クマのお仕事日誌
2002年3月分


2002年3月1日(金)

出社前に病院に寄り、先日の糖尿の結果を聞く。だいぶ数値は下がった。
山道で鶯の囀りを聞く。もう春なのだね。そういえば庭のしゃくやくの芽も出ていた。確実に春がやってきている。
10時にかや子の合格発表、なかなか連絡が来ない。
11時前に、かみさんから電話。合格だったらかや子から直接くることになっていたので、ダメだったことがわかる。
かみさんの話では、電話口で泣いていたという。しかたがない。
秋に呼ぶことになったミクロバンドの企画書をとりあえず、あたりをつけて送る。
ベリーダンスのレストランにもエンマの資料を送る。昨日メールで出した分で、一カ所から返事が来たので、ビデオを送る。
昼過ぎかや子から電話。「ごめんなさい、私立になってしまった、お金がかかってしまう」とのこと。そんなことはお前の心配することじゃない。元気な声だった。
私立の入学手続きをしてきたかみさんからも電話。「本人はもう立ち直って、大学は国公立にするから、それでチャラにする」と言っているらしいとのこと。
気持ちの切り換えはできたのはなにより。
夜、サーカス文化の会。今日は安部ちゃんのルーマニアサーカスレポート。
たいへんな国のようだ。
帰宅すると、かや子はまだ寝ていなかったので、いろいろ話を聞く。
すっかり元気になっていた。
とりあえず、これで一段落ということだ。

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2002年3月4日(月)

昨日20キロ以上走ったので、足がパンパンになっているかと思ったら、そんなひどくもない。
元気に出社。
クリューコフからファックス。先生の来日は3月16日で決定。
秋に準備しているキエフサーカスに参加するメンバーに対して、ギャランティーレターを書いて欲しいという。
雑用を済ませてから、このレターづくりに専念する。
結局半日以上かかってしまった。向こうはドルでいってくるが、この円安の状況を考えると、ドルで契約するのは恐い。
これが今後の海外ものの課題になるだろう。
今日は無理なので、明日クリューコフにファックスすることにする。

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2002年3月5日(火)

朝日新聞の「ロシアでオケビジネス流行」という記事にびっくり。要はロシアのオーケストラが、金稼ぎのために、さもありそうな名門の名前をつけて、それをビジネスにしているというニュース。
10日程前に、通訳のKさんから、国立ボリショイ交響楽団の常任指揮者に、日本人女性が就任し、このオーケストラが日本で公演することになっているが、どこが呼んでいるか知ってるという問い合わせがあったのだが、これが関係してしたわけだ。
オケ団員の日当が、二〇ドルとか三〇ドル書いてあるのはまずいよなあ。
そういえばこの前アメリカ巡業中のペテルブルグ交響楽団が、飛行機の中で酔っぱらって大騒ぎして、緊急着陸したという記事も出ていた。
半分ロシア人の自分にとっては、あまりうれしくないニュースだ。
韓国で綱渡りフェスティバルを準備しているユーやキムさんのために、カザフのファリダの資料をつくる。ファリダは、中国公演の最中なのだが、ローマがかけあってみるといっていた。
クリューコフにギャランティレターをファックス。最初電話したら、浮かない声。西田がシナリオを書いて、2年前から制作している「クラウネスタミラ」の公演が最近キエフであったのだが、自分の演出をかえて上演されたことに文句を言っていた。
いろいろ話を聞いていると、クリューコフにかなり問題があるようだ。
野毛に来る四人組のセールスで電話。明後日エージェントと会うことにする。
最近良く飲む機会が多い、H氏とKさんとカメラマンのSさんと水天宮の飲み屋で飲む。
Sさんは、よくうちの公演の写真を撮ってくれて、会う機会は多かったのだが、飲むのははじめて。
楽しかった。結局品川から最終電車で帰ることに。

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2002年3月5日(火)

