クマのお仕事日誌
2002年2月分


2002年2月4日(月)

会社に着いたら、出したと思っていた早稲田の学生のレポートの採点が、机の上にのっかっているではないか。あわてて速達で出す。せっかく今日が締切りだというので、木曜日夜遅くまでかかって採点したのに、やになってくる。
ショック。
にぎわい座のカバBの実施要項を作成し、野毛にFAX。
午前中打合せ。野毛に出演が決まったアーティストをどこにプレゼンするか、結構いいギャラをとるので、値段の設定が難しい。
大阪のGWの企画の件で、進行状況を聞く。時間があるようでないので、アーティストを押さえていく必要がある。
ロシア語で契約書つくり。
T企画のS社長に電話、アポをとろうと思ったのだが、今日しかないというので、急きょ行くことに。
17時半すぎから、2時間近くいろいろな話を聞く。
相変わらず精力的に動いている。
ハマムラの話のその後についても報告。とても面白がってくれた。
刺激的な2時間だった。
まっすぐ帰宅。

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2002年2月5日(火)

久しぶりに杉田駅まで歩く。妙法寺の梅の花がぽちぽち咲き始めているのに、驚く。
確実に春が近づいているということなのだろう。
外務省に寄る。移転して大門の駅の近くのビルに査証相談センターがあった。
サーカス学校の先生の娘オリガの査証の件を尋ねたのだが、わりと簡単なようだ。
ビルを出るとき、ひとりのおやじに声をかけられる。東京駅からタクシーに乗って外務省と言ったら、霞が関の元の庁舎まで連れて行かれたという。何の用事なのかと思ったら、あなたも国際結婚ですかと言い出す。
違いますよと答えると、書類すぐにもらえると思ったらもらえなかったのですよと言う。早々に切り上げようと思ったのだが、このおやじさんの目は、俺の話もっと聞いてくれよと語っていた。おそらく地方からせっかく上京して来たのに、奥さんとなるべき人の査証の書類がそろわず、玄関払いみたいな感じであしらわれたのだろう。
悪いけどこれ以上付き合いたくなかったので、じゃと言ってその場を去る。
いま結構いるんだろうなあ、こういう国際結婚するおやじさんは。
大門の駅で秋田に戻るかなちゃんと出くわす。
ローマから昨日電話があったという。昼過ぎローマに電話、イリーナがでる。いまローマは走り回っているという。
夕方ローマからFAXが来たので、もう一度電話。少し興奮気味にサーカス場が戻ってくるという。いまは詰めの段階なので、FAXで送ったような内容の文を文化大臣に書いて、送ってくれとのことだった。
素晴らしい話だ。サーカス場をとられてから、2年あまり、もうすぐそこまでサーカス場を取り戻すところまできたのだ。
ローマはじめ、ハーリックの諦めずに、信念をもってやってきたことが実ったということだろう。
ローマは今週末には中国に出発するという。今日はこれから会社をでなければならないので、明日書いて送ることにした。
19時萬里で、M氏と会う。福田さんもあとから加わる。M氏とは初対面。
萬里でさんざん福田さんの馬鹿話を聞いたあとに、ばら荘に寄る。M氏とサーカスの話で盛りあがる。
楽しい一夜であった。

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2002年2月6日(水)

