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神彰追跡レポート3 『神彰・幻紀行−鎌倉編』

 1997年4月16日神彰は、十二年来の付き合いになる、アサヒビール会長樋口広太郎のもとを突然訪ね、開口一番「お別れに来ました」と告げた。
 「もう今生では会うこともないと思うし、お目にかかることもない」と語り出す神に、樋口はあっけにとらわれる。
 「そんなこというものではない。一体どこが悪いのか」と聞くと、神は「自分はガンだ」と答える。よく知っている医者を紹介しようと言う樋口の言葉を制するように神は、こう言ったという。
 「静かに鎌倉山で人生の終わりを待ちたい。もう決めたんだ。やりたいことは、すべてやった。どうか邪魔しないで下さい。そっとしておいて下さい」と。

 樋口に今生の別れを告げた神は、同じ頃自分が興した会社『北の家族』の株を全部売却し、鎌倉山にひっこみ、隠居生活に入る。そして翌年の五月二十八日に亡くなっている。
 鎌倉山の家に引きこもった神は、お手伝いさんとふたりだけでひっそり暮らし、会いたくない奴には会わない、会いたい奴だけ会うと面会もほとんど拒んでいたという。
 神彰が死に場所に選んだ鎌倉山の家を一度見ておきたい、そう思い立ち、暮れもおしつまった昨年12月27日鎌倉を訪ねた。
 鎌倉の駅前周辺の店は、年末の買い物客でごった返していた。神がこよなく愛した画家長谷川利行の展覧会を見に、鎌倉近代美術館を訪れたのは、若葉が生い茂る六月のことだった。季節の移り変わりの早さが身に沁みてくる。神彰を追いかけはじめて、もう2年目を迎えている。そろそろ決着をつける時が近づいているのかもしれない。

