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『神彰−幻を追った男』

第四部 驚異の素人集団「アートフレンド」
 第九章 俺はディアギレフになる その1

財団法人として再出発
芸術を愛するすべての人へのメッセージ『アートタイムス』
呼び屋から芸術交流師へ

財団法人として再出発

 1958年6月AFAは、財団法人アートフレンドアソシエーションとして生まれ変わった。理事長に神彰が就任したほか、理事、監事、顧問に就いたのは次のような、いずれも錚々たる経歴の持ち主ばかりであった。

理 事 白根松介(元宮内庁次官)、田中義男(元文部次官)、
長沼弘毅(元大蔵次官)、矢内恒夫(元外務省条約局長)、
田村敏男(宏池会代表)、外山国彦(作曲家)
監 事 三辺金蔵(慶大会計学教授)、古村義久(公認会計士)
顧 問 南原繁(元東大総長)、武者小路公共(外交官)、
梅原龍三郎(洋画家)、山田耕作(作曲家)

 官僚からの天下りが目がつくが、これは理事に名を連ねていた田村のさしがねだった。田村敏男は、大蔵省時代の盟友池田勇人を首相にするため、派閥宏池会を結成し、自民党内でも切れ者として知られていた。田村は、元満州国文教部次長、神に引き合わせたのは、満州帰りの将軍こと岩崎篤であったといわれている。最初は神の方から近づき、査証や外貨枠のことでアドバイスを求めていたが、互いに大陸帰りということもあり、話もあい、腹を割って相談する仲になっていた。
 当時神が一番頭を悩ませていた問題は、外貨の調達だった。
 日本の外貨保有高が少ない時代のことである。貴重な外貨は、石油や鉄鉱石といった日本の基幹産業にとって欠かせない原料を購入するために使われていた。海外のアーティストの報酬を外貨で支払うというのは、例外中の例外であり、日銀の特別な許可が必要だった。特別に許可されていたのは新聞社、放送局といった大手マスコミだけだった。このため呼び屋たちは、一ドル=360円という正規のレートよりも50−80円も高いレートの闇ドルを調達しなけれはならなかった。AFAでこうした仕事ができるのは、木原しかいない。この危ない橋を渡っていた木原は当時のことをこう振りかえる。

「NHKとか毎日、朝日、読売には、外貨の割り当て結構あったのですがね、われわれに割り当てられているのはたかがしれているわけです。大蔵省に提出する申請もめんどくさくてね、これも私がやりましたよ。
 結局は闇ドルを買うことになります。香港に行ったこともありますよ。アメ横にあった喫茶店で、すぐにその筋ってわかる男から五千ドル買ったこともある。東京駅近くにもいいレートで買えるところがあったね。いやなもんですよ。こっちは、法を犯しているわけですからね。
 神が宏池会の田村に近づいた一番の理由は、この外貨問題だろうね。財団にしたのも外貨を自由に購入したかったからですよ」

 田村のアドバイスのもと、財団化に踏み切り、財団法人になったことで、外貨割り当ての問題は解決したのだが、その見返りとして神は、宏池会に多額の政治献金を提供することを余儀なくされる。
 神は『怪物魂』のなかで、この時一千万の献金をし、総裁選挙が激しくなった時には、さらに多額の資金をつぎこみ、「私の政治献金は、池田総理の誕生に大きく貢献した」とまで書いているので、おそらく何千万という資金を提供していたのだろう。
 政治資金を宏池会に届ける役も木原が受け持っていた。

 「100万必要だからすぐ届けてくれとかいわれ、よく事務所に持って行ったもんです。神が海外出張でいない時も、どうしても明日まで届けてくれと言われて、持って行ったこともあったねえ。田村は、『俺たちが天下をとったら、外貨枠なんて取っ払ってやるぞ』と豪語していましたよ」

 AFAが財団法人として再出発したことで、外貨問題は解決された。大蔵省へのしちめんどくさい申請もなくなったし、闇ドルを買う必要もなくなった。それと同時にもうひとつ、自分たちがやっているのは国際文化交流だという張り合いが社員たちのなかに自然と生れるという効果ももたらした。いろいろなアイディアが社員や理事たちから出され、さらにAFAは活気づく。
 1958年12月には、アートフレンドの会が誕生している。ファンクラブの先駆けといってもいいだろうが、一アーティストのファンクラブではなく、プロモーターのファンクラブだったところが画期的だったといえよう。月100円の会費で、海外アーティスト2回、国内アーティスト2回と年4回AFA主催の公演を無料で見れるという特典があった。例えれば野球場の年間シートを買うのと同じで、出しものが決まっていない公演の前売り券を4枚買っているようなものだ。
 この時代のAFAの熱気を感じるのは、観客を組織しようとしただけでなく、そのために機関誌をつくってしまったところにある。
 翌年2月にアートフレンドの会機関誌として月刊『アートタイムス』が発刊された。

