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神彰追跡レポート2 『神彰・幻紀行−函館編』

1.2000年5月3日函館市芸術ホール・ギャラリーにて『神彰の書』展
2.2000年5月26日立待岬にて
3.湯の川温泉にて
4.2000年5月27日佐藤富三郎宅にて
5.函館空港にて−三人目の佐藤さん

1.2000年5月3日函館市芸術ホール・ギャラリーにて
   『神彰の書』展

 2000年5月3日私は、函館の五稜郭公園のなかにある、函館市芸術ホールを訪ねていた。春だというのに冷たい雨が降りしきる日だった。例年なら、桜の花がほころび、ここ五稜郭公園も花見客で賑わうということだが、桜の蕾は固くとざしたまま、人影もまばらだった。
 今回の函館訪問の目的のひとつは、芸術ホールB1のギャラリーで開催されている『神彰の書』展を見ることであった。これは、神彰の小学校の同級生佐藤富三郎が主催したものだった。
 この催しのことは知ったのは、ちょっとした偶然からである。神彰の『幻談義』を掲載した石英文庫の安井努を取材していた時に、これを復刻しようという人が函館にいると聞いたのだ。それが佐藤であった。しかも佐藤は、神の書展を函館で開催し、この時に『幻談義』復刻版を販売するという。すぐに佐藤に連絡をしたのだが、いろいろ話を聞いているうちに、是非会っておかねばならない人だということがわかった。神の書もみたいので、その場で5月3日に函館に行くことを決めたのだ。ちょうど家族を連れて北海道へいくことになっていたので、函館も予定に入れることにしたのだ。
 まもなく佐藤からこの書展の手書きのチラシというか、案内が送られてきた。

「観れば元気の出る書
勿体振って見せてやるか!
芸術全般に命を賭けた男
老荘思想の探究と実践者  神彰」

 人を食ったようなこのキャッチコピーをみるだけで、ただの書展ではない臭いが漂ってくる。でも神彰のことをいまだに気にして、こんな展覧会を開く人がいることが嬉しかった。
 芸術ホールの入り口には「神彰の書」と書かれた手書きのポスターらしきものが一枚貼ってある。階段を下りるとギャラリーがある。かなり広いギャラリーである。しかし人気がまったくない。入り口からもこのだだっぴろい会場の左側の壁に神の書六点が飾られてあるのが見える。この広い会場にたった六点の書が飾られているだけ、あまりにも贅沢といえば贅沢な展覧会、しかしたった六点、拍子抜けもしたことも事実だ。しかも誰もいないギャラリーに入るのに、ちょっと気後れもしてしまったことも・・・。
 おずおずと会場に入る。神の書の他に、佐藤富三郎に宛てた神の手紙も額そうされ、右側には神の墓の写真が飾られてあった。なんとも寂しい風景である。
 この広い会場に髭だらけの着物を着た老人がぽつねんと座って、新聞を読んでいた。佐藤富三郎であった。
 挨拶をしに佐藤のところにいく。机の上には灰皿とブドウが5、6房がおいてあった。たぶんここは禁煙だとは思うのだけど・・・
 「佐藤さんですか」と声をかけると、「大島さんですか。ようこそお出でくださいました。毎日何人来場者があったか報告することになっているのですけど、今日は大島さんが来てくれたから、一万人と書いておこうかな」と、佐藤は答える。なんとなく、元気がなく、しょんぼりしている感じだった。無理もない、開催して三日目、ほとんど客は来てないという、たぶん20人か30人ぐらいではという。
 自費で復刻したという『幻談義』がとなりの机に山高く積んである。今回の展覧会のため80万以上をかけて二千部発行したという。
 「最初はこれだけ金もかかったので、売ろうと思ったのですけど、ほとんど客も来ないし、ただでもいいから持っていいとことにしました」
 佐藤が座っている机の近くには、函館の立待岬にある神の墓の写真も飾られてあった。私もここへ来るまえ、墓参りをしてきた。
「いま墓参りしてきました、ほんとうに啄木の墓の近く、下の方にあるのですね」というと「いや違う、啄木の墓は移動させられてあそこにあるのであって、最初は神さんとこの墓が上だったのです」
 こんな感じで佐藤富三郎と話がはじまった。佐藤はちょっと耳が遠いようで、なんども耳に手をあてて、「ハアッー」と聞きなおす。
 『幻談義』復刻のため、私財を投じた佐藤は、この書展のために会場費にそれ以上の金をつぎ込むことになったという。でもまるでそんなことには気もかけていない。このおじいちゃんが、なんでまたこんなにまで神彰に入れ込むのか、聞き出そうとするが、なんとも要領を得ない答えばかりが返ってくる。でもこのおじいちゃんは、まぎれもなく神彰という男に心底惚れていることだけは間違いなかった。
 ゆっくり話がしたかったのだが、この日は家族も一緒であまり時間もとれず、一時間ぐらいで失礼した。この時佐藤と約束したのは、今度はゆっくりと神の話だけを聞くためだけに、もう一度函館に来るということだった。