二日酔い。少し遅刻して出社。
今日は電話の日。あちこちに飛び込みのセールスの電話をする。
結構あたりがいいところが何カ所かあった。うちの会社自体の仕事は、まだ売りこめば可能性があるといをことだと思う。
昨日トルコレストランから、ベリーダンスの問い合わせの電話があったが、ギャラが安すぎるので断りのメールを出す。
相場があるのだろう。しかたがない。
17時からplanBでカバBの打合せ。今日は26日のカバB、4月のにぎわい座、7月のチッタの公演の打合せなので、20人ちかくのパフォーマーが集まる。
にぎわい座に関しては、17組の希望者がいるので、2日間でパフォーマをわけることにする。分け方は、あみだくじ。
小出が今回の座長になることを、自ら名乗り出てくれる。
20時に打合せがおわり、あとは飲み会。がんばろうということもあり、寿司をとって、わいわいがやがや。
こういう飲み会をしていると、いろんな話がでてくる。
こうじのソロをやることが決まった。
それとこれはまさに意外な展開で、ふたりとも覚えているかどうかわからないのだが、あたぎ君と神山君のまさに映像デスマッチをやることに。
また楽屋で毛布にくるまって、寝ることに。

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2002年3月7日(木)

目が覚めたら10時。planBには誰もおらず、みんな帰ったみたい。鍵をしめて外に出て、太陽を目にしたとたんに頭がくらくらしてくる。
もろ二日酔いだ。会社と家に電話。奥さんにどうしたの、そのガラガラ声と言われる。
11時前に出社。今日は外回りの営業がある。大丈夫なのだろうか。
とりあえず試しに、営業電話をかけてみる。ダメだ。まだ酔っぱらっているのがわかる。
13時にまず一軒目の営業に池袋にでかける。辻君も一緒について行ってもらう。
初めてのところだったが、いい感じでミーティングを終える。もしかしたら仕事につながるかもしれない。
15時渋谷でクラブチッタのM氏と会う。7月のカバレットチッタのやり方の大枠について話し合う。
双方にとって、あまり大きなリスクにはならない感じでできそうだ。
17時前に会社に戻るが、もう頭がガンガン状態。2時間ぐらいしゃべり放しだったので、エネルギーが枯渇してしまったようだ。
クリューコフから、問い合わせておいたことに関してファックスで返事。明日のメイエルホリドシンポジウムに、少しは役に立ちそう。
家へ帰ると、かや子がもう明日卒業式だという。卒業アルバムを見せてもらう。
驚いたのは、皆勤賞をもらっていたこと。三年間無遅刻無欠勤という、私にとっては信じられないような偉業をなし遂げたわけだ。
早めに寝る。

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2002年3月8日(金)

朝食を食べている時、いつもみているめざましテレビで、天気予報のケイちゃんが3月一杯でやめるという衝撃的なニュース。今年最悪のニュースだとつぶやいたら、娘たちが大笑い。
なんかほかのコーナーに出るようなことを言っていたような気がしたのだが、その笑い声で肝心なところが聞けなかった。会社に行ってからネットで調べたら、情報キャスターになるとのこと。一安心なのだが、やはり「ケイのこれもってケイ」が見れなくなるのはちょっとショック。
杉田まで歩く。もう梅も終わり。これからは桜ということになる。ここ2、3日は確実に暖かくなっている。
大分のイベントの件で、メキシコのアーティストをネットで探し、メールを出しておく。
planBのSに連絡、昨日のカバBに関する打合せの件を報告する。
16時すぎに会社を出て、神奈川県民ホールへ。ちょっと早く着いたみたい。
大ホールは、氷川きよしのコンサートということで、おばちゃんたちで一杯。もう少し若い客が多いのかと思ったのだが、やはり実際に入場券を買って見るとなると、おばちゃんたちが中心になるのだろう。
18時半から今日のシンポジウムの打合せ、と言ってもどのタイミングでビデオを見せるかだけを確認して、あとはフリートークでいきましょうという簡単なもの。
会場の第5展示室には、タトリンのモニュメントが置かれ、アジ文が壁に貼られてある。
最初1時間は武田先生が、ずっと解説してくれたので、楽させてもらった。みんな熱心に聞いていた。
武田先生が持ってきたビデオが面白かった。メイエルホリドが目指した理想の俳優というのは、私たちが呼んでいるようなクラウンではないかという気がしてきた。
そんなことを少ししゃべる。
シンポジウム終了後、しばらく会っていなかった制作仲間のひとりと再会する。元気そうだった。
今度の「ミステリア・ブッフ」を演出する、加藤直さんと挨拶。
22時頃帰宅。今日はかや子の卒業式。式のもようを聞く。三年間なんてあっという間だ。
メールで安部ちゃんから、オフ会出席の連絡。2人のジャグラーを連れてくるとのこと。やっと申し込みがあった。
みんな忙しそうで、参加できないというメールばかりだったので、ちょっとうれしくなる。

