月刊デラシネ通信 > サーカス&パフォーマンス > 神彰 > 神彰−幻を追った男 > 第四部第八章

『神彰−幻を追った男』

第四部 驚異の素人集団「アートフレンド」
 第八章 アートフレンド・七人の侍たち

アートフレンドの快進撃を支えた、スタッフたちのプロフィールを紹介します。

新宿柳町の梁山泊
宣伝屋詩人−木原啓允
革命の年に生まれた石黒寛
大陸育ちたち
スペシャリストたち
脇役たち
女子社員たち
ある断絶

文中、「AFA」とあるのは「アート・フレンド・アソシエーション」(神が設立したプロモーション会社)の略です。


 1958年(昭和33)は、AFAにとって飛躍の年となった。前年のボリショイバレエの大成功に引き続き、レニングラードフィル、ボリショイサーカス、レオニード・コーガンとソ連ものが大当たりした。さらにはフランスからジャクリーヌ・フランソワ、アンリ・テゲールのシャンソン、パリ・テアトロ・バレエ団を呼び、AFAがソ連ものだけではないというアピールもしていた。これは次の大きなターゲット、イブ・モンタンを呼ぶための布石だったといえるかもしれない。
 これだけの公演が実現できたのは、、神彰ひとりの力によるものではない。同じように幻を追いかけていたAFAのスタッフが一丸となって、夢を実現しようと、支えていたのだ。神の幻はふくらみ、さらに大きな企画を仕掛けていく。それは神の幻を一緒になって追いかけようとしたスタッフがいたからだった。神という大きな磁石に吸い寄せられて、彼の夢を実現することに、全身全霊打ち込むことで、彼らも自分たちの思いを遂げようとしていたのだ。
 神の魅力に傾倒し、AFAに集まってきた個性溢れる人たちは、神と出会うことで、自分たちの夢を紡いでいた。彼らもまた、輝いていた。

新宿柳町の梁山泊

 ドン・コサックが来日する一ヵ月ほど前、神は事務所を新宿区市ヶ谷柳町24に移転していた。カッパ坂に面した民家を借りた2階建ての事務所が、AFA進撃の拠点となった。事務所が柳町に移ったころから、AFAを支える幹部たちが続々入社する。
 眼科医院用につくられたシャレた二階建ての事務所の一階に企画部、二階に外国部、経理部がおかれた。神の部屋は一階の奥にあった。二階には大きな仏像が置かれ、神は毎朝これを拝んでいたという。アーティストが来日し、出迎えに行く時、全員そろってこの仏像の前で手を合わせ、公演の成功を祈願した。臨戦ムードがいやがうえにも高まった。
 二階の奥には、炊事場と現像室、さらには二段ベットが置かれた仮眠室もあった。この炊事場で酒の肴をつくり、二階の絨毯が敷かれた部屋で頻繁に宴会が開かれた。

 「仕事がおそくなると、ダシなんかつかわない野郎料理をつくって、腹をみたしたもんです。そこらじゅうにゴロ寝して、朝出勤してくる女子社員たちのヒンシュクをかっていたなあ。一度サバの味噌煮をつくったら、神が喜んで食べていたね。
 サントリーの協賛広告代として十二万円分のダルマのウィスキイをもらったのだが、これを皆で取り合って、どこかに隠すんだなあ。
 よく飲んだですよ。みんな若かったし、明日のことなんか関係ない、そんな感じだったね。たぶんボリショイバレエの時だったんだろな、「ワルスブルスの踊り」と称して、石黒を先頭に全員裸踊りしたこともありましたよ。
 夜を徹して、痛飲して、談論風発そのままアルコールのしみついた身体で仕事にとりかかったもんです。苦しかったけど、めいめいが仕事に惚れ込んでやっていたんじゃないですかね」

 こう懐かしそうに振り返る木原は、柳町の事務所では、一階の玄関口、風呂屋の番台のようなところにどーんと座っていた。企画部長木原啓允は神の片腕だっただけでなく、野武士集団AFAをまとめていた影のリーダーといっていい。