2.2000年5月26日立待岬にて

 再び函館を訪れたのは、神彰の三回忌の二日前、5月26日のことである。函館に着いて、最初に訪ねたところは、函館市博物館であった。ここに神のひとり娘有吉玉青が寄贈した、神の所蔵品ビュッフェの『道化師とピンクの汽車』が展示されていると聞いていたからだった。
 なんでも最初は函館市美術館に寄贈を申し出たようなのだが、美術館側は、この時この絵が本物であることを証明する鑑定書の提出を求めたという。せっかくの申し出なのに、鑑定書を出せというのは、失礼ではないかということで、美術館への寄贈をとりやめにし、結局は函館市博物館に寄贈することになったという裏話は、前回佐藤に聞かされていた。
 佐藤があえて、美術館のある敷地で、神の書展を開催しようとしたのは、そんな美術館への反発もあってのことだった。
 三週間前は肌寒く、桜もちらほらほころんでいるだけだったが、いまはまさに春爛漫、八重桜の花が満開に咲き誇っていた。函館博物館は、啄木の『函館の青柳町こそかなしけれ 友の恋歌 矢ぐるまの花』と歌碑が立つ、青柳公園のなかにある。
 しかしあいにくこの日は、休館日。明日は開館していることを確認したうえ、ここから市電に乗って、神の墓のある立待岬へと向かった。前回訪ねたときは、雨にたたられ、立待岬からの眺望を楽しむことができなかった。今日は青空が広がり、眺望もよくきく。海に囲まれた函館の街が一望できるほか、遠く青森まで見わたすことができた。
 神彰の墓は、立待岬の手前、石川啄木の墓がたっているところから、4−5メートルおりたところにある。神家の大きな墓の脇に、小さな白い墓がひっそりと立っている。ここに神彰と、最愛の妻義子が眠っている。ふたつの墓の回りの草はきれいにとられ、花が生けられてあった。神彰の墓には、野の花がいけられているのが印象的だった。三回忌を前に誰か親戚の人でも掃除したのだろうか。
 墓石には、義子の戒名「観義院彰節算命大姉」、神彰の戒名「観彰院風雪想尓居士」の字が彫られている。昭和五十一年十二月二十二日義子没後三年神彰入という字が裏に見える。義子が死んだときから、神は、同じ墓で眠ることを決めていたのであろう。太平洋と函館の町を一望できる小さな丘に、ひっそりと立つ白い墓こそ風雲児神彰の最期の地としてふさわしい場所かもしれない。
 それにしてもいい墓である。

