クマのお仕事日誌
2001年3月分


2001年3月1日(木)

ワークショップの話をもちかけていた名古屋のP企画からファックスが入っていた。
5月1日で前向きに検討したいということ。スケジュールをどう埋めていくか、結構困っていたのだが、これでかなりクリアーになってきた。
ここのところいい感じで仕事が決まっていく。
クリューコフからファックス、たぶんビザの件では、俺たちは祝杯をあげてもいいだろうという。
基本の基本なのだけどね。ビザは。
番組つくりも順調だという。
気持ち的にはずいぶん余裕がでてきた。
プラコメ閉店の知らせを、メールアドレスを書いてくれた人たちとりあえずメールを出す。
あんまりじゃないのという返事が一件すぐあった。
6時に会社を出て、紀伊国屋ホールへ。こまつ座の「泣き虫いじわる石川啄木」を見る。
制作のT氏に挨拶。今日は初日ということで、演劇関係者がたくさんいた。
紀伊国屋ホールへ来るのはほんとうに久しぶり。セリフ劇を見ることは、ここ十年ぐらいほとんどないといってもいいかもしれない。
客層もうちの公演に来るひとたちとはかなり違っている。
三時間の芝居だったが、実に面白かった。最初の頃は、寝るかもなと、心配していたのだが、眠くなるどころか、よく笑わされてもらった。
石川啄木、妻の節子、そして同居する啄木の両親、啄木を支える金田一京助、妹の6人が、織りなす人間模様がコミカルに描かれる。
一場ごと、嫁と姑の問題、奥さんの不倫、父親の同居、主義の違いなど、必ず争いごとがおこり、激しくこの6人がやりあう。
この争いごとは、解決されないまま、また月日が経って別の争いごとが演じられる。
閉塞した状況なのだが、突き抜けた明るさがある。争うだけ争えばいい、解決しなくてもいい、争わないよりは、身体ごとぶつかり合う、それでいいじゃないか、そんな突き抜けた明るさが、見たあとの爽快感の源になっている。
公演後T氏に作者の井上さんを紹介してもらう。どうぞ一緒に初日の打ち上げ乾杯にでてくださいと言われ、帰ろうと思ったのだが、結局残ることに。
役者さんもメイクを落としてロビーに現れ、缶ビールで乾杯。節子役をしていた細川直美は、前から好みのタイプで好きだったのだが、すぐ近くで見れた。やっぱりきれいだった。
一通り挨拶が終わったところで、引き上げる。
家に着いたのは12時だった。

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2001年3月2日(金)

午前中DHLで韓国のチュルタギ保存会から、査証をとるための書類が送られてくる。
1月キエフに行く前に連絡をいれていたのに、ずっと連絡がなく心配していたのだが、これで一安心。
辻君と秋葉原に、ユネッサン用のポータブル用のPAセットを買いにいく。
大道芸でつかうセットは、みんなワイアレスマイクがついている。これが結構高い。マイクがないものはと店員に聞くと、いらないなら、このPAセットを買う意味がなく、アンプ内蔵のスピーカーを買った方がいいと言われる。
言われてみれば、確かにそうだ。
Y社のT氏に電話。不在。電話をもらうことにして、もう一軒別の店へ。
別なメーカーのものがあって、いろいろ質問している時にT氏から電話。
マイクは基本的に使用しないので、大阪で購入するので、撤収してくださいとのこと。
拍子抜けしてしまうが、これもこうして店で実際にものを見たからわかったこと、だとなんとか納得する。
3時すぎに、照明のM氏来訪。ユネッサン用の照明セットの見積を持ってきてくれた。
野外で使えるということで、気をつかってくれて、見積をとってくれた。助かる。
BPの大阪公演の詰めで、Y社のO氏で電話で交渉。HEPとの最終交渉をしているらしい。
日程的にはなんとかクリアーになった、あとは経済的な問題をどうするか。これは来週だ。
18時会社を出る。電車で猪瀬直樹の『ピカレスク』読了。
太宰や、井伏がまるでコピーだけしかできない、できそこないの作家のようだ。これは評伝というよりは、猪瀬のモデル小説と言っていいのではないだろうか。
ちょっと腑に落ちない作品。

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2001年3月5日(月)

名古屋のP企画のO氏より、留守電。ラスベガスから戻ってきた、BPのワークショップを名古屋をでやりたいとのこと。
これでBPのスケジュールは大体固まった。午前中ミーティング。
西田は今日から東村。
原宿で10日にリニュアルオープンするイベントで獅子舞が手配出来ないかという連絡がはいる。
10日って、あと5日後の話だぜ、と思ったが、一応出来そうな人にあたりをつける。
可能だとぽうので、連絡。
レ・クザンのスケジュールのことで、地方の会館にセールスしているM氏が来社。スケジュールの打合せをする。
東海・中部で、結構手応えがあったようだ。11月のことなのだが、公立の施設は3月4月中にほぼ決定となる。
わりといい感じで売れていると思う。
今日は早めに退社。
帰りの電車で、「角兵衛獅子−その歴史を追う」を読了。
角兵衛の故郷、新潟県月潟村に住む郷土史家が書いたもの。仮説はとても面白いし、視点もいいのだが、それを裏付ける資料の出所がはっきりわからないのが惜しい。

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2001年3月6日(火)