宣伝屋詩人−木原啓允

 木原は、1922年山口県下松市で生まれている。神と同じ年である。
 1943年(昭和17)山口高等学校を卒業後、東大文学部に入学した木原は、戦争の激化にともない、同年12月第二乙で学徒入隊している。幸いなことに戦地に赴くこともなく、終戦の年10月博多で除隊になった。その後、山口に戻り古本屋のようなことをしていたが、復学しないかと声をかけられ、東京に戻る。しかし木原は、ほとんど大学に行くことはなかった。当時は学徒出兵した学生は、単位を一年分とってさえいれば卒業になったのだが、彼はひとつの単位もとっていなかった。それでも大学側は面接を受けさせ、ほとんど無理やり卒業扱いにしてくれた。卒業したものの、こんどは仕事がない。木原は、担当教官久松潜一に呼ばれ、君だけ就職していない、夜学の教師の口があるのだが、どうだやってみないかと誘われ、木原は水道橋にあった昭和第一商業の夜学に1949年から52年5月までに勤める。やっと安定した定職を得ていた彼の生活は、1952年5月1日を境に大きく変わることになる。
 サンフランシスコ講和条約発効直後の1952年5月1日第23回メーデーが明治神宮外苑で開催された。講和条約を売国条約とし,「民族独立」、「アメ公帰れ」のシュピレフコールがおこり、集会後デモ隊は皇居前広場に入った。馬場先門から入った約四千名のデモ隊が休憩しているところへ,警官隊が警棒とピストル,催涙ガスで襲い、さらに祝田橋から多数のデモ隊が広場に入ると再び警官隊が襲撃した。デモ隊はプラカード,旗ざおで抵抗し,このとき路上のアメリカ軍の車が焼打ちされている。死者2名,負傷者約1500名、1232名が検挙された「血のメーデー」事件の渦中に、木原はいたのだ。
 この時雑誌『血と詩人』の編集に携わっていた木原は、ルポでも書こうかと、軽い気持ちで集会に参加していた。デモが始まり、知り合いがいたので声をかけるつもりで列に入ったことが、彼の運命を大きく変えることになる。デモ隊の列に入った時、ただならぬ殺気を感じた木原は、もしかしたら大変なことになるかもしれないと思ったという。そしてまもなく警察隊と衝突、列は乱れ、木原は訳もわからず逃げるのだが、この時足を撃たれ、倒れてしまう。たまたま通りかかったトラックに拾われ病院に連れて行かれた。あっというまの出来事だった。2、3日経ってアパートに戻るのだが、警察が彼のことを探しにきているのがわかった。木原はこれから地下に潜伏、逃亡生活を送ることになる。前にも書いたように、地下潜伏生活中に、定職もなく生活に困っていた時に、詩人仲間の菅原克己からマスコミの仕事だといわれ、紹介されて、AFAに入社することになったのだ。
 木原はれっきした共産党員である。この事実をAFAで知っていたのは神だけだった。当時共産党は戦後の躍進から、いわいる六全協の時代をへて分裂の危機を迎えていた。野間宏を師と仰いでいた木原は、実権を握っていた宮本・野坂体制と対立し、野間宏と共に党を除名されている。
 木原が共産党員であることを嗅ぎつけたルポライターの青江徹は、木原に共産党員だと神にしゃべるぞ、それが嫌だったらボリショイバレエやボリショイサーカス招聘に関する秘密を教えろと迫まられている。神は木原が党員であることを知っていたのだが、青江はなにかにつけて、木原や神をつけまわしたという。彼はのちに神彰のルポも載せた『興行師の世界』という本を書いている。
 神の自伝『怪物魂』には、神と有吉の結婚と離婚をめぐって、執拗に神のまわりをかぎまわり、神に有吉との結婚が失敗すると予言するルポライター「青いカラス」が登場するが、これはこの青江のことを言っているのだろう。
 詩人であり、共産党員であった木原にとって、AFAの仕事は最初は生活するため手段であり、ある意味では隠れ蓑となっていた。しかし神という男と一緒に仕事をするなかで、芸術、しかも共産党の国ソ連の芸術を武器に世の中をアッといわせようとしていた神の志に、意気を感じるようになる。俺たちで世界を動かすことができるかもしれない、そんな夢を耕すことに彼は魅了されていった。もしかしたら革命を起こすことよりも、こっちの方が面白い、木原のなかにもうひとつの幻が育まれていったのだ。
 詩人木原は、AFAが呼んでくるアーティストたちの宣伝のための、いまでいうキャッチコピーをつくる名手であった。
 「炸裂するブラックファンキー」(アート・ブレイキー)、「帰ってきたジロー」(ジルベット・ジロー二回目の来日公演)、「孫悟空もびっくり」(北京雑技団)といったキャッチコピーは、すべて木原のアイディアだった。彼の最大の傑作コピーは、幻と終わったイブ・モンタン公演用の「世界の恋人がやって来た」であろう。このコピーを見た女優高峰秀子は「イブ・モンタンにつけた『世界の恋人』っていうのだけは、感心しちゃった。どこの誰がつけたのかしらないけれど、キャッチ・フレーズとしては最高に大きい表現だと思う」とあるエッセイで書いている。
 キャッチコピーは、ある商品のコンセプトをひとことで的確に表現し、大衆を誘因するための手段である。木原は、神彰という男が抱いていた幻=カオスを即座にかたちにできた男だった。『幻談義』と『怪物魂』、そしてのちにAFA解散の時に『週刊新潮』に掲載された記事は別にして、神彰署名の記事のほとんどは、木原が書いたものであった。
 何故神が木原のことを片腕として信頼していたのか、それは神自身が表現できないことを、あうんの呼吸で、木原がかたちにできたからに他ならない。
 木原にしても、神彰が抱いてた夢、幻をかたちにすることで自分のやりたいことを表現できるという喜びを手にしていたのだ。それは神彰という男が、歴史とか政治とかいう大きな枠組みではなく、人間の内面、大衆の感性をひっくりかえそうとしていた、ある意味での革命家であることを見抜いていたからだ。
 神が呼んだ企画のキャッチコピーを考える木原の姿は、革命時代のソ連で、ロスタの窓という絵入り壁新聞の編集室にこもり、政治的スローガンを大衆にわかりやすくするために詩や絵をかき続けていた詩人マヤコフスキイにだぶってくる。
 政治という枠組みではなく、変えなければならないのは人間の感性だということを一番知っていたはずのマヤコフスキイの思いを知る男木原にとって、神彰は魅力的だったし、彼に賭けてみるのも悪くはなかった。もしかしたら、これも革命なのかもしれないという気になっていた。