3.湯の川温泉にて

 夕方四時過ぎ、佐藤富三郎から指定された湯の川温泉の老舗旅館『石邸』へ向かった。今日はここに泊まることになっていたのだが、これは神彰の妹で、現在も函館に住む、森甲子さんのご厚意によるものだった。甲子さんにはずいぶん前に、取材を求める手紙を書いていたのだが、ちょうど身体を悪くし、入院していたため、返事を書けなかったことを気に病まれ、私が函館へ来るという話を佐藤から聞いて、せめてゆっくり休んでもらいたいということで、この宿をとってくれたという。
 案内された部屋には、佐藤富三郎と一緒に、佐藤一成が待っていた。佐藤一成は、神彰と同じ函館商業の一年後輩、しかも神と同じ美術部に所属していたという。佐藤富三郎とは、書展を通じて知り合った仲だ。小学校時代を良く知る佐藤富三郎、そして高校時代の一級下佐藤一成のふたりの回想から、いままで知らなかった神彰の少年時代がおぼろげながら蘇ってくる。
 富三郎の記憶の中で、神彰は、目立たないおとなしい少年でしかない。一緒に遊んだが、外でなく、家のなかで遊びことが多かった。小学校に入る前に怪我した足をかばい、運動はしなかったという。自分は近所のがき大将だったが、神は活発な子ではない、同級生に聞いても、そんな奴いたのかというくらい目立たない男だったという。大人になってからのスタンドプレーまがいの派手な行動しかしらない者にとっては、意外な感じもする。
 美術部の一年後輩の一成にとっての神彰は、まぶしい存在だったようだ。その頃から名声を博していた画家田辺三亀松が、美術部の非常勤顧問だったのだが、神が田辺から高い評価を得ていたことが大きい。神さんは田辺氏の後ろ楯もうけて、きっと一流の画家の道を歩くのだろうなと思ったという。
 佐藤一成は、昭和一六年函館商業五年の時に、当時ハルビンに渡っていた神からの手紙と一緒に、ハルピンの町の風景を描いたスケッチ三点受け取っている。手紙は紛失してしまったが、このスケッチは手元に残り、ビッフェの絵を保管する函館博物館に寄贈したということだった。
 17才の時にハルビンに渡った佐藤一成は、偶然ここで神と再会している。この時神は「交通公社のようなところで働いている」と言っていたという。一度食事をごちそうになり、神の下宿に案内されるが、ここはロシア人のおばあちゃんが経営していたところで、屋根裏のようなところに住んでいた。
 時間が立つのも忘れ、ふたりの思い出話に耳を傾ける。
 そして食事をはじめた頃、今回この一席を用意してくれた、森甲子の息子さんの森俊一が顔をだした。東京に住む森俊一は、母が退院したということもあり、お世話になったところに挨拶まわりするため、帰郷していたということだった。森は、神彰が呼び屋稼業から足を洗い、居酒屋チェーン『北の家族』を立ち上げるときから、ずっと神の側近として、働いてきたという。さらに神をめぐる話は、ひろがっていく。
 三人の話に耳を傾けていると、それぞれが神彰に対して自分の神彰感をもち、それを大事にしていることがわかる。
 やがて夜も更け、三人はそれぞれ帰宅の途についた。

4.2000年5月27日佐藤富三郎宅にて

 翌朝函館博物館へ再びでかける。佐藤一成が電話をかけておいてくれたので、神が佐藤に送ったというハルビン時代のスケッチを三点見せてもらった。ただ残念ながらビッフェの絵は展示替えがあって見ることはできなかった。スケッチは水彩とクレヨンで描かれたもので、質屋と床屋の招牌と呼ばれる看板を描いたものが二点、それと龍のスケッチが一点、いずれもあでやかな色彩をもちい、その筆さばきも見事なもの、田辺三亀松にその素質を高く見込まれたことがよくわかる。
 昼過ぎ、佐藤富三郎の自宅を訪ねる。
 佐藤は段ボールの中に、神彰に関する新聞記事や雑誌記事の切り抜きや、手紙などを大事に保管していた。それらを見せてもらいながら、昨日の思い出話の続きを聞くことになる。
 小学六年の時実家が引っ越したことにともなって、神は転校し、ふたりが再び会うのは、それから二十年以上経ってからである。
 神との付き合いがまた始まるのは、義子さんと結婚した頃ではないかという。自分の夜学時代の同級生で画家になった中村孝三の個展が東京であるから、見に行ってくれと案内を出したら、神はわざわざ個展に出向いただけでなく、100万で絵を購入しようと申し出たという。しかし中村は、女を連れて赤いシャツを着て、へんな奴だったからと、この申し出を断る。神の義理固さに佐藤は心を打たれる。そして函館で小学校の同窓会があった時、案内を出したら、神は東京からわざわざ高価なお土産をもって顔を出す。このあと神が函館に来ると、佐藤が幹事になって、友人たちを集めて飲み会をするようになった。
 こうしてふたりの交流がはじまり、それは神が亡くなるまで続くことになる。 なによりも印象深かったのは、ふたりだけで行った山形と青森の旅の話である。
 突然神から便りが来て、山形までの旅費は持ってくれ、あとは俺が面倒見から一緒に旅しないかと誘われる。93年2月のことである。佐藤は、ホテルに着いて驚く。上山温泉のホテル古窯の8階の(801号室)18万する部屋に案内されたのだ。全部檜でできた風呂、茶室もあった。3部屋も4部屋もあった。佐藤は居心地が悪くて、廊下に布団を敷いて寝る。佐藤はなんかうれしくて、一晩中起きて、酒を飲みながら句をつくる。一晩で24の句をつくった。神に見せると、ほめられて、それがうれしくて、子どものように喜んだという。神はきっとこの佐藤のわれんばかりの笑顔を見て、心が洗われるような思いを抱いたのではないだろうか。
 「別にね、酒飲んでも、話すことはないだよ。ただ黙って酒を傾けるだけなんだ」
 神は、なにもしゃべらなくてもいい、こうしてじっと酒を酌み交わすことで、本当の意味での休息をとっていたのではないだろうか。

