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クマのお仕事日誌

2004年5月1日(土)

完璧な二日酔い、上の温泉で一風呂。これでかなり楽になった。昨日と同じバスに、ロシア語組は全員乗り込む。イーゴリはあれだけ飲んでいたのに、シャッキとしている。たいしたもんだ。
現場についてすぐに、昨日の夜の宴会で、宿泊客からクレームがでたという。なんでも5回ぐらいフロントから注意されたらしい。ワーリャに聞くと、3時ぐらいまで飲んでいたらしい。誕生日だからしかたがないという。気持ちはわからないでもないがなあ、ここは一応ホテルなんだから。
12時半オスマンのジャグリングだけのショー。10分弱のショー、もう少し伸ばしてくれとのダメだし。13時ボエボダと空中のショー。これは問題なし。問題は13時半からの食堂街でのオスマンたちのデモンストレーション。ふだんから怖い顔の連中が、固まってジャグリングしながら、客席をまわるのだから、ぜんぜんサマにならない。主催者が意図しているお客さんとのコミニケーションとはほど遠い。アルマーズとオリガは愛嬌をふりまいているのだが・・・。無理やりデビルスティックをさせられた女の子は泣きだす始末。ボエボダの時はどうするのだろう。
17時オスマンまでのショーまで時間がある。控室は死体置き場のようだった。ストラップ、オスマン、ボエボダとみんな部屋を暗くして、横になって寝ている。自分もその仲間入り。
18時半からスペシャルショー。昨日あれだけリハをやっているから、つなぎもほぼ完璧の出来、なかなかいいショーになったのではないだろうか。
20時すぎのバスで全員宿舎へ。今日はどこへも食べにいく元気がなく、ジャスコで買った弁当とビールでホテル飯。テレビで『梟の城』を見て、就寝。しかしよく意図のわからない映画だった。三雲とか、二瓶君が出ていたというが、顔はよくわからなかった。

2004年5月2日(日)

こちらへ来てなんか太ったような気がする。恒例の朝風呂に入る時体重を計ったら、2キロ増えている。今日は全員同じバスで、パークプレイスへ。なんでも近くにあるビックアイで大分トリニータの試合があるということで、ユニフォームを着た人が多い。
強い日差しのなか、12時からスペシャルショー。このあと13時半からトリニータ必勝祈願のもちまき。これにはオスマンの連中がノリノリ。今回の企画のプロデューサーのKさんが、オスマンのひとたち楽しそう、あんな笑顔初めて見たと言っていたが、確かに楽しそうにまいていた。
このあと2時間ぐらい時間があったので、散歩がてらにビックアイまで往復小一時間歩く。今日はベトナムのフォーランチを食べる。なにか雲行きがあやしくなってきた。16時の空中アクロバットの時に雨が降り出す。小雨ということで、決行。空中ブランコは命綱をつかっていないので、イーゴリにずっとついてみてもらう。上もそうだが、下もすべるようだ。ハンドアクロの時、イーゴリが足を踏ん張れず、ちょっと失敗。
アルマーズが買った水泳パンツが小さいから取り替えたいという。みんなに子供用を買ったんじゃないと笑われる。別に子供用だったわけではないが、太股が太いのだろう。LLのパンツに交換。
17時からオスマンのショー。お客の受けとしては、ローラーバランスが一番いいような気がする。
18時すぎにまた雨、18時半のショーは、場所を代えてやることに決定、ここは天井も低く、場所も狭い、空中ものはカット。
オスマンが、演技内容をどうするか、打合せ、気になってステージをチェックしにいく。最初言われたところとは違っていて、もっと狭くなっている。走って楽屋に戻り、その説明。とにかく現場に行って、演技内容を決めようということになる。狭いところにすでにお客さんが群がっている。考えようによってはかなり危険。皿投げ、ピラミッドはできないのはもちろん、パスものもかなり限定される。
ハラハラものだったが、なんとか演技終了。お客さんも満足してくれたと思う。雨はもう降っていなかったのだが・・・。
帰りのバスは、超満員。今日は、来たときから気になっていた「大分名物地鶏ラーメン」を食べようときめていた。バスで終点でおりて、直行するものの、休み。がっくり。近くのファミレスで食事。
24時前に就寝。昨日も8時間近く寝ているのだが、どうも寝たりない気がしてしかたがない。