芸術を愛するすべての人へのメッセージ『アートタイムス』

 全16頁のこの小雑誌を初めて見た時、その中身の濃さ、充実ぶりに正直驚いてしまった(AFAの元社員横岩長さんが1号から25号までを持っていたのを見せてもらった)。AFAが呼ぶ予定のアーティストや公演プログラムの紹介が中心になっているが、宣伝よりもどんな番組なのか、どんなアーティストなのかといった内容に重点をおいているのが、AFAらしいといえる。機関誌ということもあって会員から寄せられた意見が毎回掲載されている。ヨーロッパのアート情報のコラムも充実している。海外からアーティストを招聘する舞台裏を紹介する連載記事や、梅原龍三郎や山田耕作の寄稿記事もあるなど、友の会の機関誌といってもおざなりのつくりではなく、いいものをつくりたいという情熱が伝わってくる。

「「アートタイムス」は何よりもじっさいに芸術交流運動をおしすすめている現場に即した「アートフレンドの会」の機関誌です。事大主義におちいったり、文献学的になったり、観念論やうけうり論議にならないようにしたいものです。夢と誇りをもって、今はささやかながらも、どの雑誌や新聞にもみられない芸術家、ファン、主催者が一体となった生きた芸術の現場をすべて反映してゆきたいものです」

 これは創刊号のあとがきの中の一節なのだが、夢と誇りをもって、いいものをつくりあげようという熱気が感じられるし、それだけの内容になっている。
 いまでいうと「図書」とか「本」とか、出版社が出しているPR月刊誌に近いかもしれない。これだけの内容の雑誌を毎月一冊つくるというのは、大変な作業であり、お金もかかったはずだ。それでもAFAは、これを出すことに意義を見いだしていた。
 編集側の熱意と同時にセンスを感じるのは、1959年9月発行の第7号から毎回表紙の裏、いわいる表2に掲げられたエピグラフである。
 7号は、チェコフィル特集なのだが、それにちなんでプラハの迷路のような路地の写真をバックにカフカの一節が引用されている。

「道は無限である
 割引もなければおまけもない
 <いいですね あなたも
  これだけの道のりを歩かねば
  なりませんよ
  忘れてはだめですよ>」

 イブ・モンタンの公演予告が掲載された8号では、パリの石畳の広場の写真をバックにモンタンのシャンソンの一節「隙間のない塔に閉じこめられた、昔の美しい物語の囚人たちは、籠の鳥のように、唄を歌っている。それは、彼らの逃亡の方法なのだ」が掲げられている。

「見あきた 夢は どんなふうにしても在る
 出発だ 新しい情と響とへ(ランボー)」(16号)
「ジャズは 心臓の鼓動です
 その心臓の鼓動は あなたなのです(ヒューズ)」(18号−アート・ブレイキー特集)
「それほどにも遠いところから
 われらは飢と共にやってきた
 悲しみの歌は尽きてしまった
 残っているのは喜びの歌ばかりだ(小熊秀雄)」(20号)
「私の場合、絵画は破壊の総計である。
 私は描き、それからそれを破壊する。(ピカソ)」(23号−ピカソ特集ゲルニカの絵をバックして)

 このように毎号、詩や小説、歌の一節から引用されたエプグラフが巻頭を飾っていた。芸術への深い造詣が滲み出ているこのエピグラフを選んでいたのは、詩人でもあった木原だった。
 『アートタイムス』創刊号から3号まで神彰の筆名で「ボクは民間芸術領事」と題されたエッセイが掲載されている。
 これは、自分が呼び屋や興業師でないことを宣言したアピール文として読むことができる。AFAも神彰も、「呼び屋」から「文化交流事業家」へと変身をとげようとしていたのだ。

呼び屋から芸術交流師へ

 このエッセイを実際に書いたのは木原である。この頃から神の考えていること、思っていることが手に取るようにわかった木原が、多忙な神に代わって、それを言葉にすることをひとつの仕事としていた。
 このエッセイで神は、この年(1958年)1月に公演を予定しながら直前でキャンセルしたシャンソン界の女王ジュリエット・グレコとパリで交渉したときの内幕を明らかにしながら、海外からアーティストを呼ぶ難しさを語っている。しかしこうした困難があるからこの仕事がやり甲斐あるのだとも語っている。

