クマのお仕事日誌
2001年1月分

1月17日はなぜか2回あります。気にしないで。


2001年1月1日(月)

 6時起床。当然のごとく、家族の者はまだ寝ている。まだあたりは薄暗い。あまり腹も空いていなかったのだが、どうせ店は開いてないだろうと思い、年越しそばの残りを無理やり腹に詰め込む。おせち料理は今日帰ってきてからのお楽しみ。
 新杉田の駅まで歩いていく。いい天気だ。人通りはまったくない。新杉田の駅は何故か若者たちで一杯だった。シーパラダイスからの帰りの客のようだ。
 大船へ出て、東海道線に乗り換え、これが平塚止まりだったので、平塚で乗り換えて小田原へ。小田原駅で小田急8時32分発の箱根湯本駅行きに電車に乗る。なんと小田原駅で五人囃子のよっちゃんと出くわす。なんたる奇遇。彼女は10日キエフのサーカス学校留学のため日本を発つことになっている。なんでもカウントダウンのイベントのあと、いまから浜松に向かうという。眠そうな顔をしていた。トランクをひきずりながら、クラウン帽子を被っているよっちゃんの姿は、一端のクラウンであった。何かの縁なのかなと思いながら、何故か自分の顔がニヤニヤしているのに気づく。また今年も変な一年になるのかもしれない。

 大野と湯本の駅で9時に待ち合わせしていたのだが、9時15分前には湯本に着く。昨日の話だと、7時新宿発のロマンスカーに乗ると言っていたので、もう着いているのではないかと思い、携帯を鳴らしてみる。案の定もう着いていた。早いことにこしたことはない。タクシーで小涌園へ向かう。
 オーストラリアのマネキン・アーティスト『キネテック・シアター』の二人組は、30日小涌園にすでに入っている。昨日31日に吉本興業の田中さん、小涌園のイベント担当の人たちと打ち合わせはしてある。今日は、小涌園にオープンするユネッサンでの初仕事。打ち合わせ段階で一番問題になったのは、楽屋のことだったのだが、二転三転してとにかくは貴賓館の日本間に落ち着いた。

 ユネッサンは、小涌園を経営する藤田観光が、地中海をイメージした温泉テーマパークをつくろうということで、2年がかりで準備していたもの。このコンセプトつくりから関わってきたのが、吉本興業の田中さん。ウォータースクリーンをはじめ、お客さんを迎え入れる導線にさまざまなパフォーマンスゾーンをつくってきた。この企画については田中さんからだいぶ前から話を聞いていたが、半年前から具体的にパフォーマーについての相談を受けていた。田中さんは、早くからユネッサンのパフォーマーは、マネキンにしようというアイディアが熟していた。ACCの仕事としても年間通じてパフォーマーを派遣できるということは、美味しい話であり、しかもジャグラーとか大道芸ではなく、マネキンという新しいテーマを託され、気合が入っていた仕事であった。
 小涌園側とも何度も打ち合わせ、プレゼンをし、実際に工事中のユネッサンを見学していた。
 大野が担当した昨年のクリスマスイベントにエンジェルのマネキンをするグループ『キネテック・シアター』を招聘する話があり、彼女らをユネッサンのオープニングにも起用しようということになった。
 かなりハードなスケジュールで進行していたため、パフォーマーをケアする体制が小涌園サイドにできていなかった。これはある意味で当然の話である。温泉テーマパークというハード部分でも大変な作業が、ギリギリで続けられ、二次的、三次的アトラクションのパフォーマーのためになにかを考えるという余裕はないのは、しようがないことである。楽屋、宿舎、ショースケジュールに関しては、いきあたりばったりというのはしようがないことだった。
 ただキネテック・シアターのふたり、ジュリーと、ミレアムは、非常に大人で、状況にあわして対応してくれたのが、こうした中でスムーズに進められることになったと思う。

 9時15分ユネッサンに到着。事務所には田中さんしかいない、9時オープンということでスタッフは、そちらにかかりきりらしい。ウォータースクリーンでもいろいろ問題があったらしい。結構かりかりしていた。
 9時20分頃ジュリーとミレアムも到着。楽屋へ。まだオープンしたばかりだというのに、お客さんが次から次へと押し寄せてくる。
 パフォーマー担当の野崎さんも広田さんも、他のことで手一杯といった感じ。楽屋には暖房器具もなく、昨日必要だといっていたアイロンもまだ来ていない。ただふたりとも落ち着いている。こなければしようがないよねという感じだった。こういうパフォーマーだと助かる。ここでギャーギャー言われるとまた現場は一段とパニくることになるのだが、このへんは状況にあわせてというふたりの大人感覚に救われる。電気ストーブ、アイロンが到着、ただ楽屋となる日本間の電源の容量が少なく、アイロンをつかうと暗くなるのにはまいる。

 10時半一回目のパフォーマンス。ミニアムはエントランス、ジュリーは急遽予定を変更して、2階のチケットブース付近で20分程度のパフォーマンス。銀色のエンジェルのコスチュームをまとい、なんとなくお客さんに絡み、お客さんも最初はおそるおそるだが、近寄り写真を撮りはじめる。パフォーマンスで客を呼ぶという発想ではなく、客を呼ぶのは温泉テーマパークであり、来たお客さんがパフォーマンスに触れる、つまりパフォーマンスも見れたよ、という感覚が、ここでは一番要求されていることだと思う。その意味ではふたりのパフォーマンスは、この場にはまっていた、成功といえるのではないだろうか。
 田中さんもおおかた満足のようだった、自分がここのプランニングをする時に描いていたパフォーマンスが、できたのだと思う。

 二回目のパフォーマンスが終わったところで、昼食。ふたりを社員食堂に案内し、そのあとは大野と鶏肉レストランで食事。
 お客さんがどんどん来る。レストランも修羅場状態。2時の最後のパフォーマンスまで少し時間があったので、車を使わない一般客や団体客のためのエントランスロビーで、一息つく。田中さんもやってきて、客の流れについて意見を交わす。
 お客さんのほとんどが車を乗り入れ、駐車場ゲートから入場していたことに田中さんは少し驚いた様子。
 とりあえずパフォーマンスゾーンは、車で来る人が入り、物販コーナもある、一階と二階のチケット売り場で固定することになる。
 三回目のパフォーマンスが終わったところで、警備室で反省会と、今後のスケジュールについて打ち合わせ。
 パフォーマー側には大きい問題はなかったようだ。タイムスケジュールなどを打ち合わせ、3時過ぎ解散。
 ふたりとも文句も言わないというだけでなく、この場に応じたパフォーマンスができるということはたいしたものである。特にミレアムの演技はすばらしい。彼女は石像になって動かないときと、動きはじめるところの移りがうまい。