Y社のO氏から電話。BP大阪公演の予算書について、OKをもらう。
今日シルクドゥソレイユのオーデションがあるということで、参加を希望しそうなパフォーマーに連絡。
Daiと丸が参加することに。結構な人数が集まるらしい。
1時planBでプラコメの3月公演の打合せ。今回は最終公演なのに、出演者が少ない。春休みも始まるし、営業が入っている人が多いのかもしれない。
この打合せのあと、丸の方から、今後のプラコメについてDaiと一緒にリーダー格となって、これからどうするか話し合いの場をもちたいという提案をする。
率先して頭に立つタイプではないので、ちょっとびっくりしたのだが、今度のプラコメの前には、打合せの場ができるようだ。
どうなるのかちょっと楽しみ。
会社に戻ってクリューコフにもろもろの連絡事項をファックスで流す。その前にちょっと話したら、ちょうどこの頃はミキオから電話がこないと噂していたところだという。
今日は国際婦人デーで、祝日だという。よっちゃんとも少し話す。
6時学士会館で、K女史とI書店のH氏、そして昨年I書店を退社したN氏と待ち合わせ。
のびのびになっていたレザーノフの「日本滞在日記」を文庫にするあたって、橋渡しをしてくれたN氏にお礼をする会。
Kさんは、病院で今日一週間断酒を命じられたというので、あいさつだけして帰る。
3人で神保町の「出目魚」という飲み屋へ。
N氏が持ち込みで紹介して実現した企画は、この本だけだったということで、とても喜んでくれた。
8時ぐらいにN氏は帰る。H氏と10時ぐらいまで飲む。結局焼酎を2本空けた。
H氏は、5月にスイスに行くので、その際是非ディミトリーの劇場に行きたいという。去年見たマーシャの「リハーサル室」がとても気に入ったようだ。
こういうかたちで一人でもクラウンの芸に惹かれた人が現れるというのは、とてもうれしい。
11時すぎに帰宅。
カザフのローマに電話。ビデオは送ったという。
なんでもテントでサーカスを回すのは、秋からだということだ。

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2001年3月7日(水)

キグレサーカスのO社長より電話。今日ロシアの熊の調教師シャムシュールが到着するとのこと。
成田から直接熊と一緒に、郡山まで車で移動だというので、夕方には着くのではとのこと。
比較的順調だったようだ。シャムシュールにいろいろ頼んでいたことがあったのだが、果たして持ってきたのだろうか。
落ち着いたら電話が来るだろう。
昨日シルクドゥソレイユのオーディションを受けたDaiに電話。様子を聞いてみる。
自分ら以外には、大学の組体操の団体、三味線弾きの女性デュオ、マイム、アクロバットら6組ぐらいが参加したという。
体操チームとか、マーシャルアーツとか探しているというので、将来の作品で日本的なものをつかったのをつくるつもりなのかもしれない。
プラコメの名簿を整理、丸にファックスする。
3月のプラコメ情報をネットで流す。
チュルタギの契約書をつくってFAXで流すが、話し中でつながらない。
広島のマジシャンU君の事務所からFAX。5年前ドイツのフランクフルトのキャバレーシアター『タイガーパレス』で会って、そのカードを操る見事さにほれぼれしたのが、きっかけで、二本に戻ってからも何度か一緒に仕事をしようと思ったのだが、なかなか決まらずにいた。
夏休みのホテルの仕事で昨日打診していた。その返事。スケジュールは空いているとのこと。
今度はなんとか決めたいものだ。
L社のT氏より電話。獅子舞の話がぽしゃったとのこと。すぐに芸人さんに連絡。
不在だったが、留守電に入れておく。
7時半会社を出る。代々木で電車に乗ったとたんに、恵比寿で人身事故というアナンス。
30分待たされた。

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2001年3月8日(木)

昨日メールが見れなかったのだが、我が『デラシネ通信』デスク大野が、3月号をアップしてくれたよう。
大野はとても忙しそう。
今月の一冊と週刊デラシネを、大野にメールで送る。
カザフからやっとビデオが到着する。パスポートコピー、写真も同封されていた。
韓国の金氏に契約書をDHLで送付。
夕方野毛のフラスコへ。
チュルタギの全体的な予算のことをOさんと、綱の設置に関してN君と打合せ。
公園でやるので、下も掘れると思っていたのだが、掘らないでやりたいということで、ちょっと焦る。
結構これはたいへんなことになるかもしれない。とにかく韓国側の情報を集めることが先決。
シルクドゥソレイユのスカウトが、M氏と共に現れる。いろんなところ経由で、人材を探しているようだ。
玉三郎にもあったらしい。
携帯にキグレのO氏から電話。昨日着いたシャムシュールと話す。頼んでおいたロシアのロックグループ「キノー」と「DDT」のビデオを持ってきたという。
これは楽しみ。通訳として来日したナターシャとも話す。来週ぐらいには東京にくるのでその時会いましょうということに。
事務所に居合わせた大道芸のアートディレクターM氏の案内で、曙町にある焼きとりへ。
超うまい、安いということは前から聞いていたのだが、これがとんでもなかった。つくね、さびやき、ねぎとり、アスパラ、なんこつを食べたのだが、めちゃうま。
しかも一本150円。しかもここは焼酎がずらっとおいてある。四種類ぐらい飲んだが、最後に飲んだ白波の原酒が最高にうまかった。
とても幸せな気分で店を出ると、小雪がちらちら舞っていた。

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2001年3月9日(金)

午前中ミーティング。4月の野毛からゴールデンウィークまでのスケジュール調整。
いろいろ具体的になってきて、かなりタイトなスケジュールになることは間違いない。
それぞれいままで担当したものを誰かにまかせなくてはならなくなる。その引き継ぎをどうするかが問題になるだろう。
韓国にメール。綱渡りの設置方法について詳しく聞く。
Y社のT氏から電話。カザフのメンバーリストを提出してもらいたいとのこと。
夕方サーカス文化の会。今日は西田の報告でサーカス学校について。
学校をつくろうとしている村の対応が、もうひとつはっきりしないのが、辛いところだが、やるしかない、やりたいんだという決意は、てこでも動かない。
この執念が、固い巖に穴を開ける原動力になるはずだ。
帰りの電車のなかで、ロシア語の『知られざるハルビン』を読み終える。辞書も引かずに飛ばし読みだったが、20世紀初頭から戦後までハルビンという町が、ロシア文化の最良の部分を受け継いだところであったということはわかる。
いま調べようとしているベルチンスキイのハルビン公演についてや、神彰とも関係が深い長谷川濬が訳すことになる、バイコフなどについても詳しい記述があり、なかなか役に立ちそうだ。

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2001年3月12日(月)

