は服を脱ぎ捨てて湖に入りました。周りには誰も居ません。バイカル湖のように透明で、バイカル湖ほど冷たくはありません。魚や、巻貝がいました。

トレ・ホレ湖とアントンたち
トレ・ホレ湖とアントンたち

 ここで素晴らしかったのは日没と星空でした。旅行会社『サヤン・リング』の回し者ではありませんが、トレ・ホレ湖の日没と星空は見る価値があります。クラスノヤルスクはスモッグがあるので天の川は見えません。ここは、にぶく美しく光る銀河が見え、地平線ぎりぎりまで無数の星が見えるのです。寝るのが惜しくていつまでも起きていました。やっとテントに入って横になると、外に足音が聞こえ、夜行動物がうろついているのかと怖くてトイレにも行けませんでした。風の音だったかもしれません。
 次の日は、湖で歯を磨いたり、顔を洗ったりしました。湖岸のあたりはもちろん村もなく、人も住んでいません。時々、家畜の放牧にやってきたりするだけです。人影は見えませんでしたが、残念ながら、旅行者のごみだけはたっぷり残っています。缶詰の空き缶やビン、ペットボトル、ビニール袋などが数メートルごとにかたまって置いてあります。家畜の糞があるのは仕方がありません。

昔の首都サマガルタイ

 帰りは同じ道を通ります。エルジン村から50キロほど北へ、クィジールの方向へ戻ったところにあるサマガルタイ村(人口3000人余り)は、1763年から1911年までトゥヴァが中国清朝の属国だった頃の行政中心地でした。当時トゥヴァはモンゴルや中央アジアも征服した清朝中国の方を向いていたわけですから、首都が南のモンゴル国境近くにあったのもうなずけます。サマガルタイはトゥヴァとモンゴルや、トゥヴァと中国を結ぶ要だったわけです。でも、1911年にはトゥヴァはロシア帝国の保護国になり、首都は北のロシア国境に近くロシア人殖民村だったトゥランに移り、1922年やっと新築のクィジールが首都になりました。
 150年間も清朝中国のトゥヴァ経営機関の常駐地、つまり、トゥヴァの首都だったサマガルタイにぜひとも寄りたいものだと、運転手に頼みました。遊牧民は記念的な建物は残さないので、サマガルタイはただの寂れた村にすぎないということですが、せっかく近くを通るのに寄ってみないと、また後で後悔します。私以外の旅行客の4人はそんなところは寄りたくない様子でしたが、遠慮ばかりしていては見たいところも見られません。ロシア人旅行客は、トゥヴァの歴史にあまり興味がないらしいのです。
 ブヤン君たちは火を起こして羊肉を焼いたり、すばやくテントを張ったり、泥沼から車を引き出したりするのは上手ですが、旅行者に土地の由来や国の歴史を説明するのは苦手のようです。

サマガルタイ村のラマ教寺院
サマガルタイ村のラマ教寺院

 サマガルタイ村に入ると、そこは、確かに他の小さな村と変わりません。シベリアの田舎村にはどこにでもあるような第2次世界大戦戦没者碑が、村の目立つところにあります。ただトゥヴァ人の顔つきでトゥヴァ服を着ています。ここへ寄りたいと言ったのが私である以上、何か見つけなければと思い、道行く村人に、「昔の首都をしのばせるものはないでしょうか」と聞いてみました。3人目に聞いたおじいさんが、「うーん」と考え込んでいました。「20世紀の始めまで首都だったところに、何も残ってないなんて、そんなことがありうるかしら」と畳み掛けると、「近くの山に、うちのおばあちゃんが隠した仏像があるはずだが、まだ見つけてはいないのですよ」と言っていました。さらに考えてから「郊外に復興されたラマ教寺院がある」と教えてくれました。
 行ってみると、かなり粗末な木造の寺院があり、深閑として人影もありません。やがて物音を聞いて出てきた普段着のおじさんがラマ僧だそうで、寺を開けてくれました。ロシア人観光客を車に待たせて、10分ぐらい見物するつもりでしたが、その西モンゴルで修行をしたというラマ僧が長いお経を上げてくれたり、丁寧に相手をしてくれたり、同行のトゥヴァ人みんな次々に寺院に入ってお参りしたため、1時間半も待たせることになってしまいました。
 この寺院は1773年創立です。トゥヴァでは最も古くて、ここから国内にラマ教が広がったそうです。

ラマ教寺院で
ラマ教寺院で

 特に頼んだわけではありませんが、私の健康を占ってくれました。西モンゴルで修行したというトゥヴァ人のラマ僧がトランプで占うというのも不釣合いな感じがしました。私は心臓と胃が悪いという占い結果でした。私としてはラマ教とはどんな宗教か知りたかったのでいろいろ質問してみました。でも、ラマ僧の話すロシア語は半分ぐらいしかわからなかったので、結局ラマ教については、ここでは詳しいことはわかりませんでした。同行のトゥヴァ人が小額のお布施を祭壇前のお皿に載せていたので、わたしも、ちょっと多めに置きました。ラマ僧は、みんなにお香を一さじずつ紙に包んでくれ、モンゴルのお経の言葉を書いてくれました。後で『アイ』の部屋係のオユマーに聞いてみると『南無阿弥陀仏』のようなことらしいです。