出社前歯医者に寄る。定期検診。予想はしていたのだが、やはりあちこちにまた虫歯ができているらしい。
またしばらく通院することになった。
八ヶ月ぶりに来たが、いろいろな新兵器がそろっていた。この医者は新しい器具が好きなようだ。今回導入されていたのは、虫歯度チェックマシーン。
歯に器具をあてると、虫歯度が何%がでる。2本の歯が99%の虫歯度だった。
昼過ぎに出社。まずは昨日ローマからもらっていたカザフ文化大臣にあてたテキストを清書することに。
「貴国のサーカス場が、文化省管轄国立カザフサーカスに戻ることになったことをお祝いいたします」というテキストを目にして、ワープロを打ちながら、目がうるうるしてきた。
まだ最終決定ではないにせよ、ここまでたどりついたのである。二年間ハーリックたちが粘り強く、そして決して諦めずに交渉を続けた結果である。ほんとうによくやったと思う。
ローマに、ハーリックがサーカス場に戻る日には、自分も立ち会いたいと手紙をそえて、カザフにFAXを流す。
会社のパソコンのデーターを家で新しく導入したパソコンに移す作業を、辻にやってもらう。
LANで繋ぎ、わりとスムーズにデータを移すことができた。メールのアドレスや、ファイルメーカーのデーターが移すことができたので、万々歳。さすが辻君。
神奈川県芸術財団から電話、3月に行われるロシア・アヴァンギャルドシンポジウムの中のメイエルホリドの一夜で、パネラーとして参加して欲しいという依頼。いまさらメイエルホリドのことを話せといわれても、そんな知識はないので、断わろうと思ったのだが、むしろサーカスやアクロバットのことを中心に話してもらいたいということだったので、それだったらできるかもしれないと思い、引き受けることにした。
あとできっとまた安請け合いと後悔するかもしれないけど。
帰宅後ディズニーシーで働いているロシア人のマジシャンから電話、明日会えないかということだったが、無理。来週も無理そうなので、再来週ぐらいに会いに行こう。
デラシネ通信リニュアルの案内をメールで送信。

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2002年2月7日(木)

午後新宿で大野と一緒に、打合せ。最近独立したという女性プロモーターと今後の企画の件で1時間ちかく話し合う。見かけはおとなしそうな人だが、芯が強そうで、しっかりとした考え方も持っている。
元気印の女性であることは間違いない。
企画の提案をいくつかする。今後もいろいろ連絡し合うことにする。
このあと真っ直ぐ川崎のクラブチッタへ。
Mプロデューサーと少し突っ込んだ話をする。
少しは具体的になってきたかな。
桜木町で、K氏、H氏、Kさんと落ち合い、一千代へ。ふぐ鍋をつつきながら、歓談。
家に帰ると、Kさんからお手製のキムチのプレゼント。これが美味しいんだ。ちょうどキムチに飢えていた時だったので、グットタイミング。
カザフのローマに電話、昨日FAXは確かに受け取ったとのこと。とにかくいま最後の詰めで朝から晩まで走り回っていたという。なんでも月曜日にアスコナから文化省の役人が来るので、ハーリックを支援するという手紙を、その時に見せたいということらしい。
ACC以外にも、モスクワのサーカス団、タシケントのサーカス団、中国のサーカス団から続々手紙が届けられているという。
もう少しだと声も弾んでいた。ローマは17日にカザフを出て、中国に向かうという。
お前が手紙で書いていたのは正しい、サーカス場にハーリックが戻る時、アルマトゥイで盛大なパーティーをやるから、その時に来い、それが一番いいと言う。自分もその時は中国を抜け出して、お祝いに駆けつけるつもりだ。
よく我慢してきたなあと言ったら、4年間あまりほんとうに大変だった、でももうまもなくで奪い返せると喜んでいた。
うれしいなあ。あと一歩だ。

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2002年2月8日(金)

カザフサーカスの北九州公演のプロデュースをしてくれた吉本興業のT氏に電話。
もう一歩でサーカス場奪還できるので、あと一押しのために、国立カザフサーカスを支援する手紙を書いてもらえないかを打診する。
快諾してもらい、ダイレクトにカザフにFAXを送ってもらう。一緒にアルマトゥイで彼らの苦境を実際に見ているので、T氏にも思い入れはある。
こうした小さなことでしか力になれないが、なんとかハーリックたちがサーカス場を取り戻すために何かをしたいということは、T氏も同じだ。
2月26日のダメじゃん小出の公演の招待案内をつくり、主にマスコミ関係者、笑いのことに関心をもっているライターの人たちに案内を送る。
今度のソロライブは、いろいろな意味で小出にとっても大きなターニングポイントとなる公演になるはずだ。
常連の客だけでなく、広くみてもらい、批評してもらうことも大事だと思う。
どれだけの人が見に来てくれるかはわからないが、こんなかたちで広報関係をするなかで、今回のライブには付き合っていこう。