全日空ホテルで10時からミーティング。T企画のS社長がプロデュースするスペシャル番組のために4月に来日するアメリカのマジシャンが打合せのために昨日来日。テレビ局のディレクターを交えての打合せがあるので、出席するように言われたもの。
ちゃんとした格好をしないとまずいかなと思って、いつもよりはきちんとしたジャケットを着たつもりだった。電車に乗っている時に、手帳を出そうと思って内ポケットに手を入れたら、夏物のジャケットを着ていたことに気づく。
間抜けな話である、それでなくても雪が舞う寒い日だったのに。
今回のミーティングのポイントは、このマジシャンの来日スケジュール。野毛の期間を外してくれたら、タイトなスケジュールでもなんとか乗り切れるという期待があった。
昨日見た夢では、来日が23日ということになっていたのだが、こういう都合のいい夢を見るときは、あまりうまくいかないことが多い。
10時に着いた時は、すでに会議は、テレビ局のディレクター、T企画のスタッフ、マジシャンが集まり、始まっていた。
話を聞いているうちに、夢は夢があることが判明する。21日に本番ということで動いていた。どうもこれはタレントの都合もあり、動かせそうもない。
前に聞いていたスケジュールから一週間前倒しで動くことになる。
会議自体は、番組でどんなネタをやるか、やってもらいたいかを中心に進められる。会議は2時半まで、続けられる。
疲れた。今回は、荷物の手配、ビザの手配、送迎などの裏方の仕事が担当なので、番組の内容について話に加わることができないし、じっと話を聞いているだけので余計疲れたのかもしれない。
ミーティングの終わりに、マジシャンとビザや荷物のことをちょっと説明。彼にとって必要なものを明日のミーティングに持ってくることを伝える。
今日から辻と西田は、リトルの内モンゴルサーカスの仕込で犬山へ。今週は大野とふたり。
会社に戻ると大野がキリキリ。テレビCFでパフォーマーを手配してもらいたいという話があったのだが、いろいろと訳のわからないことを言ってるらしい。
クリューコフからファックス。
ユネッサン組のビザが下りたという、一安心。
内モンゴルの一行は無事に関西空港に着いたという連絡。
カザフサーカスの名簿を作成して、Y社のT氏にFAXしてから帰社。

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2001年3月13日(火)

今日も寒い。
ディミトリーの劇場からFAX。H氏が5月にスイスに行くので、その際ディミトリー劇場を訪ねたいと言っていたので、スケジュールを聞いていた。H氏が予定している期間に、ばっちりディミトリーの公演がある。すぐにH氏に電話。喜んでいた。
午前中マジシャンに渡す、査証関係の書類をつくる。あいまを見て、カード会社のCF撮りのためのパフォーマーのビデオをつくる。
韓国からチュルタギの設置方法について図面がFAXされてくる。だいだいわかるのだが、いろいろ韓国語が書いてあるので、K女史に翻訳を依頼。
3時また全日空ホテルのミーティング会場へ。
11時から始まっていたので、そろそろ終わる頃だと思ったのだが、結局は、6時すぎまで会議は続いた。
二時間という枠の中でのことなので、メリハリを効かせた構成にすることが必要ということもあり、どのネタをつかうかでいろいろなアイディアが出されていた。
途中話の腰を折るわけにもいかず、最後まで付き合い、このあと、マジシャンに必要書類を渡し、カーゴのことについても説明する。
T企画のS社長と少し打合せ。事務的なこと、荷物やホテル、航空券の手配などもしなくてはならないが、とにかくいまは、番組の中身をどうするかで手一杯の状態だという。
こちら側も、スケジュールが前倒しになって、いろいろバッティングしているという事情を説明。とにかく仕事の割り振りや、スケジュールについてもう一度打合せをしようということになった。
会社に電話、この日は真っ直ぐ帰宅。

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2001年3月14日(水)

昨日は23時に寝て、朝久々にジョギングしたので、多少は気分転換になった。
午前中に、書類の整理や来たメールへの返事。
沢田豊を「日本人の足跡」という大型連載でとりあげる産経新聞の記者T氏が、ドイツ、スイスと取材を終えて帰国した。
記事は4月の掲載になるという。一頁の記事を5回書くのだから、たいへんな作業だと思う。どんな沢田像が生れるのか楽しみだ。
クラスノヤールスクのK女史からもメール。レザーノフフォンドと間にたっていろいろやってくれているのだが、その中のレザーノフの『コマンドール』の編者が、
ちょっと曲者のようだ。少し様子を見ながら付き合っていったほうがいいかもしれない。
午後テレビCMに推薦しているパフォーマーたのビデオを編集。
大野は、金曜日に出すビザの書類つくり。キャナル、野毛、フジのイタリア祭、アメリカのマジシャン、BPズームと、30人近く提出する書類があるという。
いかにこの4月中旬から5月まで、忙しくなるかを物語っている。
昨日来たチュルタギの綱の張り方についての解説の訳をKから教えてもらう。地面は掘らないと前に言ってきたが、彼らが持ってくるアンカー(鉄の棒)を地面に120センチ刺すことになるという。
ちょっと焦る。再度確認のメールを入れる。野毛にも図面をFAX。
リトルの方は、荷物が一日遅れるというトラブルがあったが、今日のテレビ撮りは無事に終わったとのこと。一安心。
なにかといらつくような仕事が重なったので、ガス抜きをすることにする。
20時で仕事を終え、大野と焼き肉屋へ。
今年は、BPズームを大阪でしか出来ないが、来年東京でするために、今年は後パブをきちんとやらねばという話になる。
24時ちかく帰宅。

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2001年3月15日(木)

