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【連載】海を渡ったサーカス芸人列伝

第2回 拘禁されたサーカス芸人の足跡を追う

渡航目的−遊芸稼業
第一次世界大戦とサーカス芸人
横田組と二見組

渡航目的−遊芸稼業

 海を渡り、海外を活躍の場としたサーカス芸人はどのくらいいたのだろう。おそらくは千人を下らないのではないだろうか。これを確かめるひとつの方法は、外交史料館に保管されている外国旅券下付表を調べることだ。
 以前ヤマダサーカスのことを追いかけている時に、1905年から1909年まで5年分の外国旅券下付表を調べたことがある。各都道府県毎に海外渡航を申請していた日本人の数は、思ったより膨大なものだった。その多くは、南米や極東への移民、北洋への漁業出稼ぎである。このなかでサーカス公演を目的に海外に渡った芸人たちを探すのは、結構労力を要する作業であった。彼らの渡航目的の欄には、「遊芸稼ぎ」、「遊芸稼業」、「軽業」と書かれてある。
 幕末から第二次世界大戦が始まるまでのおよそ70数年間の間に、海外に渡ったサーカス芸人をこの外国旅券下付表だけを頼りに、数を割り出すのは、かなりの時間を要することは間違いがない。とてもいま自分にはそんな時間がない。
 数だけを割り出すのなら、この調査は有効かもしれない。しかし私は、それよりも戦前海外に渡り、芸を頼りに生きた日本人の生きざまを知りたい、そして芸能を見せるという、役所言葉でいう「遊芸」、つまり実業ではなく、エンターテイメントという、その場限りの芸を見せる虚業に命を賭けた日本人がいたということに興味があった。
 越境することによって、生きる可能性を広げる、それも「日本」という国のためではなく、自分のために、家族のために、生きる場所を求め、世界を彷徨っていた、そんなしなやかな精神をもった日本人がいた、それを追いかけることが私にとっては大事なことである。しかも彼らは、歴史に名前を残すことなく、消えていった人々でもある。歴史に埋もれたこうした人々を掘り起こすためには、外交史料館に残っている、いわいる歴史文書だけでは不十分なのである。
 歴史家が相手にしない回想談、新聞記事、公演パンフレット、広告を手かがりにするしか、彼らの生きた足跡は追えない。
 『海を渡ったサーカス芸人列伝』では、評伝としてはとりあげることができない、つまり点としてしか足跡がわからないサーカス芸人を、数少ない資料をもとにとりあげていきたいと思っている。

第一次世界大戦とサーカス芸人

 海を渡ったサーカス芸人たちにとって、日本人ということが、大きなセールスポイントになっていた。東洋の島国から欧米にやって来たサーカス芸人は、日本人が何者かわからない欧米の大衆にとっては、それだけでもエキゾチックであった。しかも芸のレベルは高い。欧米のプロモーターはこぞって、日本の芸人たちを買いに走り、多くの日本人芸人が海を渡った。
 しかし欧州を戦場とした第一次世界大戦が、彼らの運命をすっかり変えることになる。特にドイツで働く日本人芸人にとって、彼らのセールスポイントが仇になってしまう。日本は敵国になったのだから。

 大阪の新聞『大阪時事新報』の一九一四年九月六日号に、注目すべき記事「独逸の拘禁せる軽業師−興業師奥田辨次郎の話−」が掲載されている。

 「・・・大阪の興業主奥田辨次郎について、欧州に於ける日本芸人の現状を聞くと、東京では江川や青木一座の者が捕らへられて居るらしいとの事であるが、何しろ欧米へ行って居る芸人は大一座のものはひとつもない。唯玉乗り軽業というやうな一座に、日本人が交じっていると云う事は・・・・大阪から彼地へ行って居る芸人は、欧州へは四五百人、米国には三四百人も居るだろうが、居住の不明な者を除き、秩序立った者は、自分の手では亜米利加へ行って居るのみだが、彼国で婦人の成功者として有名な吉村すての手では、岡部座というのが行って居るが之れは吉村の甥に当たる天下茶屋の田中藤太郎の手で渡欧したもので、それから難波遊連橋の難波福松の手に渡って・・・また小芳の一座も居る筈だ。
 この間成功して帰朝した上福島の北村福松の手で行って居る一座もあるが、之は独逸に居なかったらしい。目下楽天ち余興に出演しているルポーフといふセルビアの女は、浪花康之助といふ曲芸師の女房となって夫婦共稼ぎででて居るのだが・・・」

 さらに一週間後、同紙九月十三日号に、欧州に渡った芸人たちの消息を訪ねる記事がのっている。

 「・・・・今大阪及東京から欧州方面に渡航して、現在判明せる芸人は十八組である。横田組十二名、浜村組七名、山形組五名、二見組七名、光田組二名、山本(毬つかい)一名、荒山一名、天花組四名、安藤組六名、岡部組七名、両国組、青木組七名、日の出組三名、山本小芳組廿二名、花子組(女優)三名、曽我組二名、小天二組七名、福島組四名、合計八十七名であって、その他監督舞台係衣装方などを加えると、百余名に上るのであるが、此等は花子一座の日本演劇を除くの外は音曲、曲芸、手品、曲乗の曲馬など悉く軽業師である。此中確かに独逸に居る者は小芳一座位なものだが同組及び他も悉く開戦以前早くも独逸を逃げだしたらしく、大阪の興業師奥田辨次郎及び難波福松等の許へ一二消息のあった所に拠ると、拘禁されている者は全く無いらしいとの事で・・・・」

