クマのお仕事日誌
2001年6月分


2001年6月1日(金)

6時に起床。大浴場でひと風呂浴びる。隣の部屋の目覚ましがずっと鳴りぱなし。
7時ちょっと過ぎに、オリガを乗せてタクシーでホテル出発。ワジム、ビータとの別れは、簡単なもの。あと一カ月すれば会えるわけだから、当然かもしれない。
N氏が小田原から乗る新幹線が、7時46分と言ったらタクシーの運チャンが、じゃ林道を行きましょうと行って、いつもの国道一号線ではない道に入る。これがなかなか凄いカーブの連続。7時40分に小田原着。N氏が改札のところで待っていてくれた。
オリガがN氏の顔を見たらにっこり。
車中N氏からオリガに簪のプレゼント。喜んでいた。
東京駅で、N氏と別れたあと、西田が見送りにきてくれる。
10時成田着。アエロフロートのカウンターは珍しく超満員。30分ぐらいチェックインに時間がかかる。
このあとレストランで食事をとって、オリガを見送る。やはりひとりということで、緊張した面持ち。
会社に連絡を入れ、京成のスカイライナーで上野を経由して会社へ戻る。
ウクライナ組の7月からのアーティストの事前審査終了証が届いていたので、今日キエフに書類を送れるように、大急ぎで大使館に出す資料を作成。17時に発送。
新潮社のK氏から電話。『シベリア漂流』一〇冊頼んでいたのだが、在庫がほとんどなくなったという。やはり売れなくて断裁処分になっていたらしい。
これで自分が書いた単行本で書店で入手できるのは、なくなってしまったことになる。悲しいことだが、しようがない。
19時会社をひきあげ、20時半に自宅着。
外交史料館で二回目の旅券を調べてきた奥さんから、調査結果を聞く。
やはり見当たらないという。いろいろ話をしているうちに、1905年以降で調べているが、もしかしたらそれ以前にロシアに渡った可能性があるのではないかということになる。
ヤマダグループは、現地(ロシア)で結成されたとも考えられる。とりあえず、1912年までの記録を調べてなかったら、もっと時代を遡り調べてもらうことにした。
ヤマサキの名前はなくても、ヤマネの名前はあるはずだ。それを手がかりにすることができるかもしれない。
袋小路からちょっと抜け道を見いだしたような感じ。
ERを見たあと、バーボンを飲みながら、ヤマサキを追う手がかりをいろいろ考えてみる。だいぶ深酒してしまった。

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2001年6月4日(月)

朝少し早めに出勤。大野デスクにメールで『デラシネ』の原稿を送る。
大分のE氏に大道芸のパフォーマーのプロフィールを送付。
11時会社を出る。12時45分発の北九州行きの飛行機に乗る。ほとんど寝ているうちに空港に到着。
バスで小倉へ出る。北九州に来るのは久しぶり。小倉の駅もずいぶんと様変わりしている。
ミミクリーチと一緒に、「わっしょい百万」の夏祭の時きて以来だと思う。5〜6年ぶりになるのだろうか。
駅前のホテルにチェックイン。ラーメンを食べたあと、駅をプラプラする。
鹿児島線に乗り、スペースワールド前で下車。YのT氏も同じ電車に乗っていた。改札のところで福岡支社のN氏と落ち合い、博覧祭事務局へ。
たしか7月4日からオープンなはずだが、工事もまだだいぶ残っているようだし、作業もアップテンポという感じではない。
余計なことだが、間に合うのだろうか。
催事課の人たちと名刺交換。今日の来訪の目的は、カザフサーカスのメンバー変更に関しての説明と、代替え案を提出すること。
代替えのビデオも見てもらい、内容的にも問題ないし、すでに告知している部分でも問題がないことになる。ほっと一安心。
ここでもベリーダンスのエンマは大人気なのには笑ってしまった。
サーカス会場を見学。まだ出来ていないが、かなり大きなスペース。T氏が、いいステージだし、いいサーカスショーをやりたいなあとぽつり。
まったくその通り。これだけ広いステージだから、見せ方を考えて、いいショーを見てもらいたい。
N氏と駅で別れ、T氏と小倉に戻る。大阪行きののぞみまで小一時間あったので、とりあえずビールでもということになる。
駅ビルの地下の小倉食堂へ。これがなかなかのすぐれもの。屋台風にいろんな店が並び、好きなものをめいめいの屋台で選んで食べ、飲むことができる。
しかも代金前払いなのだが、この時ポケットベルのようなものが渡される。準備ができると、これが鳴るシステム。
大型スクリーンでは、日本対ブラジルの試合が映し出されている。そこにどっかと構えて、ビールを飲んでいると、T氏が、これはやはりみなあかんと言い、一本のぞみを遅らせることにする。
ビールを二杯、日本酒を三合飲むながら、日本に声援をおくる。なかなかいい試合だった。
試合が終わったところで、T氏は新幹線に乗り込むのを見送る。
ホテルに戻り、テレビを見ながら横になっているうちに、就寝。

