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【連載】ロシアエトランゼの系譜−ベルチンスキイの生涯−

第10回 ルーマニア−3 逮捕、そしてルーマニア脱出

故国への思いを唄に託し歌い続けるベルチンスキイに、ルーマニア政府はボリシェビキのレッテルを貼り、追いつめていく。

牢獄生活
カフェまわり
再会、そして脱出


牢獄生活

 ベッサリビオ地方での二週間の公演を終えたベルチンスキイは、再びキシニェーフに戻った。ここで二、三回コンサートを開き、あとはポーランドへ行くつもりだった。夕方キシニェーフに戻ったベルチンスキイは、ホテルで食事をとり、横になると、すぐに寝入ってしまった。彼のからだは、もうボロボロだった。なにしろベッサリビオからキシニェーフまでの道が想像を絶するひどい道だったのだ。
 朝の五時、ノックの音で目をさます。マネージャーのキリャコーフが、扉を開けると、憲兵が立っていた。すぐに署に来いというのだ。
 取調室に連れて行かれたベルチンスキイを待ち構えていた憲兵は、椅子を指さし「ベルチンスキイ、取り調べをはじめようか」と声をかけた。
 机の上には、分厚いファイルがあった。これは地方から届けられた、ベルチンスキイや彼の歌に関する報告書であることが、やがてわかる。会話はフランス語でおこなわれた。

「『あなたは、ボリシェビキですね』と、じっと私を見つめ、彼は問いただす。
 『残念ながら、ちがいます』
 『どうして、残念ながら、なのですか』
 『何故なら、もしそうであったら、私は自分の国で歌っています。こんなキシニェーフのようなところまで来なくてもいい』
 この答えに、彼は満足してくれなかった。
 『あなたはプロパガンダをしているのだ!』、彼は机を叩き、叫んだ。」

 取り調べは一時間続いた。ベッサリビオ地方から旧王国のあった地方へ追放されることが決まった。ベルチンスキイは、ブカレストを選ぶ。キシニェーフの彼の友人たちが、釈放のため奔走してくれていたのだが、袖のした万能のこの国で、今度ばかりは、それが通じないことがわかった。ボリシェビキというのは口実だった。逮捕のほんとうの原因は、この町を牛耳っていたポポビッチ将軍の愛人の告げ口だったことがわかる。
 前にキシニェーフで公演していたとき、あるレストランで見知らぬ女性に突然声をかけられたことがあった。自分のリサイタルがあるので、そのときゲスト出演してくれといわれた。ベルチンスキイは、体よく断ったのだが、この女性が、ポポビッチの愛人だったのである。
 真夜中、ベルチンスキイとキリャコーフは、監視つきで、ブカレスト行きの汽車の三等車両に乗せられた。翌朝八時にブカレスト駅に到着したあと、ベルチンスキイは、警察へ連れられた。キリャコーフはここで釈放された。
 警察署でベルチンスキイは、有り金すべてと時計、ポケットにあったちょっとしたものまでとられたあと、ネクタイとカラーもとられ、監獄に連れて行かれた。
 決定がでるまで、ここに居てもらうという説明に、追放と言われたはずで、何故逮捕されなくてはならないのかと懸命に抗弁するベルチンスキイに対して、警察官は「我々の関知したことではない」とにべもない。
 ベルチンスキイが連れて行かれた監獄は、地下室の大部屋だった。泥棒たちが何人かいた。朝にお湯、夕方にまたお湯とパン一切れが与えられるだけだった。お昼はキリャコーフがが差し入れたものを食べた。泥棒たちは、皆いい連中だった。ポーランド人とベッサリビオ出身が何人かいて、彼らはロシア語が話せた。夕方になると彼らはベルチンスキイになにか歌ってくれとせがんだ。彼は、自分のつくった歌ではなく、ロシア民謡を歌ってあげた。囚人たちも、一緒に歌った。
 ある朝新入りが加わった。彼の名前は、ヴァツェック。国際的に知られた泥棒だった。彼は、陽気で、善良で魅力的な若者だった。ベルチンスキイはすぐに、この泥棒と親しくなる。いつも夜に、ベルチンスキイは盗賊の歌を歌ってあげた。彼は何時間もため息をもらしながら、聞き惚れていた、そしてベルチンスキイにこう言ったという。
 「もし俺が役にたつことがあれば、いつでも言ってくれ。喜んで協力するぜ」

カフェまわり

 二週間後、ベルチンスキイはやっと釈放される。しかし投獄されたとき預けたはずのお金を返してもらえない。ベッサリビオで稼いだ、ポーランドへ行くための軍資金五万レイを没収されてしまったのだ。