 3時半に皆と別れ、バスで湯本へ。道路がゲロ混み。いつもなら15分で湯本まで行くところを1時間かかった。丁度いい睡眠タイムになった。
 湯本で大野と別れ、自分は小田原まで。湯本から小田原まではスイスイだった。
 行きと同じように大船経由、新杉田で降り、あとは京急をつかって6時前に家に着く。

 長い一日だったと思う。ただ正月元旦、しかも21世紀最初の日に仕事ができたことは、よかったと思う。
 おせち料理をつまみ、酒を飲む、やっと正月の気分がしてくる。すっかりほろ酔い気分で、12時前に就寝。

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2001年1月9日(火)

 10時ウクライナ大使館により、ビザの申請書をもらう。
 11時会社に到着。年賀状の整理。吉本田中に電話、ユネッサンの様子を聞く。キネティクのふたりは手がかからなくていいけど、やはり夜は退屈している様子とのこと。ウクライナ行きのビザの申請のため、パスポートを送ってもらうように依頼。野崎さんがやはり時間がとれなく、切れてしまったパスポートの申請に行けないでいるとのこと。
 野崎さんに電話、相変わらず家に帰れないでいるらしい。とにかく手元にある旅券申請の書類を送ってもらうように依頼。キネティックのふたりは、今日は休演日なので、大涌谷まで自分たちで行くと言っていたらしい。

 2月1日キエフ行きのため、『ダメじゃん小出と元気いいぞう』のライブに立ち会えなくなったので、小出と東京かわら版の大友さんに連絡、金曜日に打ち合わせすることに。
 14日の京王プラザの新年会にハンガーマンを派遣するので、主催者とハンガーマンに電話で確認の連絡。
 大野は今日中に提出するテーマパーク用の企画書の件でてんてこ舞い。

 夕方、明日キエフに出発するよっちゃん、モスクワから休暇で帰ってきている新井が相次いで来社。よっちゃんはキエフに行くのに、一日だけモスクワで宿泊することになっている。このためたとえ一日とはいえビザが必要になる、これをどこで受け取るか、確認した方がいいということになり、旅行会社に連絡。新井も明日モスクワに帰るのだが、一本前の便。これを一緒の便にすれば、よっちゃんも安心、新井が明日アエロフロートのカウンターで手続きすることにする。
 クリューコフにも電話、明日は奥さんの兄弟が迎えに来てくれるとのこと。クリューコフが来てくれるものと思っていたよっちゃんは少し心配顔に。ただ新井がいるので、そのへんは心配ないと思うよ、大丈夫大丈夫と励ます。

 こまつ座の高林さんから電話、打ち合わせが終わったので合流したいという。
 会社の近くの居酒屋で落ち合う。こまつ座は、6月にモスクワ公演をすることになっている。その打ち合わせで12月にモスクワにいったときに、新井とも会っているので、ご挨拶をということで事前に連絡があった。
 高林さんと新井を交えて、10時ごろまで酒を飲む。12月に打ち合わせに行った時に、劇場と舞台の問題を打ち合わせ、制作に関してもモスクワの会社と詰めてきたので、だいぶメドがたったようだ。モスクワの事情や、演劇界に関して新井や私からいろいろ情報を得たかったようだ。
 いずれにせよ協力できることがあれば、遠慮なく相談してくださいということでお開き。
 新井は秋葉原のホテルへ、高林さんと大江戸線をつかって帰宅。横浜まで一緒。
 車中、今回のモスクワ公演は、外国のひとにも井上文学のことを知ってもらうための第一弾という話を聞かされる。

 12時過ぎに帰宅。夕方から降りはじめた雨ももう上がっていた。

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2001年1月10日(水)

会社に出勤すると、新井から電話。成田に着き、よっちゃんと同じ便でモスクワに行けることになったという。
これでよっちゃんも安心だろう。
一安心。
キエフ行きの準備をしなくてはならない。問題はユネッサンの野崎さんのパスポートの期限が切れてしまったこと。代理で私が申請することで、進めることにする。
航空券の手配を代理店にお願いする。
14時すぎに、群馬県東村から西田が戻ってくる。
帰り間際、福岡のキャナルシティーから電話。いま入れているスイスのマジシャンが、キックボードで乗っているとき、自転車に乗った人とぶつかり、怪我をしたという。あとで病院に行ったら、首が回らなくった、どうしてくれるんだという電話がキャナルにかかってきたという。
担当の大野は本人に連絡するが、今日は休日でなかなかつかまらない。
なんとなく雑用の電話が多い一日だった。

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2001年1月11日(木)

新井からメール。よっちゃんは無事モスクワに着いたとのこと。明日はクリューコフの義理の兄弟が空港まで案内してくれることになっているという。
ミーティング。お昼ぐらいまでかかる。
みんな久しぶりなので、いろいろ話がでてくる。
キャナルの件は、警察の話だと、両方が悪かったみたいで、自転車に乗っていたほうも、傘をさしながら片手で運転して、しかもぶつかったのではなく、
よけようとしたときに倒れたということだ。
マジシャンの方は、一回目の治療代は自分が出すけど、それ以外については一切治療費を払うつもりがないと言っている。
もしも払えば自分の非を認めるからであり、自分だけが悪いわけではないと言っているとのこと。
とりあえずは、これでこの件は落ち着いたようだ。
14時半西田と一緒に横浜赤レンガ倉庫の現場視察。野毛の福田さんと、港湾局の人が案内してくれる。
来年の赤レンガ倉庫オープンの時に、ここで綱渡りをしようという提案を福田さんが市にしている。
西田と福田さんは倉庫の屋根にまで登り、現場をチェック。
屋根から屋根へ綱渡りすることは可能なようだ。
産貿センターの旅券センターへ行く。代理人申請をしようと思ったのだが、自分の身元を証明するものがないので、この日は無理。
17時福田さんの経営する餃子屋万里で、西田と三人でビールを飲みながら、今日の視察の反省会。
福田さんはかねてからの夢の綱渡りができるかもしれないということで大はしゃぎ。
西田と店で別れて、福田さんとうなぎ屋の一千代へ。ここの御主人せいさん(今年の朝日新聞の「おやじ」についての特集対談で荻野アンナさんが、野毛の大道芝居で、ドザエモンだけを演じているへんなうなぎ屋のおやじがいると紹介していた)
福田さんはここでもよほどうれしかったようで、せいさんにやっと実現できるメドがたった、俺も綱渡りしようかなと嬉しそうに話す。
9時すぎに、店を出る。
かなり長めお父党め会社に出勤すると、新井から電話。成田に着き、よっちゃんと同じ便でモスクワに行けることになったという。
これでよっちゃんも安心だろう。
一安心。
キエフ行きの準備をしなくてはならない。問題はユネッサンの野崎さんのパスポートの期限が切れてしまったこと。代理で私が申請することで、進めることにする。
航空券の手配を代理店にお願いする。
14時すぎに、群馬県東村から西田が戻ってくる。
なんとなく雑用の電話が多い一日だった。