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2001年6月5日(火)

朝6時20分目覚ましの音で目を覚ます。シャワーを浴びて、身支度。
テレビを見ていたら、昨日から南九州は梅雨入りし、今日にも九州北部も梅雨に入るだろうという。7時前にチェックアウト。
バスで空港まで。飛行機はほぼ満杯のようす。機内ではほとんど寝るのみ。
11時会社に到着。
I監督からメール。映画の箱書きだった。デスクの大野からのメールで、今日『デラシネ通信』6月号がアップされたことを知る。
早速開く。今回はなんといってもとアンケートが楽しみ。いまのところ一件の回答。また楽しみが増えた。
日本ユーラシア協会のN氏から電話。若宮丸研究会のたち上げについて、『日本とユーラシア』に原稿を書いて欲しいとのこと。
なんでも大阪でデンベエの研究会が立ち上がり、地元の商店街などもバックアップしているとのこと。
いいことだ。ただ今日現在、若宮丸研究会に参加したいという人はゼロ。
一方通行で、ひとりよがりに終わっている傾向があるのかもしれない。
今日中に提出しなければならない資料があり、そのためにパフォーマーの人たちと大急ぎ連絡をとる。
旅行会社から、韓国とカザフの航空運賃の見積と日程表が送られてくる。いずれも夏休みにかかっているので、早く処理しなければならない。
やらなくはならないことはたくさんあるのだ。
19時会社を出て、渋谷の焼き肉屋。映画の件で、制作会社のL氏、Iさん、監督のI氏とミーティング。
監督が書いた箱書きをもとに、どういう内容にするのかについて、フランクな感じで話し合いが行われる。
なんとかいい映画にしたい。
2時まで飲む。家には戻れないので、タクシーで会社へ。久しぶりに会社でごろ寝。
寝る前に『デラシネ通信』アンケートの欄をチェックしたら、回答は一件のままだった。
トホホホ。

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2001年6月6日(水)

8時に目が覚める。やはり床に直接寝ていたので身体の節々が痛い。今度から山で使っていたエアーマットを持ってきておいた方がいいかもしれん。
9時に西田が出社。内モンゴルサーカス団は無事に帰国したわけだが、やはりエクセスでたいへんだったらしい。
午前中ミーティング。6月から夏休みまでのそれぞれの仕事の確認。
9月までは結構、キツキツで仕事が入っている。特に8月後半から、カザフの北九州が始まる9月あたまが目一杯という感じだ。
会社的にも、リトルもあるし、かなりバタバタするだろう。
頭が働かないのだが、今日はデスクワークに専念。
8月の大分の見積を作成。計算していくと、結構やばい感じだ。どこで帳尻をあわせるか、そこが問題だろう。
韓国にもメールを流しておく。
サーカス文化の会の会報をつくる。
大体原稿ができたところで、今日はもう限界。18時すぎに帰る。
途中携帯に公衆電話から電話が入ったようす。公衆電話というと、箱根以外に考えられない。
案の上、家にもワジムから電話があったらしい。
また病気じゃないだろうな、とちょっと気になる。

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2001年6月7日(木)

朝刊を読んでいたら、玉三郎が途中で放り投げ出し、話題になった横浜のドームシアターが、16万という廉価で貸し出すことになったという記事を見つける。
安い。切り抜いておく。
午前中サーカス文化の会会報を仕上げて、コピーをとる。
昨日チェコから来たビデオを見る。8つぐらいのグループのアクトが収められていたが、どれもなかなかいい。
特にローラーバランスは絶品。大野がすぐにチェコのエージェントにメールを出して、スケジュールを確認する。
前の会社にいた時に世話になった博報堂のSさんからファックス。東ドイツサーカスの時、とても世話になり、会社をやめたあとも何度か相談にのってくれた長野さん逝去の知らせだった。
5〜6年前に会ったのが最後だったが、ずいぶんと痩せていて、身体の調子が悪いといっていたのが、気になっていたのだが。
享年60才、若すぎる。
小樽の8月以降の企画資料をまとめ、見積もつくり、送付。
4時ぐらいにあたりが真っ暗になる。すごい夕立。
5時半会社を出たときは、少し雨足も弱まったので、傘を持たず。しかし途中でまたすごい降りに。駅まで歩くことを諦め、バスで渋谷まで。
東横線で、野毛の常連さんOさんに会う。これから一千代に行くという。
桜木町に着いた時、さらに凄い雨。
いくら地下道があると言っても、とてもじゃないが、この雨ではずぶ濡れになる。駅で落ち合ったU氏が傘を持っていたので、入れてもらい万里まで。
I書店のH氏がすでに来ていた。すぐに福田さんもやってきて、また馬鹿話。
H氏は5月末スイスのディミトリー劇場に行って帰ってきたばかり。ディミトリーの『テアトロ』を見て、公演後にディミトリーと少し話ができたと、大喜び。
なによりも劇場のある、ベルシオがとても気に入った様子。
万里を出て、もう一軒ということで、一千代へ。O氏の他にも、S氏など顔なじみがいた。
S氏からドームシアターをたち上げた人が一緒にいるから、紹介するよと言われる。
名刺を交換、来週早速劇場を見に行くことにする。何かの縁があるのかもしれない。
12時すぎに帰宅。