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2002年3月11日(月)

今日は宗男ちゃんの国会喚問の日。見たいところだが、一応録画して家を出る。
いつも通る簡易郵便局前にパトカーが到着、警官が中に入ったのを目にする。しばらく歩くとまたパトカーが。空にはヘリコプター、遠くでサイレンの音。ちょっと胸騒ぎがして、家に電話。
なんかニュースでやっていないかと聞くが、別にないとのこと。ちょっと気になる。
メキシコのシンガーさんからメールが来ていた。スケジュールをあけておくとのこと。
小樽で去年一緒に仕事をさせてもらったパンドさんたちが、CDのアルバムをつくることになったという。それにパフォーマーのコメントが欲しいとのこと。
喜んで協力させてもらうことにする。重森に執筆依頼の電話。
夕方クリューコフからファックスが来るが、白紙。電話してもう一度送ってもらうよう頼むが、結局二回ともまた白紙。その度に電話しなくてはならない。
メールとかでやりとりする時代に、まだこれだもんな。やっと四回目に受け取る。
奥さんからメール。簡易郵便局で、ピストルを持った強盗事件があって、100万盗まれたという。朝見かけたのは、それだったのだ。ちょっと興奮。
帰宅して、この事件の話で盛りあがる。
モスクワのペーチャから久しぶりに電話。元気そう。23時すぎに自分のサイトを見ると、10001件目。とうとう一万件突破したわけだ。

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2002年3月12日(火)

朝刊を読んでいたら、昨日の郵便局強盗のニュースが詳しくでていた。目出帽をかぶった
三人組が、ピストルらしきものを出して、87万円を強奪したという。驚いたのは犯行時間が、自分があそこを通りかかったわずか数分前のことだった。惜しいところだった。ヒーローになりそこねてしまった。
HEPのGWの企画の最終見積を作成し、送付。
カバB3月とにぎわい座の公演案内をメールで顧客の人たちに送る。
重森が来社、昨日頼んでおいた小樽のバンドさんのCD発売へのメッセージをひとりで書きはじめる。ウンウンうなっていた。
これとあわせて、自分の分、ローマの分を小樽にメールで送る。
H氏が東京に来ているというメールを貰ったので、携帯に電話するが、今回は会えないことがわかった。来週大阪で会うことにする。
昨日クリューコフかぱもらったファックスを翻訳、サーカス資料館にファックスを入れておく。
20時帰宅。

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2002年3月13日(水)

出社前に銀座の床屋に寄って散髪、少しすっきり。会社へ行く途中の電車でドアに押しかかって本を読んでいたら、突然足元になにか動くものが。盲導犬だった。この盲導犬は私が立っているところが定位置のようで、頭で私をどけと押し退ける。
賢いもんだ。一緒の人が、すいませんね、この犬の定位置なんですよという。たいしたもんである。
HEPに昨日送った見積の件で確認をとり、契約書の作成、ファックスを入れる。
秋のイタリアものの企画の件で、石巻に電話。なかなかいい感触で、それもいろいろ展開できそうな感じだ。しかも電話をした人は、以前若宮丸二百年祭という企画をやったことがあるという。3月例会の時、仙台に行くことになっているので、その時会うことにする。
貨物会社の人がひっこり来社。どこもかしこも不景気のようだ。
会社を早めに出て、紀伊国屋ホールへ。モンスナックで久しぶりにあのスープのようなカレーを食べてからホールへ。
いつものように補助席がでるほどの盛況ぶり。芝居の中身を楽しかった。
だんだん井上、こまつ座フリークになっていくような気がする。
帰ってメールをチェックすると、今日鳴瀬探訪に出かけた本間さんと、高橋さんからメール。なかなか成果の多い取材旅行になったようだ。
どんどんこちらも広がりがでてきて、いいことだ。

