クマのお仕事日誌
2001年9月分


2001年9月1日(土)

9時半辻からの電話で目を覚ます。空港からだった。グリンチェンコたちはチェックインをして、いま飯を食っているという。
通関についてもういちど説明、お別れをする。
シャワーを浴びたあと、腹も減ったので、フラフラと町へ繰り出す。
結局おととい食べたうどん屋でいつものように朝食兼昼食をとる。
かなり不健康な生活になってしまった。
あいかわらずメンバーは群がって町をぶらぶらしている。こういう時はあまり顔を会わしたくないので、裏道に入ると古本屋が目に入る。小さい古本屋だが、なかなかいい本が揃っていた。
北方を探険したぜんぜん知らない人の伝記を購入。運命的な出会いだったりして・・・。
ホテルに戻り、少し昼寝。
17時すぎホテルを全員で出発。ジーマとエンマが5分ぐらい遅刻。ローマがかなりきつい口調で叱りつける。かなりナーバスになっている。初演まであと二日、リハも仕込も決して順調とはいえない。いろいろストレスもあるだろう。
18時半会場に到着。綱渡りのポールをはじめ、お願いしていたものが出来上がって届けられていた。
すべてOKだという。
シルバーペイントと釣り糸を購入するためにM氏の車で、ホームセンターへ。
今日から楽屋、スタッフルームが使えるようになる。
19時半からステージが空いて、いよいよ仕込がはじまる。まずステージでカーペットを張り合わせる作業。その間吊り物の仕込。下でつり込みできるように、道具を広げて、ワイヤーや滑車をつける準備がすんで、つり込み。ローマはナターシャと一緒にPA室に入って、音響と照明の打合せ。つり込みが終わったのが、22時すぎ。
今度は綱渡りを作った支柱を置いて、実際に張ってみる。大きな問題はないようだ。
今回の一番の問題は、ステージがサーカスだけでなく、他の時間帯にいろいろ他の演し物がステージで行われるということだ。つり込みの状態を見た会場スタッフが、毎回片づけるのかと聞いてくる。ここでローマが切れる。
仕込で時間を食って、リハもできないでいるのに、こんどは吊り物をいちいち片づけろというのかという。もっともなことだと思う。
邪魔にならないようにすればいいのではとやんわり聞いてみると、建前では一回一回ステージを空けるという条件で、番組編成をするように言っておいたはずだといいだす。
建前論なんてクソクラエだ。こっちはいいショーをするためにああでもないこうでもないと、努力して方法を考えているのに、ショービズの世界に建前論なんて必要ない。
そして輪をかけるように、ステージスタッフの関係があるので、何時までここを使うのか聞いてくる。
ステージで演じるアーティストの都合ではなく、舞台スタッフの都合が優先されているのだ。
ローマがかなり切れていたが、とにかくリハをしようと、メンバーを集めて、オープニングのリハ。
これが23時半。最終の電車が24時23分。ローマとサーシャ、デニス、ファリダを残して、皆を帰す。
早く帰りたそうなスタッフの目を無視して、まずは綱渡りの微調整。明日は19時半からステージが使えることになっているが、来てすぐにリハが始められるように、問題を解決しておきたいということだ。
こっちでつくったローラスケートの台の上で、デニスとファリダが試走。サーシャはコントーションの台を組み立てる。
最後に吊り物の邪魔なものを上に飛ばす。
午前1時作業終了。タクシーでホテルに戻る。
ローマと部屋でウォッカを100グラムずつ飲むことに。
今日の作業はローマもかなり参ったようだ。胃がまた痛くなったようだ。
お前が東京に帰ったらウォッカをやめて、持ってきた薬を飲むという。
4時就寝。

このページのTopへ

2001年9月2日(日)

今日はメンバーの引っ越しの日。会場近くのウィクリーマンションに移る。10時集合だったが、5分前に下に下がると、全員完全にスタンバイ状態。
昨日のローマの説教が効いたのだろう。
新しくて、部屋もきれいだし、問題ないのだが、ツインのローマ夫妻の部屋が、シングルと同じ大きさの部屋で、ソファーがベットになるだけだったのが、誤算。
最初はローマもむっとしていたが、他に大きい部屋があるわけでもないし、諦めてもらう。
M氏の車に乗せてもらって、小倉のホテルに戻る。外で飯を食べる元気もなく、近くのスーパーで弁当を買って、部屋で食べる。ちょっと昼寝。
18時前に会場入り。ローマは昼間歯の治療をしてもらい、ここ数日悩まされていた歯痛からは解放されたようだが、今度は胃が痛いという。
連日のストレスも原因なのだろう。今日はウォッカを飲まずに、薬を飲むことにした。
ステージは19時半すぎに空いたので、銘々のリハ。
コントーションの台がまわらず、ちょっと焦ったが、ソケットの中のコードが外れていただけ。
これで少し押したが、20時半から音響さん、照明さんと一緒に、通してリハ。
来日して6日目でやっとまともなリハ。番組ごとに照明と音を合わせる。
途中ローマが何度か切れそうになったが、なんとか23時半に終了。
23時50分からゲネ。さすがプロで音も明かりも、ダメだしの必要はなし。
1時をすでにまわっていたが、ローマはメンバーをステージに集めて、細かいダメだし。
外は大雨。
M氏がピストンで、メンバーを宿舎まで送ってくれる。
N氏とタクシーでホテルに戻る。2時半ホテル着。ちょっとビールとバーボンをひっかけて寝る。
なんとか辛うじて間に合ったという感じだ。
明日というか、今日が初演。いいショーにしたい。

このページのTopへ

2001年9月3日(月)