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2001年6月8日(金)

韓国のユー君からファックス。また翻訳を頼む。できたらメールで日本語でもらった方がありがたいのだが。
真剣に韓国語を勉強することを考える。
ユー君たちは、来年予定している三十八度線での国際綱渡り大会の準備で忙しいらしい。手紙の感じでは、かなり実現性がでてきたらしい。
是非この企画には参画したい。ユー君も、協力をしてくれと手紙で書いていた。
夏の仕事についての確認。航空券は、どうも韓国で購入した方が安く入手できそうだ。
もう一度見積を直して、T社のS氏にファックスを流す。
小樽のクライアントとパフォーマー向けの契約書を作成、それぞれ送付する。
午後はカザフの契約書をロシア語で作成、この前ローマに言われた電報局にファックスを流す。
ワジムから電話。もう一度東京を見物したいと言う。7月に帰る前に、横浜でも案内しようかと思ったのだが、来週火曜日ぐらいしか時間がとれそうもないので、東京見物に付き合うことにする。
また来週も何かといろいろあるような感じ。
今日はパソコンを持って帰宅。

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2001年6月11日(月)

出勤前に病院に寄り、恒例の糖尿検査。ここ数日で三キロ体重が増えている。どんな結果がでるか?
午前中ミーティング。
ワジムから電話。明日11時に小田原駅で待ち合わせることにする。
横浜ドームシアターの件で、県のS氏とアポ。明後日午前中に見に行くことにする。
18時会社を出て、目白へ。
小出、手塚、カジャ、神山の四人によるショーを見に行く。
会場前は行列。客のほとんどは知った顔ばかり。120席ほどの客席は超満員。
この4人の顔ぶれだ、当然だろう。
隣に座っていたブーリイ・ウーリーの関さんがむせるように笑っていた。
よく練ってつくった作品だとは思うが、内輪で楽しくやってるなあという感じで、
もう少し突っ込んでもらいたいような気がした。
22時半帰宅。
札幌の工藤先生とドイツのタキエさんから手紙。
来週北海道に行くので、その時に神彰の取材をしたいと思っていた。快く応じてくれた。
タキエさんには産経に載った田伏氏の沢田の記事コピーを送っていた。そのお礼と、最近の近況について。写真も同封されていた。
いつもながら元気そうで安心する。
カザフのローマに電話。金曜日送ったファックスを見たかどうかの確認。
ちょっと心配していたオリガとオクサナも昨日カザフに戻り、今日から練習を一緒にするという。
契約書にそって、確認。出演者も決まり、いよいよだ。
ローマは少し酒を飲みはじめたが、ウォッカはまだという。日本でお前と会ったときに飲むぞと言っていた。

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2001年6月12日(火)

11時前に小田原駅に着く。ワジムとビータと会って、東海道線で東京へ。
先週一週間は、仕事がきつくてしようがなかったという。しかしふたりともよく笑う。
仲のいい兄妹のようだ。
今日のふたりの目的は、家族、友人、先生へのお土産を買うこと。ワジムはリストまで作ってあった。
まずは秋葉原へ。一軒目に入った免税店のインド人の店員が、ロシア語を話すのにびっくり。
キエフに三年いたという。ワジムもビータもびっくりしていた。
腹が空いたので、この前も入ったステーキレストランでランチ。
落ち着いたところで、ラオックスで本格的に買い物がはじまる。それはまさに真剣勝負だった。
浴衣、団扇、アクセサリーなどを買ったあと、ビータが、CDウォークマンと、ビデオデッキを購入。
たぶん2時間以上はいたと思う。
とにかく彼らは必死の形相で買い物に走っていた。あらかた済んで、近くの喫茶店で休憩。
私も疲れたが、彼らもたいへんだったろう。
アメ横へ移動。その前に夜N氏と会うということで、なにかお世話になったお礼をということで、ネクタイ選び。
いいことである。
今日は買い物の他に、ビデオ撮影も入っている。雑踏の中で、買い物と撮影だからたいへんだ。
ワジムは海苔を購入。出口にさしかかったところで、ビータが妹に何も買ってないと、カバン屋ポーチを探し始める。
一緒に付きあっていたワジムが、スーツケースを見ているうちに欲しくなってくる。
ワジムがビータに相談、どうする、買った方がいいかなと聞くワジムにビータは、欲しければ買えばいいじゃないと答える。
結局買うことに。いやはやすごい買い物デーになった。
新橋に移動。居酒屋に入る。しばらくしてN氏も合流。ネクタイをプレゼントされ、うれしそう。
ふたりは出てくる料理を次々にビデオ撮影。
おそらくふたりと付き合えるのは、これが最後になるだろうが、楽しい一夜だった。
帰りは超満員の東海道線。新幹線通勤をしているN氏も乗ってくれ、小田原まで連れていってぐれることに。
横浜で別れる。