革命の年に生まれた石黒寛

 木原とほぼ同じ時期にAFAに入社した石黒寛は、神が青春時代を過ごしたハルビンにあったロシア語専門学校哈爾浜学院の出身である。神の満州時代の上司上野破魔次の紹介でAFAに入社している。外国部は、大陸と縁がある人間が中心になっていた。木原は、せっかく学んだロシア語を生かせる場所もなく、仕事がなかったシベリア帰りに目をつけた神らしいやりかたと言っているが、その意味では石黒は見事その網に引っ掛かったひとりといえるかもしれない。
 石黒は一九一七年十月満州国新京(長春)市で生まれている。ロシア革命があった年である。石黒はことあるごとに、自分が革命の年、しかも十月に生まれたことを自慢していた。両親は、秋田県角館町の出身、日露戦争の翌年(一九〇六年)に渡満している。満州では質屋を経営していた。石黒は一九三五年長春商業学校卒業後、哈爾浜学院に入学、第一六期生であった。38年同院卒業、南満州鉄道株式会社(通称満鉄)に入社し、大連市にあった同社調査部第三調査室(北方班)に配属され、ソ連経済の実態調査に従事することになる。初めソ連の軽工業の実態調査を担当したが、のちに計画経済論に関心をもち、論文「ソ運における生産拡充の諸間題」、翻訳「ソ連における独立採算制」、「ソビエト物価史」を発表している。この調査室には濬の弟長谷川四郎氏も在籍していた。
 一九四二年に結婚し、三児を得たが、上の二児を敗戦の前後にあいついで失い、また両親も敗戦の前年に没するという悲運に面している。
 一九四五年、敗戦後満鉄勤務中に進駐したソ連軍によって奉天駅で逮捕される。逮捕したのは満鉄でかつて自分が使っていたロシア人の運転手だった。彼は赤軍の大尉だったのだ。
 石黒は、かつての神の上司であった上野と一緒に、シベリア、アルマトゥイ、カラガンダで抑留生活を送ったのち、48年11月舞鶴に帰還している。
 夫人は先に帰国していて、大阪で石黒を迎えた。帰国後暫く科学技術翻訳、通訳業に従事したのち、1956年AFAに入社している。
 豪放磊落、大陸育ちの石黒は、ソ連ものを中心にしていたAFAでなくてはならない存在になるのだが、彼のアキレス腱は、酒が好きで、しかも酒乱の気があったことだった。普段はおとなしいのだが、酒が入ると手がつけられなってしまう。外国部に配属された東は、石黒に飲もうと誘われると、すぐに逃げ出したという。
 飲んだ翌朝、よく神のところにいってすいませんでした、と謝っていた姿を当時の女子社員たちは覚えている。
 結果的にはこの酒癖の悪さが、石黒の命とりとなる。
 外国部は、石黒と同じように哈爾浜学院出身が何人かいた。
 レニングラードフィル来日の時に入社した工藤精一郎は、哈爾浜学院石黒の〇期下だった。