昨日というか今日というか4時に寝て、8時半に目覚める。今日の初演のことが気になっているのだと思う。
会社に電話。サーカス村というか、学校の開校式はうまくいったようだ。マスコミの取材も多かったようだし、
サーカスの理想というか、夢のひとつの在りかのひとつサーカス学校がうまくスタートして、本当に嬉しいけど、
俺は何をやっているのだろう。
サーカスを大事にしているカザフから来て、いいショーをしようとしているツィルカッチと一緒に仕事をしている。
彼らがやりたいサーカスを、やってもらいたい。そのためにいま自分はここにいると思う。
サーカスを真に愛している人々と一緒だということ、それがどこかでつながると思う。
小倉の町を少し歩いてみる。いい町だ。
13時半会場入り。
会場側との打合せ。段取りが悪かったところもある。これはこちら側の責任。
段取りだけでなく、いいショーをつくろうよ。そんな気構えが大事だと思う。
だぶん照明さんも、音響さんもそれは同じだと思う。誰かに遠慮している。

一回目の公演。ゲネプロのようなもの。細かいミスはあったが、うまくいったと思う。
客観的に見て、そんな凄いサーカスではないと思う。でも華やかさがある。
一昨日入ったバーにローマを連れていく。亜美ちゃんが気に入ったようだ。
ローマは、満足していた。今日は兄弟のもうひとり田中さんが来ていたからだ。
今日は午前2時半就寝。

このページのTopへ

2001年9月4日(火)

もろ二日酔い。10時すぎにホテルを出発。小倉駅で立ち食いウドンを食べて、会場入り。
一回目の公演は、小学生や中学生の団体客がほとんど。この公演を終えて、ローマが昨日出したダメだしを全部受け入れ、番組に手直しすることを決める。
3つあったクウランの登場を2つにし、ローラースケートと人間車輪の一部をカットすることにする。
K氏とN氏に連絡、明日のバンブーのリハの時に、これをスタッフと打ち合わせたうえ、明後日からこれでいこうということになる。
サーカス団の男楽屋にずっと入り浸り。
昨日までの戦争状況が嘘のよう。いつものサーカスの楽屋の雰囲気。ローマとサーシャはカザフから持ってきた、東洋版チェスをする。女の子たちも部屋にやってくる。冗談が飛び交う。やっといつもの雰囲気になってきた。
私は、昼寝。
目が覚めてから、アジアンバザールでキムチを買ってきて、ビールで昼食。少し元気になってきた。
客席の反応もいい。特に日が暮れてからの18時の公演は、いい反応だった。
この公演の人間車輪の最後のトリックのところで、イリーナが先に車輪から下りてしまった。公演後ローマは、イリーナを怒鳴りちらす。ちょっと近づけない雰囲気だった。
こういう時は、時が経つのを待つしかない。
今日はアクロバットのスベータの誕生日。21時から宿舎のスベータの部屋に20人以上がギシギシで入った状態で誕生パーティ。始まる前にローマたちの部屋で、軽くウォッカを飲む。ローマとイリーナは、すっかり元通り。
お祝いにかけつけた日本人スタッフのうちのひとりと話しをしていたら、ヒ祖父がロシア人だったという。しかも幕末伊達藩にロシア語を教えにきたという。面白い話しだ。
いつものようにお祝いをいいながらの乾杯。メンバーからのお祝いは、ポシェット(100円ショップで買ったもの)に入った現金。二万ぐらいあったろう。確かにこの方が現実的かもしれない。
私はアジアンバザールの韓国民俗村で書いてもらった花文字(スベータを寿辺多としてもらった)の色紙。
音楽がない、踊れないとか言いはじめたので、近くのカラオケに行くことに。
ローマ、サーシャ、グーリア、スベータ、タチアナ、デニス、ファリダ、オリガとオクサナの計10人。
歌える唄は「恋のバカンス」とか「百万本のバラ」ぐらいしかないのだが、踊れそうな曲を選んであげてかけてあげる。
結局朝の4時まで。タクシーでホテルに戻る。

このページのTopへ

2001年9月5日(水)

7時目を覚ます。荷物をあわててまとめ、ホテルを出る。駅に着いたら3分後にのぞみが出る。あわてて切符を買って、走る。途中おつりの小銭を誰かにぶつかって、ぶんまけてしまうが、見向きもせずに一目散に駆け上がる。なんとか間に合った。ビールを飲んで、ひたすら寝る。大阪まで完全に寝ていた。
名古屋できしめんを食べる。
リトルには12時半すぎに到着。
大野もいろいろ大変だったようだ。
13時からテレビのCF撮り。今回はいままでのリトルのサーカスとはちょっと違う。ヨーロッパの新しいサーカスということで、心配する向きもあるようだ。
通しではなく、ひとつひとつ決めての撮影となったが、とても洗練されているし、ジャグリング、空中ブランコといった見応えのある番組もあるし、コミカルな要素も盛り込まれているので、子どもたちも喜ぶと思う。
いいサーカスショーになると思う。
大野も安心したようだ。こちらはカザフとちがって、まだ初演までは3日あるが、一山は越えたのではないだろうか。
これで新風をまきおこすと、リトルでやるサーカスの幅がまた広がると思う。
大野と名古屋から新幹線に乗り、大阪へ。
19時半HEPで、F氏とO氏と落ち合い、近くの居酒屋へ。
O氏は淡路島から帰ってきたところで、かなりへばっていた。
クザンの打合せ。骨組みをすべて決定する。これでクザンは、準備完了ということだ。大野もこれですっきりした様子。
ナターシャに電話。今日のリハは問題なく終わったという。なんと昨日というか今朝というかカラオケのあと、ローマは鍵をなくし、部屋に入れたのは6時だという。今日は皆さすがにおとなしかったらしい。当然だわな。

23時すぎにホテルにチェックイン。

このページのTopへ

2001年9月6日(木)

