クマのお仕事日誌
2001年10月分


2001年10月1日(月)

9時に起きて、10時には部屋をでる手はずだったが、結局11時にローマに起こされて、目が覚める。お茶だけ飲んで、タクシーで大阪駅まで。
新幹線のなかではほとんど口も聞かず、ただひたすら寝る。
14時すぎにまず宿舎のエルザへ寄って、書類をとって、迎えに来てくれたK氏の車で博覧祭会場へ。
道具関係の書類のコピーをとってもらう。そのあとゲルでできたモンゴルレストランで食事。
ビールとウォッカ一本を四人で空ける。
エルザに戻って、一休み。
21時にエルザを出て、タクシーで黒崎へ行く。オリエンタルアクロバットのスベータとベリーダンスのヌリアと、ローマの4人で、パブレストランに入る。
バイク気違いのローマにとっては垂涎の的、ハーレーダビットソンが飾ってある。
2人の女性はよく食べる。料理も美味しかった。そしてウォッカもあった。
ヌリアは実にミステリアスな女性。突然日本人は死後を信じるのかと質問してくる。
カラオケもいいけど、最後の夜ぐらいはこんな風に静かに会話するのもいい。
1時すぎに店を出る。今日はそのまま寝る。

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2001年10月2日(火)

5時半目覚ましの音で目が覚める。軽くシャワーを浴びる。携帯に電話、バスがもう着いたという。
ローマも起こしに来る。ヌリアがちょっと寝坊。他のメンバーは荷物と一緒に下に集まっていた。
6時10分すぎに、エルザを出発。バスのなかでは全員うとうと。
7時すぎに空港着。7時半からチェックイン開始。最初に並んでいたのだが、名前とか国籍がいろいろ面倒なので、後回しにされる。
30分ぐらいたったところで、搭乗券をもらいながら、荷物の確認。この時は最年長の空中リンクのガーリャが仕切る。
こういう頼りになる人がいると助かる。全員の荷物をひとつひとつ確認し、荷札をつけ、搭乗券を渡す。
今回はエクセスもなし。
8時15分から搭乗受付が始まったが、最後のお土産を買うため何人かが店を回り、結局は8時45分すぎに税関のところへ。
ここでメンバー8人とひとりひとりお別れ、ローマの目に涙が。
一年かけて準備してきた今回のサーカスだけにこみ上げてくるものがあったようだ。
ガーリャが全員税関チェックが終わるのを確認して、手を振って別れを告げる。
ローマとレストランでお茶を飲む。ローマは一挙に疲れが出たようだ。昨日も別れた後、また4時ぐらいまで飲んでいたという。
タクシーでサーシャたちが泊まっているホテルへ。
ウィスキーを出される、勘弁してくれよという感じだが、拒否できない。少し飲んで、ベットで横になる。
12時すぎに目を覚ます。オリガとオクサナとサーシャはキャナルへ出発するという。こんどはローマがソファーに横になって、おおいびきをかいて寝る。
2時すぎに起こして、タクシーに乗ってキャナルへ。
15時の三人のショーを見学。なかなかいいショーになっている。
北九州で世話になったM氏も駆けつけてくれる。キャナルのKさんに挨拶。三人とお別れ、あわただしいがしようがない。
タクシーでまず博多駅に、ローマの切符を購入、大阪のM氏に連絡。ローマと別れを告げて、ナターシャとタクシーで空港に向かう。
なんとか間に合う。ナターシャとは空港の玄関で別れる。考えてみたら朝飯を食べてから何も食べていない。ラーメンを食べて、缶ビールを買って機内に持ち込み、離陸前飲み、そのまま寝る。
羽田に着いたところで、M氏から電話、無事ローマを受け取ったという。
もうヘロヘロ、タクシーで家に帰る。
ちょうど食事がはじまるところ、2人の娘の賑やかな話しを聞いて、飯を食べるのが、一番のやすらぎかもしれない。疲れがずいぶんとれたような気がする。
23時すぎ就寝。

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2001年10月3日(水)

朝3時ぐらいに目を覚ましてしまう。なにか外国から帰ってきて時差ボケのような状態になっている。
出勤前に床屋に寄る。二ヶ月ぶりに散髪。気持ちのうえでもかなりすっきりする。
一週間ぶりに出勤。新しいコピー兼プリンターが入っていた。ネットワークの設置を辻にしてもらう。
がなかなかうまくインストールできない。結局は自分だけは古いプリンターを使うことになる。
カザフの荷物のリストを作成。カーゴ会社にファックス。
そのあと精算。今回の精算は結構たいへんだ。
M氏と連絡をとり、明日名古屋駅で会う段取りを決め、その件をローマに連絡。
夕方小樽に電話。エンマたちはバンドのドラマーの人に招待されて、これからでかけるところだと言う。
メンバーが三カ所に分かれていると、いろいろ気になるものだ。
明日10時に名古屋駅で待ち合わせをすることになったので、8時代の新幹線に乗ることに。ネットで見ていたら、8時20分新横浜発の新幹線が、まだ少し指定席が残っているというので、いそいで駅に行くが、タッチの差で売れ切れてしまう。
明日は東京まで行って、自由席で行くしかない。6時起きだ。ちょっとうんざり。
19時会社を出る。

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2001年10月4日(木)