クリューコフからファックスが入っていた。なんでもキエフで我々が泊まったホテルのすぐ近くにある建物に劇場をつくるという話が、舞い込んできたらしい。
いままでも国から劇場をやってみないかという話がいくつかあったらしいのだが、とんでもなく古い劇場ばかりで、その修理代だけでも膨大な金がかかるので、全部断わってきたのだが、今回は立地も建物も条件はかなりいいという。
今年キエフに行った時に、西田が、どんな小さいところでもいいから、クラウン劇場を一緒にキエフでつくろうと提案したこともあり、知らせてきた。一平方メートルあたり、五百ドルする、資金的な援助をしてもらえるだろうかということだ。
西田に報告。援助はもちろんするつもりだが、そんなに俺たちは金はないよと連絡してもらいたいとのこと。
またもうひとつの夢へ向けて第一歩。
野毛から電話。やはり120センチもの深さにアンカーを打ち込むのは、勘弁してもらいたいとのこと。なにか他に方法がないのか、打診してくれという。また問題発生だ。
とにかく韓国に連絡。
明日入管に提出する査証申請用の書類をつくるのに、大野はてんてこ舞い。足らない書類の手配などを手伝う。
午後ニフティーの調子がおかしくなる。そのためメールも打てなくなる。いらいら状態に拍車をかけてくれる。
7時渋谷のラブホテル街の一角にある、韓国料理屋で、Y社のT氏と映画監督のI氏と打合せ。去年9月にT氏と行ったカザフの珍道中をもとに、映画がつくれるのではないかという話になったらしい。
今日はI氏が所属している会社のプロデューサーも交えて、これが本当に映画になるのかどうか話し合う第一回目のミーティング。
I氏はかなり乗っているようで、原案もすでにできているようだ。
T氏とまたカザフの珍道中の思い出話でもりあがった。隣のテーブルでは、5月から公開される映画のキャンペーンのために来日していた
「ブラス!」の監督が、明日帰るというので、スタッフと打ち上げをしていた。
プロデューサーのR氏を紹介される。場所をかえて飲み直すことになったが、すでに23時を回っていたので、私はここで退散。
我々のカザフ珍道中をもとに果たして映画ができるかどうかわからないが、なったらなったでまたこれは面白い話だ。
帰宅してからクリューコフのところに電話。劇場つくりの件でナージャと話す。たしかにいい話のようだが、焦らないで、すぐに結論をださないように、よく条件を確かめるようアドバイスしておく。

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2001年3月16日(金)

今日マジャン、チュルタギ、キャナル、野毛に来る芸人の査証申請をするということで、午前中大野は、大忙し。きてない書類の催促、書類のチェックなどで半ばパニクッていた。
13時すぎに会社を出る。
それと入れ換えに、日本に来ているモスクワの通訳ナターシャがやって来る。
激ヤセしているのに驚く。なんでも15キロやせたという。
キグレに来ているシャムシュールからの預かりものということで、DDTとキノのビデオを貰う。
やっと念願のものが手に入った。
ナターシャには、今年の秋のカザフの通訳をやってもらう予定。
以前聞いていた超能力者についての情報を聞く。またペテルブルグにあるレザーノフの辞書のコピーを入手することを依頼。
結局大野は、夕方6時過ぎに会社に戻る。ヘトヘトの様子。
リトルの辻から電話。とりあえずゲネプロが無事に終わったとのこと。ちょっと長いということだった。
キエフのクリューコフに電話。アーティスト三名は無事にキエフを発ったということ。
8時グローブ座で「水と油」の公演を見る。
マイムをやっていた四名のユニットだが、なかなかいいものをもっている。
planBのS氏、この公演をみるように勧めてくれたダンス評論家のI氏、五人囃子のMと会う。
Sから、今日行われたプラコメリセットのミーティングの様子を聞く。
もう一度ミーティングを持つことになったらしい。
11時帰宅。

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2001年3月17日(土)

成田エクスプレフが満員だったので、横浜からリムジンバスで成田に向かう。
ターミナルに着いた時に、モスクワからの便がちょうど到着。30分ぐらいでワジム、ビータ、オーリャの3人がいくぶん緊張気味の顔で出てくる。
オーリャの左目が真っ赤、その下にはあざも。20日くらい前に練習中に、スティックを突き刺したという。
成田エクスプレスで新宿、新宿からロマンスカーで箱根湯本まで行く。
驚いたようすをあまり見せないようにはしているが、見るものすべてにびっくりたまげている感じ。ビータが去年トルコに巡業で行ったことがあるくらいで、あとのふたりは初めての外国。しかもワジムは今回初めて飛行機に乗ったくらいなのだ。
オーリャとビータの女の子2人は、だまりがちなのだが、ワジムは子どものようにはしゃぎまわり、いろんなつまらぬことを質問してくる。例えば日本人は何時くらいに起きて、何時に寝るとか・・・
日本時間でいうと、金曜日の真夜中0時にキエフを発って、今日の朝10時半に日本に到着するまで、ほとんど一睡もしてないという。疲れていることは間違いない。
箱根湯本の駅で、Y社のT氏が待っていてくれた。2台のタクシーに分乗して、ユッネサンに向かう。
3時すぎに、ホテルにチェックイン。部屋の使い方の説明をして、とにかく一休みしてもらう。
7時にイタリアレストランで、T氏とユネッサンのN氏をまじえ、歓迎会。
あいかわらずワジムがひとりがしゃべりまくり、女の子2人はおとなしい。疲れであろう。
T氏が日本の最初の印象はと聞くと、ワジムが、とにかくびっくりしている、別の世界に来たようだ、もしかしてこれは夢で、これから寝て起きたら、またキエフにいたりしてとちょっと緊張して答えていた。
素直な感想だろう。昼も食べていないので、腹は空いていると思うのだが、出された料理を3人とも食べきらずにいた。
とにかく寝てもらおうということで、9時前には部屋に戻ってもらう。
T氏とN氏は、施設のチェックがあるということで、ユネッサンに残る。
私は部屋に戻り、横になってサッカーの試合をウトウトしながら見る。
10時前にT氏たちも戻り、T氏の部屋で、二次会。
3人で行ったキエフの思い出話に花が咲く。
結構遅くまで飲んでいた。1時すぎに就寝。

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2001年3月18日(日)