2004年5月3日(月)

天気予報では、今日一日雨なのだが、午前中はなんとかもつ。一回目のボエボダと空中の公演は、センターステージでできる、そして2回目のオスマンの時もなんとかもつ。とはいっても開演直前に降り出したので、ひどくならないうちに早めに開始。足元がすべるのが気になったが、なんとか無事終了。この時点で雨が強くなる。いったん降り出したら、今日はやまないだろうということで、ブランコは外す。
ワーリャが腹が痛いという。なにか悪いものでも食べたのではないか、というのできいてみる、バイキングの朝食で、卵を5個食べたという。いくらただといってもそれは食い過ぎだっちゅうの。ビオフェルミンを買って呑ませる。夕方には良くなったとのこと。
2回目のボエボダとオスマンの公演は、昨日と同じ2階のゲーセンの前の狭いスペース。やりずらそうだが、昨日の経験があるのでなんとかこなす。
雨だとたいへんだ。リトルはどうなっているのだろう。
2時間のブレークがあったので、このところの習慣になっているスタバで、レザーノフの航海日誌の再読。
気のせいか雨が弱くなったような。気になってステージに行ってみると、ブランコのつり込みがはじまっていた。3回目のスペシャルショーは、センターステージとやるという。
18時半から公演、今日は客席からビデオ撮影。スプラットのダンの誕生日ということで、フィナーレの時にちょっとしたセレモニー。ダンはずいぶんびっくりしたようだ。
でもスペシャルがセンターステージでできて良かった。
こちらも雨の福岡のキャナルから電話があり、クラウンのユーリーたちになんとかショーをしてほしいというので、ユーラと電話で話す。
明日はどうなるのだろう。
21時前にホテル着。とにかく何故か眠くてしかたがない。今日だって8時間近く寝ているのに、昼間もバスのなかでも寝てしまった。それでも眠い。24時前に就寝。

2004年5月4日(火)

午前中がほぼ100%の降雨確率だったのだが、パークプレイスに着くころには雨もあがり、ショーはすべてセンターステージでできた。この天気のなかで、きわめてラッキーというべきだろう。リトルに電話してみたら、雨は降ったりやんだりで、湿気がすごいと言っていた。
いちばん笑ったのはイーゴリたちのレストランでのショー。ただ歩くだけか、食べるだけでいいですよと言われたのだが、ふたりはアクロバットしながらテーブルをまわり、そしてバッチを配っていた。たいしたもんである。支配人は大喜び。
また昼寝、朝温泉につかっているからですよとKさんに言われる、もっともかもしれない。3回目のスペシャルショーはまたビデオ班。いい公演だった。
家に電話したら、なんかロシア語で誰かが、留守電に向かってずっとしゃべっていたという。きっとハーリックだ。
さっそくハーリックに電話。やっぱりハーリックだった。蛇つかいがいないかと聞いていたのだが、カザフにはいないので、インドで探してもらうとのこと。
今日は打ち上げ、明日はバタバタするということからなのだが、これが傑作だった。スタッフのひとたちがみんなのパフォーマンスをパロデッて演じたのだが、よく特徴をつかんでいて、パフォーマーたちは腹を抱えて笑っていた。
特にふだんは寡黙なボエボダの息子が、ひっくりかえるようにして笑っていた。リトルの打ち上げもむかしはこうだった。家族的というか、とても打ち解けたいい打ち上げだった。Kさんもオーリャのリボン振りをしていたのにもびっくり。
12時ぐらいに締め、スプラットたちは二次会へ、その他はホテルに戻る。空に大きな満月が。明日はいい天気だろう。

2004年5月5日(水)