大陸育ちたち

 AFAの屋台骨を背負うことになる外国部員工藤精一郎も、石黒同様哈爾浜学院出身なのだが、AFAに入るきっかけをつくったのは、函館時代の神の恩師田辺三重松であった。田辺は、工藤の妻の叔父にあたっていた。
 戦後大陸から帰ってきた工藤は、函館から東京に移り、アトリエを構えていた叔父田辺をたびたび訪ねていた。その時田辺から、かつて自分が絵の指導をしていた神が、ドン・コサック合唱団や、ボリショイバレエを日本に呼んでいるプロモーターをして活躍していることを教えられる。
 田辺に「神は、ソ連ものに力を入れているそうだ。手伝ってはどうかね? 紹介するよ」と言われた工藤は、仕事の内容が自分が愛するロシアの芸術を紹介するという仕事に、興味を持った。ロシアバレエにのめりこんだこともあった工藤は、早速神に会う。

 「事務所を訪ねると、いずれも一癖あり気な野武士の集団といった面々で、驚いたことに、ハルビンの先輩の石黒(十六期)さんと後輩の野村君(二十四期)がでんとひかえていた。神氏は中背でがっしりした体躯の不敵な面魂の男で、僕の同年配、ハルビンの交通公社では上野(破魔治さん)先輩の部下だったという。
 『ほお、田辺君の縁者か。いいだろう。石黒さんと打ち合わせてくれ』
 これでぼくは日ソ文化交流のしごとに関係することになっていた。」

 こう工藤は「浮き沈みの記」で思い起こしている。
 工藤にとって、AFAでの仕事はあくまでも生活資を得るための手段だった。彼がやりたかったのはロシア文学だった。
 社員だと毎日出勤しなければならない。工藤には訳さなければならないトルストイの本が手元にあった。彼は嘱託の道を選択する。おそらく神にとってもこっちの方が好都合だったに違いない。
 工藤は同じエッセイの中で、こんなことを書いている。

 「やりかけの大きな仕事があるので、ロシア文学から離れることは、ぼくの存在を否定することになる。何を生意気なと笑われるかもしれないが、これがぼくのいつわらぬ気持ちだった。しかしぼくはのめり込み易い人間で、二足のワラジをはいた者の苦しみをいやというほど味わされることになる。」

 私が呼び屋という仕事について間もない頃、私の勤めていた会社の顧問のひとりが工藤だった。
 私は呼び屋になりたくてこの会社に入ったわけではなかった、ロシア演劇を勉強したいと思い、大学院を受け、落ちて、やむを得ず入社していた。このまま呼び屋の仕事をしていていいのだろうか、大学に戻って研究を続けるべきか、迷っていた時、工藤と酒を飲む機会があった。工藤はその時に、自分が二足のワラジをはいていたこと、そしてボリショイサーカスの熊を見送ったあとに、トルストイの翻訳原稿を出版社に渡したことなどを話してくれた。これがどれだけ勇気を与えてくれたか。
 呼び屋というヤクザな道を選んでも、工藤は好きな文学をやり続けた。もしかしたら自分もできるかもしれないと思ったのだ。自分の意志さえしっかりしていたら、なんでもできるぞと思った。あれからずいぶんと楽になった。二足のワラジはたいへんだけれど、ひとりそれをやり遂げた先輩がいる、それが大きな励みになったのだ。