 さらに同じ年の10月に、今度は岩木山への旅に誘われる。前と同じように青森まで来てくれ、あとは俺に面倒見させてくれという話だった。駅で待ち合わせをすると、リムジンが迎えに来る。二日間神はハイヤーを貸し切っていたのだ。今回の旅には、ひとつ大きな目的があった。「津軽三味線フェスティバル」三味線弾き500人による大演奏会を聞くためだった。神にはこれをニューヨークでできないかという思惑もあった
 宿は富士見荘をとった。佐藤はこの時泊まった部屋のことをいまでもよく覚えている。
 「たしか桜の間だった。一の鳥居、二の鳥居が一望にできる部屋だった。寝ないで景色に見とれていたよ。
 こんときだったかな。一緒に風呂に入った時、これが腹を切ったあとだ、手術の跡を見せられた。疲れていたようだった。ハイヤーのなかでも寝ているだけ。紅葉があれだけきれいなのに、岩木山を見ようともしなかった」
 ここでもなんの話をするわけでなく、だまって酒を酌み交わしただけだった。 佐藤の思い出話を聞いていると、神が何故旅に佐藤を誘ったのかわかるような気がしてきた。このおじいちゃんは、子どものような気持ちを持っている。胃ガンの手術をして、死を意識しはじめた時であったろう、そして北の家族の上場、これをめぐっての三番目の妻阿部都久子とのトラブル、心労が重なる時だった。いまさら誰かに頼るわけでないし、相談するわけでもない、ただ心の安らぎが欲しかった。そんな時、子どものよう素朴な気持ちを持つかつての同級生の顔が思い出されたのではないだろうか。無言で酒を酌み交わしながらも、佐藤の髭面をみているうちに、心が休まる思いだったのではないだろうか。佐藤富三郎と会っていると、そんな気がしてきた。
 佐藤が最後に神と会ったのは、神が鎌倉に引っ越したあと、そして神が亡くなる数カ月前のことであった。
 東京に用事があって出てきた、佐藤は事前に連絡することもなく、ひっこり鎌倉の神の屋敷に顔を出す。
 この時不意の訪問だったのにもかかわらず、神はあたたかく佐藤を歓迎する。一杯だけ付き合おうといって、神は一升瓶をぼんとテーブルに置いた。神は酒を飲むのもしんどそうだった。一杯ちょっと口をつけただけで、すぐにせきこむ。悪いけど今日はこれだけにして、あとは佐藤さん飲んでくれと言われ、そのまま部屋にもどり寝てしまった。
 この日佐藤は、ひとりで一升瓶をあける。それが神の歓迎へのお返しだったと思ったからだ。次の日玄関まで見送ってくれた神だが、このあとまもなく入院することになる。

 佐藤は、今回の神彰の書展についてもおもむろに語り始めた。
  「隣の美術館に神さんの書にまさるものは一点もない。
 でもまず人は来んかったわななあ。夜の9時までやっていて、1日30人ぐらいしか人がこない。誰もいない会場で神の書をじっと見るんですよ。そうすると『佐藤君よ、そんなにいらいらするなよ。わかる奴は美術館にはいかないだから』と神が語りかけているような気がしてね。」
 でもなんでまた書展を開こうと思ったのですかと聞くと、「これだけの字、書、美術館にある所蔵品に勝っていると思ったからださ。せっかく神さんの絵を贈呈しようというのに、鑑定書をもってこいなんていう連中に思い知らせようと思ったのさ。はじめから喧嘩こしで、やっていたから、やっぱりね。こっちも感情的になるは、準備で忙しいやらで、血圧がすっかり高くなってしまって、本当に死ぬかと思ったよ。
 結局美術館の人たちは、誰も来なかった。誰もいない会場で座禅を組みながら、これでいい、人が来なくてもいいと思ったさ」
 それにしても、よく自費で『幻談義』を復刻する気になりましたね、と聞くと「なんでこれを出すことになったのか、これも面白いわな。
もうなんぼでも金かかってもいいと思っていた。最初は300万かかる、しかも先払いだという。びっくりして生命保険を担保に金を用意する。東京の印刷屋に頼んだら80万ぐらいでできるっていうんで、そっちに頼んだのだけど。どうすんだろうね。二千部もつくってしまった。これを全部はくまでは死ねんわな。
でも神さんの字はいいよ。「忍辱(にんにく)」っていい言葉だなわな
 こんな字を書くひとはいないよ、ゆったりとしている」
 税関での役所仕事を上司と喧嘩してやめたあとは、青果商として生きてきた、佐藤富三郎。神彰に愛された男は、神彰へのおもいを、神が亡くなったいま、なんとかして伝えたいと思い、それが自分の使命だと信じ込んでいる。この愚直なまでの、神への愛情が心に滲みてきた。