6時起床。新横浜からでは到底座れないと思い、東京まで出ることに。6時台の電車でも結構混んでいる。
なんとか席を見つけ、バッハの無伴奏チェロソナタを聞きながら、名古屋までほとんど寝て過ごす。
10時改札口でローマ、イーラ、デニス、M氏と落ち合う。名鉄の電車とバスをつかってリトルワールドへ。
今日団体で一杯。11時半の公演は超満員、ずっと立って見ることに。
急遽参加してくれた自転車君もなかなか頑張っている。観客のほとんどは小学生、中学生の団体だったが、受けていた。
ローマはキャロリーヌのトラピーズを絶賛。舞台裏に行き、M氏をみんなに紹介。
ローマの感想は、キャロリーヌのトラピーズだけが唯一称賛されるもので、他の番組は弱いとのこと。イーラはかなり気に入っていた。デニスは女の子がきれいだと、感想にならない感想を。
M氏はお洒落ですよねと満足げ。
台湾亭で5人で食事。M氏は食後大阪に戻る。
二回目の公演は見ずに、アイクのところに会いに行く。アイクはびっくり。4人で旧交を暖める。
このまま犬山に戻り、ホテルにチェックイン。三人はなじみの店に買い物へ。
自分は休憩。小一時間寝ていた。ミミクリーチの夢を見る。
ローマに呼ばれて部屋に行く。ユニクロで自分たちのズボンやらジャケットを買ったついでに、私のズボンも買ってくれたのだ。
ウェストの寸法も知らないのに、無茶なと思ったのだが、ローマは兄弟だからなんでもわかる、はいてみろというので、はくとこれがぴったり。いい柄だし、気に入った。
19時駅前の白木屋へ。アイク、リトルのS氏をはじめ3人も参加。
楽しく飲む。
23時すぎに別れ、また部屋でウォッカの飲み直し。イーラも珍しくまざって、馬鹿話をしながら飲む。イーラもずいぶんと落ち着いたようす。北九州では他のメンバーもいたし、いろいろストレスがたまることもあったが、ここではゆっくりとくつろいでいる。
なんだかんだと言っても、いい夫婦だ。
1時すぎに部屋に戻り、そのままばったり。

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2001年10月5日(金)

8時前に目が覚める。ひさしぶりにめざましテレビでケイちゃんの天気予報を見る。
9時半犬山のバス停に行き、昨日頼まれていたのに忘れていたものを今回のベルギーサーカスのアテンドをしてくれているKさんに渡す。どうでもいいですけど、大島さんめちゃめちゃ酒臭いっすといわれてしまう。
10時チェックアウト。ローマ夫妻は寝坊して、15分すぎに現れる。
電車で名古屋へ。ローマがもう酒はこりごりだ。明日からは牛乳を飲むと言い出す。どうして酒飲みってこんなふうなんだろう。
名古屋駅で荷物を預け、地下鉄で大須へ。ここは彼らのお気に入りの街。デニスは金のネックレスを購入。イーラは息子のために白い燕尾服を購入。三千円だという。
ローマはコンポを買うことが目的だったのだが、免税店はあいにく改修中で、今日まで閉店。ローマはがっくり。
いつも通っていた中華料理屋で食事。ここは外にベンチが置いてある。なにが都合がいいかというと、持ち込みのウォッカをわりと自由に飲めること。
アケード内に響く竹内まりあの曲を聞きながら、また3人でウォッカを飲みながら世間話。
カザフサーカスがいまサーカス場をとりもどすために、最終的な闘いをしているというローマの話しに耳を傾ける。これはかなり厳しい闘いでもあり、いろいろな陰謀もあるという。
初めて聞いた話しだが、スミルノフにローマはだいぶ誘われたらしい。それはそうだろう。サーカスでは素人のスミルノフにとって、アーティストから信頼されているローマが入ればこれにこしたことはない。
ローマは、友だちを裏切るわけにはいかないと、頑にこれを拒んだという。
イーラが買い物している間に、ローマがぽつんと、俺はこのイーラが三人目の奥さんだが、彼女は俺にとって金だと言った。愛しているのだろう。
エンマに約束していた浴衣を購入。
大須観音で、4人で賽銭を入れて、カザフサーカスがサーカス場を取り戻し、またここに来れるようにお祈りする。
16時名古屋駅で、3人とお別れ。大阪のM氏に電話。彼らは新大阪から自分たちだけで帰ると言ってますと言ったら、感動していた。こんなに手のかからないパフォーマーも珍しいという。
自分は17時前の新幹線に乗る。いつものように爆睡。
新横浜で地下鉄が事故、遠回りすることになったが、20時前に帰宅。
明日は久しぶりに休める。
このところ滞っているデラシネ通信の記事を書かねばと思いながら、1時前までごだごだしていた。

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2001年10月8日(月)