 ロシア語に関しては、石黒、工藤というハルピン学院出身の凄腕たちが集まり、まさに万全の布陣を敷いていたAFAに、もうひとり野村光男というロシア語の達人が加わる。外国部に所属することになる東道輝は、「翻訳させたら工藤、しゃべらせたら野村、書かせたら石黒、これほど優秀なロシア語ができる布陣は、朝日や読売といった新聞社にもなかった」と回想している。
 大陸ルートでAFAに入社したひとりに、宗像がいる。野村の紹介でAFAに入社した宗像は、シベリア抑留12年という強者であった。
 宗像は憲兵隊に配属され、黒竜江でソ連軍の貨物を数える仕事をしていた。ハバロフスクで抑留された彼は、国家反逆罪に問われ、地下牢に入れられていた。何度も自白にみせかける調書にサインをするように強要されるが、これを最後まで拒み、12年もの長い年月をバロフスクで強制労働をさせられることになる。シベリアから戻ってきたとき、妻が再婚もせずに、宗像の帰りを待っていたという。
 帰国して二年目に淡路人形芝居とともに、モスクワに行く途中ハバロフスクの空港に着陸したとき、この町をつくったのは俺たちだったと涙ぐんだエピソードは前に紹介した通りである。

スペシャリストたち

 AFAの表看板は、企画部の木原、そして外国部の石黒、工藤だったが、それを裏で支える営業、さらには経理といった部門にもユニークな人材が集まっていた。
 いまでいう営業の仕事の責任者となったのは、かつて神も働いていた函館新聞の社会部長富原孝だった。戦後満州から帰国してきた神は、函館新聞で挿絵をかいていたが、その時知り合った富原をAFAにスカウトした。
 新聞社出身という肩書が、神には必要だったのかもしれない。
 富原は、木原や石黒とかいった会社で酒を酌み交わすメンバーとは付き合うことなく、どことなく近づきがたいところがあったという。いつもパイプをふかし、会社の連中とは別行動で、有名人が集まる新橋の高級バー「キャロット」で、もっぱら飲んでいたという。彼はのちに神に反乱を起こす中心メンバーとなる。
 木原や石黒から一年ぐらい遅れてAFAに入社した、総務部長作間清も、変わった経歴の持ち主だった。関西出身で東大卒、大阪フィルでバイオリンを弾いていたという変わり種で、最初に勤めていた人事院でなにか問題を起こし、辞めたあと、神に拾われることになる。AFAが大阪に出張所を出したときに、ここの責任者となったが、女をつくり、会社の金を使い込んだことがわかり、辞めさせられた。
 木原よりも少し前に入社し、皆から「葉山のぼっちゃん」と呼ばれた湘南ボーイ宮川淳は、興行の世界でいう「票券」のスペシャリストだった。
 いまではチケットぴあなどでコンピューターでその場で、自動的に入場券の指定席がとれるようになっているが、この頃の入場券は、日付や席番を一枚一枚スタンプで捺して作られていた。しかも限られた時間のなかで作成しなくてはならず、それこそ夜を徹しての作業となった。日比谷公会堂や新宿コマ劇場のような劇場公演は、まだ楽な方だった。大変なのは、サーカス公演のように体育館をつかった公演の入場券制作だ。フロアーにパイプ椅子を並べた場合、最大限どのくらい椅子を並べられるか、会場設営業者と綿密に打合せをして、図面におこし、それをもとに膨大な数の入場券を作成することになる。地味だが、興行にとっては、大事な仕事の指揮をとっていたのが、宮川だった。
 入場券制作だけでも大変な作業なのだが、これに加えて当時は入場税があり、作った入場券を税務署に持っていき、検印を受けなければならなかった。これをまともにしていたら、時間がいくらあっても足りなくなる。宮川は税務署への申請についても、裏の道を探り出し、検印を受ける枚数を極力少なくする申請テクニックを身につけていた。