6時半に目が覚める。ホテルの大浴場で朝湯。
8時に朝食会場に集合。食事のとりかたを説明。10時半にホテルを出発。
練習着に着替えてもらい、実際公演する場所でリハーサル。
ビータ、オーリャ、ワジムが、それぞれ最後の部分(さびのようなもの)を音と合わせてリハ。
持ってきたMDは、20分スルーで入っている。さびの部分の音だしに少し手間取る。
3人ともサビの部分を見せてくれたのだが、全体の流れがわからないので、通しでやってもらうようにする。
ワジムが一応リーダー役をしている。3人の中では年下の19才のビータが一番頭の回転が早く、のみ込みがいい。1才お姉さんのオーリャは、まだ慣れないせいもあるのかもしれないが、ちょっと気まぐれ屋さんだ。20才のワジムは一番子ども。
サーカスの芸人として仕込まれてきた3人にとって、20分公演するというのは、結構辛いものがあると思う。
そこが今回のポイントだと思う。
デビルスティックをするオーリャは、お客さんにやらせてみながら、アクロバットダンスを挟みながらの20分のショー。
ちょっと間延びしている感じがする。
マイムのワジムは、がんばって、マイム、ジャグリング、ダンス、アクロバットを中心にして、最後は子どもを誰か一人選んで、一緒にでんぐり返しをするのをさびに持ってきた。
そんな悪くはない。
一番しっかりショウをまとめてきたのは、ビータ。フラフープを最初に持ってきて、次にコントーションを演じ、途中でお客さんにフラフープをさせ、最後にもう一度本格的にフラフープを演じる構成になっていた。
見応えもあるし、一番拍手も多かった。
しかしひとつ問題発生。フラフープの演技中、ちょっととちって、フラフープを一本飛ばしてしまったのだが、これが危うく4階の柵を飛び越えそうになったのだ。あと数センチというところで大事にならなかったのだが、もう少しで柵を越えそうだった。越えてしまったら、下の3階のショップングセンターに落ちてしまう、ということで、ユネッサンのスタッフは大慌て。
客商売をしている以上、けが人がでるとか、ぶつかるとか、対お客さんに対しての事故が、パフォーマンスが原因でおこると、あとあとクレームの対象になる、これをなんとか避けたいということだ。
イベントの担当者として、N氏はいくらリハとはいえ、これを見てしまったので、かなり不安になったのだと思う。
リハ終了後、社員食堂で昼食。オーダーの仕方、精算の仕方を説明する。
彼らは、ここで昼と夜食事することになる。
T氏と打合せ。全体的に長すぎるのではないか、5〜6分カットするために、いま持ってきているMDを編集することが必要となる。
それをどうしようか策を練っていたのだが、N氏が、このままでいい、時間をカットするのは避けたいというので、一応このままでやることになった。
食事後楽屋を案内、二、三ダメだしをし、明日からは自分たちで音のオンオフはしなければならないので、PAの使い方を説明したあと、解散する。
ただここでまたひとつ問題発生。ワジムがショーで使う風船をひとつしか持ってきていないので、どこかで買いたいと言い出す。なんで一個だけなんだよ、風船なんて軽いんだからもっともってこいよという世界なのだが、
とにかく探さなくてはならない。
N氏とT氏と三人で、箱根界隈の店を捜し回る。結局は駄菓子屋さんのようなところで見つける。
これで時間が出来たので、いよいよはじめてのユネッサン体験をすることに。
水着ゾーンは、ひとりでいるのが辛い。昨日も少し話題になっていたのだが、アベック君たちが、えらい盛りあがっていて、暗いところで、抱き合ったりとか、ベタッとしていて、ちょっと目のやり場に困ってしまうのだ。
家族連れの客から、なんとかせいというクレームも入ってきたらしいが、さもなりなんと思う。
水着ゾーンは10分程で退散。森の湯という露天風呂コーナーに。これは天国。おじさんはやはり、裸になって、露天でお湯につかる、これが一番だ。
ここで1時間ほど、いろんな湯につかる。打たせ湯が気持ちよかった。出るとき、3人に会う。
言葉がわからないと結構面倒くさいのだが、この3人は、それをものともしない。自分たちでやろうという姿勢はなかなかいい。
ちょっと心配なのでしばらく様子をみていると、3人が水着姿で現れる。(外から中が見えるようになっている)衝撃は、ビーターの水着、ほとんどTパックのビキニ。あとでスタッフのなかで相当話題になっていたようだ。
7時半から、今日が最終公演、明日帰国するリビングスタチューの送別会にまぜてもらう。またイタリアン。
T氏もN氏もリーダー格のセルジュから、次の仕事もやりたいという強力な売り込みにいささか参っているようす。
途中から明日彼らを成田まで送りに行く、Y社のIさんも合流。気がきくし、パワーもあるし、英語でがんがんしゃべるし、頼りがいのある女性だった。
二次会はセルジュの部屋で、白ワインを飲み、彼のコンピューターで、新しいマネキンの作品やアイディアを見せてもらう。
40分ぐらいいたあと、セルジュたちとは別れて、T氏の部屋で三次会。
昨日のメンバーにIさんが加わる。
また結構飲んだ。N氏は途中で引き上げる。この時自分も帰ろうとしたら、T氏に引き止められる。
三日前一緒に会った、映画監督I氏とのミーティングの件で、また話は盛りあがる。
あの日は私が帰ったあとも、プロデューサー(T氏曰く、現在の日本ナンバーワンのプロデューサー、『月はどっちにでるの』で世に出たひと)と監督、T氏とかなり盛りあがって、とりあえず本を書かせようということになり、キャスティングについても突っ込んだ話になったらしい。
T氏はこの話にかなり乗っている。
でもおかしいよな。ふたりで行ったカザフの話をもとに、映画ができることになったら。
風呂にも長い時間入り、だいぶ飲んだので、結構酔っぱらってきた。Iさんは、おじさんふたりとはちがって若いし、相当タフなようだ。
私は12時すぎにT氏の部屋をあとにする。Iさんは、まだ残るようにいわれていた。T氏もIさんのことは相当期待しているようだ。
ちょっと腹がすいたので、下でカップラーメンを買いにいったら、セルジュが電話のところで、一生懸命インターネットをしていた。
今日もまたかなり飲んでしまった!
2時就寝。

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2001年3月19日(月)

