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【連載】ロシアエトランゼの系譜−ベルチンスキイの生涯−

第11回 ポーランド 古き良きロシアの影

 ルーマニアを出たベルチンスキイはポーランドへ向かいます。ベルチンスキイの流浪の旅はまだまだ続きます。

ベルチンスキイの中のポーランド
大衆と共に、時代の鏡として
スラブの血
帰国の夢と、国外退去


ベルチンスキイの中のポーランド

 ルーマニアを追い出され、次に訪れた国ポーランドで、ベルチンスキイは暖かく迎え入れられる。まだこの時代ポーランドは、ロシアに対して親近感を抱いていたのだ。そして彼も、この国に特別な愛着をもっていた。

「この国に私は、なにか優しさを感じた。それはおそらく私のなかに、いくらかのポーランドの血が流れていたからではないだろうか。私と同じ名前の人とロシアでは会ったことがないが、ここではしばしば見かけることになる。ここではベルトゥインスキイとか、ベルツィンスキイとか呼ばれていたが、これは発音のしかたにすぎない。私の曽祖父あたりが、ポーランド人だったのだろう」

 ロシアとポーランドは昔から緊密な関係にあった。文学・芸術でもポーランドは、ロシアに大きな影響をあたえてきたし、かつてロシア近衛兵にはたくさんのポーランド人が勤務していた。料理にもその影響はみられる。
 ポーランドにやってきたベルチンスキイは、国内ほとんどの町をまわりコンサートを開いた。観客もマスコミもすぐに暖かく迎え入れてくれた。スラブの国でベルチンスキイは、我に返り、思い切りため息をついた。こうした歓迎ぶりをベルチンスキイは、冷静に「ポーランド人は私を、いわいる帝政的に受け入れていたと、言わざるを得ない」と振り返っている。
 政治状況がどうであれ、ポーランド人はロシア人が好きだったと彼は、語る。

「古くからのスラブの姉としてロシアは、ポーランドに大きな影響を与えていた。ポーランドがツァリーの政権と、清算を終えてなくても、そんなことはどうでもよかった。魂の奥底で、ポーランド人はロシアを愛していたのである」

大衆と共に、時代の鏡として

 唯一ベルチンスキイの歌に食ってかかってきたのが、ロシアの亡命人だったというのは皮肉なことだった。

「私がポーランドで出会った唯一の反対の声は、ロシア人の亡命者たちからだった。
 サビンコフ派(エスエル党)の新聞「自由を求めて」で、ディミトリー・フィロソフォフが、コンサートに一度も来たこともないくせに、私にひどい言葉を浴びせた。しかしこの新聞社で働くロシアやポーランドの若者たちが、熱烈に私の擁護に立ち上がったのだ。論争がはじまった。若者たちが優勢にたった。一ヶ月たった。ついにフィロソフォフは白旗をあげざるを得なかった。当惑気に彼はこう問いかけた。
 『いったいぜんたいどうしたことなのか。ボリシェビキたちが、長老のチーホンを投獄したとき、みんなは黙っていたではないか。しかし私がちょっとだけベルチンスキイのことを悪く言っただけで、こんな騒動になっている。まるで私が、みんなの感情を侮辱したみたいにだ』」

 実際にフィロソフォフは、みんなの感情を侮辱したのだ。なによりもベルチンスキイはいつも大衆と共にあったからだ。

「病んでいる人たち、辛い生活をおくっている人たち、祖国を愛している人たち、そして祖国を恋焦がれる人たちと私は一緒だった。私は大衆と共にあったのだ。群衆と共に。(中略)作家であり、哲学者のフセヴォロド・イワノフは上海で私のことをこう書いていた。
 『群衆は、いつも賢明なのだ。そしてベルチンスキイはいつも群衆と共にあった。だから群衆といつも一緒のベルチンスキイも賢明だったのだ』
 そうなのだ。私の芸術は、時代を反映したものだ。私は時代のマイクなのだ。私は直感で、最も大事なもの、みんなが思っていること、秘められた思い、希望、信仰を見抜くことができたのだ」

 だからこそベルチンスキイは、エスエル派の論客の批判をかわすことができたのだ。

スラブの血

 こうした思いがけない反発はあったものの、ベルチンスキイは、ポーランドのなかで熱狂的に迎えられていた。公演のたびに楽屋にはさまざまな人たちが押し寄せていた。なぜこれだけこの国で受け入れられることになったのか。古い時代のロシアをしのぶ人たちが、この人気を支えていたのである。

「ロシア語やロシアの歌にホームシックを感じていたポーランドとそこに住むロシア人たちは、愛しのロシアの歌や、ロシア語を聞くだけで、もう泣く準備ができていたのだ。もし私が、どんなひどく歌ったとしても、そんなことはどうでもよかった、成功まちがいなしだったのである。数年のうちに、私の崇拝者や友人たちのグループができてしまった。こうした人たちは、ポーランドの貴族階級に属する人たちで、かつて帝政時代に宮廷につとめ、当時のペテルブルグを神格化し、いまだにその思い出やロシアへの想いを消し去ることができなかったのである。スラブの血は、ふたつの兄弟国、ポーランドとロシアをかたく結びつけることになったのである」