久しぶりにさわやかとはいわないまでも普通の目覚め。めざましテレビで、これも三週間ぶりぐらいでケイちゃんの天気予報を見る。
要は昨日はあまり飲まなかったということだ。
9時すぎにチェックアウト。大阪駅の地下街でしっかりと朝飯。10時半ののぞみで再び小倉に向かう。
スペースワールド駅に着いたら、とんでもない大雨。K氏に電話をして、車で迎えに来てもらう。
この辺は雨が多いというが、とにかく天気の変化が激しいのには驚く。
13時から15日の博多駅でのデモンストレーションについての打合せ。
打合せを終わったところで、カザフの男楽屋に行き、パソコンをつかって少し仕事。
ナターシャから、オリエンタルアクロバットのスベータが腰を悪くしたという話しを聞く。M氏の手配で公演後整体の先生に行くことになったという。
15時半のショーを途中まで見て、16時すぎに会場内のNHKのサテライトスタジオに入る。
16時半すぎからかるく打合せと、リハ。
この生放送への出演は、ある意味でハーリックのために引き受けたようなものだ。ハーリックができるだけたくさん今回の博覧祭の宣伝資料を集めてきて欲しいという指示が出ている。
カザフのサーカスを自分が紹介するということで、このビデオをメンバーが持って帰れば、いまハーリックが命をかけてやっているサーカス場奪還のためになんらかの役に立つはずだと思ったから、引き受けたようなものだ。
17時10分すぎから8分ぐらい、インタビューを受ける。まあまあの出来だったのではないかと思う。
楽屋に戻ると、皆が見ていたらしく、いろいろ声をかけてくる。汗をかいていたとか、鼻のところに手をやったのがおかしかったとか、まあひやかしがほとんど。
三回目のショーを見る。今日からは昨日リハをした短縮したバージョン。いいテンポになってきている。
公演後、また問題発生。ここでは天井のキャットウォークにのぼる時、安全ベルトとヘルメットをかぶるが定められているのだが、当然のことながらサーシャからすれば邪魔でしようがない、特にヘルメットがうっとおしいらしい。これに対して主催者は、これを認めるが万が一事故が起きた時、主催者側の責任を問わないという誓約書を出して欲しいといってきたらしい。ナターシャはこれをロシア語に訳して、ローマにサインを求めてきたことで、ローマが切れてしまった。
サーシャにヘルメットと安全ベルトを締めるように命令したのに対して、サーシャが猛反発。ヘルメットがどうしても作業の邪魔になるという。だからサインしてくれというサーシャに対して、ローマが猛然と怒鳴り始めた。
サーシャからすれば、毎回公演がおわる度に上に登って道具を外すことに結構ムッとしていた。そこにヘルメットをかぶれとローマに言われたことでカッとなったらしい。
プロデューサーのN氏に電話、事情を説明、今日のところはサインをしないことにする。
それにしてもお役所仕事につきあわされる方はたまんない。
たぶんこの事態に一番焦ったのはナターシャかもしれない。
ローマの部屋で夕食をとりながらウォッカを飲む。途中サーシャが今日泊まる自分のために鍵をもってきてくれた。ローマが部屋に入るように言う。この時はふたりともかなり冷静になっていた。
サーシャが帰ったあと、ちょうどウォッカが切れる。グーリナの部屋からローマはスピリット(100パーセントアルコール)を持ってきて、それを水で薄め、ウォッカをつくる。味は対して変わらない。
ローマが今日の出来事について、あまりにも手順が悪かったことを責める。俺はサーカス団の責任者だ、万が一事故がおきたらどうなる、あんな書類にサインができるわけがない、サーシャは確かにプロかもしれない、でも事故がおきないと誰が保証する。四月に亡くなった空中アクロバットのペーチャだって、専門家だったではないか、それでも事故が起きたんだ。
なにより内輪でなんの相談もなく、いきなり書類を持ってきてサインをしろはないだろうという。もっともなことだ。
これに関して自分も相談を正式には受けていなかった。しかしきちんと問題が起きたときの話しの手順を決めていなかったことも事実。ましてこれから自分が現場を離れてしまう。それでなくても大きな組織、複雑な人的関係があるなか、その流れを指示しなかったのは自分のミスである。
明日ナターシャにも、われわれの雇用者であるN氏にも、この辺のことをきちんと話す必要がある。
イーリャも入って、あとは馬鹿話。
ローマは娘が欲しいという。今回の日本公演でつくろうとイリーナに話しをする。
露骨といえば露骨なのだが、自分はもうこの連中とは、こういう話しを自然にする付き合いをしてしまったいるのだ。
兄弟とローマは自分のことを呼ぶ。そうなのだ。俺たちは、家族の一員のようなものなのだ。
一昨日の誕生パーティーで、フラフープのアレーシャが、大島はハーリック・ドヴァ(2)だと言っていた。ローマだけでなく、今回のメンバーは、俺のことをプロモーターとしてではなく国立カザフサーカスの一員として見てくれているのだ。
公演の成功もそうだが、とにかくいまはサーカス場を取り返すために何ができるのか、全力を尽くさなくてはならない。
2時すぎにサーシャの部屋に戻り、就寝。

このページのTopへ

2001年9月7日(金)