クィジール市見物

 最後の日はクィジール市見学と買い物ということになっていました。1日早く来ていたモスクワからのターニャ親子は去り、飛行機の都合でもう1日滞在するウクライナからの男女アントンとサーシャ、それに私は、アルチュールの車で20キロ離れたクィジール市に出発しました。アントンたちがお土産を買っている間、私は11時の博物館開館までの2時間くらい、新築の仏教寺院や『アジアの中心碑』、シャーマン・クリニックの見学をすることにしました。昼食は4人が合流してトゥヴァ料理を食べることになっていました。
 由緒はあるけれど深閑として粗末な木造のサマガルタイの寺院と違って、1999年にできた首都のラマ教寺院は石造りの立派なものです。僧衣を着たラマ僧や修行僧達、市民達も大勢出入りしています。ダライラマのスポークスマンの邸宅も寺院内にあります。
 ここでは、権威のあるラマ僧と話せますが、順番ができていました。トゥヴァ人は冠婚葬祭について相談があるのでしょうか。わたしはラマ教について日本人でもわかるように説明してほしいと思ったのですが、順番が長そうなので止めました。
 『アジアの中心碑』はトゥヴァとクィジールのシンボルなので観光客は必ず訪れます。この大理石の碑は、20年ほど前に新たに建てられた3代目で、1代目は、19世紀にイギリスの探検家が25メートルほど川下に建てたそうです。
 シャーマン・クリニックは、有料でシャーマンが病気を治してくれます。シャーマンの力を信じないようなら頼まない方がいいとアルチュールが言いました。その通りです。
 そのうち博物館の開館の時間になったのでガイドを頼んでゆっくり見学することにしました。そのガイドのオーリャがよほど私のことが気に入ったのか、普通は40分で一通り説明が終わるという博物館を3時間半もかけて説明してくれました。もしかしたら、展示物で中国渡来の石画に書いてある漢字の一部を私が訳したので、そのお礼だったかもしれません。日本人なら誰でも読めるのですが。
 この3時間半もの、実物を前にした講義のおかげで、トゥヴァについてはかなり詳しくなりました。
 しかし、アントンたちと合流できず、私だけトゥヴァ料理レストランはパスすることになってしまいました。

ユルタ訪問

アラカ(馬乳酒)を作る道具
アラカ(馬乳酒)を作る道具
ユルタ内で羊毛の糸を繰る
ユルタ内で羊毛の糸を繰る

 その帰り、『アイ』の近くの河岸段丘の本物のユルタを訪問しました。この家族は夏場、ここにユルタを張って牧畜をしているそうです。ユルタは2棟あって2家族が住んでいます。そばにアラカ(馬乳酒)を作る器具もありました。あまり清潔そうとは思えませんでした。ユルタの中は、『アイ』の私たち観光客用のユルタと違い、生活のにおいがします。乳を入れた容器からは乳の発酵するにおいがしますし、それにつられて無数の蠅が回りにたかっています。獣脂のにおいもきついです。でも、こんなことでは私はひるみません。主人のお父さんと一緒に写真を撮ったり、お母さんに羊毛の糸を繰る方法を習ったりしました。見ていると簡単そうですが、自分がやってみると、繰り棒をまわしながら羊毛の束から糸を繰っていくのは難しくて、私は不ぞろいな糸を数センチ繰り出せただけでした。
 この2家族で羊や牛を数百頭飼っているそうです。遊牧地は夏場と冬場があるだけです。昔は解体したユルタや家財道具を荷車に積んで、家畜と一緒に移動しましたが、今は車で移動します。現代風遊牧民です。でも、もちろん家畜は馬で追います。

トゥヴァ人文大学

ホメイ(喉歌)コンサートが、ユルタ村『アイ』の食堂で行われる
ホメイ(喉歌)コンサートが、ユルタ村『アイ』の食堂で行われる

 出発の日は、トゥヴァ人文大学へ行き、トゥヴァ史やトゥヴァ語の本をたっぷり買い込みました。町の本屋ではこのような本は売っていません。図書館で新書や古本を売っているというのはロシアでは珍しくありません。日本から来たと言うと、館長のモングーシュさんは書庫から次々と本を出して机に並べてくれました。モングーシュさんと話が合ったせいか、ご自身編集の『トゥヴァ人文大学学位論文目録集』というのを贈呈してくれました。それにはカモガワカズコさんという日本人の研究者の方の『トゥヴァ人の民族文化の発展』という1986年の修士論文も載っていました。
 ちなみに、トゥヴァを旅行していて、日本から来たというと「5年前日本の考古学者がここに来た」とか「7年前、自分のタクシーに日本人女性チュルク語学者が乗った」とか「去年はうちのホテルに2組の日本人ツーリストが泊っていった」とか言われます。最近は、トゥヴァやモンゴルで有名なホメイ(喉歌)の勉強にやってくる音楽家や、家畜の大祭日ナーダムに訪れる観光客も多いようです。

後記

 7月のトゥヴァ旅行から帰って、8月にはザバイカル地方を回る機会がありました。2004年は精力的にロシア国内を旅行しました。というのは夏休みの終わりの9月初めに、8年間もいたクラスノヤルスクを引き上げる予定だったからです。
 9月3日、日本に戻りました。戻ってからも図書館のモングーシュさんや、ウクライナのアントンとは文通しています。


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