脇役たち

 この他には、裏方で働くいぶし銀のような脇役たちもいた。
 木原は、AFAの社員で一番忘れられないのは、軍曹と呼ばれた男だったという。
 軍曹と呼ばれた男飯塚精一郎は、岩崎将軍の紹介でAFAに入社している。木原や宮川が入社する少し前だった。栃木県佐野駅前の写真屋の息子で、カメラマンの助手のような仕事についていたが、AFAではバイク好きだったことを生かし、いまでいうパシリをしていた。
 淡路人形芝居ソ連公演の時、査証をとるために、渡航者の書類を急遽淡路から取り寄せる必要がでてきた。軍曹は「じゃ俺行ってきますよ」と自ら名乗り出て、勇んでエンジンをふかせて、柳町の事務所を出発した。出掛けたのはいいものの、小田原まで行ったあと、何故かまた事務所に戻ってきた。
 何事が起きたのかと訝しげな木原に向かって「ところで、俺は何をしに、淡路まで行くのですか」と聞いてきたときには、唖然として口をあんぐりするしかなかったという。しかも彼は帰りに、何故か、奈良の生駒山で道に迷ってしまい、夜中ぐるぐる山道をさまよってしまう。
 軍曹と馬が合った運転手の竹中は、こんなことを思い出している。

「名古屋に行くことがあって、軍曹は俺バイクで行くから、名古屋駅で会おうと言うんですよ。しかしいくら待っても全然来ないんだよ。あとで聞いたら、海沿いを走れば名古屋に着くと思ったのはいいんだが、伊豆半島を回って来たってシャアーシャアーと言うんだよ、こっちが待たされるのも無理はないわな」

 草笛光子の大ファンで、飲むとすぐに八木節を歌ったという軍曹は、AFAの中ではなくてはならない脇役のひとりだった。
 宿直と称して、会社の仮眠室で軍曹と交代で、事務所に寝泊まりしていたのが、神の専属ドライバー竹中三雄だった。竹中は、ドン・コサックが来日する前、神がクライスラーを購入、これを乗り回し資金繰りをしていた時に、専属ドライバーとして入社した。借金やら、外事関係やらで、警察や銀行からよく尾行されたというが、それを巧みに巻くことを得意にしていた。
 彼は来日するアーティストたちの世話もよくみていた。外国部の連中が、とてもプライベートの時まで付き合いきれないと逃げてしまったあと、竹中はひとりで、言葉もわからないまま、買い物を手伝い、団員たちから「バンブー(ロシア語で竹という意味)」と親しまれた。

 「サーカスの公演の時だったね。舞台裏に行くと、みんなが「ゴリス」を頼むって350円渡してくるんだよ。当時「トリス」って安いウィスキーがあったでしょ。あれを買ってこいというんです。僕がそれを買ってきて、夕食前にみんなの部屋を廻って渡すわけ。あの時は全員で食堂で食事をしてました。その前に飲みたかっただろうね。あの頃はお目付役で必ずKGBの役人が部屋を見張っていた。それに見つからないように、部屋を廻ってさ、トリスを配るんだ。部屋に行くと、みんなお礼だって、一杯飲めっていうんで、ぐっと一気にあおったもんです。一回に5、6杯一気飲みをさせられたね。だんだん慣れてきて、バターを口に含み、胃壁に壁をつくり、口に含まないで、胃に直接流し込むことを覚えた。こうするとあまり酔わなかった」

 竹中は運転手として、車の中で、一対一で神と付き合ってきたわけだが、竹中の話では、車の中で神は、ほとんどしゃべることもなく、一人でなにかじっと考えているようにしていたという。
 竹中の話を聞いた時は、木原も同席していたのだが、突然木原が「竹中、いつか神が、銀座で3万を俺に渡し、どこかに消えたことがあったよな。あの時どこに行ったんだ、女のところだろ、相手は誰だったんだ? もう神もいないし、白状しろよ」と聞き出そうとした。竹中にとって、木原は仲人でもあり、親父のような存在だった。神よりは、木原の方に恩義があるはずなのだが、この時彼はちょっと困った顔をしながら「それは勘弁してくださいよ。いくら神さんが死んだといっても、これだけは言えません」と毅然として、答えるのを拒否していた。
 神が死んだあとも秘密を明かさない竹中のこの愚直ともいえる律儀さが、おそらく神の信頼を得ることになったのだろう。

女子社員たち

 AFAでもうひとつ忘れてはならないのは、この男臭い野武士集団の中で、明るくまわりを和ませ、もりたてていた若い女性社員たちの存在である。
 彼女たちもAFAにとってなくてはならない大きな戦力であった。
 神彰を追いかけようと取材を始めたとき、AFAで仕事をしていた人たちに私は、アンケートを送った。17人の人に送ったのだが、返ってきた回答は、わずか三通だった。その中の二通は、女子社員からのものだった。