8時起床。今日はかなりの二日酔い。風呂に入って、とても朝飯を食べれるような状態ではなかったので、食堂で冷水だけを飲む。
10時半ユネッサンへ。T氏も二日酔いでしんどそう。ふたりで簡単な準備。
11時5分前に先頭バッターのオーリャが登場。定時からショーを始める。
彼女が、モチネタが少ないので、一番大変だとは思うが、お客さんにデビルスティックをさせるあたりは、やっているお客さんも、回りで見ているお客さんにも受けていた。
表情もまだ固いし、お客さんにステックをさせるところは、まだ慣れてないが、まあまあの出来ではないだろうか。少し日本語をつかうようにダメダシ。
2番目のワジムの時は、ほとんどお客さんがおらず、お客さんを入れてやる部分がなくなり、彼自身パニクッてしまったようで、最後はめちゃくちゃ状態。
T氏とかなりきつめのダメダシ。
3番目のビータの演技前に、ユネッサン側から何度もフラフープが飛ばないように言われたので、それをビータに確認する。
最初の出だしで、身体を曲げたまま前転を何回もするのだが、そこでいきなり顎を強打したのを見て、ちょっと心配になる。血も出ず、本人もそのまま演技したので、大丈夫だとは思うのだが・・・
3人の中では一番お客さんの反応もいい。立ちどまって最後まで見るお客さんが結構いた。顎大丈夫と聞くと、こんなことはしょっちゅうだからと気にするそぶりもない。
N氏からは、お客さんにフラフープをさせる時には、腰と足をつかったものだけにしてもらいたいというダメダシ。手を上にあげて、そこで回すのは、飛ぶ可能性があるということだ。
ビータから水が欲しいというリクエストが出されたので、コンビニでミネラルを購入、楽屋に持っていく。これからは食堂の冷水を、空ボトルにいれて、自分たちで用意するように指示。
3人ともまずは、最初の公演を終えたということで、少しは安心したようだ。2人のお嬢さんたちも、ずいぶんと表情が柔らかくなった。
社員食堂で昼食。
3人は傷害保険に加入しているのだが、期間が長くなると、いろいろ条件があり、その中に、加入者が死亡したとき、保険金の受け取り人は血縁の人に限られ、なおかつ本人たちが「私が死亡したときは、血縁の誰それに渡してください」と自国語で書いて、サインした書類を添付しなければならない。
この書類を記入してもらう。「私が死亡したとき」という件に、かなり嫌な感じを持ったようだ。当たり前のことだ。
西田から連絡。これから箱根に向かうという。
20分公演して20分のインターバルで、また20分というローテションをつくったので、立ち会いが結構時間がなくて大変。
11時から始まって、最後は17時40分に終わる。
2回目のワジムの公演の時に西田が到着。2回目は、そこそこお客さんもいたので、お客さんを交えた演技ばうまくいった。T氏がジャグリングで失敗が多いことを指摘。手袋をしているためすべるというので、次回は取ってやるように指示。まだ緊張はしているようだが、だいぶ良くなってきた。
ワジムの公演がおわったところで、T氏は、大阪に戻る。
西田から韓国から来たチュルタギのアンカー設置の回答ファックスを見せてもらう。いずれにせよ、野毛のスタッフと現場を見ながら西田も交えて、打合せをしようということにする。
西田もオーリャの演技を見終わったところで帰る。実際に見て安心した様子。
3回目の時は、お客さんも少なかった。
3人ともかなりの運動量だと思う。20分の演技を3回するわけだから、ふだんの仕事とはえらい違いなはずだ。
3回目になると、かなり握力が弱まってくると思う。
ビータの演技を見ていたら、コントーションで身体を思い切りまげるところで、彼女が顔をしかめるのがわかる。
遠くで見ているといともかんたんに曲げているように見えるが、実際は相当痛いのではないだろうか。
とにもかくにも初日が無事終わる。楽屋へ行って、再度手直しの確認と、今度の休日の件、もろもろのことを伝えたうえ、
私の自宅、会社、携帯それぞれの電話番号を書いた名刺を渡しておく。
日常生活のレベルでは、それぞれ自分でやろうとしているので、あまり手はかからない。
ショーでは、結構お客さんとの絡みが多いので、そこでどうフレンドリーに、うまく慣れていくかが、一番のポイントになると思う。
それと、とにかくいまは初めての日本、というか海外での生活・仕事で緊張しているが、この先慣れてきたときに、どうなるか。いまは地を出す余裕さえないと思うが、地が出てきたときどうなのだろう。
それはちょっと気になるところ。
ユネッサンサイドからは、とにかく対人での怪我や、物を落としたりするなどの事故がないようにということが、一番気になる点であろう。
いずれにせよ、近々ビデオ撮影もしなくてはならないし、様子を見にくる必要はありそうだ。
事務所に寄って、挨拶をし、18時のバスに乗り、小田原まで。途中道が混んで、一時間ぐらいかかってしまった。
21時前に帰宅。

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2001年3月21日(水)