昨日の夜遅くに小樽に入る。エンマとジーマとホテルでちょっと会ったあと、重森とこうじと3人で、3時まで飲む。
今回の小樽での仕事は彼らにとっても大きな意味を持ったようだ。いろいろアィディアを生れる。
そのひとつが、小樽の今回のプロデューサーI氏をゲストにカバBに呼ぶこと。
いいアィディアだと思う。
11時ホテルをチェックアウト。荷物を預け、今日は徹底的に観光客になることにした。
こうじと重森が絶対行ったほうがいいといっていたオタモイ海岸にいくことにする。
駅をぶらぶらしていたら船見坂という看板が目に入り、この坂を登ることにする。
坂を下ってきた所で、ドラムのユキさんと会う。何かの縁なのかもしれない。ユキさんには、ジーマとエンマ、重森、こうじもほんとうに世話になったようだ。
ユキさんは仕事の途中。また夜会うことを約して別れる。
タクシーを拾ってオタモイ海岸へ。コンビニでおにぎりとビールを買った。
いいところだ。なにより驚くべきことは、ここはかつて昭和十一年に佐藤某という人が、つくったリゾート地であったことだ。
ここにこんなリゾート地をつくるというアィディアをもった佐藤という人に猛烈に関心が湧いてくる。
ビールとお握りを食べながら、海岸でぼっとする。いいよな。こんな時を過ごすのも悪くはない。
積丹半島も見える。すっかりいい気持ちになる。
帰りは歩いてバス道路まででて、バスで駅前に出る。こういう旅はいい。久しぶりに勝手きままに街を歩く。ずいぶんと解放された気分になる。
ホテルにチェックイン。エンマに浴衣、ジーマにジャグリング雑誌をプレゼント。そのあと部屋で昼寝。
結構リアルな夢を見た。
19時半小樽倉庫に行く。I氏の手配で客席でビールを飲みながらショーを観覧。
いいショーになっている。もったいない。こんないいショーをもっと普及すること、それは自分の仕事だと思う。
三回目のショーが終わって、打ち上げ。
みんないい友だちになっている、別れたくない、そんな気持ちがひたすらに伝わってくる。
皆でカザフに行こう。そんなことをぶちあげた。皆乗ってくる。
エンマもジーマもここと、ここで一緒に仕事をしてきたメンバーと別れたくないのだ。
別れは辛い、もしかしたらこれでもう一生会えないのかもしれない、それを一番分かっているのはジーマとエンマだと思う。
でもそれは宿命なのだよ。旅をして、公演するうえでは、こんな別れがいつも待っている。それがサーカスなのだよ。
でもジーマが最後にスピーチしたように、これはさよならではない、また会える日までなのだ。
きっといつか会えると信じることで、また私たちはどこかで会えるようになる。
まんざらカザフで公演しようというのも嘘じゃない。ありえる話しなのだ。
これも国立カザフサーカスを救うためのひとつの手段だと思う。このバンドがカザフで公演することで、またひとつのチャンスが生れるかもしれない。
やりたい。
きっと会えるだろう。
そんな再会を準備すること、それも自分の仕事だと思う。仕事じゃないか、やりたいことなのかもしれない。
こんないい出会いを、つくってくれた人に感謝したい。
ジーマもエンマも決してさよならとはいわなかった、また会う日まで。
ダ・スヴィダーニャ。
きっと私たちはまた会えるはず、それが運命なのだと思う。

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2001年10月9日(火)

朝6時半目覚まし時計の音で起きる。軽くシャーワを浴びてから、下へ。タクシーが中型とぽうものの、荷物がかなりある。それぞれ座席に抱えながらかなり窮屈な感じで乗り込む。
特に前の席に座っていた重森とこうじは大変だったろう。
およそ一時間で千歳空港に到着。重森とこうじたちと別れを告げ、先にチェックイン。9時発仙台行きの飛行機に乗り込む。
エンマの話しだとかなり揺れたらしいが、ほとんど寝っぱなし。
10時に到着。ソウル行きの便の時間を確かめる。13時50分定刻通りの出発。およそ4時間待つことになる。長いウェイティングになると思ったのだが、時間はあっという間に去っていく。
12時40分すぎにお別れ。ふたりと抱き合って別れを告げる。
手荷物検査でひっかかる。ジーマが持っていたひげそりがダメだという。こんなんでなにができるかという気になる。本当はジーマは百円ショップで買ったカッターが3本ぐらいあったので、それのことを心配していたのに。ひげそりを預かり、お別れ。
どっと疲れがでてくる。なんともいえない寂しさがこみあげてくる。こんなことは普通ないことなのに。
バスで仙台駅まで行き、昼飯を食べ、ホテルにチェックイン。1時間ぐらい横になる。
携帯にYのT氏から電話。ローマたちの大阪での初演も無事にすんだという。ローマにエンマとジーマが無事発ったことを伝える。
17時半12月に山本光洋の公演をプロデュースするMさんと打合せ。この打合せを終えてから、身体がふらふらしていることに気づく。かなり調子が悪い。
血糖値がかなり上がっているのではないかと思う。
18時半若宮丸友の会の準備会のメンバーと落ち合う。高橋さんとは初めて会う。
駅の近くの飲み屋で、それぞれ自己紹介をしながら、今後の方針などを打合せ。
なかなか刺激的な会となった。酒を飲むと身体が落ち着いてくる、これではアル中ではないか。
会則や役員、総会の日取りなどを決めて、お開きになる。
久しぶりにあった東北放送のK氏と、二次会。
0時にホテルに戻る。
もうそろそろふたりが、アルマトゥイに着くころだ。
電話でもしようかと思ったが、やめといた。
2時に就寝。

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2001年10月10日(水)