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2002年3月14日(木)

出社してメールをチェック、久しぶりにモスクワのナターシャからメール。カザフに出張でいくことがこのところ多いのだが、その機内でローマとハーリックの写真が大きくでている新聞を見たというので、スキャンして送ってくれたもの。
記事の内容は、国立サーカス団がサーカス場を取り戻す可能性が高いということ。
一カ月前ぐらいの記事だったという。
ナターシャは、12月末にモルダワに里帰りするイーリャ(ローマの奥さん)と会って、北九州のビデオをもらったという。
その時に去年春亡くなった空中アクロバットのペーチャの奥さんリューダが病死したことを知ったという。
ショックだった。このことはローマは話してくれなかった。ペーチャが亡くなり、寂しいだろうなと思っていたところだったのに。
よくペーチャに怒鳴られていたが、心根の優しい女性だった。
HEPの契約書の内容を確認、捺印して郵送。
クラブチッタ用の企画書と収支予算書を作成、Sにファックス。やはり400人ぐらい客を集めないと、苦しいということだ。
気合をいれて宣伝していかないと・・
今日は萬里でオフ会。チャン助さんとジャグラーの石川健ちゃん、それとアマチュアのジャグラーのMさん、在日のアクロバット王健、編集をしている木村さん、デスクの大野らが集まる。
最初だけ一万件突破おめでとう、乾杯で、あとはデラシネ通信のことは話題にものぼらず。プロのジャグラーになろうかどうか迷っているMさんへの、アドバイス、改姓問題で悩んでいる健ちゃんの話で盛りあがる。
福田さんも入り、Mさんに「やりたかったら、やれば」という素晴らしい助言を残し、途中退場。
野毛の山村さんも仕事の合間をぬって参加してくれた。
23時お開き。そういえばデラシネの話は全然でなかったね、まあいいかという感じで別れた。
そういえば、チャン助さんは「ところで一万件越えたの」と言っていたし、王は「ところで今日は何の集まり」って聞いていた。
まあ良かったのではないでしょうか。

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2002年3月15日(金)

しかし突然春である。2、3日前家の近くの桜並木は、蕾さえ確認出来なかった。ちょっと枝のところが赤くなっているなあ、程度だったのに、今日見たらもう花が咲いているではないか。
もう少し蕾が熟成してから咲く方がいいと思うのだけど。
この分では来週ぐらいには満開になるのではないだろうか。
ディズニーシーで働いているセルゲイからメール。そろそろ退屈してきたのだろう。演技の写真付だった。
電話もかかってきた。相変わらず早口でしゃべりまくる。いつか行ってやらないとな。
宗男ちゃんで売れまくっている週刊新潮のT氏と神楽坂の粋なソバ屋で一杯やる。
加藤昭氏のあの鈴木宗男研究は、本になるそうだ。第一回目の時には完売賞(我々の大入り袋のようなもの)が出たらしい。
宗男ちゃんのあと、なにをやればいいのかねという話になったが、それは外務省でしょう。あれだけいろいろあって無傷でいるのは外務省だけ、しかももう安心と思ったのか、今度は宗男攻撃に出ている。
とんでもない話である。
この蕎麦屋なかなか渋い。あても結構いけるし、酒も旨い。締めのもりそばが絶品だった。
そしておやじが話題が豊富。面白い店だった。
21時頃お開き。またT氏は仕事に戻る。
昨日今日と連チャンで、さすがにしんどい。

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2002年3月18日(月)

