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クマの読書乱読 2002年3月

『死者として残されて−エヴェレスト零下51度からの生還』
著者 ベック・ウェザーズ・ステファン・ミショー
訳  山本光伸
光文社、2001年12月刊行、1800円(本体)
購入したきっかけ  書店で見て

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 1996年5月エヴェレストで9人の死者がでるという、エヴェレスト登山史上最悪の遭難事件がおきる。この中には日本人女性難波康子が含まれていたこともあり、当時日本のマスコミでも大きくとりあげられた。この遭難事故の犠牲者のほとんどが、いわいる商業登山と呼ばれた今回の遠征に参加したアマチュア登山家であったことも話題になった。世界最高峰の頂上に立つことことは、登山愛好家の永遠の夢である。これを実現させようというビジネスが生まれた。高山登山の経験があり、6万5千ドル(約700万円)のお金を出せば、一流のプロの登山家が付ききりで、頂上まで案内してくれるというのだ。この年は、2つのグループが夢のエヴェレストを目指し、そして2つのグループから多数の犠牲者を出すことになった。
 この事件について書かれた本には、この山行に同行した作家クラカウアーのノンフィクション『空へ』、ガイドとして参加し、クラカウアーに同書で激しく非難されているブクレーエフの『デスゾーン』などがある。さらに同じ時に撮影隊を送っていたアイマックスがつくったドキュメンタリー映画『エヴェレスト』もある。
 私がこの事件に関心をもったのは、ガイドとして参加したブクレーエフの微秒な立場であった。強靱な体力と精神力をもった彼は、ガイドの切り札的存在であった。しかし彼は酸素ボンベをつかわず登頂し、そのため登頂後すぐに下山しなければならず、遭難の危機にあったとき何の役にも立たなかった。このことで、ガイド失格とクラカウアーに厳しく非難されている。しかし彼はキャンプに戻ったあと、遭難した人たちを救うためにブリザードのなかをついて、三回も山中に向かい、そして道に迷っていたクライアントを3人救出もしているのである。自分の任務を放棄したガイド、と同時に危険を省みない勇敢な登山家、このふたつのレッテルを貼られたブクレーエフは、この事件の1年半後別な山で雪崩に巻き込まれ亡くなっている。
 彼がどんな人間だったのか興味をもったのは、彼がカザフ人だったということもあるかもしれない。

 さてこの本のことである。
 これはこの登山に参加し、奇跡の生還をなし遂げた男が書いたものである。ベックは、難波康子とともに行動をとった。このため彼女の死にも立ち会うことになる。ブクレーエフが遭難者を発見、救援隊がかけつけた時、彼は半死状態だったため、そのまま一晩放置されたものの、自力でキャンプに下りてくるという、まさに奇跡的な生還をなし遂げる。
 この書の前半は、このエヴェレスト登山の悲劇と奇跡についてのドキュメントになっている。本人が書いているだけに迫真に満ちている。特に、半死状態で一晩放置された彼が、意識を戻すシーンなどは、人間の存在の不思議さを痛切に感じさせてくれる。
 しかしこの書のほんとうの読みどころは、実はこのエヴェレストでの出来事ではない。これはあくまでもプロローグなのだ。
 むしろ話の中心は、奇跡の生還をなしとげたベックが、英雄として社会に迎え入れられるのに対して、ベック自身は、なぜ山登りをはじめ、エヴェレスト登山まで目指すことになったのか、山登りに夢中になるあまり、家族を放置し、妻との間に断絶ができてしまったことを自省しながら、正直に自分と対峙するところにある。
 上昇志向があまりにも強く、職場で自分の存在価値が薄くなった時に、鬱病にかかり、それを克服するために、山登りをはじめたこと、山登りをはじめることで、さらに上のランクを求めていくなかで、エヴェレストがターゲットになっていく。そこで彼の視座から家族、特に妻の存在が消えていく。妻の証言もまじえながらの、その時の葛藤がまず語られる。
 そして後半では生還したものの、凍傷のため右手、鼻を失った彼が、今度はリハビリのため闘うなかで、妻や子供たちと信頼関係を回復することが、語られるのである。
 冒険ものというよりは、ヒューマンドキュメンタリーといえるかもしれない。
 一気に読ませる魅力をもった本であることは間違いない。しかし前にここでもとりあげた『オールド・ルーキー』もそうであったが、アメリカの人たちは、どうして家族との絆のためにこんなにまで、真摯にならなくてはいけないのだろうなどとも思ってしまった。一緒に夫婦として共同生活をするうえで、お互いに信頼し、信頼されることが、不可欠なのだろう。もう少しお互い無関心であることも、共同で生活する時の知恵ではないかとも思うのだが・・・
 ブクレーエフに対しては、この著者も冷やかであった。
 この遭難で愛する妻を失った難波康子さんのご主人は、彼のことをどう思っているのだろうか。そんなことがまた気になってしまった。


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