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2001年1月16日(火)

寒い朝。キエフからFAX。クリューコフのところのFAXが直ったという。
キエフのサーカス学校に留学したよっちゃんからもメッセージ。さっそく言葉がわからない攻撃で、かなりつらいらしい。
こればかりはしようがない。今度来る時にホットカーペットを持ってきてもらいたいなどという、大胆なお願いが書かれてあった。
クリューコフ一家がいろいろ面倒を見てくれているらしく、こんな感じで世話になっていいのだろうかという、ことも書いてあった。
気にすることはない。面倒見てもらえる時は、面倒みてもらえばいい。
キエフ行きの航空券の件で、旅行会社とやりとり。
3時川崎駅で、野崎さんと待ち合わせ。旅券の申請にパスポートセンターに。
箱根は雪らしい。野崎さんは、箱根からおりてくるのは本当に久しぶりということ。いま世の中どんなことが起きているのかまったくわからないという。
とりあえずは18日が小涌園ユネッサンのお披露目ということで、それまでは大変だという。
旅券は22日に交付されるという。
かなりギリギリだが、なんとかなるだろう。
ここまで来てしまうと会社に戻るのがおっくうになる。
野崎さんを駅に送って、古本屋と駅前の本屋をのぞいて、今日は引き上げることにした。

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2001年1月17日(水)

今日もめちゃくちゃ寒い。
ホテル用の企画書を早くつくって欲しいというファックス。結局この日はこれにかかりきり。
吉本の田中さんから電話、キエフ行きの請求書と日程表を送ってもらいたいということ。
急いで作成して、ファックスを送る。
ウクライナ大使館から電話、クリューコフの友人で大使館で働いているアレックだった。今度キエフに行くのなら、荷物を持って行ってもらいたいという。
こういう時は断われない。小さなもので4〜5キロだと言っていたが、きっとこれ以上はあるはずだ。自分のビザをとりに、来週大使館に行くので、その時に受け取ることに。
旅行会社から電話。野崎さんのビザは、26日に出そうだという。あとは明日打ち合わせの時に、どうして受け取るかを打ち合わせすればいい。
2時にクラウンのこうじとちからが来社。前回のプラコメの時に、このふたりマネキン・パフォーマンスをやってみないかと持ちかけてみた。かなり興味を示したので、一度会社で海外のマネキンのビデオを見ようということを話していたのだ。
オーストラリアのふたつのパフォーマンスを見せる。マネキンに対するイメージがかなり湧いてきたようだ。
とにかくふたりで稽古をしてみようということに。
クリューコフに連絡がとれない。昨日ファックスしてもらったのだが、やはり送れないという。
電話で用件を話そうと思ったのだが、でない。
困ったもんだ。
以前リトルで働いてたチェコのファルティーニから電話。今年4月からラスベガスのサーカス・サーカスで働くことになったという。
誰か知り合いがいたら紹介してほしいということなので、ディック・フランコの連絡先を教えてあげる。
はじめてのアメリカということで、ナーバスになっているようだ。
ディックにもメールを出しておく。
6時半に、久しぶりに北海道テレビの上杉さんと会うことになっているので、6時半前に退社。

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2001年1月17日(水)

結局前の日上杉さんと遅くまで飲んで、最終電車の乗れず、事務所で寝ることに。
こんなはずじゃなかったのに・・・
8時ぐらいに目が覚めて、コーヒーを飲み、少しすっきりする。
午前中は、サーカス新聞の会報つくり。
11時半のロマンスカーに乗り、箱根へ。車中1時間間ひたすら寝続ける。
13時半小涌園に到着。キエフに持っていく資料として、ユネッサンのパフォーマンス・スポットをビデオ撮影。
そのうちに吉本の田中さんがやって来る。田中さんたちは明日のユネッサンのお披露目の準備。
14時半キネティックのパフォーマンスが始まる。20分じっくりとビデオ撮影。
これが今日の最後のパフォーマンスということなので、終わってから帰国の手配もあるので、お茶を飲むことに。
とにかく退屈だったらしい。仕事が終わるのが3時すぎ、どこかに行くにも回りには何もなく、結局は温泉に入ったり、テレビを見ながら時間を過ごしたという。
ただオフの時に、芦ノ湖まで行ったり、この界隈を散歩したりして、箱根についてはだいたい見たという。
来週からキエフに行って、ユネッサンのパフォーマーを探してくるが、契約期間は長い人で6ヶ月になると言ったら、ふたりとも信じられないという顔をしていた。
自分たちだったら1ヶ月でも飽きてしまうとも。
でも彼女たちは、こうしたことを不満ということでなく、自分たちは温泉にも入れるし、とてもエンジョイしているわよと、言ってくれる。
楽屋もない状態で、宿舎もさほど広いわけでもなく、食事も社員食堂と、普通文句言われてもしようがないところもある、とえあえず、最初のパフォーマーが彼女たちで本当にラッキーだった。
ユネッサンのスタッフも、オープンだけで精一杯のところに、パフォーマーから文句たらたらでは対応できなかっただろうし、我々も処理に大変だったと思う。
21日の帰国の打ち合わせをして、20日の最終日に会うことを約束して別れる。
16時すぎから田中さんと野崎さんと打ち合わせ。
キエフで探すアーティストの芸の種類を決める。
野崎さんも田中さんも明日のお披露目のことで頭が一杯という感じだった。
意外と早く打ち合わせが終わる。17時半には小田原に着く。
もうへろへろという感じの一日だった。

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2001年1月18日(木)