一昨日ぐらいから鼻がむずむずしてしかたがない。風邪なのかもしれないが、もしかしてこれって花粉症?
なんの前触れもなく突然なるらしいという話は聞いたことがある。もしもそうだったら最悪だ。
とにかく一日中鼻がとまらず、鼻をかみ続ける。
モスクワの新井から電話があったらしい。今月末来日する予定だったのが、飛行機がとれなくてとりやめになったという。デラシネの原稿は今月末には入れてくれるとの伝言。
そうだよ、皆待っているよ。お願いしますよ。
ナターシャからもメール、『レザーノフと日本』展の目玉と考えているティレジウスのスケッチの在りかがどこか、調べてもらっていたのだが、わかったとのこと。
早速教えてもらったアドレスにアクセスするが、なかなか開けない。
ナターシャ曰く、オリジナルの展示は難しいのではとのこと、そうかもしれないがトライする価値はある。
在日のメキシコの歌手からビデオが送られてきたので、早速見る。なかなかいい。
クライアントさんにダビングして送る。これで決まりだろう。
フランスのジャグラー、フランソワから大野に電話。別に用事がないということだったが、新しいプロモーション用のビデオができたのよ、と言っていたところで、大きなくしゃみをしてしまう。
フランソワにも聞こえたらしい。またずいぶんとタイミングのいい時にしたもんだ。
いつも自分の本の装丁をお願いしているフラグメントのYさんから電話。いまやっている装丁の仕事で、ロシア語をつかいたいとのこと。家で調べることにする。
帰宅すると、和歌山の泉さんから、『東亜』全目次を掲載した紀要が送られていた。大変な仕事だ。
これをきっかけに誰か、玉井のことを調べる人が現れるといいのだが。
ナターシャから教わったアドレスにアクセス。今度は開けられた。

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2002年3月19日(火)

どうも花粉症のような気がしてきた。今日も一日鼻がズルズルで悩まされる。
頼まれていたロシア語へ翻訳したタイトルをF社へファックス。
昨日泉さんから送られてきた東亜の目次訳三部をあちこちに送る。
エンマの在留資格認定証をカザフに送ろうと思い、郵便局へ。EMSでお願いしますというと、大きな台帳で調べ、カザフはEMSを扱っていないというではないか。
こういう国を相手に仕事をしているわけである。しようがないから国際宅急便で送ることにする。
にぎわい座の下見をしなくてはならない。野毛のYさんに頼んで来週日程を組んでもらうことにした。
Sからカバレット・チッタの仮チラシがファックスされてくる。今日から梅津さんのコンサートが6日間連続であるので、その時配ることになっている。結構にぎやかな顔ぶれになったのではないだろうか。
18時半会社を出る。

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2002年3月20日(水)

朝刊を見て、びっくり。チェコ語の千野栄一先生が亡くなったという。まだ70才。これからまだ活躍できるはずなのに。
大学時代にかみさんと一緒にロシア語学を早稲田で教えてもらった。少人数だったので、ずいぶん気楽な感じで、先生の洒脱な話を聞けたことは、いまになって考えてみると、貴重な経験になっている。
残念だ。
午前中外交史料館で、旅券探し。今日は保門の旅券を見つけることより、とりあえずつぶすという感じだ。
それでも2組の芸人たちの旅券申請を見つける。
外交史料館は例の宗男ちゃんの外務省の懐刀佐藤が、左遷されて勤めているところ。出るときに門の前でテレビクルーが撮影の段取りをしていた。
東北芸術工科大学から電話。『東北学』への執筆依頼だった。
若宮丸漂流民について30枚ほど書いて欲しいとのこと。
まだ風邪といおうか、花粉症なのか知らないが、鼻がグズグズしたまま。
19時にあがる。

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2002年3月22日(金)

10時20分新横発のひかりに乗る。車中完璧に京都まで寝る。大阪は雨模様。
13時半HのFさんのところで、秋の企画について打合せ。4月から新体制になるので、いろいろ難しくなりそう。
14時半YのO氏とGWの企画の打合せ。楽屋が問題。他に韓国ものをGWにやるらしい。
16時ヒルトンホテルで、濱村太郎氏と面会。初めて会って話をする。ひいひいおじいちゃんの保門さんは、かなり面白い人のようだ。
ますます興味が湧いてくる。太郎氏も好感がもてる。自分の先祖の生き方といまの自分とどこか重ね合わせているようなところがある。
近々、調査をかねてまた会うことに。
19時前A新聞のI氏と落ち合い、大阪駅構内のビアーホールでビールを飲みながら情報交換。
また野毛の話でもりあがる。
20時半コロナホテル着。漂流民シンポの懇親会に出席。
明日の下打合せのような感じ。このあとゴンザファンクラブの長沼事務局長と上村さんと近くの居酒屋でいも焼酎を飲みながら、漂流民をめぐって情報交換。
楽しい一夜だった。
24時近く就寝。さすがに疲れた。