 「あなたにとってAFAは何だったのでしょうか」という質問に、「青春、新しい分野の仕事をしている自負に満ちていたグループでした」と答えてくれたのが、横岩丸枝だった。
 彼女の兄が函館商業の神の同級生で、たまたま函館でドン・コサック合唱団の公演を見て、強烈な印象を受け、東京へ行きたいがてづるがない、ある時神が函館に来た時、兄に頼んで会わせてもらい、直談判し、入社を認められたというエピソードは前に紹介した。 ボリショイサーカス公演のあと入社した彼女は、しばらくすると経理、事務の一切を任されるようになる。
 和文タイプができた横岩丸枝は、契約書を作成するなど会社の機密にも触れる重要な仕事に携わっていた。中国の要人へ宛てた手紙をタイプしたこともあったという。まだ20代の若い女性に、平気でこんな重要な仕事を頼むところに神のおおらかさ、ふてぶさしさがあったのかもしれない。
 かつてAFAの外国部に所属して、いまではボリショイサーカスをはじめ海外のサーカスのプロモーションをする第一人者東道輝は、

「神さんは、なんでも人に任せちゃうんだよね、これが結果的に社員から裏切られることになったのではないでしょうか。私、経理ほか大事なところは全部自分がみています、神さんの失敗を繰り返したくないという思いもありましたよ」

 任せたら任せる、それが神の流儀だったといえるかもしれない。そうしたざっくばらんさが、若い女子社員の潜在能力を引き出すことになった。
 横岩丸枝は、その意味で最大限、能力を発揮したひとりだった。しかも彼女は、持ち前の明るさで、AFAのムードメーカーの役割を果たすことになる。まもなく丸枝の姉、長もAFAに入社している。

 アンケートに「AFAはわが青春そのもの」と回答してくれたもうひとりの女性森五百はAFAの事務所が柳町から日本橋に移転してから、入社している。
 不思議な縁としかいえないきっかけで神と出会い、彼女もまた濃厚な青春時代をおくることになった。

「都市銀行の就職が内定していたのですが、映画の仕事をしたいと思っていたのです。どこか紹介してもらえないかと、銀座のある事務所を訪ねたのです。その時に偶然神さんが居合わせたのです。そして初対面の私に突然、『君、明日からうちに働きにこないか』と誘ってきました。どんな仕事なのか、まして神さんがどんな人なのかもまったく知らなかったのですよ。とても困っていたのですが、まわりの人たちが『神さんのところもおもしろいかもしれない』って言い出して、いつの間にか翌日会社に行くことになりました」

 こう森は懐かしそうに最初の神との出会いのことを思い出してくれた。
 考えてみたら、初対面の若い女性を誘うのも無茶だし、また誘われて翌日得体の知れない会社に行くのも無茶な話ではないか。
 しかもこの話にはまだ続きがある。

「私の父が社長に挨拶しなくてはならないって言って、一緒に付いてきたんです。会社に着いたら、昨日皆で飲んだあとだったようで、一升瓶やビール瓶が転がって、酒臭く、神さんもいない、午後から来るんじゃないですがといわれる。あとで父が、この会社はもうダメだ。もう明日から行く必要がないとカンカンでした」

 横岩は神のことを「私の心の願望を実現した人」と言っていたし、森も「仕事にむけるエネルギーは心の奥まで伝わって、他ではみられないよい夢を見させて頂きました」とアンケートに書いてくれた。
 神の追い求める幻や夢をみんなで共有していたこと、それがこの素人の呼び屋集団AFAを疾走させるエネルギーになっていたのではないだろうか。
 誰もやっていないことをやっているという仕事の喜び、新しいことをしていることを実感しながら、彼らは夢に向かって邁進していたのである。
 このあとも京大独文卒で、ルフトハンザ航空を経て入社した細川剛、早稲田に8年在籍していた、プロの麻雀士のようなことをやっていた矢島茂夫は、展覧会のスペシャリストとして活躍していたし、編集のスペシャリストとなる里村孝や松田稔、営業で若い力を発揮した大川弘、石原慎太郎の紹介で入社した康芳夫など、ユニークな人材が集まってきた。類は友を呼ぶという譬え通り、AFAには、一泡ふかせようという野望をもった若者たちが、次々に集まってきた。
 神の幻を追う旅は、こうしたスタッフに後押しされて、一挙に加速していくのである。