 これだけたくさんの日本人芸人が戦乱の欧州に残っていたわけだ。
 まずはここにあげられた芸人たちのことからを追いかけてみることから、私の『海を渡ったサーカス芸人列伝』を始めることにしよう。

横田組と二見組

 最初に出てくる横田組であるが、この一座は沢田豊という私が長年追いかけてきた芸人が属した集団であり、これについては拙著『海を渡ったサーカス芸人』を参考にしてもらいたい。
 ただ現在「日本人の足跡」という大型連載企画のひとつとして沢田豊の足跡をあらたに検証し直している産経新聞記者田伏氏の外国旅券下付表の調査によって明らかにされた、横田一座が日本を出発したときのメンバーについては、『海を渡ったサーカス芸人』の中では触れられていないことでもあり、ここで紹介しておきたい。
 横田一座は、明治35年(1902)2月に旅券を長崎で下付されている。この時旅券を交付されたのは、以下18名であった。

1. 横田徳三郎(36歳) 出身地東京・浅草 団長
2.  〃 トメ (16歳)     〃 徳三郎養女
3.  〃 トク (44歳)     〃 徳三郎妻
4.  〃 権次郎(15歳)     〃 徳三郎養子
5.  〃 清一郎(12歳)     〃    〃
6.  〃 クメ (13歳)     〃 徳三郎養女
7.  〃 洋  (19歳)     〃 徳三郎養子
8.  〃 捨吉 (18歳)     〃    〃
9. 前田鍋吉 (7歳) 愛知・名古屋 駒三郎養子
10. 大崎徳次郎(10歳) 名古屋市・天王寺町 藤崎養子
11. 内山松五郎(23歳) 名古屋市・正木町  
12. 八幡卯一郎(22歳) 大阪市・難波
13. 矢島源太郎(4歳) 岐阜市・上加納
14. 田島レイ (33歳) 長崎市・中馬込郷
15.  〃 新太郎(5歳)     〃 レイ私生女
16. 作間森十郎(11歳) 名古屋市・正木町 源七孫
17. 中村亀太郎(22歳) 大阪市・天王寺大道
18. 熊沢兵次郎(28歳) 名古屋市・門前町

 この中に沢田豊が含まれていないが、これは彼がブラジルの日系新聞で発表した回想談のなかでも書いてあるように、この時は家出をして長崎まできて、密出国したためであろう。
 横田一座は、ロシアを横断し、たまたま公演中だった黒海に面した都市ヤルタで、日露戦争が勃発したことを知り、ロシアを脱出、そのあと、ヨーロッパ各地を転々としている。
 そして1909年団長だった横田徳三郎が引退したあと、横田一座はふたつの組に分裂した。沢田豊と横田権次郎らが、横田一座の看板を受け継ぎ、ドイツで巡業を続け、もうひとつは二見一座として、英国に渡ったと、沢田の回想にある。この二見一座の団長となったのは、一座がロシア公演中に合流した北村啓之介であった。彼は、一等航海士でロシア語、英語など数か国語の言葉を話せる語学の達人で、一座が悪辣なロシア人興業師にだまされ苦境に面していたときに、救いの手を差し伸べたことから、一座の番頭格として入団することになる。
 彼は、横田の養女トメと恋に落ち、結婚することになる。北村トメもまた沢田豊同様数奇な運命をたどっている。これについても詳しくは『海を渡ったサーカス芸人』にも書いてあるので、これを読んでもらいたのだが、沢田豊と北村トメとの不思議な縁について、少し触れておきたい。
 北村啓之介と結婚し、英国に渡ったトメだったが、第一次世界大戦勃発もあり、二見一座はまもなく解散、トメと北村も別れる。トメはスコットランドに渡り、ここで前夫と同姓の北村菊右衛門と出会い、結婚、エジンバラで理髪店を開業し、平穏な生活をおくるが、夫の病気、さらには店を乗っ取られるなど、苦労をかさね、第二次大戦開戦直前、やっとの思いで日本に帰国している。
 この時トメが身を寄せた家は、横浜にあり、しかも沢田豊の縁戚にあたる川島タニさんの隣だった。横田一座で同じ釜の飯を食べた仲間のなかでも、トメと沢田は、年がちかいせいもあり、仲もよかった。一座の花形スターであったトメを目当てに押しかけてくる男たちの楯になって、守っていたのも沢田であった。トメにすれば、30年以上前に別れた沢田と血のつながった人たちと、こうして隣り合わせになることに不思議な運命の力を感じたのではないだろうか。
 沢田豊の死が横浜の川島家に伝えられた時、日本でも葬式をあげてやろうと、親戚縁者が川島家に集まった時、トメも列席したという。
 北村トメの息子さんの弥一氏は、いまでも横浜に住んでおられる。

 北村トメのように、日本に帰国できたことを確認できる芸人は、ほとんどいない。多くは戦乱のなかでその消息を絶ってしまっている。
 わずかな資料をたよりに、『大阪時事新報』に名前がでていた一座の足跡を次回から追いかけてみたい。


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