早いもので、今日が連休の最終日。あっという間だ。そして天気はピーカン。今日は一番盛りだくさんの日。まずはランチは、全員のパフォーマーが出演。そしてワークショップ。わずかな休憩時間中に、最後のイベントとなるフォークダンスの練習も。別になにかしているわけではないのだが、疲れる。
昨日の宴会で、おじさん通訳してと言われた。間違いなく自分はおじさんにはちがいないのだが、ちょっとショックだった。きっと自分ではおじさんではないと思っていたところもあったと思う。現場はもちろん楽しいのだが、やはりもう年なのかなあと思う。いつまでも若い気でいても、寄る年波には勝てないというか、それを思い出させるような言葉だったかもしれない。
最後にフォークダンスをすることになったよ、とみんなに言ったら、嫌な顔していたのに、練習しているうちに楽しくなってきたようだ。ノリノリで練習。一番嫌がっていたワーリャが一番ノリノリだったのに、ちと苦笑。
最後のショーもビデオ班。考えてみればずっとスペシャルショーはずっとビデオ撮り。それにしても客の反応はいい。たぶんこうした客の反応が、パフォーマーのテンションをあげているのだと思う。
フォークダンスのあと、後片付け。スタッフさんたちもこのテンションに煽られ、みんなでいいショーをつくるという気概を持ってくれた。
21時半のバスでホテルに戻る。そしてまた昨日の宴会の続き。昨日はスタッフさんがいろんなパロディーを見せてくれたが、今日はパフォーマーたちが、自ら進んでパロディーを演じる。これが傑作。なかでもオスマンとイーゴリーの息子たちによるスプラットのパロディーは傑作。バックが先頭になり、おとなしいイーゴリの息子まで参加して、ほんとうに笑わせてくれた。オスマンもボエボダも、楽しむことをよく知っている。
飛び入りで、腕相撲を挑んできた若者たちが参加したのだが、イーゴリとワーリャが軽くあしらう。みんな大喝采。
やはりサーカスピープルなのだと思う、こうして5日間の付き合いだけなのだが、いろんな人と交わって仕事することが、とても楽しいようだ。リトルでも、吉本でも見れなかったなんていうのだろう、異種格闘技を目一杯楽しんでいる、そんな感じがした。
サーカスの魅力のひとつなのかもしれない。そして今回のこの仕事で出会ったお客さんたちも、サーカスの楽しさを満喫したのではないだろうか。公演後サインを求めるひとたちの群れを見ると、そんな気がしてくる。いまどきサーカスのひとたちにサインを求めるなんて・・・。でもみんなの素晴らしい演技に感動した子供たちにとって、彼らはまさしくスターだった。自分が子供の頃最初にボリショイサーカスを見た時のことを思い出す。あの時、家から10分ぐらいにあったスポーツセンターでサーカスは公演していた。毎日のようにのぞきに行った。そして最初にショーを見たときの感激、毎日のように会場に通ってサインをロシア人に求めたものだ。あの時のことはいまでも忘れられない。同じような感動が、きっと今回のショーを見た子供たちにあったのだと思う。素晴らしいことだと思う。
今回は通訳のような仕事で、立場的には中途半端で、あまり仕事をしたという気にはならなかったけど、なにかサーカスの楽しさの原点をいま一度教えてもらったような気がする。
リトルから夕方電話、無事ハードスケジュールをこなせたという連絡。人出もまあまあだったという。良かった良かった。
どうやら連休の大きな山場は越えたようだ。
サーカスの未知の世界はまだまだある。突然思いついたモンゴルの馬サーカスに出会うための韓国済州島の旅も、また未知の世界へのプロローグになるのかもしれない。

2004年5月6日(木)