8時すぎに眼が覚める。外は雨。駅に行くまで途中軽く、朝飯を食べる。
9時45分発の電車に乗って、東京へ戻る。仙台を出る直前に、YのT氏から携帯に電話。カザフスタンとか、アフガニスタンとかのスタンはどんな意味なのという問い合わせ。国という意味ですと答えておく。
ちょっと心配になって、奥さんに電話。間違いないという。
奥さんから近所に住む、奥さんの同級生が昨日亡くなったと知らされる。ガンだったという。
人ごとではない。ちょっと気が重くなる。
例によって車内で爆睡、大宮まで熟睡していた。
都内も大雨。千駄ヶ谷の駅で傘を購入、出社。
いろいろ書類の整理。カザフの荷物のスケジュール、クザンの大阪の件などなどで、あちこちと連絡。
どうもエンマがいなくなったこと、それでぽっかりと心のなかに隙間ができてしまった。どうもやる気が起こらない。
早く社会復帰してよ、と大野に叱咤される。
モスクワの新井が会社にやってくる、近くのそば屋で遅い昼飯。ほんとうは晩飯でもゆっくり食べたいところなのだが、いつもモスクワで世話になっているのに、申し訳ない。
小樽のドラムのユキさんから電話、ふたりとも無事着いたでしょうかという。ローマが絶対にアルマトゥイに連絡しているはずなので、ローマからなにも連絡がないので、たぶん大丈夫でしょうと答えておく。
今日はなななのソロライブ。自分がビデオを撮ることに。大雨の中ビデオをもってplanBまで。
今日はパフォーマー関係者が多い。久しぶりに手塚とか三雲もやってくる。今日T氏と食事することになっているローマと電話で話す。ジーマとエンマは無事に帰国したとのこと。なによりだ。
小樽のI氏とバンマスのK氏も遅れてやってくる。
S氏にふたりを紹介。I氏とのカバBでセッションすることについて簡単な打合せ。
公演後久しぶりに光洋ちゃんとか、みんなとしばし歓談。今日はかなり疲れていたので、23時ごろに引き上げる。雨は少しは弱まっていたが、歩く気力もなく、タクシーをつかまえて、渋谷まで。
品川から最終の一本前の快速に乗れる。
なんとかひとつ大きな山を越えたかなという感じ。

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2001年10月11日(木)

ひとつ先の駅まで歩く。久しぶりのこと。けっこう蒸していて、かなり汗がかいた。このところ数日足がフラフラする感じが続いている。ハードな日がずっと続いていたのでしようがないといえば、しようがないのだが。
自分の身体をいたわることも考えなくてはならない。
早く社会復帰しなければならないと自覚する。まずはレザンのことをいろいろやらなければならない。
自分が売った会場と連絡、契約のつめ、手配の確認をする。
大阪の券売のために、朝日の記者とアポ。来週大阪に行くことにする。
仕事が一段落したところで、辻君に新しく導入されたプリンターを使えるようにしてもらうため、インストールをお願いする。
かなり苦戦していたようだが、なんとか完了、テストをうまくいき、辻は感動していた。いままで使えなかったカラープリンターも使えるようになった。
しかし喜びも束の間、ネットに接続するとたしかに接続はしているのだが、受信バイトが落ちてしまい、サイトにつながらない、メールも送受信できなくなる。
これは一大事、ネットワークの接続をしたために、ネット関係がダウンしたのかということで、いろいろ操作しているうちに、プリンターとも接続できなくなる。
これで仕事は完全にお手上げ状態。書かなくてはならないロシア語の手紙や、請求書の作成、メールでのクザンのDM送付がまったくできなくなってしまう。
辻君もかなり焦り気味。いろいろいじればいじるほど事態は悪化していくような感じだ。
19時に作業を中止、明日やることに。
21時に冨岡の駅で、塾を終えた長女をピックアップして帰宅。
食事をしたあと、Macでメールをチェックしながら、今日放映されたマスクマジシャンの番組をビデオで見る。
今回も少し仕事を手伝ったのだが、さすがテレビ、いろいろ苦心しながらつくっている。
12月にはライブショーも新宿厚生年金会館でやるという。どうなるのだろう。本当に人は入るのだろうか。それだけの力をテレビは持っているのだろうか。
ネタをばらしたショーを見たいという人がそんなにいるのだろうか?
などとおもいながらと早回しで見たあと、24時すぎに就寝。

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2001年10月12日(金)

今日もひとつ先の駅まで歩く。まだ足元がフラフラしている感じがする。
10時に出社。今日はもしかしたらパソコンが使えないかもしれないということで、その他の作業をまずはやることに。
今年もらった名刺の整理、夏以降の自分が担当した公演のファイルを整理する。
辻も自分ではとても直せないということで、プリンターを入れ、ネットワークの設定をしていった業者に連絡、専門家を連れていっかい会社に来てもらうことにする。
夕方までパソコンをつかわず、書類の整理に専念。こんなことができるのはずいぶんと久しぶりのこと。
パソコンだけをつかって仕事することがどれだけ多いかということなのだろう。
それにしてもカザフ関係の資料を整理していると、またいろいろな感慨が湧いてくる。ローマが2月から6月にかけて書いた手紙が一番あの時の切実な状況をよく物語っている。
ほんとうにあの時衣装をつくるのにも金がなかったのだ。よく凌いできたものだと思う。
ローマから頼まれた文化省と大使館に宛てた手紙をロシア語で書く。クリューコフに電話。あのお転婆娘ふたりはなんの問題もなくキエフに戻ったという。
ミキオはカザフのサーカスの仕事で忙しく、あまりかまってもらえなかったと言っていたという。もしかしたらあいつらは私のことを仕事のパートナーというよりは、兄貴か親父ぐらいのつもりで見ていたのかもしれない。
17時すぎキャノンの人がやってきて、パソコンの調整に。かなり手間取っていた、結局は2時間ぐらいかかって、ネットがつながるところまでで終了。プリンターについては、モデムカードを新しくするしかないという結論になる。
オアシスという特殊なワープロソフトをつかっていることもあるのかもしれない。会社内でのネットワークは無理なのかも。
20時会社を出る。

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2001年10月15日(月)

