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今月の提言
日本にクラウンは必要なのか

クラウン芸が日本に紹介されてから10年経った。日本でクラウン芸は、定着したのだろうか?


 「クラウンって日本に必要なんですか?」
 最近こんな質問をされ、面食らってしまった。いままでこんなことを聞いてくる人はいなかったし、考えたこともなかったことであり、不意打ちにあったという感じなのだが、それ以来気になって頭から離れなくなってしまった。
 そこで提言というよりは、この問いかけをきっかけにもう一度クラウンのことを自分自身考えてみたい、そしてクラウンとして働いているパフォーマーの人たち、クラウン芸を観客の立場で見てきた人たちと一緒に考えてみたいと思ったのである。


 日本でクラウンという言葉が、自然に使われるようになったのは、ここ10年ぐらいのことではないかと思う。それまでクラウンは、ピエロと呼ばれていた。
 クラウンという言葉が、活字になるようになったのは、クラウンカレッジジャパンという道化師養成学校が開校してからではないだろうか。
 クラウンカレッジジャパンは、アメリカのリングリングサーカスのクラウン養成機関クラウンカレッジの日本分校として開設され、カリキュラムや教師もアメリカのシステムをそのまま取り入れたものであった。三つのリングで、同時にショーを見せるというリングリングサーカスは、アメリカ的なエンターテイメントを代表するものなのだが、ここでクラウンは、ひとりひとりの個性など一切関係なし、マスとしてリングに現れ、アクトとアクトの合間を繋ぐための道具であった。派手なコスチュームと、メイクで観客の目を楽しませる、それだけで十分だったのである。そのために必要なことを教えるところが、クラウンカレッジだった。
 おりしも日本はパブル全盛期、各地でいろいろなイベントが開催されていた。こうしたイベントの目新しいプロモーション役として短期間でクラウンを養成しようというのが、クラウンカレッジジャパンの狙いだった。はじめからビジネスとしてクラウンが養成されていたのである。日本最初の道化師養成学校ということで、クラウンカレッジジャパンは、脚光を浴び、マスコミを賑わせることになる。クラウンという言葉も、明るいアメリカ的なイメージで、とりあげられることになった。卒業生たちも、大阪で開催されていた花と緑の博覧会に、一期生が大量に雇用されるほか、各種イベントにひっぱりだこになった。
 しかしバブルの崩壊と共に、オーナーはあっさりと手を引き、わずか三期生を出しただけで、クラウンカレッジジャパンは、解散する。

 クラウンカレッジジャパンがオープンした年、私が勤めている会社ACCが、スイスのクラウン、ディミトリーを日本に呼び、ラフォーレ原宿で公演している。ディミトリーは、世界のトップにたつ劇場クラウンであった。ヨーロッパのサーカスや、劇場で多くの素晴らしいクラウンたちの公演を見て、言葉がわからなくても楽しめるパフォーマンスがあるのを知り、こうしたクラウン芸を日本で紹介したいと思った時、どうせ呼ぶのだったら最高のクラウン芸を見せたいと思ったのだ。
 クラウンという言葉をほとんどの人が知らないとき、クラウンと言えば、自動車の名前ぐらいしか思いつかないとき、いくら世界最高といっても、小さな会社がいきなり、クラウンの公演をプロデュースすることは、かなり無茶なことだったと思う。
 しかし公演は大成功とはいえないまでも、大きな成果をもたらした。多くの観客が、ディミトリーの完成されたクラウン芸に堪能してくれた。笑いをつくるためにディミトリーが、見せてくれたのは、うわべの芸ではなかった。丹念に磨きあげてきた熟練された芸を、ひとつひとつ丁寧に組合せ、それを笑いへ昇華させる、その奥行きの深さに、観客は感動した。
 ディミトリーは、クラウン芸の真髄をあますことなく見せてくれた。おおげさかもしれないが、この時から、日本で本格的にクラウンという存在が認められたのではないかと思う。

