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【連載】サーカス漂流

第1回 私のサーカス事始め

 新潟空港に着いたアエロフロート機のタラップから、一頭のクマが調教師と一緒に、おりて来た。いまから20年以上前のことである。あの時私は26才、大学を卒業したばかりだった。このクマと一緒に日本全国を旅したことが、私の運命を大きく変えることになる。私のサーカス漂流は、この時から始まることになった。
 1979年4月私は、中央放送エージェンシーというソ連・東欧からアーティストを招聘する会社に入社した。この年の3月ロシア演劇の研究者になるべく大学院の試験を受けたのだが、落ちてしまい、翌年の受験にそなえて、生活費を稼ぐため、腰掛けのつもりで入った会社だった。それがこの熊との旅から、すっかり方向転換することになる。
 いままで大都市でしか公演できなかったサーカスを舞台用に編成し、地方都市を巡回する『ボリショイ舞台サーカス』のスタッフとして、私はクマ5頭を積んだトラックに乗り、全国45都市を3カ月間旅することになる。
 仕事はハードだった。朝9時に会場に到着、大型トラック3台分の舞台道具を搬入し、そのあとは熊の餌を買いに走り、公演が始まると、アシスタントとしてステージにも立った。公演後直ちに荷物を積み込み、次の公演地に向い、宿に着くのはいつも深夜だった。しかも夜は毎日仲間と一緒に、飲み歩いたのだから、よく体が続いたと思う。一緒に働いていたスタッフの何人かがやめていった。まわりの人間は、私もすぐにやめるだろうと思ったらしい。自分自身いつまでもつか、まったく自信がなかった。しかしもってしまったのである。
 たぶんもともと旅が好きだったので、毎日旅から旅へという生活が、楽しかったのだろう。ただで知らない町をまわれるのだから、こんないいことはないというわけだ。このとき、北は弘前から、南は佐賀まで旅した。腰掛けのつもりだった仕事がだんだん身体になじんできて、続けるのも悪くないと思うようになってきた。
 大学でロシア演劇を専攻したとは言っても、読むだけに専念していたので、会話はほとんどできなかった。仕事を始めた時は「ズドラーストヴィーチェ(こんにちわ)」さえ言えなかったロシア語も、少しずつ通じるようになってきた。熊の調教師たちと行動を共にするうちに、ロシア語は生活の一部になっていた。言葉がわかりはじめると、世界がまた広がっていった。そしてまったく未知の世界だったサーカスのことがだんだん好きになってきた。この時のサーカス団員は、およそ40名、みんなわがままで、買い物にしか目がない、はっきりいって嫌な連中だった。しかし彼らは舞台に立つと、目つきが変わり、身体全体からオーラを放っていた。アシスタントとして舞台にいたので間近で彼らの顔をみていたのだが、命を賭けている迫力が、その目に乗り移っているのを感じた。最初にサーカスに惹かれるようになったのは、芸人たちのあの目を見てからだったと思う。
 公演の時、舞台にはいつも一枚の細長いカーペットが敷かれていた。このカーペットが、演技中に少しでもずれたりすると、芸人たちは、アシスタントを呼んで、直させた。カーペットは決して立派なものでなく、汚くてしかも臭かった。この上で、熊や犬が小便することもあったのだから無理もない。なんでこんなに汚いカーペットのことを気にするのか不思議でしょうがなかった。彼らはこのカーペットを『ダローシキ』と呼んでいた。あとで辞書を調べてみると、『ダローシキ』が、「道」を意味する『ダローガ』から来たことばであることがわかった。芸人にとっては、この「道」が彼らの人生の舞台だったのだ。
 9月末、3カ月の公演を終えて、一行は横浜港から帰国の途についた。われわれ裏方は、動物の荷揚げのため、前日から横浜に泊まり込んでいた。深夜檻ごとクマが船に積み上げされたときだった。不意に涙がこみあげ、ついには声を出して泣いてしまった。それを見ていた助手のアレクが、肩を抱いて、一緒に泣いてくれた。互いに苦労を分け合ったものでしかわからない感慨が込み上げてきたのだ。このとき私は、「ツィルカッチ」(ロシア語で、サーカス野郎という意味)になっていたのかもしれない。
 この仕事を終えたら会社をやめ、大学院の試験勉強に専念するはずだったのだが、ずっとこの会社に居つくことになってしまうのである。


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