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2002年2月12日(火)

「北風吹き抜く寒い朝は」などと古い歌を口ずさみなるほど、寒い朝が続く。杉田まで40分近く歩く。
ほころびかけていた梅の花も、咲くのを躊躇しているよう。
メールのチェック。GWに予定しているアーティストからコンファームを早くせよとの連絡。クライアントに連絡する。
野毛の大道芸の招待組の見積を作成して、FAX。
ふと思いついて、レザーノフと日本展の企画書をつくってみる。メモをいろいろ書いているうちに、なんとなく出来そうな感じになってきた。
企画ものは、こういう時に実現することが多い。なんとなくその気になってきた。
カザフの写真のことで問い合わせ。ローマに電話して聞くことにする。
帰宅したあと、カザフに電話。イーリャが出て、すべてサーカスの方はうまくいっている。いまローマはハーリックのところで酒を飲んでいるはずだという。
ハーリックのところに電話、すぐにローマがでる。ハーリックが受話器をとり、まくしたてる。今日文化省の役人が来て、最終的な詰めをした、すべて順調だ、あとは最終決定を待つばかりだ、一ヶ月半後にはサーカス場に戻れるだろうという。
もうハーリックの頭の中は、サーカス場を取り戻したあとの次のプランのことで動いている。日本センターをつくると言っていた。
あの最初に会った時の、陽気で冗談ばかり言うハーリックに戻っていた。今日の会談が終わって、ほっとして酒を兄弟分と飲んでいる情景が目に浮かんでくる。
兄弟よ、神はいたんだよと言っていたのが、印象的だった。
お前がサーカス場に戻るとき、必ず行くぞと言って電話を切った。
また大きく前進したわけだ。うれしいよな。

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2002年2月13日(水)

出社途中家から電話。かや子が私立に合格したとのこと。本命は公立だが、まずは一安心。
18日が試験だから、あと5日のがんばりだ。
クラブチッタからメール。カバBの日にちの案がいくつか提出される。日程をフィックスさせて、本格的に進めることになる。
キャバレーづくりの第二段階ということでとらえていきたいし、次のステップを見据えてきちんとやらないといけない仕事になると思う。
カザフの件で、M氏にビデオ素材を作成し、送付。
夜西麻布のライブバーに行く。エンマの売り込みが目的。オーナーの人がなかなか面白い人。ちょうど店に来ていたホテル関係のお客さんに紹介してもらい、急きょプレゼン。
いいタイミングだった。
24時帰宅。

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2002年2月14日(木)

相変わらず寒い日が続く。今日もまた杉田駅まで、40分近く歩く。
クリューコフから照会していた航空券の値段がファックスされてくる。一年オープンのチケットとなるとエアフラとかKLMではないようだ。
カザフからもファックスが送られてくる。日本センター設立のための趣意書だった。
プレゼンに使おうと思っていたパレードもののビデオをダビングしながら見る。なかなか面白い。この手のものはいままであまりやっていないので、プレゼンに出すと喜ばれると思う。
先日野毛で会ったO氏から電話、これから訪ねるという。O氏は、なんと会社から3分ぐらいのところにある病院で勤めていたので、この前初めて会ったときに互いに名刺を見て、びっくりしていた。
野毛とは古くからの付き合いらしい。
クリューコフに電話。航空券のことでもう一度確認、アエロフロートだと1年有効のチケットがあるという。
明日もう一度電話することにする。
電話を切る時に「バレイタインデーおめでとう」と言われた。今日はバレンタインデーだったのだ。
18時に会社を出て、ラーメンを食べてから能楽堂へ。
公演後N氏と会う。いい席をとってもらったのでお礼を言う。いいもの、特に楽しいものを見たあとは、心が弾む。今日のは、本当に面白かった。

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2002年2月15日(金)