 「監獄を出て、私はこれからどうしたらいいか考えをめぐらした。金は全部とられてしまった。歌うところはない。ベッサリビオに行くことは禁じられている。ブカレストにはロシア人は少なかった。コンサートを開こうにも、果たしてそれが許されるかどうか。ポケットの底に20レイ残っていた。この金で髭を剃ってもらい、前にキリャコーフと一緒に泊まったことがある小さなホテルに行った。これからどうしたらいいものか」

 二、三日してキリャコーフが部屋を訪ねてきた。そしてちいさなカフェでの仕事をもってきてくれた。カフェは三流だったし、汚かった。ショーの大部分はルーマニアの女たちによるダンスで、ほかは犬のショーと司会のしゃべくりと、ベルチンスキイの歌だった。彼はここでは、陽気な調子のナンセンスな歌や、古いジプシーのロマンスを歌った。評判もそこそこで、店の主人も喜んでくれた。しかし一カ月の出演料は500レイだけだった。

 「このお金で、ホテルの支払いをし、食べることはできた。しかし、その先は? ポーランドへ行かなければならないのだ。そこでは結構な金を稼げるはずだった。しかしどうやって行けばいいのだ。金をどこで調達するのだ。ビザと、3等の切符を買うだけでも、2万レイが必要だった。展望はまったくない。奇跡が起こるのを待つしかなかった」

 いたずら時間が経過していくだけだった。3カ月経って、キリャコーフが別なところを探してくれた。「アリカザル」というこのナイトクラブでは、外国のアーティストだけが働いていた。出演料は前の3倍だった。しかしポーランドまで行くには不十分だった。
 ベルチンスキイは、のちにこうしたカフェや、ナイトクラブでの仕事が、自分にとってはいい修業の場となったと思い起こしている。ここに集まる客は、彼の歌を聞きに来ているのではない。食べるために、飲むために、ダンスをするために来ているのだ。ここは劇場ではないのだ。お客のために出されるビフテキやシチューと同じ、料理のひとつが、彼の歌なのだ。

再会、そして脱出

 いつものように仕事を終え、ホールの片隅のテーブルで食事をしていた時だった。それまで静かだった店内が急に、にぎやかになってきた。どうも羽振りのいいお客がきたらしく、バンドのメンバーは、この上客のテーブルのまわりに集まり演奏して、チップをもらっているようだった。
 影になってはっきりとその上客の顔は見えなかったが、金色のシガレットケースを開けてタバコを吸うその手つきが、ベルチンスキイの目にとまった。細く、白い、そしてそのきれいな指先、どこかでこの手を見たことがあると思った時だった。振り返った彼の顔をみて、ベルチンスキイは思わず声をあげた。
 「ヴァツェック!」
 「ハロー、こんなごみためのようなところで何をしてるんだ。歌っているのか?、誰のために!こんなならずもののためにか!」
 ベルチンスキイのテーブルに近づいてきたヴァツェックも一気にこうまくしたてた。
 大泥棒は、どうやら首尾よく仕事を終えたあとらしく、ベルチンスキイの仕事仲間のダンサーやバンドのメンバー全員に、ウォッカやシャンペーンにザクースカを注文してくれ、まさに大盤振る舞いをしてくれた。
 ふたりは、牢獄で別れたあとのことを話し合った。ヴァツェックは、ベルチンスキイが釈放された二日後には、ワイロを使って抜け出すことに成功していた。

「『ところで君は?、このあとどうするつもりなの?』
 『金はないし、切符だって高い。しばらくはここで歌うだろう。どうなるか、先のことはわからない』
 『心配するな、かたをつけちゃおう。ポーランドに行くにはいくら必要なんだ。俺は、君がこんな泥棒の巣窟のようなところで働いて欲しくない。君のような歌手は、こんな寄生虫のようなやつのために歌ってはダメだ。すぐに出発しろよ』
 彼は札束を取り出した。
 『ここに三万レイある。足りるか?』
 じゅうぶん間に合う金だった」

 ベルチンスキイは、どう礼をいっていいかわからなかった。いつかどこかで出会ったら、そしてもしも彼が困っていたら、自分は全財産、着ているものすべて、友だちも全部あげようと興奮して、感謝の意を伝えた。
 これを聞いたヴァツェックは、「たいしたことじゃないさ。俺にとってこんなお金なにになるっていうんだ。ポケットに金を残すなんて、俺は嫌いだ。仕事の邪魔になるってもんさ」と、冗談で答えたという。
 ふたりは朝の五時に別れた。
 そして翌日ベルチンスキイは、キリャコーフと一緒に、ポーランド行きの汽車に乗っていた。


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