8時すぎに目が覚める。軽くシャワーを浴び、荷物の整理。
9時すぎにローマの部屋に行って、コーヒーを飲ませてもらう。
アパートの前でローマと別れる。
ナターシャとN氏に電話。昨日の安全ベルトの件などをとにかくローマをまず窓口に話し合ってもらいたいことを伝える。
10時56分小倉発ののぞみに乗る。
ビールを飲んで、ひたすら寝る。12時すぎに携帯にナターシャから電話。スベータの腰が相当悪そうで、彼女は泣いているという。
昨日整体に行って少し良くなったという報告だったので、安心していたのだが、もしかしたら骨に異常があるのかもしれない。M氏に電話。
レントゲンを撮れる医者に連れて行ってもらうようにお願いする。
N氏にもこの件を報告。
最悪のことを考える。スベータ抜きでどう対処できるのか、ローマに考えるようにナターシャに連絡。
もしも2回目の時もかなり本人が痛みを感じるようだったら、彼女抜きで3回目の公演をしなければならないだろう。その場合の対応策をいろいろ考える。
15時すぎに新横浜に到着。
今日は真っ直ぐ家に帰宅することに。二回目の公演が終わった16時半頃にナターシャに電話、様子を聞いてみる。
なんとか大丈夫で、三回目もできるという。痛みはそんな激しいなったというわけでないという。M氏が、公演後レントゲンが撮れる医者に連れて行ってくれることに。
21時M氏から電話。骨には異常がなく、ヘルニアの一歩手前の症状だという。とりあえず痛み止めの薬をもらったという。
少しは安心。本人はかなり辛いとは思うが。
二週間ぶりに、4人で食事。
1時すぎに就寝。

このページのTopへ

2001年9月10日(月)

台風の接近で雨が強く降ったりやんだりする嫌な天気。一番雨の強い時に、出勤。
会社に着いたときは、雨はやんでいた。久しぶりの会社。西田とは一ヶ月ぶりぐらいで会うのではないだろうか。
サーカス学校の方は順調な様子。なによりマスコミの取材がすごいらしい。
そういえば昨日の日経に大きく紹介されていた。今日もテレビやラジオ、新聞社から取材の電話がひっきりなしにかかってきた。
リトルの方もなかなか評判がいいらしい。
大野は、夕方出社ということで、3人で打合せ。とにかく9月末のスケジュールをどうこなすかそれがとりあえずの大きな問題。
いまはそれまで頭が、まわらない。
精算を終わらせ、机の上に山積みされている郵便物の整理。
ナターシャに電話。スベータの腰はだいぶ良くなったようだ。ただ今度はフラフープのアレーシャが胃痛で、いま診療所にいるらしい。
でも大丈夫ですよとのこと。
週刊新潮のT氏から電話。カザフサーカスをグラビアでとりあげることが決まったという。
来週号の掲載ということで、今週取材になるらしい。現場に連絡。
とにかく少しでも、宣伝しないと、彼らがカザフに帰国して、こんな風に日本で宣伝されていたと報告することで、少しでもサーカス場奪還の役に立つことをしたい。
大野が16時に戻ってくる。キャナルの件で打合せ。
19時T企画のS氏と打合せ。
ラーメンを食べて家に戻る。雨はそんなに降っていない。

このページのTopへ

2001年9月11日(水)

いよいよ今日は台風が関東に上陸するらしい。子どもたちの学校は、警報が出ているために休校。
一番雨の強い時に、家を出る。
今日は小出と重森のソロライブ。アンケートとプログラムの作成。
キャナルから電話。オリガとオクサーナとアレーシャの3人で、OKが出る。博多まで営業に行った甲斐があった。
17時会社を出る。もうこの頃は雨もあがり、青空がのぞいていた。planBへ。なんかずいぶん久しぶりな気がする。
今日は、客足が遅い。50人ぐらいの入り。
ふたりとも安定感がある。なかなかいい出来だったと思う。
アンケートで一番評価が高かったのは、小出の「グットラック」というネタ。いま一人勝ちしているアメリカを揶揄したもの。
公演後いつものように酒盛り。明日東村に行くことになっているので、23時頃にTさんと一緒にタクシーで渋谷まで。
最終の一本前の電車に乗れる。
家に着いたら、奥さんが大変なことになっているとテレビを指さす。
ニューヨークの貿易センターに旅客機が激突した映像が流れている。衝撃的な映像だ。
結局2時半までテレビに釘付け。大変なことになったものだ。

このページのTopへ

2001年9月12日(水)

テレビは全て、アメリカの同時テロ事件のニュース一色。いったいどのくらいの被害になっているのか、想像もつかない、そんな感じだ。
空港も全部閉鎖されているようだ。
浅草で少し時間があったので、喫茶店でコーヒーを飲みながら、ベルチンスキイの回想録を読み出す。
11時40分発のりょうもう号に乗る。相老でわたらせ渓谷鉄道に乗り換え。今日は異常に暑い。こんな時に限ってハンカチを忘れてしまう。電車は冷房がほとんどきいていない。しかも団体客でほぼ満員。汗がとまらなくなった。
いつもは神戸の駅でおりるのだが、今日はそのひとつ先の沢入まで。トンネルが長いのに驚いた。
迎えに来てもらった西田の車に乗って、サーカス学校のある旧沢入小学校へ。NHKのBSの番組をつくっている制作会社の人も同乗。
皆は、練習中。ナジェージダ先生の日本語もなかなかのものだ。そして厳しいなかにも、笑顔をまじえ、みんな生き生きとしている。
18時授業が終わり、資料館へ。資料館で、制作会社の人の取材に付き合う。ナジェージダ先生は頭の回転が実に早い。のみ込みが早いので通訳しやすい。
取材のあと、今度は先生が、授業で使う用語を日本語でどう言ったらいいのか質問を受ける。意味はわかっても、的確な日本語がないものが結構ある。こういうのは難しい。
20時から持ってきたカザフのウォッカで、乾杯。先生はとにかく日本語を覚えることで頭が一杯の様子。ただ思ったよりも、覚えが早いので、たぶん大丈夫だろう。
結局ウォッカ1本半空ける。
23時半就寝。

このページのTopへ

2001年9月13日(木)