久しぶりに二日まるまる休め、アルコールも控え、朝早く目が覚める。実に久々ににジョギング。
いつものコースは秋の気配、枯れ葉もちらほら。帰ってみると、佐々木が最後のバッターを打ち取ったところ、マリナーズの勝利。
今日は下の娘の一泊遠足、いろいろ忘れ物をしていったらしい。親の手を離れて、一泊するのは、入院した時以来のこと。大丈夫なのだろうか。
午前中もろもろ書類の作成と整理。クザンの公演は、手打ちではないものの、パブと券売の手伝いをしなくてはならない。関西関係のマスコミの知人に資料をメールで送る。
キャナルの四人組にモスクワの新聞を送る。
13時planBでカバBの打合せ。11月公演のテーマを相談。小樽のI氏とのセッションを提案したのだが、セッションについてはもう少し時間をおいてやりたいというので、あらたなテーマ探し。
結局はタイトルをつけて、それに沿うかたちで各自がネタをつくり、演出もしていくことになった。
問題は何をタイトルにするか、いろいろ意見が出される。抽象的なもの、具体的なもの案が出されるが、時間をテーマにすることになった。
これだといろいろふくらみが持たされるし、演出についてもいじれるのではないか。
11月一週目にそれぞれ案を持って再度打合せをすることになった。
15時半会社に戻る。
やらなくてはならないことがあるのだが、なかなか手につかない。
プリンターも使えないのがいたい。
18時半会社を出る。
今日は何ヵ月ぶりかでアルコール抜き。

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2001年10月16日(火)

出勤前に病院によって糖尿の検査。いったいどんな結果になるのだろう。前回はかなり血糖値が下がったのだが、今回はすごい数値になっているような気がする。
電車に乗る前家に電話、マリナーズの勝利を確認。
13時名鉄のY氏とT企画に出向く。打合せが終わったあと、りゅうほうでラーメンを食べる。社長は不在のようす。あいかわらずお客さんで一杯。初めて気づいたのだが、この店に置いてある新聞紙に、スポーツ紙にまじって、『読書人』がある。さすが読書好きの社長だ。
15時半会社に戻る。四人そろったところで、レ・クザンのスケジュールの打合せ。今回は手打ちの公演がないのでかなり楽といえば楽。
はやいもので来週には来日だ。
なかなか仕事に手がつかない。残務整理で精一杯だ。
18時会社を出て、新宿の楽太郎という居酒屋へ。KさんとT氏と飲み会。
T氏に早く神彰を書くように急かされる。
携帯に電話、明日会う予定の大阪朝日のI氏から、会う時間を1時間早めて欲しいとのこと。早起きしなければならないということだ。
また携帯に電話、今度はローマの部屋で酒を飲んでいた九州のY社のN支社長から。N氏もすっかりカザフサーカスにはまったようだ。
このあともう一軒寄って、24時に帰宅。
メールを見ようと思ったら、操作ミスで見れなくなってしまう。早稲田の学生からメールが来ていたようだったが、悪いことをしてしまった。

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2001年10月17日(水)

7時に起きて、新横浜へ。乗ろうと思ったのぞみが満席。しようがないので8時36分ののぞみに乗る。
例によって爆睡。完璧に大阪まで寝ていた。大阪は雨まじり、なんでも台風が来ているらしい。
12時朝日へ、I氏から演劇担当のT氏を紹介される。記事を書いてくれそうな感じ。これで一安心。
リッツホテルでF氏と食事。えらいゴージャスなところだった。二千二百円の炒飯を食べる。
15時半毎日新聞、そのあとヘップで舞台関係の打合せ。舞台スタッフが変わっていた。ワークショップの申し込みが結構きているようだ。
17時読売新聞、さすがに同じことばかり言っているので疲れてきた。17時半予定の新聞社まわりは終わる。
F氏と梅田で別れて、なんばへ。
18時きっかりに、ゲストハウスへ。イーラとローマも大喜び。じきにM氏とT氏もやってきて、ローマお手製のカザフの名物料理プロフをごちそうになりながら、ウォッカを飲む。
ローマの話しによると、ハーリックをめぐる状況は益々良くなっているという。サーカス場をスミルノフに売却したアスコナホールディングの社長が、刑務所に入れられたとのこと。
サーカス場奪回までもう一息のところまで来ている。
昨日も飲んだせいもあって、早めにダウン。ゲストハウスの一室を開けてもらって、ローマとデニスに抱えられながらベットに横になった。

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2001年10月18日(木)

一度7時すぎに目が覚めた。服を着たまま、ベットに倒れていた。もう一寝入りしたら、9時半。あわてて起きて、ローマの部屋へ。ローマたちもまだ寝ていたようす。
M氏から携帯に電話。ギャラの支払いに立ち会ってもらいたいとのこと。
10時すぎにローマの部屋で食事。昨日のプロフの残りを食べる。
まもなくM氏のつかいの人がやって来て、ローマにギャラの支払い。ローマがさあ今日は金もあるし、どこかに飲みに行こうという。
いやいやもう帰らなくてはと言うと、ローマもイーラもびっくり、どうやら今日も大阪で泊まると思ったらしい。
またクザンの時に大阪に来るからと言ったのだが、まだ二週間もあるじゃないかと言い出す。
確かにみんなといる時は自分も居心地がいいのだが、そうもしてられない。
11時すぎにゲストハウスを出る。
12時16分新大阪発のひかりに乗る。ビールを飲んで、新横浜までずっと寝ていた。
15時半出社。あまりやる気がおこらず、仕事もはかどらない。18時すぎには会社を出る。
夜ローマから電話、さっきハーリックから電話がきて、11月25日から中国公演が決まったという。7カ月間の仕事になるとのこと。ビザを取るために、パスポートのコピーが必要になったらしい。会社に行けばコピーがあるので、明日カザフにファックスすることにする。
ローマも休むまもなく仕事しなくてはならないわけだ。でも仕事があるのはいいこと、本人も嬉しそうだった。