10時出社。午前中にキエフ行きの件で、旅行会社と打ち合わせ。日程表を作成。
モスクワで一泊することになったが、夜の到着なので、サーカスとかは見れない。
結構中途半端な日程になってしまった。
ここ数日キエフにFAXが送れないで困っている。向こうの朝7時ぐらいにまずは電話。何度かトライするが、うまく送れない。
クリューコフの奥さんのナージャが、よっちゃんのところにFAXがあるので、そこに送ってみてくれと言う。
よっちゃんのところに電話、アローとよっちゃんの声。キエフはそんなに寒くはないようだ。耳掻きを持ってきてもらいたいとのこと。ホットカーペットよりは軽くすむので、お安い御用だ。
今度はうまくFAXが通じる。これで一安心。
キエフはよっぽど回線事情が良くないのか、FAXの機種の問題があるのかしらんが、こんなでは先が思いやられる。
今日はプラコメの日。通信やアンケート、小出の公演の仮チラシをつくる。
15時こまつ座の高林さん来社。モスクワでもらってきた制作費関係の見積書を翻訳してもらいたいとのこと。
簡単なメモ書き程度のものだったので、その場で訳す。
見積内容も金額も、ぼっているという感じではなかった。
18時半planB入り。配布する資料を渡して、近くの中華屋でラーメンを食べる。
19時半開演。60人程度の入り。いい感じの入り。ただ内容は、なんとなくダレタ感じがする。最初演じたkajaと最後を締めた神山一朗のベテランふたりがしめたという感じだ。
アンケートでも神山の演技を高く評価する声が多く寄せられた。
公演後いつものようにメンバーが集まっての飲み会。
今日は中野富士見町からの電車の時間までインプットして、絶対に帰るつもりだったのだが、今日初出演してくれた神山君と、いろいろ話をしているうちに盛り上がり、結局は朝まで飲むことに。
常連のメンバーから、もうプラコメを続けていく意義がないのではという意見が出される。
このところ新入りがたくさん入って、最初からのメンバーとの行き違いが出てきているということなのだろうが、いままで新メンバーに対して、プラコメの意義、やりかたをきちんと説明していなかったことはある、やめるのは簡単だけど、そこのあたりはもう一度きちんと話すべきではないかと、酔っているわりには、冷静にその場をとりもつ。
2月に一度ミーティングをして、そのあたりのことをじっくりと話あうことにする。
planBを出たのは、朝6時ぐらい。
今週二度目の夜明かし。50をまじかにして、こんな無茶をしちゃいかんなと、思いながら会社に向かう。

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2001年1月22日(月)

7時半起床。温泉に入って、コーヒーとパンで朝食。下まで送ってくれるバスの運転手さんが、8時半と聞いていたといってもう到着。
9時半にもう一度来てもらうことに。
9時半出発。ユネッサンに寄って、道具を積み込み、湯本の駅まで。
10時17分発のロマンスカーの切符を買う。一番前の車両だったので、荷物を持つ手がしびれてくる。
車内は、ほとんど満杯。昨日の宴会の続きをやっている人が多い。
大野に電話、11時47分に新宿に到着することを報告。
新宿に着いて、車に荷物を積み込み、とりあえず会社に行くことに。
野崎さんのビザの申請に行っている旅行会社の人から、電話。バウチャーを提出するように言われ、ちょっと焦っている。
とりあえず、宿泊先の住所と電話番号をファックスする。
ミレアムとジュリーのふたりは大野と食事をしたあと、都内見学へ。
今回の出張の請求書の件で吉本田中さんと電話でやりとり。
9月のカザフサーカスの件も、契約できる体制になったという。
キエフに連絡。ホテルの件をクリアーにする。クリューコフもドイツから帰ってきたようだ。
16時半ミリアムとジュリーが戻ってくる。ここでお別れ。酒を飲みすぎないでねと、言われた。
カザフの契約書をつくり、19時であがる。

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2001年1月23日(火)

新聞でマルセ太郎さんの死を知る。何度か白州のアートキャンプでお会いしたことがある。ガンでいつかはこの日が来ることをみんな知っていたはずなのだが、あの晩年の旺盛な活動ぶりから、いつまでもマルセさんのステージは見れるのかもしれない。と思っていた人も多いのではないだろうか。
10時ウクライナ大使館にビザをとりにいく。先日電話があり、キエフに行くとき届けてもらいたいものがあるといわれたので、その本人を呼び出す。
いつもの変なビザ担当のおやじが、あなたが大島さんですか、僕の名刺持ってますかと、突然名刺を渡してくる。
まもなくシャラーパが現れる。
車で事務所まで送りますよと言われて、イヤな予感が・・・
もしかしたら預かる荷物は大きいのでは。
車の後ろ座席に、みかん箱ぐらいのダンボールが。
大丈夫です。5キロもありませんというが、こんなかさばるものをどうやって持って行けというのだね・・
といっても断わるわけにもいかず、暗い気持ちで、車に乗って会社まで送ってもらう。
会社へ着いてまたびっくり、キエフからファックスが届き、みそとかゴマ油とか、サラダドレッシングとか、カレールーとかを持ってきてくれという。
クリューコフの一家は一昨年3ヶ月間『五人囃子』の演出をするために、群馬県東村に滞在していたので、日本食のことはよく知っている。
キエフでは買えないものばかりなので、よろしくという。
まったく担ぎ屋か、俺たちはと思うのだが、これは受け入れるしかないのである。
西田氏が、奥さんに指示して、これらの品々を用意する。
午前中これだけのことで疲れてしまう。
キエフに持っていく書類をロシア語にする。
2月1日の公演『挑発』のポストカードを発送。
18時前に会社を出て、野毛の指圧屋さんに。
五十肩なのに、昨日と今日重い荷物を持たされたもんだから、肩や腕がパンパン。
太郎さんは1時間半以上かけて丹念にマッサージしてくれた。
途中太郎さんの奥さんで、野毛大道芸の事務局で働くゆうこちゃんから電話。
いまパリ一にいるので来いという。
パリ一には、中国人の王健や大道芸のスタッフ、福田さんが待っていた。
なんでも王健と一緒にペアを組んでいた中国の人が、子どもが生れるため北京に戻るので、その送別会とのこと。
今日は主に下ネタでもりあがった。
22時すぎに帰宅。大使館から預かった荷物の山を見て、呆れていた。

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2001年1月25日(木)

7時起床。手荷物でもっていく荷物の整理。昨日のキエフ情報によると、急に寒くなったという話をしていたら、かみさんが、フリースのジャケットを持っていった方がいいということで、無理やりザックに詰め込む。「めざましテレビ」の占いでの今日の運勢は、「すべてを受けいること」、なかなか意味しんな言葉である。あの国に行く時は、逆らってはいけない。