9時前に起床。最後の思い出に屋上の風呂に入る。そして9時半ロビーへ。博多までの迎えのジャンボタクシーが到着。運転手がよぼよぼのおじいちゃん。大丈夫かなと思っていたら、早速やらかしてくれた。サイドブレーキをかけてなかったらしく、無人のバスが、前の車に衝突。もめる。そのうちに道具を積んだ車が到着。荷物をバスに積み替え。運転手は警察の取り調べで役に立たず。ロシア組は電車で移動することに。10時15分の特急で、大分を出る。当然のことながら車中はずっと寝ていた。12時過ぎに博多着。車も福岡空港を出るところ、いいタイミング。
12時半すぎにホテルで車と合流。荷物を下ろす。チェックインは14時からというので、まずは銀行で両替。これがとろい。およそ1時間かかった。
ホテルに戻り、少し休憩。19時ロビーで集まり、打ち上げ会場へ。ワーリャが来ない。しつこく部屋に電話。やっと出る。寝ていたという。打ち上げは静かにはじまるが、結局はスプラットとオスマンがまた場を盛り上げる。オーリャがどうしてあのカンガルー(スプラット)は平気で人前でおならができるの、と聞いてくる。どうも楽屋でずっとスプラットは屁のしぱなしだったらしい。これに感化されたオスマンが、無理やり屁をひねる。
すっかり仲良くなったものだ。おかしかったのは、キャナルのステージでみんなで記念撮影しようとしたときに、オーリャの旦那バックが、いきなり屁をしたこと。これでオーリャが切れる。追っかけこっこをしていた。
ユーリイたちのところに、立ち寄る。
オスマンもボエボダもユーリイたちと仕事をしていて顔なじみ。なんとかして会わしたいといろいろやっていたのだが、なのことはない、駅前のヨドバシでみんな会ってしまったという。モスクワでも、キエフでも会えなかったのに、日本の九州のヨドバシで会えるなんておかしいよなあ。
12時過ぎまでユーリイの部屋でビールを飲みながら、雑談。ホテルに戻る時に、何故かユーリイも一緒。明日は早い。みんなとエレベーター前で別れる。
ちらっとWスキーを飲み、就寝。

2004年5月7日(金)

5時半起床。どうもバックがドアをノックしてくれて起こしてくれたらしい。車は6時過ぎに到着。荷物を積み込んで、ロシア語組はタクシーに分乗。7時前に空港到着、チェックイン、そして荷物の預け。オスマンともボエボダとも、お別れという感じはまったくない、ちょっとしばらく留守にするけどというような感じ。こうした別れのほうがいいかも。
7時20分すぎにみんな搭乗。車でホテルまで送ってもらう。荷物を置いて博多駅へ。立ち食いうどんを食って、9時発のかもめに乗り、長崎へ向かう。車中は当然のように寝ていた。
10時52分長崎着。松竹さんがロシア国旗を持って出迎えてくれた。松竹さんの案内で、長崎史跡めぐり。最初はレザーノフたちが大波止におりてから、立川奉行所までいく道のりを実際に歩いてみる。現在の地名と昔の地名がちがうことによる誤差をどうやって埋めるかは、実際に歩くしかない。現在建設中の歴史博物館の工事現場で発見されたという奉行所入り口の階段を見学。これは特別に許可してもらって見ることができた。それからいよいよ今回のメーンイベント、レザーノフや漂流民が半年過ごしたロシア仮館のほんとうにあった場所を松竹さんの案内で見学。
良かった。今回ここに来れて、歴史のロマンというものを実感できたような気がする。
レザーノフがどこに住んでいたかなんてことはどうでもいいことなのかもしれない。でもそれをなんとかして実証したいという松竹さんのような人がいるわけだ。
ビューホテルのなかの飲み屋で、松竹さんと飲みながら、また安請け合いをしてしまった。つまり長崎日ロ協会の例会のために10月に再び長崎へ来ることにした。レザーノフが来航して200年、そのためになにか自分でできることをしたいと思ったわけだ。
ホットしながら、なんかまた歩きだしている自分。それもまたいいのではないだろうか。
でも松竹さんにあえて良かった。
松竹さんが、わざわざ予約してくれたこのホテルニュータンダの一部は、レザーノフが暮らした仮館のあったところに建っている。

2004年5月8日(土)