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2001年10月19日(金)

今日もジョギング。まだまだ身体の状態は本調子でないことは確か。
出勤して、サーカス文化の会の会報づくりから。プリンターが使えないのが痛い。
いちいち文書をDOSに変換してメールを送らないといけない。
うっかりしていたが、今日から静岡大道芸のシアター公演が始まる。来週とばかり思っていたのに。
いそいでクザンのチラシを置いてもらうようにお願いする。
クザンの大阪の案内をあちこちに送らないといけないのに、そちらまで手が回らない。
19時桜木町で仙台の東北放送のK氏と待ち合わせ、野毛の万里へご案内。
K氏は野毛は初めて。まもなく福田さんが現れる。福田さんと会うのも久しぶりだ。
相変わらずの福田節。22時に万里を出て、バラ荘でハイボールを飲む。K氏が途中見かけた、宮城という店が気になるというので、寄ることに。
入ったことがない店だったが、K氏の予想通り宮城県出身のおばちゃんがやっている店。たたずまいが宮城の感じだとK氏は喜ぶ。
ここで軽くビールを飲んで、仕上げはだるま寿司と思ったのだが、もう閉まっていた。珍しいこともあるもんだ。
万里放題亭の脇にあるコンテナレストランのうちの一軒の寿司で、まぐろ丼を食べて、今日はお開き。
初めてくる野毛にK氏はいたく感動していたようだ。
ああよく飲んだ。
12時すぎに帰宅。

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2001年10月22日(月)

出勤前に病院に寄って、先週の検査の結果を聞く。案の定というか、予想以上に悪い結果。血糖値が190以上、コレストロールも200をはるかに越えてしまった。
前回8月の時より、それぞれ60から70のアップ。
いかに不摂生な生活を送っていたかということだろう。とにかく酒が問題だろう。まずは酒の量を減らすことだ。
横浜で奥さんと待ち合わせ、高島屋でジャケットを買うのを手伝ってもらう。
ものの10分もかからずに選べてしまう。
12時前に出勤。
まずはサーカス文化の会の会報を発送する準備。テレビでメジャーリーグの試合を見ながら、チラシや会報を折る作業をする。
なんと佐々木がさよならホームランを打たれて、マリナーズの負け。
14時に発送作業が終了。これが終わって、自分のパソコンがプリントアウトできない状態になっているので、これを辻君に調整してもらう。ところがまた前回同様、ネットのつながりを悪くなり、メールやネットが見れなくなってしまう。
辻君がずっとかかりきりになるが、結局はダメ。明日またやることに。
キャナルのFさんから電話、17時の公演のあと、フラフープのアレーシャが腹痛を訴え、かなり痛そうにしているという。
オリガと電話で話し、事情を聞く。生理痛だから心配ないという、19時の公演もできるし、今晩自分の持っている薬を飲ませるから大丈夫だという。Fさんにそれを伝えると、生理痛だということで少しは安心したようす。
19時半にキャナルに電話、様子を聞くが、ちょっときつそうに演技はしていたが、無事に終わったとのこと。もう一度明日の朝状態を確かめることにした。
この電話のあと、帰社。

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2001年10月23日(火)

パソコンがダウンしたまま、何が原因なのだろう。辻君が一生懸命復旧につとめるが、埒があかない。
新しいプリンターを導入したキャノンにエンジニアを派遣してもらうことにする。
11時過ぎに福岡のアレーシャに電話、体調がどうか聞く。大丈夫、昨日オリガから薬をもらったので、よくなったという一安心。
F氏にこの件を報告。F氏も喜んでいた。
パソコンがつかえないので、メールも打てないし、ネットも見れない、デラシネの更新もできない。
午後からは、漂流民の会の会報と準備会の報告書をプリントアウトしてもらい、それをコピーする。
あとは内職に没頭。
キャノンから電話、エンジニアは明後日しか来れないという。しようがない。
やることもないので、6時すぎに退社。

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2001年10月24日(水)

朝ジョギング。少しずつ体調が良くなってきたような気がする。
今日はパソコンが使えないと分かっていたので、最初から内職モード。
午前中若宮丸漂流民の会の発起人の人たちに、昨日プリントアウトした案内と会則案を発送する。
午後2時から、明日から来日するレ・クザンのスケジュール表を見ながら、打合せ。
明日来日して、帰りは来月の17日だから、結構滞在することになる。今回は東京・大阪だけでなく、四国や三重県もあり、移動が大変だ。
これが終わって今年は一段落という感じになるのだろうか。
東京のクザンの公演は、日曜日がほぼ満員になったという。あとは大阪が心配だ。
いよいよ明日からクザンの公演が始まるのか、まだずいぶん先のことだと思っていたのに。
今日も18時であがり。

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2001年10月25日(木)