ある断絶

 続々と大陸帰りのロシア語の達人たちが入社してきたことで、炙り出されるようにかつての神の盟友が、相次いでAFAを去っていく。長谷川濬と将軍こと岩崎篤であった。
 ドン・コサック合唱団を呼ぶ時の最大の功労者といってもいい長谷川は、柳町に事務所が移ってまもなく、神のもとを去っている。ドン・コサック日本公演の時に、喘息のため、入院したということもあったが、石黒、工藤、野村という優秀なロシア語つかいと比べて、ロシア語ができなかったのが大きかった。また一緒に仕事するなかで、だらしないところも目につきはじめてきた。

「濬さんは、赤いチェックのシャツをいつも着ていて、詩人という感じがした。僕なんかは、彼が訳したバイコフを読んでいたから、尊敬していたんだけどね。ただちょっとだらしないところもあったなあ。「ちょっと新宿に行ってくる」とフラッーと出ていって、そのまんま戻ってこないんだ。まさに天衣無縫だった。子どもは放牧すればいいと言っていたのをよく覚えている」

 こんな風に木原は、長谷川のことを思い起こしている。
 AFAをやめてからも、長谷川はちょくちょく事務所に顔を出したという。生活に困っていたようで、神に金をせびるのが目的だった。
 岩崎も、ボリショイバレエを呼んだころ、AFAから去っていく。結核を患ったことが大きな理由となった。
 神の成功の出発点となったドン・コサック合唱団公演を一緒にはじめた仲間は、なかば追い出されるようにAFAから去っていったのだ。
 これをまるで自分がAFAに入ったことが原因なのではと、いまでも木原は気にしている。

 「濬さんも将軍も、ドン・コサックが成功したら、儲けを山分けすることになっていたのにと、ずっと思っていたはずです。自分が来てからこの話がおかしくなり、そして友情にひびが入ったんじゃないか、俺のせいかなと思うときがあったよ。二階にちょっと顔を出すと、将軍が急にだまりこむこともあったなあ。
 悪いことをしたなあ、といまでも思う時がありますよ」

 こう木原は顔を少し歪ませながら、語ってくれた。
 神は、友人を切り捨てる冷たい一面も持ち合わせていた。友情をなによりも大事する神ではあったが、彼にとって、長谷川も岩崎もすでに必要のない人間、いやそれだけでなく、邪魔な人間になっていたといえるかもしれない。
 おおらかで愛すべき友であったふたりに、口が軽いという最大の欠点を見てとっていたのかも知れない。これは、せっかくこれから伸びようとしているAFAをダメにしかねない、そんな危機感を抱いていたように思える。
 木原は、あれだけ濬ちゃん、将軍と言っていた神が、このふたりにはなにひとつ肝心な秘密は明かしていなかったことがいまでも不可解だと思い起こしている。一番の秘密は公演に先立って準備しなければならない外貨をどう用立てるかということだった。この外貨準備が、呼び屋という商売にはとっては、一番の困難な、そして危険な仕事であった。呼び屋と闇ドルは切っても切り離せない関係にあった。またこれについてはあとで詳しくふれることになるが、闇ドルを購入しないと外国からタレントは呼べないし、ただ見つかるとすぐに逮捕されるという背中合わせのなかで、呼び屋は生きていかねばならなかった。警察がいつも目を光らせている中、長谷川、岩崎のふたりは、神にとっては危険な存在だった。正直すぎて、嘘を言えないそんなふたりの長所が、下手をすると命取りになるかもしれないことを神は知っていたのだ。
 木原は、神がこのふたりにこれについてなにも言っていなかったことに、ちょっと驚いたという。
 老兵たちには退路しか残されていなかった。

 「神と、ぼくとは、世界がちがうことが分かった。ドン・コサックを呼んだとき、あのころの神は純粋だった。いまは・・・いまの神は商売だけだ! しかし、ぼくは、ひそかに神の仕事が成功することを祈っている」と長谷川濬は、ある雑誌で、神に訣別の言葉をおくっている。
 AFAは、新しい時代を迎えていたのだ。


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