8時40分家を出る。ゴンザファンクラブの長沼氏に、ゴンザ新資料についての感想を書いた手紙を投函。
9時半横浜発成田エクスプレスに乗る。成田で西田と合流。
チケットを団体カンウターで受け取り、チェックイン。私の荷物が23・5キロ、西田の荷物が24・5キロ。エクセスはとられず。
今日の一番の心配は、モスクワでのキエフの乗り継ぎ。キエフ行きの飛行機が違うターミナルからなので、そこまでどう行くか、アエロフロートの人に聞くが、要領を得ない。あとはでたとこ勝負。「すべてを受け入れること」だ。
ラーメンを食べて、お土産を買い、12時半に搭乗。うれしいことにアエロフロートは喫煙席がある。一番最後尾の座席。
2時すぎに食事を食べて、一寝入り。起きてから吉村昭の『島抜け』を読む。幕末に島流しになった大阪の講釈師が、島抜けをして唐に漂流、唐船に乗って長崎に戻るが、罪状がばれるのを恐れて、脱走、山口まで逃げ延びるが、捕まってしまうという話をまとめたもの。あいかわらず抑えた文体が、臨場感をかもしだす。
このあとは、ロシア語の本『しらざれるハルビン』を読む。
モスクワ時間17時20分すぎにモスクワ・シェルメチボ2空港に到着。
とにかくトランジットカウンターに行ってみる。ここで2月1日モスクワに戻ってきたときのビザを受け取り、さらにキエフ行きの飛行機に乗るための手続きをしなくてはならない。
係員のおばさんは、わかった、わかったと言って、とりあえずターミナル内のトランジットオフィイスに案内してくれる。ここに行く途中、私らのビザをもった職員と出くわす。本来だったらトランジットカウンターになければならないものだが、遅れたのだろう。これで一安心。
トランジットオフィスで18時に集合ということで、紙を一枚もらう。不安なので、ここで18時まで待つことに。
待っているときに、前の会社で一緒に仕事をした安部さんと会う。なんでもこれから日本に帰るという。
去年リトルで偶然に会って以来だが、元気そうだった。
18時すぎに、職員の案内で、また到着ロビーに戻る、この際簡単なパスポートチェック。このあとバスでシェルメチボ1のターミナルへ移動。外気にちょっと触れたが、寒い。着陸する時モスクワの気温は−6度と言っていたが、もっと寒くなっていたと思う。待合室に案内され、そこで待つことに。我々と同じように2から1に案内された人は、10人ちょっと。中国人3人と、ベトナム人4人、スペイン人とドイツ人もいた。
なにをするわけでもなく、ただひたすら待つ。
チケットを回収され、しばらくして搭乗券を渡され、搭乗手続き。バスに乗って、飛行機まで。50人乗りのTY型だった。この飛行機には、棚ボックスがない、網棚の延長のような置き台があるだけ。とても手荷物のザックと、袋はあげられない。それでなくても狭い座席の間に押し込み、股ではさむしかない。1時間ちょっとのフライトなので、がまんするしかない。
西田が突然立ち上がり、後方座席へ、去年キエフで知り合った法律家が同乗していたのだ。
安部さんといいう、この法律家といい、奇遇が続く。
日本時間ではもう朝の1時すぎ。さすがに眠くなる。うとうとして目を覚ましたら、まだ飛行機が飛んでいない。機長のアナウンス。シェルメチボ2の気象状況が悪いので、離陸を見合わせているとのこと。気象条件はとても悪いようには思えないし、ここは2ではなく、1なのに、と思ったのだが、「すべてを受け入れること」。1時間たってモスクワ時間の22時に離陸、途中軽食と飲み物のサービス。今日は五回目の食事。
キエフ時間の22時30分に着陸。パスポートチェックの前に、保険に加入される。3ドル支払った。そのあとパスポートチェック。成田からキエフまて荷物はスルーで、無事着くか心配していたが、すぐに出てきた。
通関も簡単に終わる。
クリューコフ夫妻、よっちゃんが出迎え。外に出ると、そんな寒くないし、雪もない。こんなことはめったにないという。ただ2日前は、猛烈な寒風が吹いて、めちゃめちゃ寒かったらしい。

クリューコフの小さな車に荷物を無理やり詰め込むが、入らず、私のトランクは膝の上に乗せて走る。車内でよっちゃんの近況を聞く。最初のうちは言葉がわからず、二回ほど泣いてしまったというが、いまは元気まんまんだという。
途中パンク。この小さな車にこれだけの人間とおよそ70キロの荷物が乗っていたのでそのせいもあったのかもしれない。タクシーをとめて、クリューコフを残し、ホテルへ。キエフ時間12時にホテル到着。
日本時間で朝の5時。さすがにフラフラだ。まもなくクリューコフもやってくるが、今日は休んだ方がいいだろうと、あっさり帰ってくれる。西田はナージャ(クリューコフの奥さん)に頼まれた食料品(ミソ、海苔、サラダドレッシング、カレールー、ゴマ油)を渡す。
クリューコフ夫妻、よっちゃんが帰ったあと、トランクから荷物を出し、整理。
一番心配していた電源コンセントが、持ってきたアダプターとあったので一安心。シャワーを浴び、バーボンを少し飲んで、キエフ時間1時(日本時間26日朝8時)就寝。
長い一日だった。

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2001年1月27日(土)

8時に目が覚める。シャーワを浴び、髭をそり、朝食をとる。バイキングなのだが、なかなか豪華。
特に赤ピーマンのボイルしたもの、茸の酢漬けが美味しかった。
部屋に戻り、西田に電話。もう朝食をとったという。クリューコフに電話。ナージャがでて、もう家を出たので、10時ぐらいにはホテルに現れるはずだという。
西田に連絡。
10時すぎにクリューコフ来訪。クラウン・ハウスに行こうという。小涌園のオーデションをする会場であり、この組織からもオーデションに出るものがいる。
クラウンハウスのディレクターはアレクというまだ若い男。一種のイベント屋で、サーカスの装飾や、バルーンなどの制作にも関わっているようだ。
名古屋のプレジャー企画大棟君を思い出した。
ここで使っているクラウンの写真なども見せてもらいながら、オーデションについての打ち合わせ。
写真を見る限り、アメリカスタイルのクラウンでパーティーやイベントに派遣する人材を擁しているようだ。
小涌園が求めているのとは、ちょっと違う。そのことを説明する。
クラウン・ハウスを見学。玄関にアメリカンスタイルのクラウンのでかい人形が立っている。中はクラウングッズ(風船・赤鼻・笛など)の店−ここのポスターがなかなか古くて、いい感じだ。そのその奥に、オーデションの会場にもなる、ライブスペースがある。
子どもたちが喜びそうないい雰囲気だ。
しかしこうした団体、そして店、ライブスペースがキエフにあることに少し驚いた。
ここを出る時に西田の靴がカプート(破れる)。急遽市場で靴を買うことに。
100ドルをウクライナ通貨グルビに両替、564グルビになった。
市場で、100グルビで靴を買う。日本円で2500円ぐらいにしてはなかなか暖かそうないい靴だと思う。
ガス抜きのミネラル水を購入。
途中タミラから電話が入る。
サーカス場近くのカフェ(シャピト(テント)という名前)でお茶を飲むことに。
サーカスのポスターがはりめぐされたいい感じのカフェなのだが、ウェイトレスの態度が悪いし、コーヒーを頼んだら、紙コップにエスプレッソだといって、深さ2センチぐらいのコーヒーを持ってきたのには興ざめ。
まもなくタミラが現れる。女性クラウングループ『ジャルト』のメンバーで、私は初めて会う。
西田とは去年会っている。今回のキエフ訪問の西田の大きな目的のひとつは、このタミラをつかったクラウン劇をクリューコフたちと共同でつくることの打ち合わせ。西田はすでにシナリオを書き、ロシア語に訳したものをクリューコフとタミラにすでに送ってある。
自分ももらっていたのだが、まだ読んでない。
最初に西田から共同でやることに異存がないか確認、もちろん一緒にやりたいということで、話合いが始まる。
ただタミラは今日から始まるサーカスに出演するので、リハとかあって忙しいので、台本についての話し合いは明日10時にすることに。
まもなく今回のクラウン劇の美術を担当するアントンがやってくる。すでに台本を読んで、エスキースを描いてきた。これを見ながら打ち合わせ。
いきなり具体的な話で、台本を読んでいないので、通訳するのに戸惑う。
西田から二、三注文。明日のタミラとの打ち合わせに出席することになった。
『キエフの五月』の新しいプロデューサーアレクセイを表敬訪問。西田作、クリューコフ演出、タミラ出演のクラウン劇を、五月のフェスティバルに出したいという提案を西田から。
すでにクリューコフから話を聞いているようで、どうぞ参加して下さいと、快諾。
ホテルにいったん戻り、休憩。
4時すぎクリューコフが迎えに来て、彼のオフィスへ。
ナージャとよっちゃんが料理中。息子のボーヴァは、パソコンでゲームにかかりきり。
二年前と比べて、ずいぶんと背も伸び、声変わりしていた。
野菜サラダ、鯖のから揚げ、カレー、茸や木耳などの前菜、朝飯しか食べていないので、食がすすむ。
ウォッカで乾杯。
食事のあと、よっちゃんの部屋を見学。立派なものだ。大きなリビングに、台所、風呂もある。トイレもきれい。モスクワのサーカス学校の寮と比べたら、天国だ。
ここはクリューコフのオフィスの3階にある。
至れり尽くせりの環境といっていいだろう。
19時サーカス場へ。
今日は新しいシーズンの初日。新しいシーズンは、ウクライナサーカス創立125周年を記念した公演。
客席は満杯。タミラが連絡してなかったようで、支配人らしき人は、むっとしていたが、ちょうど来た虎の調教師シェフチェンコのはからいもあって、貴賓席で見ることになった。
9時20分終演。タミラの楽屋へ。西田がクラウン劇の道具として空手の胴着と、高下駄をプレゼント。空手の型と、狂言の基本的姿勢について説明。
22時頃、部屋に戻る。
シャワーを浴びて、少しバーボンを飲み、24時就寝。