朝10時から、松竹さんの案内で、ロシア人居留地、グラバー亭を見学。昼はビクトリア号という船上レストランでとる。
大野から携帯にメール、キャナルのアクアショーの時間を聞いてきたのだが、今日はいけないと返事。
昼食後ロシア人村と呼ばれていたところ、そして悟真寺のロシア人墓地を見学。これでだいたいの予定は終わり。
駅近くの寿司屋で食事をしてから、松竹さんに別れを告げる。ほんとうに今回はお世話になりっぱなしだった。松竹さんのおかげで、中身の濃い旅ができた。
21時すぎに博多着。長崎は雨が降り出したのだが、こっちはまだみたい。ただ天気予報では大雨。アクアショーが見れないかもしれない。
今日は疲れていたので、23時すぎに就寝。

2004年5月9日(日)

昨日はゆっくり寝れたので、身体がすごく楽。昼のショーは13時からということなので、松屋で朝飯を食べたあと、駅前の紀伊国屋をゆっくりまわったあと、喫茶店でベルチンスキイの訳をしてしまう。
天気予報は雨だったのだが、まだ降り出していない。なんとかもってくれるといいのだが・・・。
13時のショーはガウチョとクラウン。ユーラに頼まれてビデオ撮影。ショーが終わったあと、大野と上のラーメン道場で新しく出店したちばき屋のラーメンを食べる。
16時アクアショー。途中にインザムードの噴水ショーが入ったものを見るのは初めて。ほんとうにいいショーに仕上がっている。この回もビデオ撮影。
いったんホテルに戻り、メールの返事やら、書類の作成をやっつける。
19時アクアショーのラスト。最後はクラウンをのぞいて全員水に飛び込んだ。プロデュースをしたKさんH君と握手。このふたりの熱意が実現させたショーだったと思う。
撤収を終えて、21時半からイタメシ屋で打ち上げ。明日は早いので、みんなを置いてさっさとホテルに戻る。
24時前に就寝。

2004年5月10日(月)

エレベーターが故障して、落下した夢を見ていた。自分だけ軽傷ですんだというのはいかにも俺らしい。でも飛行機に乗る日に見る夢じゃないわなあ。
軽くシャワーを浴びて、5時20分すぎに待ち合わせ場所へ。どうも昨日はロシア人以外は、みんなでカラオケに行ったらしい。相変わらずイタリアの兄弟はテンションが高い。6時過ぎにタクシーと乗用車に分かれて、空港へ。ANAで成田までいくのは、ロシア組とイタリア組、JALで成田にいくのはひとり。イタリア組はここでチェックインできるのだが、超過の料金のことで、受付がもたもたする。先に出発する飛行機に乗るネオミは、先に搭乗口へ。結構混んでいるようだった。出発15分前に4人は搭乗口検査場へ。昨日の公演の時も最後までいた中学生ぐらいの追っかけさんが3人見送りに来ていた。
成田は雨。荷物を受け取る必要のないイタリア君たちはさっさとお別れを行って、去る。
10時前にアエロフロートのカウンターへ。チャイソンズの安西君が、バヤンを持ってやってくる。購入したけどあまりにもひどい不良品だったので、急遽返品することになったもの。結構重たい。案の定計量したらバヤンの分15キロ分がオーバー。なんとかただで済むが、ほんとうにこれを売ろうとしたジーマのことが憎くなる。嘗められたもんだ。
チェックインが終わり、あっさりここでユーリイとゴーシャとはお別れ。また1カ月半後には会えるわけだし、まさにダスビダーニャだ。
会社に電話を入れて、今日はこれで帰らしてもらうことにする。やっと2週間の長い出張も終わった。疲れた、疲れた。
リムジンではずっと寝っぱなしだった。

2004年5月11日(火)

1時間遅れで出社。2週間ぶりの出社となる。まずは出張の精算。これを済ましてから、たまっている仕事をこなしていく。夏の仕事と秋の仕事の仕込み関係で、条件の詰めをまずは急いでやらないといけない。
これがまず先決。これを終えてから、秋の企画について出演を予定しているアーチストの押さえを確認するために、メールを出す。
夏の企画に関しては、出演者の確認がとれる。
17時過ぎ会社を出て、気功へ。やはり身体がかなり張っていたようだ。だいぶ楽になった。
21時帰宅。22時半すぎ予備校に通いはじめた長女のお迎え。これから火曜日は野毛で飲んで、横浜でピックアップするというのがいいのかもしれない。