 当時のワルシャワは、沸き立っていた。店にはフランス、イギリス、ドイツから流れてきた物がふんだんに並べられていた。またたくさんの軍人たちもいた。古いペテルブルグを思い出させるような、長剣や肩章をつけたいろいろな軍服を身につけた人たちが闊歩していた。ベルチンスキイは、ポーランドでまるで時代のエアーポケットにおちたような錯覚に陥った。ここではまだ古くからの貴族生活が残っていたのである。

「概してこの時代のポーランドは、古い時代を生きていた。男たちは女性のために銃で決闘していたし、劇場ではバレリーナやプリマドンナたちに、人間の大きさもある大きな花いっぱいのかごが贈られ、金持ちの地主たちは、1年の4分の3を外国ですごし、モンテカルロで全財産をすったりしていたのだ。こうしたことが私には不思議でしかたがなかった。すでにロシアではなくなっていた生活習慣を、私はただ遠くから物珍しげに見るだけだった」

 ロシアからの亡命者たちはあまり目立たなかった。エスエルの新聞だって、辛うじて国の援助を受けてなんとか発行されていた。おそらく亡命者の多くは、パリをめざしていたので、ポーランドに長くとどまることはなかったのだろう。ビリヤード場で作家のアルツィバーシェフを見かけることがしばしばあった。彼はあまりにもうますぎて、相手を探すのに苦労していた。

「彼はもうすっかり老人になり、ほとんど耳が聞こえなかった。彼の耳元で叫ばなければならなかった。彼に会ったとき、こんなことを言った。『君が素晴らしい歌手であることは読んだよ。今度は必ず見に行くよ』
 彼は聞きに行くとは言わなかった。彼は私の歌を聞くことはできなかったのだから」

帰国の夢と、国外退去

 ある出会いを通じて、またベルチンスキイに祖国への帰国の道が開かれることになった。コンサートによく足を運んでくれた国会議員のアンドレイ・ベルジビツキイは、ビザや労働許可書の件で便宜をはかってくれた。彼は古くからの友人としてロシアを見ていたし、ソ連邦になってからもその協力関係が必要であることを主張していた。彼は、ソ連に通産使節団を派遣することを最初に提議し、実際に彼が団長としてソ連に行き、帰ってからも両国の交流のため大きな役割を果たしていた。
 ある日彼の家に夕食を招待されたとき、ソ連大使のヴォイコフも同席していた。この日は身内だけの夕食会ということで客も少なく、ベルチンスキイは、食事のあと歌うよう請われる。

 「私は喜んで応じた。ちょうどピアニストも呼ばれていたので、ちょっとしたコンサートとなった。祖国からやってきたロシア人のために歌うことは気持ちがよかった。私は家にいるときと同じように、自分のロシアのため、自分の大地のために歌った。
 歌い終えたとき、ヴォイコフが私のところに歩み寄ってきた。
 『ベルチンスキイ、どうしてあなたは祖国に戻らないのですか?』こう彼は尋ねてきた。
 私はすっかり興奮していたので、無駄なあまり役に立たない言葉を並びたて、支離滅裂な説明をしていた。たぶんなにも説明にならなかったのだと思う。
 しかしヴォイコフは、私のことを理解してくれた。
 『領事館にきて下さい。そこで話をしましょう。私にできることはなんでもしましょう』
 私はすぐに気持ちが楽になった。これは1922年のことだった」

 領事館でベルチンスキイは、申請用紙に必要事項を記入し、祖国に戻るための願い書を書いた。この書類は大使の個人的な決裁書をつけて、本国に送られたが、ソビエト政府は彼の帰国を認めなかった。まもなく申請が却下されたという知らせが届いた。
 最初は海外からのアーティストの公演に寛大だったポーランドだったが、次第に査証や、労働許可をとるのが厳しくなってくる。公式的には、海外アーティストが海外へ金を持ち出すのを禁止するという理由だったのだが、実際は海外アーティストの公演が頻繁におこなわれることで、働き場を失うことに危機感を抱いた国内アーティストのユニオンの激しい突き上げがあったからだった。
 ポーランド滞在がだんだん難しくなってきたことを肌身で感じていたベルチンスキイだったが、思いがけないことから、ポーランドから追い出されてしまう。
 モスクワにいた時から知り合いだった外務大臣が、ベルチンスキイを呼び出し、「2週間だけ、近くのダンツィヒ(ドイツ領)あたりで過ごしてくれればいいんだ。そのあと戻ってきたら、好きなだけいてもらっていいのだ」と奇妙な相談をもちかけてきた。
 この不可解な依頼に、ベルチンスキイは説明を求めるが、大臣は「私には、これ以上なんの説明もできない」と言うばかりだった。
 言われたようにダンツィヒで滞在している時に、この理由が判明する。
 ワルシャワにルーマニア国王が訪問することになり、ルーマニアの秘密警察が警備を理由に滞在中の外国人のリストを借り、そのなかにルーマニアを追放になった「好ましからぬ人物」ベルチンスキイの名前を見つけたことが、原因だったのだ。再びルーマニアの秘密警察の手が彼の間近まで伸びてきたわけだ。
 ベルチンスキイに渡されたのは、3日間有効のトランジットビザだった。

「この3日間で、私は大急ぎで歌を歌い(録音のため)、友人たちと会い、ワルシャワを見物し、72時間後にはウィーンへ向けて旅立った。しかしここもそんな長くは滞在できなかったのだが・・」

 次に彼が訪れた国は、ドイツであった。


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