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2001年1月27日(土)

あまり良く寝れない。何度か目を覚ます。7時にはベットを抜け出して、中山日記を読む。
8時半朝食。西田が食事中。西田もあまりよく寝れないようだ。いつもに比べて飲みが足らないのかもしれない。
フライドエッグを注文したら、三つの目玉焼きが出てきた。
10時前にクリューコフが迎えに来る。
待ち合わせのカフェシャピトの前で、タミラが立っている。なんでも今日は休みで閉まっているとのこと。
美術のアントンを待つ。今日は暖かい。東京とほぼ同じ気温だと思う。
10時半アントンが到着。車で、別のカフェにいく。
クラウン劇『クラウンタミラ』についての打ち合わせ。
最初に西田から、この台本の一番のポイントについて説明。そのあと台本に沿って質問を受けることに。
昨日大体読んでいたが、やはり細かい部分になると、通訳が難しい点もでてくる。
タミラがほとんど質問。質問のポイントがいかにも熟読しているという感じだった。
演出のクリューコフがほんとうにちゃんと読んでいるのかと、うたがいたくなる心もとない質問が出てくる。
クラウンが、ひとつの生き方であり、それは人生とだぶりあわさるものだということが、西田の一番書きたかったポイントで、このへんはタミラもわかってくれたと思う。
およそ1時間半のミーティングとなった。
タミラとアントンと別れ、ホテル近くのブルガーコフ博物館へ。
クリューコフは解説を学芸員の人に頼んで、そのまま帰る。
不思議な博物館だった。すべて白の色調に統一され、ある部屋の鏡は、電気を消すと、別の間が浮かぶ出るしかけになっている。
演劇的な仕掛けがいくつかある。
学芸員のおばさんの話は、よくわからない。
ブルガーコフの弟が日本の教会で働いていたというのは、ちょっと驚いた。
博物館を出て、散歩。ドニエプル川まででる。川岸はすっかり凍っている。
日本とタイのレストラン『サントリ』で食事。
焼きそばとうどん、ビール、漬け物、二人分で160グルビだった。
鉄板焼きと寿司のコーナーにわかれ、日本人のコックもいた。この店ができて、3年になるという。
今日はホテル近くのおみやげ屋通りも、土曜日ということで、かなりの賑わい。
部屋に戻り昼寝。
5時半クリューコフが迎えに来る。クリューコフの親友のビクトルの誕生日に招待されている。
中華レストランへ。車の中で、プレゼントをあげる時の段取りを打ち合わせ。日本から持ってきた団子三兄弟のテープを流して、ナージャからプレゼントを渡すことにする。
ビクトルはかつては小学校の校長をしていたので、日本の子どもだったら喜ぶのではないかとのこと。
パーティー会場到着。すでに12〜3人が集まって食事をしていた。
恒例のスピーチ大会が始まり、西田のスピーチを通訳。ナージャから、段取り通りアルコールの入った花瓶のプレゼント。
一通りのスピーチが終わった時は、だいぶウォッカ漬けになっていて、結構酔っぱらってきた。
10時すぎにレストランを出る。
ナージャがナイトクラブに行こうと誘う。
2年前も行った『ブタペスト』へ。
ストリップをやっていた。西田はほとんど寝ていた。
ナージャとダンス。かなり踊ったようで、気持ち悪くなり、途中一回トイレで吐く。
吐くことは珍しい。いい加減たくさん飲んだのと、急激に動いたためだろう。
あとはほとんど覚えていない。
4時ごろホテルに戻る。またちょっと吐く。

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2001年1月28日(日)

10時半フロントから電話で目を覚ます。朝飯をどうするかと聞かれた。とてもなにか食べるという雰囲気ではない。また寝る。
お昼過ぎいったん起きて、シャワーを浴びる。気分はいっこうにすぐれない。持ってきたラーメンを食べる。
西田に電話。西田も気分は悪いようだ。しばらくはクリューコフの電話待ちということに。
また寝る。2時過ぎ、クリューコフに電話。1時間後に来るという。
3時すぎ西田が部屋に来る。もう一度クリューコフに電話。4時に来るという。
コーヒーを入れて、とりとめもなく時間を過ごす。
4時半クリューコフ来訪。クリューコフの自宅へ。
食事なのだが、出されたものは、ハンパーグとマッシュポテト。とても食べる気にならない。
西田は結構食べていた。
食事が終わってから、クリューコフが去年の10月に演出した野外劇のビデオを見る。
何年も準備してきたこの作品は、いままでのミミクリーチや五人囃子、ミカスの演出スタイルとはまったく異なり、新しい一面を見た思い。
面白い。メーテルリンクの『盲目』をテーマにして、サーカス学校の15〜16歳の学生12名をつかっているのだが、ダンスの要素、不思議なオブジェ、アクロバットなどを総合的にとり入れている。
海外からのオファーもあったということだが、確かにそうだろうと思う。
ちょっと見直した。新しいクリューコフの道ができたのかもしれない。