久しぶりに顔をそろえたので、午前中ミーティング。4月15日から5月8日までの間の各自のスケジュール調整。少しは全体が見えてきた。
リトルの方は、通訳が日本語ができないのが、大きな問題のよう。内容的には、全体的に時間が長いということをリトル側から指摘されているらしい。
チュルタギの設置については、金曜日現場を見ながら、野毛側と話し合いをすることにした。
今日はユネッサン組はオフ、N氏が小田原を案内することになっている。ただユネッサンから小田原まで自分たちでバスで行くようになっている。ちょっと心配になって、N氏の携帯に電話。
無事着いて、いまはデパートにいるという。一安心。
BPのワークショップの案内を、ネットで流す。
クリューコフに電話。とりあえず無事公演が始まったことを伝える。クリューコフの話だと、いまキエフのサーカス学校は、大変な騒ぎになっているらしい。
というのも、本当に三人の卒業生と在学生が日本に行ってしまったからだ。
クリューコフのところに、何故自分たちより技量が落ちるのが、日本に行ったのだ、俺たちも行かしてくれと言ってくる者がたくさんいるという。
まあそれだけ、直前でキャンセルになってしまうケースがたくさんあるということだろう。
今日はプラコメ最後の公演。
6時すぎにplanBに行くと、まだゲネの真っ最中。今日は最後なのに、出演者が少ないので、時間稼ぎをするために、古いネタをやったり、新しくネタをつくったり、大変なようだ。
お客さんの入りもまあまあ。
7人の出演者が、掛け持ちで出演して、なんとか1時間20分のショーにした。
やればできるではないか。
公演の中身も、懐かしいネタや、全員が出演するネタ、新しいネタが適度に織りまぜられ、いいテンポで進み、なかなか充実していた。
公演後ハンガーマンの音頭で、一本締め。
今日はバーに残るお客さんも、たくさんいたし、アンケートの回収も良かった。
10時すぎに、planBのS氏と、私が簡単なスピーチをして、乾杯。
また日をあらためて、みんなで集まり、打ち上げをやることにする。
なにはともあれ、ひとつのことが終わったわけだ。基本的には、新しく再開されるプラコメには、ぐっと引いたかたちで関わることになるだろう。あくまでも今日のようにメンバーが自主的に運営するのがいいと思う。
それとは別に、ここで出会ったパフォーマーたちとプラコメとはまた違うなにかをたち上げていきたいと思う。
11時前に引き上げる。

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2001年3月22日(木)

ユネッサンのN氏から電話。ウクライナ組の最初の休日は、デパートまわりと、小田原城見学で終わったという。一番喜んでいたのが、小田原城の池にいた鯉だという。まだこんな素朴な外人さんがいるのだ。
午前中サーカス文化の会の会報つくり。
午後かねてからの懸案のひとつ、山本光洋の外国へのプレゼン用のビデオの編集を、大野とする。
去年のフール祭に光洋ちゃんが出演したとき、これを見たノーラ・レイが、ロンドンのマイムフェスティバルに推薦してくれると言ってくれた。
もたもたしているうちに、今年の参加者が決まってしまい、来年提出してくれと言われた。
外国に資料を提出するときに、一番大事なのはビデオ。
光洋ちゃんのビデオは会社にたくさんあるのだが、外国に出すとなると、ある程度こちらでネタを吟味して、編集する必要が出てくる。
去年の二の舞はしたくないのだが、ついつい忙しさにかまけて手つかずにいた。大野に急かされて、一通りまずはどのネタを選ぶかを決める。
やはりセリフがないものが中心になる。
舞台監督のH氏が来社。去年12月モスクワに舞台の下見に行った時貸していた毛皮の帽子を返すのと、BPの舞台の打合せ。
18時会社を出て、光洋ちゃんも出演するダンスの公演を見るために草月ホールへ。
プラコメのメンバーの重森、アベックマンズ、村田君、マキちゃん、ななちゃんも会場にいた。「水と油」を勧めてくれた評論家のI先生の顔も。
いろんなジャンルで活躍する6人の男性のユニット公演なのだが、正直言って見るべきものはなかった。
光洋ちゃんが一番良かったと思う。かなり激しい動きのダンスもちゃんとこなしていたし、一番存在感があった。
帰り赤坂ラーメンに寄って、ラーメンを食べ、帰宅。

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2001年3月23日(金)

クリューコフからFAX。7月から来日するアーティストの契約に関する情報。
今度は少し早く査証の準備をしなくてはならない。
午前中サーカス文化の会の会報つくり。モスクワの新聞で、ニクーリンサーカスの総裁のインタビューが出ていたので、これを翻訳して掲載することに。
なかなか刺激的な発言が多い。
山本光洋のプロモーションビデオを大野が作成したものを、見る。20分ぐらいだが、なかなかいい出来であがったように思える。
小出が来社。6月に手塚、Kaja、神山とで公演をすることになっている。その宣伝のためプラコメのアンケートをとりに来たもの。
西田とチュルタギをやる現場を見に、野毛に。
福富西公園には、野毛のスタッフと公園のある吉田町の町会の会長さんが、待っていた。
電柱二本が、32メートルの距離で立っているので、それを利用できないかということなのだが、強度の問題でも、距離についても、チュルタギの方から言ってきている条件をほぼクリアーしている。
ちょっと安心。
フラスコに寄って、チュルタギについての打合せ。
そのあと万里に行く。FさんとNさんと飲む。
万里を出たあと、Nさんの案内で万里の隣にある立ち飲み屋で3人で軽く飲む。
帰りの電車で、「マン・オブ・ザ・ムーン」を読了。
面白かった。
帰宅すると、長崎の日ロ協会の松竹さん、クラスノヤールスクのKさんから手紙が来ていた。
レザーノフについても、まだまだいろいろな動きがある。一回まとめておこう。

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2001年3月26日(月)