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2002年3月23日(土)

結構朝早くに目が覚める。下のレストランで食事。昨日の晩一緒に飲んだ長沼さんと上村さんと一緒。
長沼さんが、大島さんがいも焼酎を飲むとはね、と盛んに感心されたが、要は酒だったらなんでもいいだけのこと。
9時半チェックアウトして、ロビーに行くと、会長の石垣氏がちょうど到着したところ。ゴンザや、光太夫の人たちに紹介。
会場には続々人が詰めかけてくる。ほぼ満席。
10時から『ロシアへ渡った漂流民シンポジウム』が始まる。パネラーとして前に座り、持ち時間15分以内で会の説明をする。
長沼さんや、光太夫の金田さん、伝衛兵の生田さんの三人は、みな話がうまい。それとそれぞれもってきたレジメもしっかりしていたもの。
入会案内しかもってこなかったので、ちょっと肩身が狭かった。
途中10分間の休憩をはさみ、3時間、かなり内容の濃い会になったと思う。
持参した「海を渡ったサーカス芸人」も5冊、レザーノフの『滞在日記』も30冊近く売れた。
会終了後、司会をつとめたMさんと生田さんとホテルのレストランで食事。生田さんは今日会員になってくれた。
チャーハンを頼んだのだが、これが近来稀に見る不味さ。食べるのに苦労する。
三人でイルクーツクに研修ツアーにいく話で盛りあがる。
14時から日本ユーラシア協会の総会。自分は関係ないので、そのまま新幹線に乗る。車中また熟睡。18時すぎに家に戻る。

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2002年3月25日(月)

会社に行く前に歯医者に寄る。1時間半みっちりと治療を受ける。まだまだ治療する箇所はあるようだし、また今年一杯ぐらいはかかるかもしれない。
今日は少し肌寒い。鼻のぐじゅぐじゅは今日はほとんどない。桜が満開と共にどこかへいってしまった感じだ。
12時出社。打合せ。
土曜日に梅津さんとこまっちゃクレズマーのコンサートを見に行った大野が、大感激していた。
7月10日が楽しみだ。
打合せを終えて、昼飯を食べてすぐに会社を出て、にぎわい座へ。
小ホールはほとんど出来上がっている。ここで公演する三団体と、野毛のスタッフで舞台の人の説明を聞きながら、どこに舞台を設置するかを話し合う。
壁が白いので、暗転にしたとき完全に暗くならない、このへんが使い方の問題になるだろう。
下見を終えて、フラスコへ。舞台に関しては、前半は同じつくりでやることにした。野毛で黒幕を買うという話もあるようだが、とりあえずは見合せたほうがいいだろうということに。
今後小ホールをどう使うのか、それが問題なのだろう。にぎわい座の人はさかんに稽古場、稽古場っていっているけど、あの使用料では、だれも使う人はいないと思う。
今日は大道芝居の顔合わせということで、顔なじみの人たちが次々にやってくる。
今年の野毛は、会場も増えたし、にぎわい座はあるしで、スタッフは大変だ。
19時フラスコを引き上げる。

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2002年3月26日(火)

肌寒い一日。
横浜のカバBの切符が売れていない。メンバーにチケットも渡していない、これからだとは思うが、チラシもできてないし、ちょっと焦ってくる。
Sに電話、明日にはあがるとのこと。チケットにシールをつける作業は、明後日のカバB公演の前にやることにした。
フロリダにいるベラルーシのフョードルから電話。今年の冬に日本で仕事ができないかというのが用件。アメリカでの仕事も慣れてきたとのことだが、やはり日本がいいという。
とにかくいまアメリカにはロシア人のアーティストが山のようにいるらしい。競争の原理で、みなギャラを落としているのだろう。
ミンスクのサーカス場もやっていることはやっているが、アーティストはほとんど海外に出てしまっているとのこと。
みんな稼がなくてはならないということだろう。
午後カザフのエンマに電話。在留資格認定書は昨日届いたとのこと。明日にでも大使館に行くと言っていた。それよりいつアルマトゥイに来るのだとみんな知りたがっている、特にハーリックが気にしているという。
すでにハーリックは、サーカス場に戻っていると言う。ついに三年ぶりに、ハーリックは執念で、自分の部屋に戻ったわけだ。
4月・5月は無理なので、6月ぐらいには行くと答えておく。
航空券は、来週ぐらいに送ると伝える。これで一安心。
サーカス学校の先生がキエフから預かってきている荷物の届け先のロシア人がなかなかつかまらない。
何度連絡しても通じない。どうしたのだろう。
18時半会社を出る。

