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『神彰−幻を追った男』

第三部 赤い呼び屋の誕生
 第七章 ボリショイの奇跡 その4

ボリショイサーカスの衝撃

ボリショイサーカスの衝撃

 レニングラードフィルの公演が終わってまもなく、東京後楽園アイスパレスで、ボリショイサーカスの公演がはじまっている(1958年6月14日から7月28日)。
 ボリショイバレエ、レニングラードフィルと立て続けにソ連もので大きな成功を収めたAFAは、この公演でさらに莫大な収益をあげることになる。東京だけで、有料入場者数約三十五万人、そのあとの大阪公演でも十万人以上の観客を集めた。当時のお金で一億以上の純利をあげるという、大ヒット公演となった。
 しかし木原の話しによると、このサーカスをやる前に、ソ連大使館で「下手するとこじきになるかもしれない」とおどかされていたという。バレエやクラシックには固定ファンがいる、しかしサーカスに固定客はいない。あたると大きいが、外れると大きな痛手を食らう。まさに興行は水物を実証するのが、サーカス公演だった。

 「最初一週間は、人が入らなかったのですよ。バレエやレニングラードフィルで儲けた金が全部ぶっとぶかもしれないと本当に心配になった。いや冗談ではなく、ほんとうに乞食になるのかと思った」(木原談)

 しかしこの心配はすぐにふっとんでしまう。見た人たちの口コミや連日マスコミが書きたて、人気が沸騰、連日客が押しかけはじめた。しかもバレエやオーケストラの公演とちがって、一部のファンだけではなく、老若男女が会場に集まってくる。これだけ幅広い大衆が押しかける公演は、当時は珍しかった。
 神彰を執拗に追いかけ続けたジャーナリスト青江徹は『文芸春秋』8月増刊号でこの現象に注目し、こう書いている。

 「テケツで見ていると、客は長屋の内儀さんにお上りさん、坊やにおばあさん、大学教授からビジネス・ガール、せんべえ屋のオッさんまで。老若男女、これほど広い社会層を大多数、観客に動員した興行はかつて例がないのではなかろうか」(「成功したボリショイ興行師・神彰」)

 特に話題を呼んだのは、フィラートフの熊のショーだった。十七頭の熊たちが、およそ30分にわたって、自転車やオートバイに乗ったり、ローラースケートですべったり、レスリング、ダンス、綱渡り、さらにはボクシングまでするこのアトラクションは、観客を熱狂させた。「熊のオートバイ乗りを見に行こう」、それが合言葉のように街に広がっていった。
 上野動物園の園長林寿郎と会った時、神はこんどソ連からサーカスを呼んでくることになっているという話をすると、林はソ連からサーカスを呼ぶなら、絶対に熊のサーカスを入れるべきだと助言を与えていた。

 「その助言によって私は、ぜひとも熊を連れてくるようにとソ連政府に要求したのである。それが大成功の基因となった」

 神はこう『怪物魂』に書いている。
 この他にも犬のバレエ、人間が三人も頭の上へつながって演じる綱渡り、空中アクロバットなど、とても人間業とは思えない超人技、クラウンのコミカルな演技など、いままで見たことのない華やかなエンターテイメントに、日本の観客は圧倒されてしまった。見なきゃ損だぞというムードが自然に生まれていたのだ。
 大阪公演のあと、福岡、名古屋、札幌でも公演が行われ、大成功を収める。まさに興行は水物だった。まさかサーカスがこんなに儲かるものとは、神自身、思ってもいなかったことだった。
 ボリショイサーカスといえば、ロシアのサーカス、いまでは小さな子どもでもおじいちゃん、おばあちゃんでも知っている。しかしこのボリショイサーカスという名前が、正式な名前ではなく、神とAFAが名付け親だったことを知る人はあまりいないのではないだろうか。
 神が契約した時、このサーカス団は「ガスダルストベンヌィ・ソビエトツキイ・ツィルク(国立ソ連邦サーカス団)」という名前だった。こんな長ったらしい名前ではダメだ、「ネーミングは意味より感覚だ」と主張する神は、別なタイトルを考えように皆に命じていた。

 「毎晩飲みながら、皆で名前を考えたよね。二階の絨毯のある部屋で喧々諤々議論したもんですよ。ボリショイという名前には愛着があるのよ。ほんとうにどれだけ酒を飲んで、あの名前にしたか、誰が最初にボリショイって言ったのか。たぶん石黒さんだと思うけどね」

 運転手の竹中はこの時のことを懐かしそうに思い出してこう語っている。
 木原も、ボリショイという名前は石黒がつけたはずだったと思い出している。
 神は、『怪物魂』のなかで、「語学的には大サーカスという意味かもしれぬが、しかし問題はニュアンスだ。ただ一語で、しかもそのスケールが匂ってくる感じの・・・・。そこでボリショイ・サーカスと決めた」と自分が命名したように書いている。
 おそらくは、みんなで酔っぱらって決めたので、誰が命名したのか記憶がない、それが真相なのだろう。石黒でも神でもなく、あの場にいたみんなが決めた名前が、ボリショイサーカスだった。
 木原によると、ロシア語関係者からそんな名前の団はないと文句を言われたこともあったらしいが、このネーミングが、神とAFAがつけた公演タイトルのなかでも、最高傑作だったことは間違いないだろう。なんといっても現在でも通用し、さらにはふたつあるモスクワのサーカス場のひとつは、いまでは「ボリショイサーカス」と名前を変えているくらいなのだから。
 いまでも地方にいくと、ボリショイ学生服という看板を見かけることがある。これは岡山の衣料品屋が、AFAからボリショイという名前を借りてつくったものだった。
 いま東京にボリショイサーカスという会社がある。毎年夏や冬にボリショイサーカスを呼んでいるこの会社の社長東道輝は、ボリショイサーカス日本初公演の時に、AFAに入社していた。