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2001年6月13日(水)

9時半関内で西田と辻と待ち合わせ。県庁へ行って先日野毛で知り合ったSさんと会ったのち、近くのドームシアターへ。
外見はまるでサーカステント。実際中を見せてもらって、これが芝居やコンサートをする小屋ではなく、サーカスをするためにつくられたドームシアターであることがわかる。
ステージの大きさ、客席の大きさは問題ないのだが、下手側に袖がないこと、空中ものをする時文字を外す必要があることなどがあるが、サーカスをやるのにはもってこいの小屋であることは間違いない。
しかしそれにしてもやはり騒音はすごい。テント自体が騒音を吸収してしまうようだ。
しかも外の道路は24時間トラックが走る国道。やれるものはかなり限定されるのではないだろうか。
県庁に戻って、アイスコーヒーをごちそうになる。
桜木町から東横線で、渋谷に出て、そのままplanBへ。来週立ち上がるカバBのネタ見せ。だが、ネタを完璧に用意してきたのは、マキちゃんぐらい。
一応ひとつひとつの演し物の内容を見て、順番を決めていく。そしてオープニングについても、いろいろアイディアが出され、その打合せをする。
来週小樽に行く、ヤマちゃんと重森と打合せ。どんなネタをやるのかを決める。
ふたりともこの仕事を面白がって、やる気になっているのはうれしい。
5時planBを出て、バスで渋谷へ。
渋谷の飲み屋で、私の本を二冊だしてくれた元平凡社の編集をしていたT氏と会う。
いまは編集の仕事から足を洗っているのだが、フリーの立場で続けて行きたいという。
とてもいいことだと思う。優秀な編集者だったのにもったいないとずっと思っていた。
とりあえず、神彰のことを本にすべく動いてくれることになる。その時についでに、一緒に出した『海を渡ったサーカス芸人』の文庫化の話もすすめることになる。
いままで出した単行本が四冊とも絶版になってしまったことを知って、ちょっとショックを受けていたばかりだったので、なんか目の前に道が開けた感じになる。
二週間後にまた会うことにして、9時すぎに別れる。

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2001年6月14日(木)

本格的な梅雨模様。雨の中の出勤はいやになる。
といっても最近また太り気味なので、一駅分歩く。
来週はほとんど会社にいないので、たまっている仕事をやっつけなければならない。
小樽の公演について内容のメモ、8月10月分の出演者をどうするかをメールで出す。
いくつか企画を出してもらいたいという要請が来ているので、みんなに企画をだしてもらうにする。
午後モスクワ公演を終えたこまつ座の制作のT氏がお土産を持って来社。
いろいろ制作面や、舞台のことでたいへんなことはあったようだが、とりあえずはお客さんもほぼ満員の入りで、評判もよかったとのこと。
なによりである。T氏もいままでとはちがい、ずいぶんと落ち着いた様子。ほっとしたのだろう。
夏のホテルでの仕事の件で、出演者のスケジュール調整。これも来週ぐらいには決めたい。
6時すぎにあがる。

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2001年6月15日(金)

今日も雨模様。梅雨だからしようがないのだろうが、なんとなく気が重い日が続く。
来週には査証申請ができるように、ほぼ全日つかってカザフサーカスのメンバーの書類をつくる。
今回の申請は、全部で18人。これだけの人数だと結構書類つくりが大変だ。
小樽からメール。8月分に関してはこちら側の提案をのんでもらうことになった。
査証の書類つくりがおわったところで、来週土曜日にある市民学会『ロシアとの共生』の時に配布する資料を作成。
夏のホテルの仕事のパフォーマーのスケジュール調整。一応案をつくってパフォーマーの人たちに提案しておく。
7時前に帰社。

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2001年6月18日(月)