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2002年3月27日(水)

朝から雨。そして少し肌寒い。今年の桜は可哀相だ。予定していたより早くに咲くことになって、咲いたかと思えば風に雨。
今年は特に短い命に終わりそう。
にぎわい座のチラシの原稿をもらう。これを昨日から始まったマイム党の公演で配る手配をするため小出に電話。さすが小出ちゃん、昨日のうちに仮チラシを入れていたという。
あとは明日のカバBで配る分をコピーすることに。
昨日のメールで、石巻若宮丸漂流民の会の事務局を担当していた庄司さんが、転勤になるという知らせをもらった。今後の窓口をどうするか電話してみる。
事務所はとりあえず現状のままということになる。庄司さんは、若宮丸のことをライフワークとしてやっていきたいと言ってくれた。頼もしい限りだ。
来年提出するの企画の件で、モスクワのペーチャに電話。いまもらっている資料についての確認と、なにか他にあるかを聞く。すぐにビデオを送ってくれることになる。
19時あがる。

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2002年3月28日(木)

先生から預かっている荷物のことが気になってしようがない。一度連絡が来たきりで、なしのつぶて。
昼過ぎに、先生から電話、この荷物がどうなっているのかと、子どもの薬の件だった。先生は別になまものじゃないから、連絡があるまで待っていればいいとのこと。薬は、新聞で記事を見て、息子のために買いたいとのこと。ネットで調べたらすぐに出てきた。
ターニャから電話。あなた私に電話した、いきなり聞く。失礼な奴だ。会社までとりに来いって行ったら、どう行ったらいいかわからないという。結局六本木のアマンドの前で待ち合わせることにした。
なんでこんなことをしなくてはいけないのだろう。
16時すぎにアマンド前に。一見してロシア人とわかる女性がいたので、「ターニャ」と聞くと、「ノーノー」と言われる。
しばらく待っていると、この界隈、ロシア人たちの待ち合わせ場所になっているらしく、ロシア人のお姉さんたちが、バンバン通る。
10分ぐらい経って、ターニャがやってくる。預かった荷物を渡す。電話の感じよりはよかったけど、そんなありがたそうでもなく、当たり前のような感じだった。
まっすぐplanBへ。横浜公演のチケットのシール貼りを皆でやってもらう。
小出から電話、少し遅れるという。こうじの話だと、桜木町で三雲主催の花見をやっているらしい。
開演直前にやってくる。
今日も客が薄い。中身もちょっと物足りない感じだ。全体的に熱気が感じられない。
もう潮時かな。
公演後小出と横浜の件でちょっと打合せ。明日早いので、22時前に退散。

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2002年3月29日(金)

6時半起床。8時56分東京発のやまびこに乗る。明日の漂流民の会の関係の書類で、結構な荷物の量。
読みかけだった「シベリアの旅」を数ページ読んだところで、すぐに睡眠モード。仙台に着くまで寝ていた。
仙石線と石巻線を使って、渡波という駅に着く。ここからタクシーでサン・ファン館へ。
なかなか立派なところだ。少し待って館長のAと会う。施設の説明を受けたのちに、5月末のイベントの件で打合せ。
そのあと館長の案内で、館内と船を見学。石巻かほくのH氏が、わざわざ迎えに来てくれた。
ひとつ仕事の目処がついた感じだ。A館長もなかなか気さくな方で、今後いろんな形で交流できそうだ。
H氏の車で、石巻かほくへ。常務に挨拶したのち、石巻駅へ。雨が降りだす。Sに電話。17時すぎに仙台駅で会うことにする。
一番町の飲み屋で一杯。そのままSの車で家まで送ってもらう。

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