2004年5月12日(水)

どうも身体が重い。睡眠はとっているはずなのだが、眠くてしかたがない。
宣材の写真の件で、リトルに電話。リトルにサーカスを見にいっているデスクの大野からも電話。ミーシャ慰安のための慰問団第二弾だ。
15時半から六本木で打合せ。いったん会社に戻りメールのチェック。待っていたメールは来ておらず。
17時すぎに会社を出て、planBへ。6月から立ち上げようと思っているフールBの打合せ。フール祭でやったオムニバス形式のものを定期的にやろうということ。
とりあえず6月23日・25日に一回目もやることになった。出演者は光洋ちゃん、三雲、こうじ、重森の四人。
打合せのあと、近くの居酒屋で、光洋ちゃん、こうじ、重森、VJと軽くビールを飲もうということになる。
結局23時過ぎまで、ストリップ小屋でなにかやろうという話でおおいに盛り上がる。結局品川から最終の電車に乗ることに。

2004年5月14日(金)

一日休んで少しは体調が良くなる。昨日も昼寝というか、うたた寝というかずっと横になっていた。
毎年夏やっているイベントの出演者のスケジュールを電話で確認。
ジャグリング協会からチラシが届いたので、それを折って、会報の発送作業をなんとか午前中に終わらせる。
昼過ぎにアルマトゥイに電話、心配させる電話を火曜日によこしたので、気になって電話をしたのだが、なんの心配はないとのたまう。月曜にメールをもらうことに。
韓国で開かれる綱渡りフェスのために芸人さんに連絡。資料はこちらでつくらないといけないようだ。
17時30分すぎ会社を出て、野毛へ。横浜中央図書館に本を返却したあと、フラスコに立ち寄る。そのあと前から行きたかった今年できた宮城の飲み屋でデスクの大野と落ち合い、石巻の地酒とホヤと牛タンという地元バージョンでいい感じになる。
万里に顔をだしたら、福田さんがちょうど帰るところ、一緒にそのまま波の上へ。福田さんが帰ったあとも、泡盛を結構飲む。
何時に帰ったか覚えていない。

2004年5月17日(月)

10時出社、かるく打合せ。夏の仕事の件で、クライアントに電話、結局今年も見送りになった。東北は冷えているのかな。この結果をアーティスト側に伝える。
夏のいつもやっている仕事で出演者のスケジュール調整。だいたいメドがついた。
ハーリックにこまごまとした内容のメールを送る。ペーチャに電話、契約書をFAXで送ってもらう。
通訳してもらったナターシャから電話。いま日本に来ているという、明日会うことに。ずいぶん久しぶりになる。楽しみだ。
18時前会社を出て、秋葉原へ。小出と待ち合わせ。通知不可能の着信。たぶんハーリックからだと思い、電話。やはりハーリックだった。
詳しくはメールで知らせてもらうことにする。このところ良く行っているビアホールで、いまデラシネで連載中のクラウンカレッジものについてインタビュー。かなり面白い話が聞けた。焼酎をボトルで一本半飲んで、店を出る。
もう一軒いく事に。結局小出の家に泊めてもらう。

2004年5月18日(火)