朝出勤前に、病院へよって先週受けた糖尿の結果を聞く。血糖値とコレストロールは前回とほぼ同じ。
結構運動はしているはずなのだが、まだまだ節制しなければならないということだろう。
そのあと区民サービスセンターに行って、住民票をもらい、会社へ。
ネットがつながらないので、いろいろ調査すると、昨日からマイラインサービスがはじまり、設定をかえる必要がでてきたとのこと。
サービスに加入する前は、さんざんセールスの電話をよこしたくせに、こうした肝心なことは、こちらから問い合わせないと答えてくれないというNTTのやり方にムッとする。
カザフ査証申請用の芸歴書の翻訳を終わらせる。
キエフのサーカス学校の先生に電話。先日帰国した娘のオリガはまだ入院しているという話を聞いてびっくり。
7月1日ワジムとビータの帰国のアテンドは辻君にやってもらうことになった。アエロフロートにフライトの時間を聞くと、その便はキャンセルになって、別な便に乗ってもらうようになったという。
出発時間が遅れるのは、こちらサイドではいいことなのだが、こちらから電話しなければ、どうするんだろう。早起きして空港まで行って、すいませんもっとあとの便になりましたと済ませようというのだろうか。
これも変だと思う。
夕方西荻の焼き肉屋で、Mさんと食事。会って話すのは久しぶり。だいぶ苦労しているようだ。
まもなくいま書いている原稿が脱稿とのこと。できあがりが楽しみ。
23時すぎに帰宅。

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2001年6月19日(火)

午前中カザフの査証書類の準備と確認。午後大野が入管に提出してくれた。
横浜に出す来年の企画書の作成。大分のパフォーマーの航空券の手配の確認。
夏のホテルのマジシャンのスケジュールの調整など、細かい手配がいろいろあった。
久しぶりに弟に電話。仕事を探すのがたいへんらしい。
大野からパフォーマーのひとりから昨日深夜に携帯に電話があり、なぜACCがマスクマジャンの仕事に協力したのか、抗議してきたという。
あんなネタばらしをするようなマジシャンは最低だという。それに協力するのは、いままでのACCの仕事を全部ダメにすることにもつながるというのだ。
聞き伝てならない話である。このパフォーマーとは一回きちんと会って話をする必要がある。
以前A氏より教えてもらったマスクマジシャンとネタばらしをめぐって意見交換しているサイトを開いてみる。
かなり大きな問題としてとりあげられているようだ。
マスクマジシャンは、いい奴だなどと牧歌的なことを言っている場合ではないようだ。
自分なりのきちんとしたスタンスを決めなくてはならないと思う。
午後早稲田で授業。今回は大きな教室で、スクリーンも大きいので、ビデオを見せるにはもってこい。
久しぶりだったので、時間の配分がよくつかめなかった。それでもまあ落ち着いて話せたと思う。
会社に戻り、書類の整理。
東京のある劇場から、秋に公演を予定しているレ・クザンのスケジュールの件で電話が入る。
基本的には無理なのだが、なんとかならないかということだ。東京ではやりたいと思っていたところなので、いい話なのだが、そのためには、決まっている会場を移す必要がある。それはそれで大変な労力がいるし、果たして可能かどうかもわからない。
7時すぎに会社を出る。
家に戻って夕刊を見ていたら、明日乗る予定の全日空が全日ストの予定とあった。
冗談じゃないよ、まったく。

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2001年6月20日(水)

全国的に大雨のようだ。全日空に電話。ストは回避されたという。一安心。
9時すぎに羽田到着。重森、ヤマちゃんと合流。チケットを買うのがいろいろトラブルがあり、大変だった。結局10時ぎりぎりに搭乗。
梅雨前線のため、40分ぐらいは結構揺れていた。
電車に乗って小樽へ移動中に、ビータから電話が入る。秋葉原でワジムが買っていた団扇のセットを買ってくれとのこと。
ハイハイ。
クザンの件で、また東京の劇場から電話。再度スケジュール変更の件でのお願いだった。
調整に入ろうと思う。
電車の中でマスクマジシャンの件に関するサイトをプリントアウトしたものを読む。たしかに彼のことを弁護するには、相当な覚悟もいるし、彼が圧倒的に不利なところにいるのは間違いない。
でも彼のことが気になる。いい奴だったし、なにか彼自身の中で、こんな状況を生み出すのを覚悟してやったことがあると思うのだ。
13時すぎに小樽到着。1年ぶり。
しかし寒い。ヤマちゃんは半袖しかもってきてないという。どんよりとした曇り空。北海道は梅雨がないというのに。完璧に梅雨モードだ。
リハ会場を案内してもらい、昼飯を食べる。うにとじそば、なかなか美味かった。
16時現場見学。ステージが結構小さい。でもなかなかいい雰囲気のビアホールだ。
市川のカーニバルプラザのことを思い出す。
17時からバンドさんとのリハ。最初にいまやっている曲を一通り聞かせてもらう。ヤマちゃんが音に合わせて、ジャグリングをやってみる。結構マッチする曲がある。
終わってから、どこで入るかの打合せ。バンドさんたちからもいろいろアイディアが出される。絡みの部分をリハ。
なかなかいい感じだ。お互いにアイディアが膨らんでくるのがわかる。
20時すぎにからみの部分のリハは終了。なんと今日今回の話も持ち込んできてくれたI氏の初めてのお子さんが生れる。男の子だという。なんとかリハの合間をぬって出産には立ち会えたようだ。
いったんホテルに戻り、近くの居酒屋で食事。ツブ貝の刺身、なまこの刺身が逸品だった。
クザンの件で、M氏より電話。一応ダメもとでスケジュールの変更を打診した方がいいということになる。
Fから電話。猫サーカスなかなか大変なようだ。ウルルンの放映のあとかなり売れると踏んでいたのが、あまり動いてないということでかなりあせっている様子。