朝10時久しぶりに皆そろっての打合せを済ませて、ビデオ、カメラを持って、箱根へ。
ひとつはユネッサンに出演しているアーティストの音源が、MD一枚しかないので、万が一のためにコピーをとりたかった。
それと来日して10日になるので、いまのうちに様子を見ておきたいということもある。
辻君も同行。
新宿発12時半のロマンスカーに乗る。春休みということもあって、箱根湯本の駅は人でごったがえしていた。
バスも電車もほぼ満杯。
2時すぎにユネッサンに到着。まずは楽屋に行く。3人ともぐったりという感じ。
オリガが、休み前で疲れもピークだと気だるそうに言う。確かに20分のショーを毎日3回というのは、かなりきついと思う。
ワジムのショーからビデオ撮影と写真撮影。ショーの合間に、MDのダビング。
お客さんとの絡み、特にワジムの場合は、子どもをつかってやるのだが、2回とも子どもに逃げられてしまい、本人も辛そう。
ビータの演技は、ずいぶんと反応もあり、いい感じ。オリガもデビルスティックの挑戦コーナーになかなかお客さんが乗って来ないので、やりずらそうだった。
6時半によし鳥を予約してもらう。それまで3人と外でいろいろ話をする。
ワジムは、来たときからわりと地をだしていたが、ビータとオリガは緊張していて、少し構えるところもあったのだが、ずいぶんとリラックスして、話してくれるようになった。慣れてきたのだろう。
N氏とK氏も交え、よし鳥で食事。前回はイタ飯屋で、アルコール類は全然飲まなかったのだが、今日は3人ともビールやワインを飲む。
アルコールも入り、自分たちからいろんなことを言いはじめ、2人の女の子たちもケラケラと良く笑って、楽しい食事になった。
3人ともサーカスファミリーの出身ではなく、子どもの頃からサーカスが好きで、学校に入ったという。ワジムとオリガは去年卒業しているが、ビータはもう一年残っている。卒業したらどうしたらいいの、まだわからないと言っていた。
やはり10日間仕事をして、お客さんとのやりとりがとてもしんどうそうなことがわかる。お客さんがのってきてくれば、こんなに疲れを感じることはないのだけどというので、ステージでやるのと、ここでやるのとはまったくちがうことであり、悪いけど、お前たちのショーを見に客はきていない。
あくまでもお風呂に入りにきて、そこでたまたまパフォーマンスを見ている。ただこれはユネッサン側のねらいもあるのだけど、お風呂を入りにきて、パフォーマンスも見られた、得した感じになり、口コミで効果があげられる。
いままでとはまったく違う体験だと思うが、絶対なにかのプラスになるはずだから、がんばれと言っておく。
別れ際に、今度はいつ来るんだとかなりせつなそうな顔でみんな聞いてくる。本来ならば箱根は遠いし、行くとなると半日がかりになるのだが、ガス抜きに二週間に一回ぐらいのペースで顔を出したほうがいいかもしれない。
小田原までタクシー、東海道線と京浜東北線をつかって23時頃帰宅。
うれしいことに阿久根さんの最新作『逆立ちする子どもたち』が届いていた。
図版もたくさんあり、活字も読みやすくいい仕上がりになっている。阿久根さんの執念が実ったわけだ、自分のことのように嬉しい。

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2001年3月27日(火)

一日中めずらしくデスクワーク。
たまっていた書類の整理やメールの返事に明け暮れる。
この期間にいろいろやっておかないとあとあとが大変。
夕方クリューコフに電話。タミラとの共同作業のキエフ公演のスケジュールを聞く。5月25日が初演らしい。その前にどこか地方都市で公演をして、ダメ出しをして直すつもりらしい。
サンケイ新聞奈良支局のT氏より電話。沢田の原稿を書いている真っ最中で、もういちど話を聞きたいという。
楽しみだな。どんな記事ができるの。明後日会うことにする。
7時には帰社。

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2001年3月29日(木)

韓国からメール。前回野毛で打合せしたなかで、でてきたいくつかの問題点についての回答。
セリフについては、ある程度簡単な日本語をまじえながら、短いセリフにして、あとはマイムなどで対応するつもりのようだ。
基本的な台本についてはあとで送ってくれるとのこと。
M社のY氏より電話。ラスベガスのマジシャンの荷物の見積について。
17時半横浜の東急ホテルで、産経新聞のT記者と会う。沢田豊の連載記事は、ほぼ出来上がっているとのこと。
現在の世界のサーカスをめぐる状況についてのインタビューを受ける。
19時パフォーマーの三雲と落ち合い、近くの居酒屋に。
しばらく彼とはゆっくり飲むということもなかったので、近況を含め、プラコメの閉店、今後の展開について意見交換。
プラコメが別なかたちで存続させていくことは、新人たちに活動の場を与えるという意味で大事なことであろうというのが三雲の意見。
私の方からは、プラコメでやっていたものをワンランク、バージョンアップしたかたちで、バラエティーショーをやりたい、一緒にやらないという提案をする。
途中から産経新聞のT記者も加わる。
秋ぐらいの公演をめざして、バラエテーショーをとにかくつくろうということになった。
ひとつは3年間プラコメをやってきて、せっかく見に来てくれたお客さんを、これを起点に増やしていかなければならないということ、もうひとつは、大道芸ではない、ステージもののバラエティーショーを真剣に日本でもつくっていこうということだ。
プラコメの閉店から、ずっと考えていたことにひとつ方向が見えてきたような気がする。
今度はかなり入れ込んでやらなければならない。
ふと時計を見たら、12時を回っていた。三雲は最終がなくなるということで、急いで駅に。
T記者と一緒に京急に乗る。
4月の二週目ごろには、記事が掲載されるという。楽しみだ。

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2001年3月30日(金)

出勤途中の電車で「プリンス近衛殺人事件」を読み終える。満州で抑留された近衛首相の弟が、スターリンをはじめとするソ連共産党の思惑に振り回され、ソ連各地の収容所を転々とさせられたあげく、最後は日ソ平和条約締結のあと殺されてしまう(作者の説)までのドキュメント。
作者は週刊誌の元編集長だったロシア人。未公開の取調べ記録を丹念に追った力作。
ユネッサンの次のパフォーマーたちの契約書でもつくろうかと、準備していると、4月15日来日するマスクマン(ネタばらしを得意とするマジシャン)の件で、責任者のT社のS社長から電話。
明日からアメリカに行くので、その前に会いたいという。
すぐにT社へ向かう。
海外から自分たちが呼んで、自分たちで公演するのは、何度もやっているので、要領はわかっているのだが、今回のようにあるパーツを委託で任されるのは、あまりないことなので、ちょっと要領が呑み込めていない。
S社長にいろいろ指摘されて、答えに困ることが度々あった。
とにかくS社長の下で動いているスタッフの人たちと連絡をとって、迎え入れ体制を整えなければならない。
神楽坂まで来たので、久しく会っていない週刊新潮のT氏に電話。顔だけだして、ご無沙汰のご挨拶。
お互い仕事が一段落したあと、5月8日以降に一杯やることにする。
会社に戻ると、舞台監督のH氏が待っていた。モスクワのこまつ座公演の字幕のことで困っているらしい。
モスクワソニーのA氏に、メールを出すことにする。
マスクマンのことで、段々気が重くなってきた。
18時すぎに会社を出る。

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