午前中私用で、お昼すぎに出社。
昨日来ていたカザフの日本センター設立のための趣意書を訳す。
こういう公式文書を訳すのは苦手、結構時間を食ってしまう。
T放送のK氏から電話、レザーノフと日本展の企画書についてのご意見を伺う。やはりあと二年しかないということを心配していた。
そうなのだ、時間はあまりないのだ。なんとか4月中には、企画書を完成させて、すぐにアクションをしなけれはならない。
クラスノヤールスクのKさんからメール。レザーノフフォンドとすぐに接触してくれたようす。
広がればいいのだけど。石巻に若宮丸漂流民の会ができたことに驚いていたという。
18時すぎに退社。

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2002年2月18日(月)

今日はかや子の公立高校の受験の日。朝5時半には起きていた。ジョギングに出かける前に、「緊張している?」と声をかけると、「うんうん」というので、少し安心。
いずれにせよ今日で受験に関係する勉強は終わるわけだ。よくがんばったと思う。
行きたいところに行かせたいけど、結果は結果。全力を出してくれたらいい。
野毛関係の契約の準備をしなくてはならない。アーティストたちに契約のための最終確認のメールを送る。
エンマの件で、ローマにファックス、一発で通った。ローマは23日に中国に出発するはず、出る前に一回電話で確認しないと。
エンマの売り先をあたらなくてはならない、とりあえずベリーダンスを派遣している会社とコンタクト。
サーカス文化の会例会の報告者が決まらない。早く決めないと。
夕方家に電話、かや子が出る。どうだったと聞くと、落ち込んでいるとのこと。全力だしたんだろ、と言うとつまらないミスをいくつかしたと浮かない答え。
しようがない、もう終わったことなのだから。
夕方planBで、クラブチッタのカバB公演に関して、S氏とU氏、Sさんと三人でミーティング。それぞれキャバレーへの思いがあるし、こんな風にやりたいという漠然としたアイディアはあるのだが、いざやるとなると、このアイディアをどう整理するのか、つまり構成する人が問題になるのではということになる。
誰がいいだろうという話の中で、ミュージシャンのM氏の名前があがる。
早速電話、快諾してくれた。これで骨格が見えてきた。
日程を二案出して、今月末下見をすることにする。なんとかいいものをつくりたい。
21時帰宅。かや子はソファーで横になっている。こんな時は試験のことを聞いてもしかたがない。
終わったことは終わったことなのだから。

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2002年2月19日(火)

朝病院に寄って、糖尿の検査。どんな結果になるものやら。
仙台のSからメール、出張で20日・21日上京するので、遊んでくれとのこと。しばらく会っていないので楽しみ。
野毛出演のアーティストに契約書をメールで送る。
Y社のM氏と一緒に昼飯を食べた後、カザフの件でクライアントと面会。自分は会うのが初めて。
比較的うまく説明できたのではないかと思う。興味を持ってもらったと思う。次の段階で、スケジュールとか経済条件を出せれば、また具体的に話が進めるのではないかと思う。
ちょっと手応えを感じる。
カバBの件で、下見のスケジュールを調整。27日でとりあえず決定。
ローマに電話、エンマのビザに関係する書類のことを聞くが、一週間前には送ったとのこと。まだまだカザフは遠い。
明日ぐらいには着くのではとのことだ。ローマたちはまだ中国行きのビザがとれないので、来週ぐらいに出発の予定だと言っていた。
中国はしんどいところだととも。

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2002年2月20日(水)