7時半に起床。朝御飯を食べて、学校へ。
9時ぐらいから銘々が柔軟運動を始める。そのあとアクロバットの練習。
言葉の問題はほとんどないと思うのだが、やはり何回か助け船を求められる。
途中韓国の放送局の取材。先生にもインタビューがあり、通訳。
教育方針を聞かれた先生は、一番大事なことは、生徒たちが何をやりたいかということで、そのやりたいことを全部教えてあげたいと答えていた。
これは今日、そして昨日の授業を見て思ったことだが、みんな二週間という短い期間にもかかわらず、かなり身体が動くようになっていたことだ。
これについても先生はインタビューに答えて、二週間でこれだけできるという結果にはとても満足してますと答えていた。
12時から昼休み。先生のアパートへ行く。黒パンとサラミの昼食。
ウクライナからのお土産をもらう。ここにまた韓国の放送局がやってきて、食事している風景を撮影。
なにかあったらいつでもいいので、携帯なり自宅に電話するように言い残して、さよなら。
神戸まで車で送ってもらい、わたらせ渓谷鉄道で相老まで。りょうもうに乗るまで40分時間があったので、ラーメンを食べる。
浅草に17時前到着。今日はこれで終わりにさせてもらい、浅草から京急に乗り、上大岡で本屋に寄り、19時帰宅。
ニュースでアメリカの空港の閉鎖が解除されたことを知る。

このページのTopへ

2001年9月14日(金)

会社に着いたら、鍵を忘れたことに気づく。結局30分ぐらい玄関前で待つことに。
今日のめざましテレビの占いでは、一番いい運勢だったのに・・・。
机の上にユーラシア協会からの封筒が置いてあった。なかを開けたら、この前若宮丸友の会のことを紹介した記事への原稿料だという。まったくあてにしてなかったので、すごく儲かった感じになる。
また来週から現場になるので、やらなくてはならないことをとにかく整理することに。
週刊新潮に電話。このアメリカのテロ事件で、グラビアがとんでしまうのではないかと心配だったのだが、来週号に掲載されることが決定したという。
飛行機のタイムスケジュールをにらみながら、9月後半のおそろしいスケジュールをどう組み立てるかで、頭を悩ます。カザフの帰りの時間を確認するために、いつも世話になっている旅行会社に電話。今回の事件でひとつツアーがぶっとんだという。舞台道具の搬出の件で、カーゴ会社に電話、ここも今回の事件でパニック状態になっているという。
いまはこの惨劇の事実の重さで手一杯という感じだが、経済全体に及ぼす影響は、これから結構くるのではないだろうか。
9月26日からの恐ろしいスケジュールがだいたい固まる。北九州に行って、撤収につきあい、それから小樽、大阪とまわって、北九州に戻り、メンバーの送り、そしてまた小樽に行って、メンバーを引き上げ、仙台から帰すという段取りだ。もしかしたら8月の時よりもハードかもしれない。
新潮のT氏から電話。写真を一度入稿前にみてもらいたいという。
20時に新潮社へ。写真の選定とキャプションについて打合せ。
22時半近くの中華屋さん『りゅうほう』へ。ここのご主人が、友川さんの知り合いで、数少ない拙著のファン。
久しぶりにお目にかかる。しかしここはほんとうに繁盛している。美味しくて、安いからだろう。
京急の終電に間に合わず、タクシーで新橋までいって、京浜東北線の大船行きの最終に乗る。携帯電話をかけていた若者と、それを注意するだけでなく、それを奪ってしまった中年のおじさんが車内で大喧嘩。
蒲田で人がさっーと降り、ここから新杉田まで座ることができた。
夜中1時半帰宅。

このページのTopへ

2001年9月17日(月)

三週間ぶりに朝ジョギング。このところ酒は飲むし、運動はしないという生活がずっと続いていた。
少しずつ元の生活に戻さないと。
昨日の北九州からの電話だと、土日は入場者がいままでの最高を記録したという。15日の博多駅前でのキャンペーンも好評だったという。
早いものでカザフサーカスも半分が終わったことになる。たくさんの人たちが見てくれたらいい。
朝のミーティングで、リトルも土日は満員だったという報告。去年のラスベガスを上回る動員になっているらしい。
明日はカバB、あわてて情報をメールで流す。忘れているわけではないのだが、後回しになってしまう。
顰蹙ものだ。今回はサックスの梅津和時さんとのセッションという特別企画。これもたくさんの人に見てもらいたい。
キャナルと小樽の契約書をつくり、スケジュール表を作成。
19時すぎに会社を出る。
帰宅してからローマに電話。荷物の手配、ギャラ、終わってからの移動などもろもろの打合せ。ローマが全て順調だが、ひとつだけ問題がある、それはお前がいないことだという。みんなの部屋にビデオデッキがあるので、サーカスやマジックなどのビデオを送っておいた。ローマはこれからマスクマジシャンのビデオを見ると言っていた。
ユネッサンのふたりに電話。20日サルティンバンコに連れていくことになったので、その時どこで落ち合うかを打ち合わせておく。
彼女たちもあと二週間で仕事も終わりだ。もしかしたら一回もあわずじまいということになってしまうかもしれない。

このページのTopへ

2001年9月18日(火) 