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2001年6月21日(木)

9時起床。ジョギングの準備をしてきたのだが、走る気おこらず。荷物をチェックしていたら、なんと着替えとかジョギングの着替えとか、山のように持ってきた荷物の中に、替えパンツがないことに気づく。
なんというオバカ。笑ってしまう。
クザンの件で、スケジュール変更の話をすでに決まっている会場にすることに。
慎重さを要する問題だ。
丁寧に、あくまでもお願いというよりは、可能かどうか問い合わせるかたちでまず話してみる。
いろいろ話をしているうちに、変更ではなく今回は見送りということにすれば、東京でできるのでは、ということになる。
このあたりは、ざっくばらんにお互い話す。結論ではないが、その方向で検討してもらうことにする。
両方ともできるのが一番いいのだが、次善の策としては、この案かなといい気がしていた。
この公演のプロデューサー大野に報告。東京の劇場にも報告。来週会うことにする。
昼過ぎから散歩。多喜二という寿司屋で待望のうに丼を食べる。娘たちにお土産を購入。昨日生れたI氏の息子さんにも、お祝いの品を買う。たわいのないものだが、気持ちということで。
小樽はやはりいい町だ。すっかり気に入る。
14時通しでリハ。ダメをだしながら、番組をつくっていく。
17時から現場で簡単な場当たり。位置を確認。合間に家に電話。なんでも昨日近所のアパートで火事があり、大変だったらしい。
18時半最初のステージ。店内をあやしげに卵のかぶりものをした、重森が歩く。結構なインパクト。ステージでもいい動きをする。特にジャンベとの絡みではいい動きをしていた。
彼にすれは営業向けの最初のステージ。マイムの場面で、二、三ダメを出しておく。ヤマちゃんも少し緊張気味かもしれない、動きが固い。
21時半最終ステージ。このステージが一番お客さんの反応が良かった。
生のブラスを主体としたバンドは、かなり厚みのある音を出している。今日が最初だが、いろいろ絡みをつくれると思う。
公演後店の地ビールを飲みながら、反省会。
バンマスのK氏を中心に、いろいろ絡みのアイディアが出てくる。
パフォーマンスと音楽、ゴッシュとかシルクイシとかのグループがやっていて、ショックを受けたものだが、日本でもそんなことができるかもしれないという話になってもりあがる。
24時すぎに、解散。
重森もヤマチャンも得るものがあった仕事だし、またあと3日あるので、いろいろ試すことができると思う。
そうした意味でもいいお店、いいメンバー、いいプロデューサーと出会えたと思う。

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2001年6月22日(金)

朝起きて、窓を開けたら青空が目に入る。北海道に来て初めて見る青空なのだが、早々に小樽をでなくてはならない。
どうも北海道とは天気の相性がよくないようだ。
9時22分小樽発の電車に乗り、札幌へ向かう。
札幌の駅のコインロッカーに荷物を入れる。駅前のあるテーマパークの営業所へ。
飛び込みに近い営業だったのだが、かなり関心を持ってもらったようだ。手応えを感じる。
また8月に小樽に来るときに、具体的な提案をもって再度訪問することに。
こういう時は嬉しいものだ。
北大近くの古本屋をまわる。前来たときはもっとあったような気がしたのだが・・・
欲しい本はあるのだが、やはり高い。本の価値を知っているということだ。
昼は、定番で札幌ラーメンを時計台で食べる。まあまあの味。うに丼に、ラーメンを食べたので、今回はよしとしよう。
2時センチュリーロイヤルホテルへ。工藤先生と久しぶりにお目にかかる。
来年80歳になるということだが、お元気そう。
アートフレンドと神彰について取材をさせてもらう。
また今度来る時は、一杯やりましょうといわれる。
JRで千歳空港まで。フライトまで時間があったので、軽くビールを飲んで、食事。
今日はそんなに揺れなかったので、ぐっすりと寝る。
22時すぎに帰宅。