ナージャが、ウォッカをコップ一杯にウォッカを注ぎ、一気に飲んだら二日酔いも直るというが、なかなかその気にならない。
サーカス学校のアクロバットの先生がやって来て、今年の秋群馬県東村に開校されるサーカス学校の先生として、やれるかどうかを打ち合わせ。
やりたいという。よっちゃんのアクロバットの先生でもあり、よっちゃんがとてもいい先生だと言っていた。
西田とよっちゃんはタミラの招待で、コンサートホールへ。
私は、残ることに。ウォッカを一気に飲む。そしてソファーで一眠り。
9時半に目を覚ます。気分はだいぶ良くなってきた。よっちゃんが帰ってくる。コンサートはクラッシックのコンサートではなく、音楽劇みたいなもので、退屈したという。
西田は、ホテルに戻ったとのこと。
少し食欲も湧いてきたので、ハンバーグとマシュポテトを食べる。
空港に電話。田中さんたちを乗せた飛行機は11時に到着する予定だという。
10時すぎに、クリューコフの家を出る。
深い霧、特にドニエプル川を渡って高速道路に入ってからは、前がほとんど見えない。
恐かった。クリューコフはセンターラインを頼りに運転。
11時に空港到着。案内にウィーンからの飛行機が延着しているというサイン。
案内に聞いてみると、霧が深いため、着陸を見合せ、飛行機はリボフまで行ったという。
なんていうことだ。いつキエフに戻るか、聞いても埒があかない。
西田に電話。現状を報告。
空港内のカフェで、ビールを飲む。
明日の朝5時までは、着陸を認めないという情報だけ。いったん帰ろうと思って再度、案内で確認すると、もうしばらくすると、いつ着陸するかわかるという。
また待つことに。そのうち案内のアナウンス。ウィーンからの便は、明日朝8時に到着するという。
ホテルに戻ることにする。帰りもドニエプル川を渡るまでは、暗闇のなかをゆっくりと走行。
2時ホテルに戻る。
バーボンを少し飲んで、就寝。

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2001年1月29日(月)

6時半起床。シャワーを浴びる。7時にクリューコフに電話。まだ寝ていた様子。空港に一回電話してみる。まもなくクリューコフから電話。
11時到着予定だという。
このことを西田にも報告。
7時半レストランへ。昨日ほとんど何も食べてないのに等しかったので、腹がすいた。
朝食は8時からということだったが、あるものを用意するから中に入れと言ってくれる。
卵3個分の巨大なオムレツとハム、チーズを食べる。腹一杯になったと思ったら、民族料理だといって揚げパンのようなものを出してくれた。
断わるわけにもいかず、手をつけると、天敵の干しぶどうが入っている。残すわけにもいかず、食べる。
この干しぶどうが酸っぱくて、揚げパンの甘さとうまくマッチしていて、意外と美味しかった。これで出ようと思うと、今度は春巻きのようなものを持ってきてくれる。
一個だけでも食べろという。この中にも干しぶどうが・・・、でもなかなかいける味だった。
9時半クリューコフに電話、10時に出発しようという。身支度を整えていると、今度はリボフにいる田中さんから電話。
まだ出発できないでいるという。昨日は空港近くのホテルに泊まったとのこと、いま朝飯を食べて、出発を待っているところだが、いつになるかわからないとのことだった。
声は元気そうだった。出発の時間がはっきりしたら電話をもらうことにする。
クリューコフに電話。この報告をしに、西田の部屋に。
西田の部屋の窓からみるとアレクサンドリア通りに面した塔が、霧でかすんでみえない。
11時すぎに田中からまた電話。いまの情報では12時になると、キエフの空港が着陸を認めるという。
とにかくもう一度乗る前に電話をするようにするとのこと。
去年9月カザフに行ったこともあり、旧ソ連特有のこの理不尽なウェイティングに関しては、多少慣れているのがありがたい。
クリューコフからも電話。とにかくわからないので待つしかないということに、
ただ今日オーデションが3時からだんどってあるので、クラウンハウスのアレックに連絡しておくように頼む。
フロントから電話、東京からファックスが来ているという。辻君から。なんでも東京は週末大雪だったという。
窓から外を眺めると、少し霧が晴れてきたような感じ。
3時過ぎに田中さんから電話、リボフから飛行機はでそうもなく、車でキエフに向かうという。午前中ののんびりした感じはない。
事態が一向に解決に向かっていないので、やむを得ず車を手配したという。
車だと6〜7時間かかる。大変なことだ。
西田とクリューコフに電話。とにかく待つしかないが、まずは食事をしようということで、ホテルのレストランで、サリョンカと、豚ステーキ、マシュルーム添えを食べる。
クリューコフがやってくる。部屋でミーティング。そのあとたぶん深夜に着く田中さんと野崎さんのために、買い出しにでる。
巨大なスーパーマーケットで、ビール、ハム、チーズ、缶詰、ウォッカを購入。
西田をホテルで拾って、クリューコフの家へ。
今日はカルボナーレ。これだけ待ちの日も珍しい。食事のあと、クリューコフが最近演出したサーカス学校の生徒たちによるヨールカショーのビデオを見る。
街頭劇とくらべて散漫な感じ。途中何度か寝かかる。
11時過ぎに家を出て、ホテルに戻る。
2時過ぎやっとふたりが到着。ほとんど食べていないというので、部屋でビールを飲みながら、ハムを切って食べてもらう。
ふたりともすごい食欲。ハムは500グラムぐらいあったと思うが、ぺろっとなくなる。
とにかくたいへんだったらしい。
3時半それぞれ部屋に戻って就寝。
しかしまる一日のディレイ、なにもしないのにこんなに疲れたのは始めてだ。

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2001年1月30日(火)