 クラウンカレッジジャパンの発足、そしてACCが始めた劇場クラウンの紹介が、同じタイミングでスタートしたことは、目指すことが、違っていたとはいえ、ある意味で大きな意義を持っていたような気がする。
 日本にクラウンを目指すパフォーマーの誕生をうながしたのだ。
 ACCは、ディミトリーのあとも、旧ソ連のクラウン集団ミミクリーチ、イタリアのミュージカルクラウンデュオ、デュオ・アリンガ、イギリスの女性クラウン、ノーラ・レイの劇場公演を、プロデュースしてきた。日本でクラウン芸を紹介したいという我々の熱意に、アーティストたちが協力してくれたこともあリ、辛うじて公演が実現できたが、毎回制作面では苦労を強いられた。原宿ラフォーレや近鉄アート館といったファンション性の高い劇場が、クラウンパフォーマンスという目新しいジャンルに目を向けたこともあったが、クラウンの公演は、同じことを繰り返しながら、どうやって観客を笑わせるかという、本質的には地味なものである。常に目新しいもの、ファッション性を追求されて新しいネタを探すのには限界がある。いままでスポンサードしてくれた劇場から離れて、自主興業が続いた。ただ両国のシアターΧという、人と人の交わりを大事にしながら、そして本物の舞台を見せる劇場や、群馬県東村の童謡ふるさと館が、我々の公演を応援してくれたことで、なんとか海外のクラウン芸を紹介し続けることができた。興行的には、決して楽ではなかった。ただこうした公演を毎回見ながら、クラウンになりたいという若いパフォーマーが生まれいったことはまぎれもない事実であった。そして彼らの多くは、クラウンカレッジジャパンで学んだ若者たちだった。
 クラウンカレッジジャパン解散後、いわば行き場を失った若者たちは、それでもクラウンという生き方があるのを、こうした公演で海外の一流のクラウン芸を見るなかで、学んだのだ。
 いまストリートを舞台に活躍するパフォーマーの多くは、クラウンカレッジジャパン出身の若者たちである。
 彼らは、いまストリートやイベントを中心に、会社という後楯をもたずに、生計を立てている。
 そしてこの中の何人かは劇場クラウンを目指している。
 クラウンと名乗るパフォーマーが生まれたのはこの10年の確かな進歩なのだと思う。

 ACCのことばかり書いてきたが、もうひとつ忘れてはならないのは、「どん亀座」の活動である。矢野サーカスのクラウンとしてこの道に入った座長の亀田雪人は、クラウンカレッジジャパンもディミトリーも関係なく、クラウンに魅せられ、クラウン劇団を結成し、全国のおやこ劇場を巡回しながら、子供たちにクラウン芸の楽しさを広めてきた。どん亀座のステージを、たくさんの子供たちと一緒に見たことがある。亀田、新堂の看板役者のキャラクターもあると思うのだが、舞台から滲み出てくるような暖かさがあった。子供たちもそして自分も、無理に笑っているのではない、自然に笑っている、その雰囲気を、たくさんの子供たちが見て、感じている、これはとても大事なことだと思う。どん亀座を見て、クラウンのことを初めて知った子供たちはたくさんいるはずだ。これは立派な財産である。


 「クラウンって日本に必要なんですか?」という質問をぶつけてきたのは、吉本興業で、笑いをつくる現場で長年働いてきた人である。しかも彼は、海外のサーカスやクラウン・パフォーマンスを数多く見てきている。もしかしたら海外のクラウンものについても、私以上に見ているかもしれない。クラウンがどんな芸能かは、十分に理解したうえでの発言である。だから私もこの質問を聞いた時、ドキッとしたのだ。

 真意としては、クラウンという西洋的な笑いの世界は、日本に馴染まないのではということがあったと思う。日本には漫才やコントがあって、落語もある。それに比べたらクラウンは、メジャーにはなれないんじゃない、生活の中に入ってこない、無理があるんじゃないのと言っているのではないだろうか。
 生活の中に入ってこない、非日常的なもの、マイナーであってもいいと思う。だからこそ「クラウンって日本に必要なんだ」と思う。
 漫才などお笑いのスターは、何人も生まれている。クラウンとして日本で、同じようにスターが生まれるだろうか。それはないとはいえないが、可能性が少ないと思う。何故ならお笑いのスターは、テレビというメディアが生み出すものだ。クラウンは、テレビというメディアではその良さが伝わらない。クラウンの活動の場は、あくまでもライブステージであり、そこにいる観客との交流から、笑いをつくりだすものである。その意味でもメジャーになる可能性は少ないといえる。でもこうした場をたくさんつくること、こうした場で演じたいと思うパフォーマーが増えることで、テレビでは味わえない笑いの世界を広めることは可能なのではないだろうか。


 いろいろ折りにふれて、これからもクラウンのことを考えていきたいと思っている。
 どん亀座の亀田さん、モスクワまで行ってクラウン芸を学ぼうと思ったポン太、ヤマちゃん、クラウンカレッジ一期生の三雲君、是非意見を聞かせて下さい。クラウンって日本に必要ですよね? 
 なんでもいのです。クラウンに対する思いを聞かせて下さい。クラウンのことをいろいろ話し合うなかで、もしかしたら何かが生まれるかもしれない、そんな気がするのです。


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