10時すぎに目が覚めるというか、無理やり起こされる。顔を洗わず、歯も磨かず、小出の家を出る。
根津の近道を教えてもらい、そこから新茶に出て、お茶の水で乗り換えて、千駄ヶ谷へ。留守電にナターシャから電話。少し遅れるというので、駅前のベックでコーヒーを飲む。しかし頭がガンガン、喉からから、久しぶりに本格的な二日酔いだ。
11時半ナターシャと会って、会社へ。北九州でカザフサーカスをやって以来に会うことになる。元気そうだ。
30分ぐらい話したあと、別れる。
棚がひとつ入ったので、ビデオラックの整理。それにしてもすごい勢いでビデオの数は増えていく。
今日は糖尿の検査の日だったが、とてもじゃないがこの状態ではいけないということで、来週に延期してもらう。
モスクワからの来日組のチケットの件で、ペーチャとやりとり。二日酔いで頭がぼけているから、到着日と出発日がごちゃごちゃになってしまう。
何度か電話して、やっと購入へゴーを出す。
明日から、済州島に行くので、まだ確認がとれていないことに関して、ハーリックへ念押しのメールを入れて、18時半に会社を出る。
朝お茶の水で駅ソバを食べたきりだったこともあり、とにかくフラフラの状態で帰宅。朝早いので、早めに就寝。

2004年5月19日(水)〜21日(金)

済州島への旅は「クマのコスモポリタン紀行」

2004年5月24日(月)

思う存分楽しめた済州島から帰って来て、待っていたのは、まさに悪夢のような仕事の話ばかり。今回は携帯を成田空港で借りたのでいろいろ連絡はもらっていて、嫌な予感はしていたのだが・・・。
たった3日間休んだだけなのに、よくもこんなにまとめていろんなことが起きたものだと思う。
週末は、あちこちに電話することになった。
ということで出社してから、あちこちに連絡をとりながら、問題の処理にあたる。
見積もりを二本作成。パフォーマーたちに連絡。スケジュールを作成して契約書の準備。
プレゼンするパフォーマーのビデオをチェックして、ダビング作業。
査証申請のための書類の確認。6月もまたいろいろありそうな感じだ。
19時会社を出る。帰国してからずっと首のあたりが痛くてしようがない。

2004年5月25日(火)

首ががちんがちんに固まったような状態になってしまった。ここのところずっと調子よかったのに・・・
夏の仕事の関係で、出演者のプロフィールとスケジュールをクライアントにFAX。
秋の仕事が決定した芸人さん用の契約書を英文でつくってもらい、それをとりあえずメールで送る。
15時から糖尿の検査、コレステロールが上がっているが、血糖値の平均値は6.1と、毎月のように落ちはじめている。感じとしては今月の分は、6を割るのではないかという気がする。
会社に戻ってから、秋の仕事が決定している芸人に、確認の電話、メールを昨日送っているのだが、受け取っていないという。再度送信。すぐに返事、今度は文字化けで見えないという。ロシア語はどうもうまくいかない。みんなに教えてもらって、いろんなやり方で送り続ける。やっと返事がきて、契約に同意するとのこと。ホットする。スポンサーに連絡。
18時半から気功。先生の話では、首の張りは、軽いムチウチではとのこと。そうだ馬に乗ったときに、馬が突然走りはじめて、首ががくんといった。あの時から確かに首の痛みがひどくなったのだ。しかも身体中それこそ、爪先から頭のてっぺんまでガチガチだという。特に股関節。これも馬だ。あんだけ楽しかった初めての馬乗りの代償は大きかったわけだ。
情けないといえば情けないのだが、馬乗りは楽しかったもんなあ。すっかりいい気持ちになって、帰りの電車では熟睡。
21時に帰宅。

2004年5月26日(水)

朝ネットをつないでみたら、デラシネのアクセス数が5万件を越えていた。50004件だった、あぶない、あぶない。
首の状態がだいぶ良くなった。
10時出勤。秋に出演が決定した芸人にメールで契約書を送っておいたのだが、OKということなので、オリジナルを郵送しようと思って住所をみたら、やたら簡単。確認のためにメールを入れておく。
午前中に軽く打合せ。
ハーリックからメール。資料をいろいろ今日発送するという。
会社を出る前に、サーカス学校のナージャ先生に電話、3月にこっちへ来てから会っていない。用件はすんだのだが、20分ぐらい話す。先生は今回去年カンヌでグランプリをとった、ロシア映画『帰還』のビデオを持ってきてくれた。
近況をいろいろ話し合う。
19時夏のイベントの件で、クライアントのところで打合せ。打合せ中にハーリックから電話、いまDHLで発送したところだという。その番号を控えろという。
こんなときこそメールで送ってくれたらいいのに・・・・
21時前帰宅。U23のトルコ戦の後半をやっていた。同点に追いつくゴールシーンが見れて、ラッキーだったかも。