10時半にキャノンの技術者が来る。30分ぐらいでパソコンを修理、プリントアウトもできるし、ネットのつながりももとのまま。いままで2日間何もできなかったが、これですべて復旧。
久しぶりにすっきりとした気持ちになる。
ということで、メールをもらって返事できなかった人や、メールを出さなければならない人にメールを出す。
そして仕事日誌も3日ぶりにアップ。
レ・クザンのワークショップに必要なボールの手配。ワークショップの申し込み者がどのくらいいるか、HEPに確認。
今年はクラウンニングが15人も申し込みが来ているという。
ポン太から電話、いま「笑っていいとも」に出演するため、アルタにいるという。先日誰かクラウンを紹介してくれという問い合わせがあったときに、彼を紹介しておいたのだが、出演が決まったようだ。
「大道芸人を探せ」というコーナーに出ていた。
大野が、クザンの迎えに成田に出発する。
12月の山本光洋の仙台公演のことも進めなければならない。プロデュースをするMさんに電話。こちらから仙台の知人たちにDMを送るので、チラシを余分に送ってもらうよう手配してもらう。
16時半すぎ、成田にいる大野から電話、クザンが無事に出てきたという。2時20分着だったのでずいぶん時間がかかったことになる。
18時クザンを乗せた車が会社に到着。ちょうど出かけるところだったのだが、みんなと挨拶。会うや否やみんな、私の笑い方を真似する。よく似ている。それにしてもみんな元気そうだ。
相変わらず陽気な連中だ。またこれからが楽しみだ。
新宿へ。小樽で世話になった小樽倉庫No.1のプロデューサーI氏が、今日はミュージシャンとしてPITINで公演する。
毎度のことだが、道に迷い、場所を探すのに苦労する。結局は交番で場所を聞く。
I氏は、ウッドベースのプレイヤー。小樽でプロデューサーをしている時とは、顔つきがまったく違う。緊張しているのかもしれない。
I氏とは一度カバBでやってみたいと思っていたので、どうしても生の演奏が聞きたかった。
なかなかカッコいいではないか。いくつかアイディアが浮かんできた。
一部のステージが終わったところで、ひきあげる。
22時半帰宅。

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2001年10月26日(金)

クザン組は9時から仕込、大野と辻が朝から現場。
月曜からまた10日ほど会社を留守にするので、もろもろ準備と手配。
カザフの荷物のピックアップの時間等の確認、クザンの吉海町から名張の移動を電車ではなく、バスにしたらどのくらいになるのかなどを問い合わせ。
ローマに頼まれていたビデオをパルにダビング。
そんなことをしているうちに、現場から電話、今日はクザンが絶対に一緒に飯を食いたいというので、20時にホテルに来るように念を押される。
20時三軒茶屋のホテルへ。明日から開催される大道芸フェスに出演するパフォーマーたちが集まっている。
近くの居酒屋で舞台スタッフも交えて、食事。
あの大酒飲みのモーリスがウーロン茶だけしか飲まないのに驚く。一年ぐらい禁酒しているという。
来年5月にはクザンの新作ができるという。
クザンは明日から仕事だというので、早々に引き上げる。
舞台監督のH氏と照明のM氏と残り、ウォッカ談義に花を咲かせ、結局は品川までタクシーに乗り、ギリギリで終電に間に合う。

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2001年10月27日(土)

7時半起床。9時20分新横浜発の新幹線に乗る。自由席が結構混んでいる、辻とバラバラでやっと席に座れる。
助かった。寝不足気味なので、立つのはきつい。1時間以上睡眠がとれる。
名古屋駅で、N氏と落ち合い、リトルへ向かう。
今日は駐車場が下まで満杯、ゴールデンウィーク並の混雑。なんでも川崎重工の社員リクレーションで三千人ぐらい来館しているらしい。
13時の公演も超満員。前回ローマと来た時は、ジャグラーのベンジーが怪我で出演できなく、代わりの自転車のパフォーマーのショーを見たのだが、リトルのS氏が言っていたように、内容的には全然ちがう、やはりジャグリングが入った今回のパージョンの方がいい。
公演後N氏と打合せをかねて、レストランで食事。
N氏が19時まで東京に戻らなくてはならないというので、食後辻とN氏はリトルを出る。
ドイツの館のところに行ってS氏に挨拶。風邪をひいていて調子が悪そう。今日が初日のアメリカの大道芸を見る。
帰りぎわに野外ステージに寄って、KさんとMさんに挨拶。
16時すぎのバスで犬山へ。犬山から大道芸人をいれた会社の人と電車が一緒だった。
名古屋から大野に電話、クザンの初演の様子を聞く。お客さんもほぼ満席、反応もよかったという。大成功ということで安心。
20時すぎに帰宅。

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2001年10月28日(日)

大阪に送る荷物を整理したあと、11時に家を出る。
ななちゃんの公演の時にもらった鬼太郎のノートをかや子が欲しがっていたので、ななちゃんから買った場所を聞いて、蒲田のユザワヤに寄る。
売り場が変わったらしく、結局は発見できず、無駄足になった。
三軒茶屋でラーメンを食べて、14時半前に会場入り。すでに開場したあとで、続々お客さんが入場している。今日も満員になりそうだ。
阿久根さんご夫妻と久しぶりに話すことができた。
超満員で、席は三階しか空いてなく、三階から観劇。まわりはフランス人の家族連れ、ヤンヤの声援を送っていた。
やはりクザンは面白い。エンターテイメントに徹している小気味よさがある。
お客さんの反応もいい、これは見た知り合いの人たちがみんな言っていたことだが、子ども連れのお客さんが今日は多かったのだが、子どもの反応が実に素直で、それに回りの大人たちも巻き込まれて、とてもいい感じになっている。
公演後の撤収は早く終わったのだが、搬出のトラックが道に迷っているらしく、なかなか来ない、結局予定の時間の2時間後に到着、搬出が終わったのは19時半ごろ。
自分は18時半から開かれた打ち上げに参加。大道芸とクザンと合同の打ち上げで、会場には顔見知りのパフォーマーがたくさん。
こちらは19時半にはクローズ。搬出を終えたスタッフが着いた時には、お開き状態。
打ち上げに参加したメンバーもおなかが空いているようで、駅の近くの居酒屋へ。
今日はモーリスも飲む。最後の方はだいぶこわれていた。
そろそろ終電がやばそうだったので、23時すぎにKさんと一緒に出て、車で渋谷まででる。
山手線に乗っている時に、携帯に電話、クザンからだった。傘を忘れるなよ、寝て終電に遅れるなと、やさしいアドバイス。
終電には乗れたが、何故か上大岡のずっと手前で、普通に乗り換えてしまい、結局は上大岡からタクシーに乗るハメに。
家に着いたのは、1時すぎだった。