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2001年6月23日(土)

7時に起きて、コーヒーだけ飲んで家を出る。横浜から東京、東京から快速に乗って、武蔵境に出て、西武多摩川線でふたつ目の駅が、東京外語大のある多磨駅。
家からおよそ1時間半かかった。
市民学会『日本とロシア』の歴史セレクション1に参加。司会をする中村先生やゴンザファンクラブの長沼事務局長にご挨拶。
結構な人たちが集まった。
予想されていた通り、オシオシで進行が進み、自分の番になった時に、中村先生に確認すると、10分以内と言われる。
おもにレザーノフと長崎通詞のことについて報告。
終了後、別会場で報告していた大学時代の同級生で、いまはチェルノブイリ救援活動をしているK女史と、Fらと弁当を外で食べながら、近況を話し合う。
K女史も元気そう。
K女史はすぐに松本に帰った。またどこかで会えるはずだ。
歴史2のシンポジウムに出ようと思ったが、途中からだったし、なんとなくこの場の雰囲気というか、学者先生たちがたくさんいる場が、どうも落ち着かず、自分も早々に帰ることにした。
今日会いたいと言っていたD氏の携帯に電話。4時品川駅で会うことに。
ビータから頼まれた団扇セットを買うために秋葉原で下車、平日とくらべて凄い人出なのにびっくりする。
4時2年ぶりにD氏と会う。品プリの喫茶室で話を聞く。
ロシア語に訳したい書類があるということ。思ったより分量はあったのだが、なにか急いでいるようなので、誰かに振ることも含めて、引き受けることにした。
19時前に帰宅。
なんか疲れる一日だった。

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2001年6月25日(月)

午前中ミーティング。小樽と、札幌での営業活動についての報告。
来週大分で開かれる大道芸関係の書類をつくる。
入管からカザフの在留資格認定書が届く。このあとの手続きについて、カザフの日本大使館に電話。
去年暮れから、外務省の審査もなくなり、パスポートと認定書を持っていけば、3日後には査証が発給されるという。
欧米並になったということだ。ずいぶんと楽になる。
山梨の会館にクザンの件で電話。正式に今回は見送りということになる。これを受けて、東京の劇場に電話、明日打合せのために会うことにする。
かなりいいコースがきれそうだ。
会社を5時に出て、野毛の一千代にうな丼ライブを聞きに行く。ほぼ満員の会場には、知った顔ばかり。
うな丼を食べて、上海夜鶯の中国歌謡を聞く。なかなかいい。はまりそうだ。戦前の中国の唄には、どこかコスモポリタンの匂いがする。
コンサートが終わったあと、軽く飲んで今日は引き上げる。

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2001年6月26日(火)

午前中頼まれていたロシア語の翻訳にかかる。半分ぐらい終わった。
小樽のIプロデューサーに電話。社長さんも満足していたという。当分はこのスタイルで進めていくとのこと。
重森が、お土産を持って来社。彼自身なにかをつかんだようだ。
パフォーマー自身が、なにかを得る、そんな仕事はあまりないはずだ。その意味で今回の仕事は、成果が多かった。
早稲田の授業の2回目。かなりギリギリで教室に到着。
今日はエンギバロフのことを中心に、クラウンのことを話す。猫サーカスとエンギバロフ、リツェジェイのビデオを流す。
エンギバロフのビデオは結構インパクトを与えたようだ。
授業を終えて、すぐに三軒茶屋に向かう。
キャロットタワーの入り口で大野、西田と合流し、事務所へ。
クザンの公演についての打合せ。
打合せを終えて、三人ばらけてそれぞれ帰宅する。

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2001年6月27日(水)

区役所に寄って、住民票をもらってから出社。
午前中来週ある大分でのイベントに関しての書類を作成。芸人さんとクライアントに覚書を送る。
こまつ座のモスクワ公演についていった仙台のKさんから電話。モスクワのあと、スペインまで行ってきたという。
なかなかの珍道中だったようだ。モスクワでキム先生に会った時に、こんど先生が出すバイコフの本は、是非大島に訳してもらいたいと言われたという。
以前送ったレザーノフの翻訳もたいへん評価していたとのこと。光栄なことだ。
バイコフは前から興味があったし、是非やらせてもらいたい。
一通り雑務を終えたあと、急ぎで言われているロシア語への翻訳をする。
これがあるせいで、なんとなく落ち着かない。早く解放されたい。
19時に会社を出る。