2004年5月27日(木)

このところ暑い日が続く。ツツジの花もそろそろ終わり、あじさいの花の蕾がふくらみはじめている。確実に梅雨が近づいているということだろう。
昨日から追いかけている芸人さんからやっとメールは来たのだが、なにも書いていない。昼過ぎに電話することにする。
夏のお盆の仕事でプレゼンしたいという代理店に、とりあえずFAXを送っておく。この手の仕事はほとんど決まったためしがないので、やっつけ。
夏の仕事が決まったパフォーマーたちに、連絡。写真のデーター集め。
15時過ぎに芸人さんの電話がつながる、スケジュールが空いていることを確認できた。これはいいニュース。
16時30分すぎ会社を出て、早稲田へ。アートボックスの下見。雰囲気のある小屋だ。カバレットをやるにはちょうどいいかもしれない。
ということでカバレット早稲田を7月6日にやることをきめてしまう。一緒に下見をしたS君と打合せをしながら一杯。モスクワから電話が来ることになっていたのだが、なかなか来ない。
二軒目のバーでギネスを飲んでいる時に、電話がくる。もう少し時間がかかりそうだ。
ギネスは、締めの酒としてはいいことに気づいた。3杯飲む。
品川発の京急の最終には間に合わず、東海道に乗って、横浜で最終の普通に乗れた。横浜で全速力で走る。
家について、衛星でやっていた日本とロシアのラクビーの試合を見る。3時就寝。

2004年5月28日(金)

寝坊。10時に家を出る。今日は神さんの命日だ。会社にいく前に、赤坂の龍泉寺に寄る。
相変わらず静かなたたずまいのお墓である。スーパードライの供えられていた。
12時すぎに出社。
懸案事項はいくつもあるのだが、秋の仕事の件で、先方からの返事を待っているのが、なかなか来ないのが気がかり。
そういえば同じく秋の仕事の件で、確認が残っているのがひとつある。早稲田の授業のこと、漂流民の展示会のこと、仕事以外にも気の重いことがたくさんある。
17時半すぎに会社を出る。桜木町でIさんご夫妻と待ち合わせ。モスクワにいった時はよく会えたのに、日本に戻ってらしてからほんの数回会っただけだ。最近磯子の方に越してこられたというので、会うことになった。
万里放題亭で食事したあと、波の上へ。結局1時半ぐらいまでいた。タクシーで磯子に寄って、それから帰宅。
かなり飲んでしまった。

2004年5月31日(月)

週末は、金曜日の飲み過ぎがたたり、なにもできないで、またしても寝たきり老人に化していた。それはいいのだが、携帯がないことに気づき、あわてる。
波の上を出たあと、タクシーで電話したような記憶があったので、タクシーに忘れたと思い込んでいたら、日曜日に久仁子さんから電話、波の上にあったという。ホット一息。
10時から軽くミーティング。待ちかねていたDHLが到着。急いで開けようとするが、テープがぐるぐる巻きにされていてなかなかあかない、いつものように力まかせに開けようとしたら、思い切り突き指。
しかも開けてみてわかったのが、いま待っているビデオの翌日にハーリックが送ったと言っていたもの。ハーリックに確認するように電話。
がっかりする。DHLにも電話。
ペーチャからFAXが届くが、肝心のことが書いていない、結局また電話でやりとり。空回りしているような感じだ。
再度ハーリックに電話、荷物はもう着いているはずだという。DHLにもう一度電話、税関で止まっていることがわかる。なんとか明日午前中に届けてもらいたいと念を押す。
19時に会社を出て、野毛へ。波の上に寄って携帯をもらう。しかし月曜日の野毛は静かなものだ。ビールを2杯飲んで帰宅。
今朝痛めた指がうずく。


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