 神の死亡記事に出ていた住所と地図を頼りに、鎌倉駅から鎌倉山行きのバスに乗って15分ほど、旭ヶ丘というバス停でおりた。鎌倉山は、鎌倉でも指折りの高級住宅地、昭和初期に別荘地として開発されてから、各界の著名人が住む屋敷町として知られている。バスが通る桜並木には、ローストビーフの鎌倉山や、そば会席料理の擂亭など老舗の店が並んでいる。
 バス亭の近くにある喫茶店の角を左に曲がって少し歩いたところに、棟方版画美術館がある。昭和42年から49年まで棟方志功は鎌倉山のアトリエで精力的に創作活動をしていたが、この美術館は彼のアトリエの隣に、昭和57年に建てられたものだという。
 晩年神彰の書いた最初で最後のエッセイ『幻談義』を掲載した雑誌「せきえい」の編集長安井努が、「神さんは世界で通用する日本の画家は、棟方志功と熊谷守一だ」と言っていたのを思い出した。
 神の晩年の趣向は、より素朴なもの、単純なもののなかに、命の根源を見つけようとしていたように思える。大胆なデフォルメとおおらかな力強い線で生命への讃歌を描き続けた棟方志功に魅せられた神が、最後の住まいとして、棟方が創作の現場とした鎌倉山を選んだのは、偶然だったのだろうか。
 地図を片手に、神の死亡記事に出ていた住所の家を探しながら、この界隈を歩き続ける。道は細く、雑木林につつまれた一角からときおり、海が見えてくる。あたりはほとんど人影がない。ときおり耳にする鳥の囀りが、妙に気になり、なんども立ちどまっては、木立の上の方を見上てしまう。そんな時リスが木立の枝から枝へと飛び移るのを目にした。
 そういえば鎌倉山の神の家を訪れた数少ないひとり函館時代の同級生佐藤富三郎が、「神さんの家を訪ねたとき、リスをみたんですよ」と言っていたのを思い出した。
 豪邸が立ち並ぶ狭い路地を歩き続ける。神彰が住んでいた番地の一画は、結構広いのだが、家が建っているのは3軒だけ、そのうち一軒は廃屋になっていた。あとは雑木林にすっかりおおわれている。
 一回ぐるっとまわってみたのだが、どこが神が住んでいた家なのか、わからなくなり、そのうちにバス通りに戻ってしまった。
 バス停の近くにあった交番で、昔このあたりに神彰という人がすんでいませんでしたかと、聞いてみる。警察官の人は、住居人の名前が入っている大きな地図を取り出しながら、神彰の名前が書いてある一角を見つけてくれた。
 神が亡くなったあとは、しばらく人が住むことはなかった。もしもいま人が住んでいるとしたら、ごく最近のことではないだろうかとおしえてくれた。
 もう一度神が住んでいた番地のところを歩いてみる。ふたつの小さな道にはさまれた白い建物の小さな郵便受けに書かれている住所と名前をよく見てみる。ここが確かに、神の最後の住まいとなったところだった。いまは玄関前に白いベンツが停めてあり、表札をよく見ると外国人の名前が書いてあった。
 広い敷地の高台に立つ二階建ての白い建物はかなり大きい、広い庭には、桜の木と椿の木が植えられ、テーブルと椅子が置かれていた。もちろん家に入ることができなかったのだが、この家の回りをなんども歩き回りながら、ひとつのことに気づく。一階の窓も二階の窓もすべて南に面しており、稲が崎の海が一望にすることができることだ。高台に立つこの屋敷の前には、この海を見るために視界を遮るものはなにもない。
 かつてのアートフレンドの社員宮川が「神さんは海が好きで、よく海をみるために葉山の自分の実家にきたものです」と言っていたことを思い出した。
 そして函館の立待岬に立つ神の墓のことも思い出されてきた。
 函館の街を見下ろすというよりは、函館という街を囲んだ海、その海をいつも見えるところを自分の最期の地として選んだ神彰のまなざしが、ここで重なり合ってくる。
 日の当たるこの鎌倉山の居間に座り、海を一日中見つめながら、死の訪れをじっと待っていた神の胸によぎっていたものは、何だったのだろう。
 無我の境地で、おだやかに死を迎え入れようとしたのだろうか。
 自分の身体をむしばむガンの痛みに苦しみながら、好きだった酒さえも喉に通らない、そんな苦しみとひとり戦いながら、じっと海を見つめていた神彰の胸に往来していたもの、それは必ずしも平穏なものではなかったのではという気がする。
 神が鎌倉山に引っ越した年の九月、知人のひとりが見舞いに訪れたとき、神は窓辺にクリスタル製のマリア像を置いて、それを前に一日中、海を見て過ごしていたという。そして「桜が咲くまでもつかなあ、俺は風のように消えていくんだ」とつぶやいていたと語ったと思い出している。
 人や世間、社会と闘い、さらには自分の弱い気持ちと必死になって闘い続け、時には人を裏切りもしてきた神彰は、幻を追うことを定めとした人間の運命の虚しさ、無常観を、海を見つめながらかみしめていたのではないだろうか。
 残りいくばくもない命を知ったとき、鎌倉山を死に場所として選んだ神は、海をみつめ、その無常観と対峙することを自分に課したのではないだろうか。
 神は、およそ一年ここに住み、98年3月14日に倒れ入院し、そのままこの家に戻ることなく、5月28日亡くなった。
 彼が言っていたようにこの屋敷の庭にあった桜の花が咲くのを見ることはなかったわけだ。
 道路からこの桜の木を見つめていると、リスが桜の枝をつたって芝におりたつのが見えた。
 リスは、冥界と天上界を行き来する使者だといわれている。もしかしたらこのリスは、冥界から神の伝言をもって現れたのではないだろうか、そんなことを思ってリスの姿を追ったが、すぐにどこかに姿を消してしまっていた。
 怪物神彰の尻尾は、そう簡単には捕まえられないのかもしれない。ただ鎌倉山の山道を歩きながら、そして遠くに光る海を見ながら、幻を追いかけてきた男が、じっとその最後と向かい合おうとしたことだけはしっかりと胸に刻んでおきたいと思った。

 帰り道鎌倉山の老舗そば屋擂亭に立ち寄った。勘定を払うとき、このそば屋のパンフレットが目に入り、おもわず手を伸ばした。鎌倉に住む画家小島寅雄の絵が描かれてあったからだ。神は、この小島寅雄の絵を愛し、それが『せきえい』に幻談義を連載するきっかけになったという安井の話を思い出した。小島の絵は、棟方の絵とどこか共通するところがある。棟方の絵のような荒々しい野性味はない、静謐で穏やかな、仏を思わせるふくよかさが小島の絵の特色だといっていいだろう。その静謐な安らぎの中に、棟方の絵から感じられるのと同じような素朴さがあるように思える。
 神が棟方や小島の絵に魅せられていったのは、この素朴なるものへの限りない愛ではなかったのか、それは旧友佐藤富三郎に抱いた想いと通じるものがあるようにも思える、そしてそれは自分にはなかったもの、求めてやまぬものだったのではないだろうか。


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