今日は久しぶりに杉田まで歩く。三週間ぶりぐらいか、いろいろ街の風景は変わっている。山の手の方で建設中のマンションもかなり出来上がっている。
カザフサーカスも、あと二週間。北九州のあとに博多に行くもの、小樽に行くもの、大阪に行くもの、帰国するものと4グループある。この帰りと移動の手配が、いろいろ大変。
27日に北九州に入ることになるが、その前にギャラを欲しいといわれている。
カードでおろしてもらうことにする。その手順を聞いて、銀行に振替の手続き。銀行などふだん行ったことがないので、ちょっとドギマギ、通帳を忘れて、二回行く羽目に。
北九州に帰国、撤収のスケジュールをファックスで送る。ナターシャと打合せ。
18時会社を出て、planBへ。今日はカバBの日。特別ゲストで梅津和時さんが参加してくれる。珍しく出演者が緊張している。みんな口々にどうなるのだろう今日はと言っている。こんなにピリピリしているメンバーを見るのは久しぶり。
宣伝はあまりしなかったのだが、そこそこの入り。
今日はPA席からビデオ撮影。音響のMちゃんも照明のYっこも、今日の公演はどうなるのかまったく読めないという。いちおうゲネらしきものはやったのだが、梅津さんのからみのところはどうなるか全くわからないという。
こういうのはいままでなかったこと。
2時間ぐらいの公演。いい公演だった。梅津さんはさすが百戦錬磨のつわものだ。いろいろなセッションをしているだけのことはある。
メンバーもがんばっていたと思う。プラコメではなく、カバBとなった路線変更の意図は、この公演ではっきりしたと思う。いろいろなジャンルがクロスするなかで、実験していくという精神、それが一番大事なことだと思う。
公演後梅津さんたちと飲む。といっても梅津さんはひたすらウーロン茶だったが。
梅津さんはずっとキャバレーをやりたかったという。キャバレーバンドがしたいという。キャバレーをやりたいということから、プラコメをはじめたわけで、同志がいたことにうれしくなってくる。
パフォーマーだけでなく、音楽ものが欲しいと思っていたので、ねがったりかなったり。
かなり具体的な話しになる。
メンバーの連中にとって、梅津和時というミュージャンは、憧れにちかいものがあるらいし。
あたぎ君は、そのなかでも熱狂的なファンのひとり。ビデオプロジェクターにサインをもらっていた。
梅津さんが帰った後、小出、こうじ、あたぎが残り、朝まで。久しぶりにplanBの楽屋泊まり。

このページのTopへ

2001年9月19日(水)

9時にplanBの楽屋で目を覚ますというか、一緒に寝ていたS氏に起こされる。
そして小出から携帯にも電話。9時ですよコールだった。
S氏と別れ、中野駅まで歩く。そんな飲んではいなと思うのだが、やはり頭が痛い。
10時出社。昨日撮ったビデオをダビング。
頭がボッーとした状態で、こまごまとした雑用を片づける。
14時会社を出て、渋谷のJTBで9月・10月の航空券を購入。
Tと落ち合って、成田へ向かう。
朝ローソンで買った割子ソバを食べたきり。なにか食べようとも思ったが、食欲がわかない。
16時半成田着。アメリカから来た芸人さんの迎えの手伝い。15日来日するはずだっのが、4日遅れたことになる。
アメリカからの日本人団体客を多く乗っていたようで、みんな一様に疲れた表情をしている。おそらく彼らもずっと待たされた口なのだろう。
17時半に出てくる。表情は疲れていたが、元気そう。
ホテルまで送り届ける。
今日も結局大船行き最終電車。1時すぎに家に到着。なんでも台風が関東地方に接近しているらしい。

このページのTopへ

2001年9月20日(木)

台風が近づいているらしい。どんよりとした曇り空。しかし9月も20日になったどいうのに、すっきりとした青空にお目にかかったことがないような気がする。
出勤途中に、昨日買いそびれた週刊新潮を購入。カラー見開き二ページで、カザフサーカスの写真が紹介されている。
かなりのインパクトではないかと思う。今回の北九州のプロデュースをしてくれたT氏からも電話。喜んでいた。
九州地区は明日発売ということで、現場の連中もメンバーもまだみていないのが残念。
14時秋葉原ラオックスでナースチャとオクサナに合流。今日サルティンバンコを見る前に、辻君に東京まで連れてきてもらった。
前に連れてきた他のパフォーマーと同じように、あまりの品物の多さにくらくらしてしまった様子。すでに3時間あまりここで何を買ったらいいか迷いぱなしだという。
ベタの日本のお土産というと、やはりここが一番品数があるかもしれない。
前のメンバーも連れて行ったステーキハウスで昼食。この二人はほんとうにご飯がダメなようだ。前の連中はステーキを美味しいときれいに平らげてくれたのだが、あまり気に入ってはくれなかったようだ。
マクドナルドの方がよかったみたいだ。
なんでも毎日ショーを見に来てくれるおばさんがいるらしく、その人にあちこち連れていってもらったり、自宅に招待されたりしたようだ。
こういう人がいてくれて本当に良かったと思う。今回のメンバーにはあまり時間もなく、十分に相手してやれなかった。
15時すぎに秋葉原の駅で、別れる。おそらくこれが彼女たちと会う最後になると思う。そのことを言うと、もう私たちは慣れたわと言われた。でも忘れないでね、電話はくれとも言われる。
今回だけはもろに全部かぶっているので、しようがない。
会社に戻る途中、久しぶりに水道橋近辺を歩いてみる。ナウカでナージャ先生が使えるような日本語の教本があれば買おうと思ったのだが、適当なものはなかった。
信山社をわりと時間をかけて見る。人文社会系の本がほとんどのこの本屋は、居心地がいい。
会社に戻ってエンドレス。今日は会社泊まり。寝袋を持参してきた。床に転がって寝るよりは、多少は違う。

このページのTopへ

2001年9月25日(火)