5.函館空港にて−三人目の佐藤さん

 この日私は一日予定を早めて東京へ戻ることにした。会えると思っていた神の妹甲子さんが病み上がりということで、お話を聞けないこともわかったし、あらかた取材の方は終わっていたからだ。
 空港まで同行してくれた佐藤富三郎は、ここで是非会わせたい人がいると、もうひとつの出会いを準備してくれた。
 神彰からふとしたきっかけが縁で、熊谷守一の書をプレゼントされた女性、佐藤久子であった。
「神さんと会ったことは生涯忘れられない思い出なのです。でも実際に会ったのは時間にして二、三〇分のことなのですよ。人間の縁について感慨深いものがあります。ですからこうしてあなたが、神さんのことを調べてると聞いて、これもなんかの縁かなと思いましてね、是非お会いしたいと思ったのです」
 函館空港の喫茶店で、佐藤久子と神彰の不思議な出会いの話に耳を傾けた。

 いつものように神が函館へ来たというので、佐藤富三郎が音頭をとって、函館の東雲町にあった「キッチンしげじろう」で小学校時代の同級生が、4人ぐらい集まった。この時この店に佐藤久子が居あわせたのだ。彼女は、この店に片岡球子の絵があると聞いて、是非見たいと思いここにやって来たのだ。
 何かのきっかけで神と言葉をかわすことになったのだが、この時「何をなさっているのですか?」という神の問いかけに、佐藤は「さきおりをやっています」と答える。神はいままで聞いたことのない「さきおり」という言葉にかぜん興味を示す。目を大きくして、「なんですか?それは」との質問に、佐藤久子は、コースター代わりにおいてあった布をとって、こんなものをつかって織りものをつくるんですよと説明した。
 神は「そうですか、雑巾織りですね、それじゃ」とちょっと茶化すように言った。このあとどんな画家が好きなのと聞かれた佐藤は、「熊谷守一の書が一番好きです」と答える。
  ここで神は、ほんとうに驚いたようで「いままで守一を好きだという人に会ったことがない。僕のコレクションに守一の書があるはずだ。それをあげましょう」と言い出す。
 この時同席していた佐藤富三郎は、あわてて「そんなことは信用しないで、裏切れている人はたくさんがいるのだから」とその場をつくろったという。佐藤富三郎からすれば、また神が酒の席での戯言をいっていると思ったのだ。
 しかし彼女は正直にこの神の言葉が嬉しかった。
「もらえるとかでなく、こういうことを言ってくれたのがとても嬉しかった」
 それからしばらくして熊谷守一の書「人生無 根帯」(神の所蔵品百五十というナンバー入り)が佐藤久子のもとに届けられる。
  彼女はこの時に住所や、名前を言ったわけでない。神はあの日あの店に居た熊谷守一が好きな女性ということで、調べるように命じたらしい。
 神はこの書と一緒に「さきおり」について「雑巾織り」などと大変失敬なことを言ってしまいました。東京に戻って秘書に命じて、「さきおり」についていろいろ調べたら、たいへんな手芸であることがわかりましたという手紙が、添えてあった。さらにこのあとさきおりに関した新聞や雑誌の記事コピーのスクラップと自著『天機を盗む』が送られてくる。 
  実は佐藤久子も岩木山の津軽三味線フェスティバルを見に行っていた。この時ビップ席にいた神の顔を覚えていた。
 この話を聞いて、佐藤富三郎が「エェー佐藤さんもあの時いたの。わかんねえもんだな」と驚いていた。
 佐藤久子も富三郎と同じように、真っ直ぐな清い気持ちをもっている女性であった。神彰は気まぐれで熊谷守一の書をプレゼントしたわけでない。おそらくこの真っ直ぐな素朴な心根に触れて、感じるものがあったから、わざわざ苦労しても自分の宝物のひとつをプレゼントしようと思ったのだろう。
 佐藤久子は、この宝物をわざわざ持参してくれた。私の一番の宝ものです。これが本物だとかは関係ないです、神さんがくれた、それが私にとっての宝物なのです。と言っていた。そう語る目が美しかった。

 神彰の足跡をたどるため、函館まで来た今回の旅の最後に、いい話を聞かせてもらった。神彰の追いかけた幻に誘われて来た今回の旅で、少しではあるが、神彰という、怪物と呼ばれた男の顔がおぼろげながら、私には見えてきたような気がした。
 ふたりの佐藤に見送られ、私は五月の函館をあとにした。


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