家を出る前に、今日の国会中継を録画セットしておく。田中、鈴木の参考人審議は、絶対にみものなはず。
ニュースでもかいつまんで要所要所は見れるだろうが、こういう時は全体を見たいもの。
カザフの件がまたひとつ前進、テレビ番組にしてとりあげるべく、話を進めていくことになった。
野毛の福田さんから電話、仏具たたき売りがダメになったという。仏具店からはOKがでていたのだが、昨日仏具屋さんが福田さんのところにやってきて、坊さんからクレームが入ったという。
仏具店に客を紹介するのは坊さんたちで、勝手にたたき売りなどされたら困るということらしい。
叩き売りの時の口上を担当していただけに、ちょっと残念。福田さんもがっかりしていた。
お仕事日誌のカウンターがいっこうに増えないのはおかしいと思い、デスクの大野にメールを出すと、止まっていたことが判明し、早速修理してくれる。
おかしいと思っていたのだが、謎が判明した。
文化の会会報を作成、安部氏が快く月例会の報告を引き受けてくれた。
神奈川芸術財団より書類、3月8日のメイエルホリドシンポジウムのパネラーとしての出演依頼。もしかしたらえらいことを引き受けてしまったのかもしれない。
帰宅して、ニュースを見ると、今日の証人喚問一色。かみさんも久しぶりに面白い喚問中継だったという。
寝る前に田中真紀子のところだけを見る。質問を受けて、答えに立つ寸前の目つきが凄い迫力だ。小泉もたいへんな人を敵にまわしたものだ。
田中が本当の敵として捉えているのは、官邸、取り巻きといっていた福田官房長官なのだろう。
このまま政府はうやもやにしようとしているのだろうが、第二幕がはじまると、面白い展開になるかもしれない。

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2002年2月21日(木)

久しぶりに梅林経由、杉田まで歩く。梅は満開まではいっていないようだ。
野毛にでるアーティスト4組をなんとかそのあと、まわしたいということで、あちこちにあたっている。
GWにうまくつながればいいのだが、2−3付き合いのあるところに電話して、とりあえず資料を送る。
文化の会会報を午前中に、発送。
カザフからクルマンガゼの資料が届く。モスクワから出されているようだが、一週間かかっている。
さっそくM氏に宅急便で出す。
夕方仙台から上京してきたSと、Hの旦那さん、Aと4人で、東京駅近くの居酒屋で飲む。
高校の頃からの付き合いだが、気の置けない仲間と飲むのは楽しい。
思い出話に花が咲く。
かなり飲んだみたいだ、ふらふらで家に着いたのが、12時近くだった。

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2002年2月22日(金)

風邪が流行っているらしい。とうとう我が社も辻君がダウン。
今週二回朝ジョギングしたのが、疲労になってたまっているようだ。ちょっと体調不良。
もう年なのだから、無理をしてはいけないということかもしれない。
エンマの契約書を作成、ローマのところにファックス。ローマたちは中国行きの日程が決まったのだろうか?
6月のイベントの件で、アーティストから電話、仮押さえしてもらっているのだが、この間2、3仕事のオファーが来ているらしい。
クライアントに連絡、今月一杯に結論を出してもらうようにしてもらう。
夕方晴海のトリトンへ行く。大江戸線の月島で降りると、会社帰りの人たちが群がって駅に向かってくる。
このあたりの来るのは実に久しぶりなのだが、だいぶ風景が変わった。オフィスビルが立ち並んでいる。
トリトンもかなり大きな商業オフィスビルだ。ずいぶんと洒落たつくりになっているが、人はあまりおらず閑散としている。
重森とマキのパフォーマンスをビデオを撮りながら見る。
地下に降りていったので後をついていくと、地下のレストラン街は結構人がいる。勤め帰りの人が食事や一杯という感じだ。
飲食はいいのだろうが、ものを買うとなると難しい立地なような気がする。
一回目のショーを撮って引き上げる。

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2002年2月25日(月)

風邪が流行っているらしい。とうとう我が社も辻君がダウン。
朝おきられない。身体の節々が痛む。風邪かもしれない。昨日は酒も飲まず、早く寝たのにこのザマだ。
休むことにした。
昼過ぎまで寝ていた。疲労が溜まっているということなのだろうか。
今日はおとなしく、寝ていることにする。
遅い朝飯を食べるときに、オリンピックの閉会式を見る。
キッスに、ボン・ジョビ、アースアンドファイヤーというロックコンサートののり。いい加減にしろよという感じだ。
唯一良かったのは、気球を浮かべ、その下でエアリアルアクトをしていたシーン。なかなか幻想的でいい演出だった。
そこで終わらせればいいのに、またバンドの演奏、ああいうところが、くどいというか、Too Muchなのですよ。
ひたすら寝まくる一日だった。

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2002年2月26日(火)