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2001年10月29日(月)

午前中に、今日からまたしばらく会社を離れるので、雑用の整理。
野毛の福田さんから電話、来年の野毛はクレージー・ウーマンでいきたいので、中央アジアからなにか呼べないかとの相談。
エンマがいいだろうなあ。
Y社のM氏から電話、ローマたちの帰りの荷物の手配の確認。
慌ただしいまま、何か忘れているような気もするのだが、会社を出る。
新幹線に乗って、名古屋の手前まで寝ていた。起きてから大阪まで中村先生の新刊「ロシアの風」を読む。
やっと最近は活字が読めるようになった。
大阪に着いたところで大野に電話。今日の歓迎会は18時とのこと。ホテルに着いたのがちょうど18時。
クザンの3人はボロボロ。今日の朝6時まで飲んでいたという。途中で帰ったロロだけが元気。
下のバイキングレストランで歓迎会。レネとモーリスはウーロン茶。
レネは相当しんどいらしく、途中で部屋に戻る。
20時すぎにお開き。
部屋で休んでいたら福岡のサーシャから電話。なんでも北九州の舞台スタッフのひとりユミさんが遊びにきているらしい。楽屋でウッオカを飲んでいるとのこと。
元気そうでなによりだ。
ゲストハウスに電話。ローマがすぐに来いという。
タクシーでゲストハウスまで。ローマ、デニス、イーラと三人でウォッカを飲みながら、この二週間の出来事を聞く。別になにもあったわけでないのだが、こうして話しをしているのが、なんでこんなに居心地がいいのだろう。
自分は2時にダウン。例によってデニスの部屋のベッドでばたんキュー。

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2001年10月30日(火)

まるで昨日のウォッカが、睡眠薬ではないかと思うぐらい熟睡。12時近くにやっと目を覚ます。
10時間ちかく寝たことにになる。こんなことはここ最近ない。
イーラは買い物に出かけたらしい。ローマとデニスと朝食をとったあと、日本橋商店街に行く。
ここの免税店で、ローマが買おうと思っているファックスを見る。買うつもりだったのだが、パスポートを持ってきてないということで、明日また来ることに。
戎橋商店街を歩く。ローマが自分に革のジャケットをプレゼントしてくれるという。
小さな古着屋に入り、品定め。革のジャッケットなんて、自分にはあわないと思うのだが、どうしてもというので買ってもらうことにした。
ローマたちと別れ、ホテルに戻る。メールのチェック。
揚子江でチャンポンを食べて16時にHEP入り。
18時半からワークショップ。クラウンニングのコースを見学。
今日のワークショップは、パートナーとなる人との呼吸をどうやってあわせていくかを中心に行われる。
最初の空間をまわりを意識しながら、歩くというのはBPの時と同じ。
まわりというか、パートナーを意識しながら、演じるというのは、実はとても難しいことであることがよくわかる。
クラウンニングに関しては、やはり3時間という時間では足りないと思う。
今回の出席者は、なにかをつかみかけたところで、終わったしまったような感じがしたのではないだろうか。
大幅に押して、10時すぎに終了。
クザンのメンバーをホテル近くの居酒屋まで案内して別れて、ゲストハウスへ。
23時を回っていた。
ラグマンを食べ、ウォッカを飲んで、何故かビデオの『インディー・ジョーンズ最後の聖戦』を皆で見る。
イーラは疲れていたようで、ベットで横になっているうちに寝てしまう。
1時すぎ映画を見終えたところで、今日はホテルに帰ることにする。
タクシーでホテルに戻り、3時すぎに就寝。

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2001年10月31日(水)

昼過ぎに目が覚める。風呂にお湯を張って入る。
しばらく部屋で電話をしたり、メールをあちこちに出したりしていたが、飽きてきて、外に出る。
阪急の古書店街に行ったが、定休日。駅ビルの古本屋、旭屋書店を見て、ナンバへ。
15時YでM氏とT氏と打合せ。そのあとNGKの楽屋に寄って、ローマたちと会う。
荷物の箱の件で、確認。
17時HEP入り。
18時半からワークショップ。今日はレネはシンプルにやると気合が入っている。
昨日も参加した人が4人、全員で14人。昨日の経験も生かして、今日はスピーディーに進む。
参加者のテンションも昨日よりはずいぶん高く、集中していた。いいワークショップだった。
ジャグリングの方も初心者の人たちは大体3ボールができるようになっていた。ロロはいい先生だ。
22時に終了、近くの居酒屋で食事。今晩到着したばかりの舞台スタッフのH氏、M氏、T氏も合流。
24時ホテルに戻ると、デニスから電話。いまバーにいるから来いという。明日は仕込で早いので勘弁してもらう。
Mさんも一緒だった。男たちだけで夜を楽しもうということなのだが、さすがに今日は身体がついていかない。
2時前に就寝。

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