 「ぼくも『何故にそんな仕事をするのか』ときかれれば、こういいたいところである。『そこに困難があるからだと」

 そして呼び屋から文化交流事業家に変身した神の理念が、最後にあらためて表明されている。

 「人間のいるところには必ず生活があり、生活のあるところ必ず芸術がある。その創造的な発見こそ、ぼくの仕事の本来の任務であり、生命だと思っている。(中略)
 こうして全世界の人々が、芸術という精神の感動のエスペラントによって一つにかたく結ばれ、つながりあうとき、たとえば逆に現代科学のもう一つの頂点ともいうべき戦争などというものが、それこそどんなに未開な、野蛮な、バカらしいものかを、人々はお互いにもっとハッキリ知りあうことだろう。
 そしてあらゆる国々が文化協定によって結ばれ、いわば和解の芸術の国連を樹立することがぼくの夢であり、それまでさしずめアート・フレンド・アソシエーションは、ささやかながらも一つの民間芸術領事館なのだと自負している」

 風呂敷をまた大きく広げたものだが、ただここで言っている芸術交流師として生まれかわろうとしていたのは確かだ。
 同じ頃『中央公論』臨時増刊号(1959年5月)に発表したエッセイ「ぼくは芸術交流師」のなかで、こんな風にも語っている。

 「ぼくが一種の生理的嫌悪感を催すのは、相変わらずぼくに『興行師』の名を投げつける人たちだ。いささか逆説めくが、たしかに「芸術交流師」もへんだし、いわばイムペリサリオ、プロモーター、興行師にちがいないだろうが、僕なりの仕事の自負の内容の新しさからいって、ぼくにはそれは汚辱にみちた言葉に思えるのだ。(中略)
 一種の人身売買かサギに類する連想をともなう。ざんねんながら、それが「興行師」という日本語にしみつく過去の歴史だ。この言葉のほんとうの意味を理解して、あえてそれをぼくに投げつける人たちは、じつはそのことにより自らも汚しているといえぬだろうか。
 古い、悪い過去を踏襲することは、やはりぼくにはがまんできない。その否定から、ぼくはぼくの仕事の出発をしたわけだから。だから今日これからぼくへの興行師の名は一切返上したいのだ」

 興行界に旋風を巻き起こした神の成功を快く思っていなかった興行師たちはたくさんいた。この頃日本のプロレス興行を一手に握っていた日新プロダクション社長永田貞夫が、よく神のところに電話をかけてよこしては、「お前は興行界の仁義もしらないし、勝手なことをするんじゃないよ、興行とはそんな甘いもんじゃない」とさんざん厭味を並べ立てたという。こんなことにうんざりしたのかもしれないが、神にはこうした日本的な古い興行の因習から断絶したところで、自分のような素人イムペリサリオが、真の意味で芸術交流の役割を果たさなくてはならないという思いがあった。
 ここで思い浮ぶのは、十九世紀末から二十世紀初頭にかけてヨーロッパで「ロシアバレエ団」を結成し、旋風をおこしたロシアのイムペリサリオ、ディアギレフのことである。画家として芸術界にデビューしたディアギレフは、画家としての自分の才能をいち早く見限り、イムペリサリオとして、当時西欧でまったく無名だった音楽家ストラビンスキイ、ダンサーのニジンスキイを登用して、「ロシアバレエ団」を結成、「春の祭典」や「火の鳥」などスラブ神話をテーマにした前衛的な作品を次々にプロデュース、欧米の観客に衝撃をもたらした。
 斬新な企画力をたてる能力、そしてその企画を強引なまでに実現するパワー、そして芸術への深い理解など、神彰と共通するところがいくつかある。
 木原もなんどとなく、神の口から「俺はディアギレフになるんだ」という言葉を聞いている。

 「私もディアギレフは好きだった。ディアギレフのことを知っている人は少なかったと思うよ。こんなところが好きだったね。確かにあの時、神はディアギレフだった。金儲けだけじゃなかったんだよ、神にとって大事なことは。だからボリショイサーカスであれだけ儲けたのに、次の年にチェコのものをやろうと言いだしたのかもしれない」

 1959年神は、ボヘミアの小国チェコに夢を追い求めようとしていた。


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