三連休は天気がよく、リトルも超満員だったという。ここのところ天気が悪かったが、連休にタイミングよくいい天気になった。
この間いやになるくらい仕事をさせられたのだが、もう思い出す元気もなくなった。
明後日から北九州入り、今回はこのあと真っ直ぐカザフに帰国する組、小樽、福岡、大阪と四つに分かれるので、その手配がたいへん。
荷物、人の移動、通訳の手配、いまでさえ一杯一杯なのに、これを手配できるかどうか、しかも時間がかなりタイトになっているので、ちょっと心配。
渋谷のJTBで小樽組の航空券を購入。
ナターシャから電話、ローマがメンバーが帰るまでは福岡に残りたいという。もっともな話しだ。
彼らは10月9日から仕事、それまで時間が空いているのだが、9月30日にリハをどうしてもしなければならないという問題がある。
団長としてメンバーを送りたいというのは、よくわかる。ちょっと考えてから返事をすると伝える。
19時大野とTたちと四谷の居酒屋で軽く飲む。
結局今日も帰りが遅くなった。いつまで続くのだろう、こんな生活。
品川駅からローマに電話。寝ていた。23時半ぐらいだった。30日リハに立ち会ったあと、一緒に福岡に戻ろうと提案。
たぶん半分寝ていたのでよくわかっていなかったと思う。
いずれにしても現地に行ってから解決しよう。

このページのTopへ

2001年9月26日(水)

今日のめざましテレビの占いだと、獅子座がワースト。そういうわけでもないだろうが、ひげそりに失敗、顔が血だらけになる。
今日は一日会社にいることができる。秋田から大須賀が上京。仮払いやら、カザフ関係のギャラを用意してもらう。
なんか忘れているような気がするのだが・・・
昨日野毛の福田さんから電話。赤レンガ倉庫でのタワズ(ウィグルの綱渡り)がダメになったという。福田さん自身かなり気合が入っていた企画だったのだが、残念。お金の問題より安全性を懸念した結果という。西田に報告。
クザンの契約書を作成。これを印刷するのに、プリンターの調子が悪く、2時間以上かかってしまう。
27日にプリンターを交換することになっているが、もう寿命なのだろう。
18時すぎに会社を出て、ラーメンを食べてサーカス文化の会例会に出席。
今日はカザフサーカスについて自分が報告することになっている。幸いなことに、わざわざ北九州までカザフサーカスを見に来てくれたK氏も出席してくれたので、話しやすかった。
前半は、おもにカザフサーカス来日までのことを説明。サーカス場を取られて、懸命にそれを取り戻すための彼らの努力と今回の来日公演のことを説明。後半はK氏の感想などをまじえて、今回の公演内容についてを話す。
21時すぎに終了。明日はまた北九州へ。話しているうちに、早くメンバーに会いたくなった。
23時前に帰宅。今日は星空がきれい。オリオン座が見えた。もう秋なのだ。

このページのTopへ

2001年9月27日(木)

7時起床。8時に電車に乗り、新横浜へ。名古屋まではただひたすら寝る。
携帯に電話。大阪の会場のカーペットの寸法を至急しりたいとのこと。
奥さんがつくってくれたおにぎりとシューマイで昼飯。このあともってきた桑野さんが翻訳したロシアアヴァンギャルトの本を読む。
しかしこのところ活字といえば、スポーツ新聞か日刊ゲンダイぐらいしか読んでいないので、活字についていけない。2−3ページで挫折。
また睡眠の世界に入る。
13時半小倉につく。なぜかうきうきしてしまう。
14時すぎに会場入り。今日は14時半から公演だという。ローマたちの楽屋へ。そして舞台へ。女性陣からはキスの歓迎。頬が口紅だらけ。
さらに公演中にはエンマが、客席にいた自分を舞台にあげて、自分の腹の上でダンスを踊ってくれる。
舞台裏は大爆笑だったという。
公演後打ち上げ。初演の時パーティをしたところ。最初はおとなしく始まったが、あとはみんなでダンス大会。
ここは21時で閉店。そのあとローソンに寄り、ウィスキイーを買って、宿舎で宴会。
何時に寝たのか覚えていない。

このページのTopへ

2001年9月28日(金)

9時すぎにデニスに起こされる。ローマの部屋で朝飯を食べろという。頭がガンガンする。
シャワーを浴びてローマの部屋に。ローマもイーリャもまだ寝ていた。なぜこんな早く起きたんだといわれる。ローマは昨日の夜あったままの姿でベットに横になっていた。
ローマが朝だというのに、ウィスキイを一杯飲めという。勘弁してくれよと言う感じなのだが、本人は真面目に私の健康を思って飲めと言っている。しようがないので一杯だけひっかける。
ローマたちは10時45分からショー。自分は少し部屋で休み、2回目のショーから見に行くことに。
1時間ぐらい寝る。大野の電話で起こされる。みんなに貸していたビデオを宅急便で送り、そのあと駅に寄ってローマたちの大阪行きの新幹線の切符を購入。
携帯に友人のN氏から電話。仕事で博覧祭に来ているという。
アジアンバサールで、冷麺とビール。N氏と合流。
二回目の公演をN氏と見る。早いもので、今日が最終日。スタッフの一員のN氏、K氏がエンマの餌食で、腹に乗られることに。
野毛の福田さんから電話。例のウィグルのタワズ、まだダメになっていないという。とうとう詐欺師の本領発揮。これから楽しみ。
大阪のM氏が来場。ローマたちが大阪でやく一カ月お世話になる。ショーのあと簡単な打合せ。
三回目最終公演。例によっていろいろ悪戯が入る。ローマとデニスがオープニングで酒を飲まされたよう。
公演終了後、サーカスのしきたり『ザ・カンチャーニエ』(千秋楽おめでとう)のお祝い。
19時に搬出用のトラック到着。今回は福岡にいく荷物、大阪にいく荷物、カザフに戻る荷物と分かれるので、その仕分け。
20時に作業完了。ローマが仲良くなったモンゴルの人たちと一緒に部屋に戻り、パサショーク。
21時ホテルの近くのカラオケ屋で、打ち上げ。
段取りが悪くて最初はいまいちのノリだったが、結局は皆で踊ったり、歌ったりと賑やかな宴会に。
感心したのは、エンマの歌。本当に声がきれいだ。
さんざん踊って、さんざん歌って1時に解散。
もう今日はこれでダウン。明日も早い。楽しい打ち上げになった。