まだ少し身体がだるい、あれだけ寝たのに、まだ寝たりない感じがする。
出社すると、机の上に、今日の小出のライブの申し込みがどっさりとおかれてある。
リストをつくるとなんと55枚、最終的には61人の申し込みがあった。いままでplanBでやった公演の記録ではないだろうか。
あわてて小出に電話、会場整理要員として、こうじを助っ人に呼ぶことにする。
大阪のGWのイベントが正式に決まる。こまかい詰めの作業をしていくことになる。
重森のトリトンのビデオをダビング。撮影中にSから携帯に電話があったのだが、その声がもろに入っている。あーあ。
先生のキエフからの航空券でもめているようなので、先生とクリューコフに電話。問題をクリアーにする。
チュルタギのユーが、かねてからの夢だった韓国で綱渡りのフェスティバルを開催するところまでこぎつけたようだ。去年野毛に出ていた綱渡りの芸人たちに声をかけているようだ。
カザフからも呼びたいというので、ローマに電話。
ローマがついにサーカス場を取り戻したぞ、早く来いという。道具も動物もアーティストもみんなサーカス場に戻りはじめたというではないか。
まさにハーリックやローマたちの執念が、見事に実ったわけだ。すごい奴らだ。
こっちも興奮してくる。
6時すぎにplanBへ。やはりすごい人出になった。裏方の人もいれたら、100人ちかくになったろう。
小出の出来もよかった。クジラものには大爆笑してしまった。テンポもよかったし、途中からドライブがかかってテンションもたかくなっていった。
公演後今日はあまり飲むまいと思ったのだが、結局23時近くまで飲む。
帰宅してから、ローマとハーリックのところに電話。ローマは外で芸人仲間と飲んでいたみたいだ。電話の向こうで、大島乾杯と皆が言ってくれた。
ひとつのドラマが無事幕を閉じたわけだ。それもいい結果に。

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2002年2月27日(水)

二日酔い、少し遅れて出社。
ミーティング。とにかく仕事を探さないと。
昨日Tに頼まれた3月5日の横浜の公演の案内をカバのBお客さんにメールで出す。
社内でも昨日の小出の公演は高い評価。招待して見てもらったIさんからもファックスが来ていたが、激賞していた。
本人も確かな手応えを感じたのではないだろうか。
16時クラブチッタの下見。M氏、U氏、T氏、S氏と5人で下見。本当は本番が入っていたのだが、ボーカルの人の体調不良で、公演中止。おかげでゆっくりと場内を見ることができた。
M氏と打合せをした後、銀柳商店街のルノアールで、内容と構成について、打合せ。
まあいろんなアイディアが出ること、でること。
これも出したらどうだ、あれも出したらということで、2時間ぐらい話し合いが続く。
バンマスのU氏が、これではいかんと思ったのだろう、ショーの尺にそったタイムテーブルと演目を並べてみようと提案。ここから話がかなり具体的になってきた。
出演交渉しなくてはならない人も何人かいるので、わからないが、この案が全部生かされることになったら、かなり凄いショーになる。
基本的には、今後も続けて行きたいということがあるので、いいものにしたいというところと、面白そうということでアーティストが参加してくれることが、ポイントになるかもしれない。
3時間の打合せを終えて、解散。少し骨格が見えてきた感じがする。

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2002年2月28日(木)

今日で2月も終わり、早いものだ。
少しずつ春の兆しも感じられる今日この頃なのだが・・
ネットでベリーダンスを見せているレストランを検索、メールアドレスをもっているところには、企画書添付で、メールを送る。
都内だけで20軒ぐらいの店がある。どんな反応になるのか、楽しみといえば楽しみ。
キエフの先生から電話、キエフから直行で行ける飛行機だと、15日はなく、16日しかないという。16日着のものを買ってもらうように答える。
ミクロバンドを積極的に売ることにしたので、どこに案内を出せばいいか、リストを見ていく。
いくつか可能性のあるところに、とにかく資料を送ることだ。
明後日のマラソンのために煙草を今日からやめようと思ったのだが、結局吸ってしまう。
19時すぎに、会社を出る。
いよいよ明日は、かや子の発表のある日。いやなものである。

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