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2001年6月28日(木)

梅雨の中休みなのか、暑く蒸す日が続いている。
12時半会社を出て、横浜へ。東横線でずっと寝ていた。
14時横浜文化振興財団へ。来年野毛にオープンするにぎわい座の企画のプレゼン。
基本的に寄席のような劇場になるようだ。その隙間にどんな企画を提示できるかだろう。
帰りにジェラードを食べ、また電車の中で熟睡。
大分の航空券の名前の間違いがあったようだ。担当の人は、かなり疲れているようす。
今日はサーカス文化の会。しかし出席者はACCの社員だけ。19時半まで待って、誰も来ないので、近くの飲み屋でビールを飲む。
21時半新大久保駅でロシア語の翻訳の依頼者と合流。知り合いの事務所で、少し打合せをしたあと、モルダワに電話。担当者は不在だという。
とりあえず翻訳した文書をファックスで送る。もう一度電話。30分後に電話してくれという。
すでに時間は22時45分、最終に乗れるギリギリ。とりあえず電話。担当者がでる。
自分の興味のないことで、通訳するのは結構大変だ。
なんとかお互いのいいたいことを通訳できたのではないかと思う。
結局品川発最終電車で帰宅。
一応この仕事はこれで終わりにしたい。

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2001年6月29日(金)

朝食をとりながら、昨日外交史料館でヤマサキの旅券を調査してくれた奥さんの報告を聞く。
どうしても山根も、ヤマサキの名前も出て来ないという。どうしてなのだろう。
8時家を出て、横浜からリムジンに乗り、成田へ。車中ひたすら寝る。
10時成田着。10時半到着の飛行機はすでに到着済。でも出てきたのは11時すぎ。オクサーナとナースチャのふたりは元気一杯。
意外にナースチャが明るいのに驚いた。キエフで見たときは、わりと神経質そうな感じがしたのだが。
11時20分発のリムジンで新宿へ。途中渋滞にあい、新宿に着いたのは13時過ぎ。西田と落ち合い、ロマンスカーで箱根へ。
ふたりは飛行機の中で寝ていなかったようで、ずっと寝ていた。自分もずっと寝ていた。
途中自分のイビキで二度目が覚めたが・・・
箱根湯本からタクシー、いつもなら20分ぐらいで着くのだが、ここも渋滞。
結局15時半にパンションに到着。チェックインのあと、ワジムとビーカのぽる楽屋へ。
四人とも再会を、身体全体をつかって喜んでいた。
日本という異国でこうして会えるのが、嬉しかったようだ。
ワジムとビーカの公演をみながら、場所のチェック。オクサーナは、ここでジャグリングするのは、問題ないようだ。
強羅までおりて、焼き肉屋で食事。四人ともつもる話がたくさんあるようだ。
途中吉本のK氏も加わる。
K氏と別なプロジェクトの話で盛りあがる。このプロジェクトに関しては、いろいろ偶然が重なっている。
なにか予感がする。
ホテルに戻って、K氏と西田で話の続き。K氏とも長い付き合いになるような気がする。
風呂に入って、1時就寝。

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2001年6月30日(土)

8時に朝食。外はすごい雨。10時半シャトルバスでユネッサンへ。
まずはオクサーナのリハ。長い腕と足を存分に利用したボールのジャグリングと、コントーションを組み合わせ、20分にまとめている。
いいショーになっている。
問題はナースチャ。アラビア風の白いコスチュームをつけて、下のショッピングモールで音楽をつかわず、マイムでのグリーティング。
お客さんとのからみを主体にしている。ただまだまだ初めてで、オドオドしたところもみられる。
西田からダメダシ。
明日以降のスケジュールを決め、ふたりに伝える。
カフェテリアで食事。YのK氏はここでひきあげる。
重森から携帯に電話。晴海のトリトンのオーデションに受かったらしい。わざわざ携帯に電話してきたのは、よほど嬉しかったからだろう。
いったん部屋に戻って少し寝る。
16時40分からのワジムのラストショー、ビーカのラストショーを見る。
どちらの回もたくさんのお客さんが見て、いい公演になった。
辻がワジムのショーの途中で合流。
19時からイタリアレストランで、お別れ会。
昨日と今日は久しぶりの再会で、にぎやかに話し合っていた4人だが、また明日からはふたりだけになる。
レストランから宿舎への帰り道、女の子たちは一緒に唄を歌っていた。
『のど自慢』をまた見て、また泣いてしまう。いい映画である。
トイレに行く途中、ビーカと出くわす。荷物が26キロになったと半べそかいている。
手荷物に少し荷物をうつしておくようにアドバイス。あとは現場でなんとかするように辻に言っておくからと慰める。
1時就寝。

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