このページのTopへ

2001年9月29日(土)

7時前に目が覚める。テレビをつけたら巨人の長嶋監督勇退のニュース。あまり驚かなかった。これで巨人ともやっとおさらばできる。
ジーマが起こしに来る。ローマの部屋でお茶をごちそうになる。イーリャも今日ここを撤収するので、荷物の整理に大忙し。
7時50分ジーマとエンマと3人でホテル出発。他のメンバーとはまえ会えるが、ナターシャとはこれでお別れ。
黒崎までタクシー、そのあと特急で博多へ。荷物が結構あるのでタクシーで福岡空港へ。荷物を預けて、朝食。
いよいよ長い一日が始まる。
福岡から札幌まで2時間ちょっと。飛行機ではほとんど寝ていた。ジーマもイビキをかいて寝ていた。エンマは寝れなかったようす。
12時45分千歳空港着。13時30分すぎの快速で小樽へ。
着いたとたんエンマが、故郷に帰ってきたと一言。うれしそうだった。確かに空気も新鮮に感じるし、さわやかな感じがする。
ホテルにチェックイン。16時にホテルを出て、遅い昼食。そのあとリハーサル会場へ。こうじ、重森は昨日到着してリハをやっている。
簡単な打合せのあと通しの稽古。
ジーマもエンマも疲れているのは間違いないのだが、またバンドのメンバーと会えて、なんとなくホットしているような感じだ。
18時半一回目の本番。エンマやジーマは前と同じことをしているので問題ない。ただ照明が前回と違っていたので、ジーマがやりずらいとのこと。I氏と打合せ。
公演後重森とこうじにとりあえず、ダメだし。
この間福岡の大野、ナターシャから電話。福岡の方は取り合えず、準備がおわったらしい。ただ向こうも相当ヘロヘロな様子。
大阪のM氏からも電話、ローマたちは無事に大阪入りしたらしい。
三回目の公演が終わり、小樽倉庫で食事。エンマとジーマはちょっと食べてホテルに戻る。無理もない。今日はほんとうにハードな一日だったと思う。
重森とこうじで少し打合せ。
いい感じなのだが、気になったところの手直しについて意見を言っておく。
また明日はローマたちのリハ。大阪に行かねばならない。2日にメンバーがカザフに帰るまでは、まだまだ続く苦難の旅。
24時すぎにホテルに戻る。

このページのTopへ

2001年9月30日(日)

8時すぎに目が覚める。よく寝れたほうだろう。シャワーを浴びて、下のレストランで食事。ジーマとエンマ、こうじが食事中。
食後荷物をまとめて、10時前にホテルを出る。玄関までエンマとジーマが見送ってくれる。
いい天気だ。千歳まで行く電車のなかで、うとうとしながら、オホーツクの海を見る。
空港のカウンターで乗る予定の飛行機が、故障のため飛ばないことが判明。12時に出るジャルに変更する。
離陸前にビールを飲んで、フライト中はひたすら寝る。大阪近くになって、雨のためかなり機体が揺れ、目が覚める。
バスでなんばへ。雨が結構降っている。御堂筋パレードのため南海のなんば駅にとまれず、ローマたちがいるゲストハウスまでかなり歩くことに。
ゲストハウスでローマ、イーリャ、デニスと再会。みんな設備がいい宿舎なので満足している。それに仕事も終わってのんびりしていた。
さっそくウォッカで乾杯。
M氏がまもなくやってきて、劇場へ。
道具を組み立て、リハまでぶらぶらする。
18時からリハ。北九州から持ってきた絨毯を舞台に敷いて見る。ステージが北九州と比べてかなり狭い。三人それぞれの車輪をつかってまず回ってみる。
いままで5人でやっていたので、3人でやる今回のためにいろいろ段取りを打合せながらリハ。
音と照明と一緒に通しでリハ。ほとんど問題はなかったが、舞台側で絨毯をどう敷いてどう片づけるかが問題になる。
それを見ていたローマたちが、絨毯なしで出来るかどうか試しに回ってみる。
多少滑るようだが、問題ないことがわかる。絨毯なしで行こうということになる。劇場側もこれでだいぶ楽になる。
ということで無事にリハ終了。いったんゲストハウスに戻り、M氏を交え、ウォッカを少し飲む。
このあと近くのお好み焼きへ。みんな喜んで食べる。
部屋に戻り、飲み直し。福岡のオリガ、小樽のジーマに電話。みんな問題がないとのこと。すぐこのあとにエンマからローマに電話が入る。今日の一回目のステージでロシア人がたくさん見に来ていて、チップが2万円集まったという。
昨日いった中華屋でジーマにおごってやったという。
ローマもイーリャも安心した様子。
ウォッカが切れる。イーリャも居眠りしはじめたので、デニスの部屋に行くことにする。
三人でウォッカを探しに街に繰り出す。途中ホームレスの人たちがダンボールの上で寝ていたのを見て、ふたりともびっくり。
いままで犬山、山形、小樽、北九州と、ホームレスの人たちを見たことはなかった。これも日本の現状なのだ。
ゲストハウスから歩いて10分ぐらいのところで、酒を売っているコンビニを発見。ウォッカはなかったが、ビールとウィスキイを買って、デニスの部屋で飲み直し。
結局4時までたらたらと飲むことに。

このページのTopへ


デラシネ通信 Top 日誌過去ログへ戻る