 「昭和33年レニングラードフィル大阪公演の時、主催者の朝日新聞が通訳を探していたのです。大阪外語大学でロシア語をしていた私は、新聞社に入りたいと思っていたから、これにとびついたわけです。この仕事をしている時に神さんに会いました。就職が厳しかった時代でした。就職させてくれと神さんに直談判したのです。そんなにみかけほど楽な仕事ではないし、給料だってそんなに出せない。興行はいいときもあれば、悪い時もあると言われました。でも、なんとか入れて下さいと頼みました。この時隣にいた富原氏と神さんが相談、夏にボリショイサーカスをやるので、その時手伝わないかといわれたのです。チャンスだと思いましたよ。もちろんその場ですぐにハイと答えました。
 6月に上京した日から、宿舎の赤坂プリンスにずっと泊り込みました。外国部用に部屋が用意され、交代で泊まることになっていたのですが、皆『東君よろしく』と言って帰っちゃうわけです。当時は3食付だし、喜んでやりましたよ。9時ホテルを出て、動物に餌をやりにいく助手に付添いをすることからはじまり、一日中団員たちと共に過ごしました。
 北海道公演の時は、名古屋から札幌まで5日かけて貨車に乗り、動物や道具を運ぶのに同行しました」

 東は、これ以来ボリショイサーカスと共に、半生を送ることになる。

 木原にとって、ボリショイサーカスの公演で一番印象に残っているのは、東京公演の時に、いわゆるヤクザの大親分が三人やってきたことだったという。日本のサーカスは、テントや丸太小屋を使い、移動しながらの仮設興行を打つことから、その土地土地の地方(ヂカタ)と呼ばれる任侠集団と密接な関係を持っていた。ボリショイサーカス公演の発表のあと、仁義を切れと親分たちが、神のところにもやってくる。神はこれはあくまでも文化交流だといって、これを拒否していた。しかしこうした対応はすべて木原がすることになった。

 「神の奴は、仁義なんかきれねえなんていうくせに、ヤクザが来るとわかると、あとは頼んだぞって、消えてしまうんだよね。この時やって来た大親分のうちひとりはどこから来たか覚えていないが、あとのふたりは福岡の久留米と奈良の桜井の親分だったと思う。三人とも紋付き袴を着ての上京でした。例によって神はどこかに雲隠れしたため、私が対応することになった。団長のエーデルに相談すると、サーカス側も誰かに応対させなければならないということになり、ベルマンという道化師が代表して、出迎えてくれた。日本ではピエロというと、なんとなく蔑まれている道化師が、ソ連では位が高いことを知って驚いたもんです。
 この時桜井からやってきた親分が面白い話をしていたね。戦前共産党幹部の徳田球一が逃亡中に、桜井市の興行師の世話になったという。この時徳田は「大衆の支持を受けるものを共産党が邪魔するわけがない」と言ったというんだね。共産党の国のサーカスが来日することで、日本のサーカス興行が迷惑を被る、これじゃ徳田の話とちがうじゃないか、と言うんですよ。私は共産党員でしたからね、痛いところを突いてきたなと苦笑いしたもんです。この時は丸太料を要求され、200万払うことで決着したはずです」

 昭和8年日本中を席巻したドイツのハーゲンベック動物大サーカス公演以来、25年ぶりに来日した外国の本格的なサーカス公演となったこのボリショイサーカスに、日本の任侠集団はかなり神経を尖らせていたことは事実である。名古屋公演の時は暴力団員がサーカス団員に襲いかかるという事件も起きていた。
 そしてとうとう札幌での公演の時に、神が土地の大親分に呼びつけられる。今度ばかりは木原を出すというわけにもいかず、ひとりで指定された料亭に出向いた神は、てっきり宴席にはこの大親分ひとりが待っているかと思っていたら、なんと50人近くの親分衆が待ち構えていたのにびびってしまう。ここで神は、固めの杯を交わすことを要求されるが、これを遠慮して、この場を去る。ただこの場は自分のためにもうけられた宴席だということを理由に、料亭の女将に100万渡したと『怪物魂』に書いてある。
 地方での興行には、ヤクザが絡んでくることが多い。特にサーカスという従来は、地元のヤクザが取り仕切る興行をてがけるなか、神は、これは国と国との間の文化交流であり、しかも体育館という施設をつかっての公演、決して仮設興行ではないと、巧みに逃げ道を用意しながら、ヤクザたちの妨害をかわしていった。

 ボリショイバレエ、レニングラードフィル、ボリショイサーカスと話題性が多い興行を次々に成功させるなか、神はいつの間にか時の人として、マスコミ界の寵児となっていた。
 レニングラードフィルと、ボリショイサーカスが来日した1958年には、週刊誌や月刊誌が、こぞって神のことをとりあげている。
 先に紹介した青江の「成功したボリショイ興行師・神彰」は『文芸春秋』(8月増刊号)に掲載されているし、創刊まもない週刊新潮の5月5日号では「ソ連を呼ぶ男」(無署名の記事だが、これを書いたのは草柳大蔵)が、月刊『太陽』でも「旋風の興行師」という記事が掲載されている(1月号)。この記事には、大宅壮一が「私の診断」として、「奇術師神彰の魔術的成功」は、まさに「戦後の奇跡」であったと書いていた。
 神彰は、赤い奇跡を生み出した呼び屋として、さらには新しい戦後のリーダのひとり、時代の寵児として、注目を浴びる存在にまでのしあがってきたのだ。


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