9時すぎにレストランに集合。やっと4人顔合わせすることができた。朝食をとりながら、リボフからキエフまでの顛末を聞く。
クリューコフに電話。12時からオーデションができるので、とりあえず部屋で待っていて欲しいとのこと。各自に連絡、とにかく待つことに。
12時近くになっても来ないので、もう一度クリューコフに電話。ナージャがでて、もうまもなく着くはずだという。
田中さんと野崎さんはお土産通りを散歩。12時10分すぎにクリューコフ到着。
サーカス場にあるクラウンハウスへ、再びアレクが会社の説明。13時にクラウンハウスのメンバーによる。オムニバスショー。
5人の男が演じたが、みんな箸にも棒にもかからないようなレベル。10分ぐらいのショーのあと、個別に質問、年齢と特技など聞くが、みんなたいしたことはできないよう。
ちょっとヤバイなという感じ。15時にサーカス学校の卒業生や在学生のオーデションをすることになっているので、昼食をとることにする。
サリャンカと茸入り鳥のツクネを食べる。
15時今度はサーカス場のロビーでオーデション。およそ20人ちかくの若者が集まっていた。
卒業生から演じてもらう。今度はオーケーだ。田中さんも気合がのってきたような感じ。演技終了後個別に質問タイム。質問はほとんど田中さんがする。
12組の演技が終了したのは17時。今日はこのあと、芝居を見ることになっている。一旦ホテルに戻り、オーデションについての反省会と招待するメンバーのセレクト。大体みんな同じ意見だった。あらかたのラインナップを決める。
18時半オペラバレエ劇場へ。なんのことはない、休演日。
クリューコフは別にどうってことがなかったように、フェステバル実行委員長のアレクセイが演出した作品を見に行こうと言う。
開演の19時直前に劇場に到着。20人ぐらいの人がアレクセイの部屋で酒を飲みながら、談笑していた。ドイツ語でしゃべっている人たちが結構いた。
アレクセイからちょっと説明を聞いたあと、隣のスタジオのようなところで観劇。
ストリンドベリの『去年降った雪』という男性ひとりによるモノドラマ。一時間ぐらいだったが、科白バンバンで、わからない。
公演後ちらっとアレクセイに挨拶して、ここを離れる。
いったんクリューコフの家に寄り、車を置き、ナージャとよっちゃんと合流して、歩いてペーチャの家に向かう。途中シェフチェンコ公園を通る。
五人囃子のキエフ公演の時に、皆が世話になったというペーチャは、恰幅のいい見るからに優しそうなおやじ。
奥さんの手料理をごちそうになり、乾杯が続く。
途中ビクトルの誕生日の時にも来ていた学校の校長夫妻、作家などの友人たちが次々にかけつける。
作家君は、なかなか有名な男らしい。
作家君が帰ったあとから、カラオケ大大会。ロシア語の歌と英語の歌でもりあがる。
野崎さんや田中さんとビードルズナンバーを中心にこっちも負けずに歌う。途中から着た校長夫妻が、いま外は雪が降っているといっていたのに驚いたのだが、

1時ぐらいに部屋をでたときには、外は大雪。10センチ近く積もっていた。結構暖かいのだが、あっという間に積もっている雪にびっくり。

ホテルで田中さんとまたバーボンを飲みながら3時すぎまで。田中さんは今日のオーデションに大満足。あらためてこの国のサーカスをする若者たちのレベルの高さに驚いていた。

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2001年1月31日(水)

完璧な二日酔い。それでもむりやり朝飯を詰め込む。今日はいろいろ予定がたてこんでいる。
雪が降り続く。お土産通りの坂が、つもった雪で車で登れない。10時半サーカス学校へ。まず前にもあった校長の秘書の部屋へ。そのあと校長室へ。クリューコフがある程度目的を言ったほうがいうので、今回の訪問の目的、よっちゃんを受け入れてくれたことへの感謝、野崎さん、田中さんを紹介する。
この校長相変わらず嫌な奴。言葉の節々に厭味が入る。
学校を案内してもらう。昨日のオーデションで、明日サーカス学校で違う芸を見せてくれると約束した生徒たちがいたので、まずはそれを見たいというのだが、なかなか段取りがつかない。
昨日のミーティングで今日のを見てから決めようということになっていた男性のハンドアクロを見る。ちょっと期待外れ。
ジャグラーの女の子のコスチュームを見せてもらい、3人組のコントーションの演技、昨日コントーションをしていた女の子のフラフープを見る。
その他昨日参加していなかった女の子のフラフープとジャグリングをミックスしたショーも見せてもらう。これはかなりのレベル。3月のベルギーのフェスティバルに参加することになっているという。
我々はクリューコフと直接契約したいのだが、彼自身はっきりしないので、西田がちょっとカリカリする。
校長にもう一度会うことになっていたので、その時どんな風に言ったらいいのか、クリューコフの態度がはっきりしないと困るのだ。
幸いなことに校長は出かけてしまったので、この場はなんとかなる。
13時すぎに学校を出る。学校ではタミラとアントンがずっと待っていた。昨日は12時からミーティングをすることになっていたのだ。
田中さんと野崎さんはお土産を買うための散歩。私と西田とクリューコフ、タミラ、アントンはホテルの近くのカフェで打ち合わせ。
アントンが装置の第二案、衣装のエスキースも持ってきたので、それを基に意見交換。
タミラが最後に、この作品の最終的な責任者は誰なのか質問。西田がクリューコフだと答える。
15時ホテルで田中さんと野崎さんを拾い、ホテル近くの『二匹の兎を追って』というウクライナ料理のレストランへ。
今日はモスクワからの飛行機でもあった、クリューコフの友人で弁護士のアンドレイの招待。
さすがに昨日の酒が効いてきて、なかなか元気がでないし、食欲もわかない。
それにまた料理のでることでること。見ただけでげっぷが出てきそうだった。
17時半アレクセイ夫妻と別れる。少し部屋で休もうということになったのだが、ベットに横になって5分もたたないうちに、クリューコフから電話。すぐに出発するという。
しかし雪がすごい。ぼたん雪がばんばん降り、道路にも雪がたくさん積もっているので、結構乗っていると恐い。
以前にも来たことがあるカジノへ。
今日は特別にここを拠点に公演している『ビンゴ・サーカス』のショーを見せてもらうことになっている。
12人のアーティストによる、シルクドゥソレイユ劇場版のような公演。ショーの中身は60分弱だが、こってりとした味付け。しかしかなりレベルの高い、いいショーであることには間違いない。
公演後打ち合わせ。このあたりが、自分にとっては二日酔いのピーク。動悸がして、空咳ばかりでて、立つとフラフラという感じ。
公演後ミミクリチのメンバーだったロスチクと再会。およそ10年ぶりに会う。
ビンゴのショーにも、奥さんと一緒に出ていたという。すっかりいい大人になっていた。
いまからでも自分たち(奥さんとふたりにショーをしている)のショーを見せることもできると言ってはくれたのだが、田中さんも野崎さんもかなり疲労の色が濃いので、今日は遠慮することに。
また雪道を戻って、ホテルへ。
シャワーを浴びたあと、部屋で皆でビールを飲む。野崎さんは途中で部屋に戻る。
田中さん西田と12時ぐらいまで飲む。
1時就寝。
雪が降りしきる。明日飛行機は本当にキエフ空港から飛び立つのか、まじに心配になってくる。

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