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『神彰−幻を追った男』

第五部
 第十四章 アメリカの罠

アメリカからの手紙
地(痔)から生まれたサーカス
神がつくった西部劇ショー
地に落ちたサーカス

アメリカからの手紙

 パリで有吉の婚約を知る一カ月前、神はラスベガス、ニューヨークなど、アメリカ各地を忙しく飛び回っていた。このアメリカ出張中に神は急遽、ジャズグループ、ホレス・シルバークインテットと、クリス・コナートリオの招聘を決定している。この年成功したアート・ブレイキーと同じように、正月に公演しようというのだ。決定したのが、1961年11月であるから、公演まで残された時間は、2カ月ちょっとしかない、いまから考えると無謀な話だ。しかも最初はホレス・シルバーだったのが、クリス・コナーに代わり、最後には二組一緒にやることになったりと、メンバー決定まで二転三転するという事態に、東京で留守を預かっていた木原は、右往左往することになる。この時やりとりした手紙と電報が木原のもとに残っている。これを読むと、神彰という男がプロモータとしての勘の鋭さ、大胆さ、さらには繊細な神経を持ち合わせていたこともよくわかる。

「木原宛て
 シルバークインテット取りやめ、理由は非常に高くなるため。コナー一本で宣伝するように。今夜木原宅へ電話する。神」(1961年10月31日付け電報より)

 さらに神は、手紙で木原に宣伝の具体的な指示をしている。

「木原君
 1日2日の両日ラスベガスへ来ました。ここのショーはアメリカでも一番金のかかったものであるときいたので−
 やはり来て見ると驚いた。砂漠にこの為につくられたホテルがのきなみです。芸人もサミデビスJR、サラボン、パテページ等一流が顔をそろえているし、今日からフランクシナトラがありました。
〇ジャズクィン
 クリスコーナとトリオに決定した旨電報しましたが受け取りましたでしょうか。ゲストとしてだれか大物を入れるつもりです。
〇キャッチフレーズは粟津等とも相談されたし。
〇あくまでも大衆相手にされたし、モダンジャズファンは何もせんでもくる。
〇相当つよきでやっていいのではないか。キングコールに匹敵する歌手です。(中略)
〇今朝の6時だが、ここは休みなしで歌って飲んで博打をやっている。俺も100ドルすった。これから一人で飲みにいきます。」

 粟津とは、新進のイラストレイター粟津潔のことである。彼はAFAのポスターやチラシのデザインを多く手がけていた。
 4日後シルバーの演奏を聞いて、神はこの決定を覆している。

「3日夜11時サンセット通りにあるCLUB RENAISSANCにホレス・シルバー・クインテットを聞きに行きました。全部のメンバーが一つになって爆発する迫力があり、そして又静かな曲もある。
 ブレイキーの時と同様に物凄い人気になると思う。こちらでの人気は最高です。
 シルバーは静かで腰もひくい人です。
 但し演奏は例の髪を前にたれて迫力あり、ベース、サックスもよし、トランペットは特に凄い、ドラムはブレイキーの迫力をしのぐ若い力をもっている。演奏が終わったのは朝の3時、特に日本公演のためにあかりをつけて写真を撮らせてもらいました。全員日本行きを喜んで居った。彼のメッセージをもらったから同封する。同封のパンフレットにある彼の作曲を全部プロに載せて下さい。この中から毎日曲を変えて演奏する。
 会場のフンイキによって自然に曲が演奏されて行くのでプログラムは前もって定められぬと彼も云っている」(ロサンゼルスのホテルからの手紙より)

 そして結局は、ふたつのグループを一緒に呼ぶことになる。

「木原君
 8日発信の電報の如く。                     
 クリス・コーナのトリオ(ピアノ、ベース、ドラム)を入れてやる事にした。
 クリス・コーナのマネージャーMISS PATRICIA RAMSEYを入れて5名それにシルバークインテット5名で計10名になります。
 1部をコナーとそのトリオ約45分  
 2部シルバークインテット約1・20時
 正月ですし豪華にした。」

 パリに出発する前に、神は、こんな手紙も木原に宛て、送っている。

「木原君
 14日の夜パリーへ出発します。今出発の用意をしているところです。
〇クリス・コナーとホレス・シルバー一行10名これは全員ツーリストクラスでよろしい。荷物は楽器のみ、ちょうか分だけはafa負担。
〇REY CHARLESをやろうと思う。盲目の歌手でピアノを弾いて歌う。ベラフォンテより感動的です。4人の黒人合唱が付いてオケが8人、その他3人で15人編成」

 このレイ・チャールズ日本公演は、アメリカのシンジケートと結びついていた永島達司が実現している。さらに先に引用した手紙に出てくる、キングコール(ナット・キングコール)も永島が呼んでいた。
 神は木原に、「永島はいいよなあ、進駐軍あがりだからアメリカとコネがあって」と
よく話していたという。

地(痔)から生まれたサーカス

 そしてこのアメリカ出張で、神はもうひとつ大きな企画を進めていたのだ。
 10月29日神は全米ロデオ大会を視察している。かねてから温めていた企画、西部劇ライブショーのためだった。ここで優勝したカーボーイに、神は日本に来ないかと誘っていたのだ。

「◎ガンハーのこと
AMERICAN WILD WEST SHOW RODIOこれが正式な名
29日ロデオこんてすと観ました。これだけでも凄いものだ。ピカソの牛、背中に大きなコブのある闘牛の牛に乗るワケで人間が動物にチョウ戦する、角力の心理に似ている、これはウケル
1958年3年前のブラッセルでやった万国博覧会にアメリカ側からこのメンバーによる「ロデオと西部物語」とホリデーオンアイス、フィアデルフィアオーケストラが参加し、ソ連からボリショイサーカスとバレエーとレニングラードオケが出たのだからソ連のボリショイサーカスに匹敵するワケです。
この主役のロデオのチャンピオン(7年連続)TIBBS氏に会ったが、ベズロードニーによくにた31才の青年で印象良し
出井の若主人がこの見本市に行っていますからロデオを見たかどうか聞いてごらんなさいこの時のフィルムを見ました。これが近く送られますから見て下さい」

 出井の若主人とは、アート・ブレイキを紹介した出井の若主人のことである。
 さらにこの数日後、神はまたこのロデオのことで、木原に手紙を書いている。

「ロデオの資料、35oフィルム二本と16o。写真、及び雑誌類。
 TIBBSはLIFEの表紙になったり、送った雑誌にも殆ど彼の記事でうまっているくらいの人気者です。
 それとメンバーの中に特に早射ちのチャンピオンを入れた。今年16才の二丁ケン銃です。16才で全米チャンピオンです。自分でビンを二本、空中へ投げて二丁の銃を腰から抜く手も見せず射つテレビそのものです。
この写真はいづれ送れる筈です。
TIBBS(31才)のところへKBK(国際文化交換協会)の坂本から申し込みが来ていた故、外部に対しては特に秘密にされたい。
 4日9時15分ニューヨーク向けの飛行機内で記す」

 神のこの企画に賭ける熱意が伝わってくる。木原が神に宛てた、1961年11月10日付けのこんな電報も残っている。

「ガン法で、本物のピストル使用は、警視庁が許可しない 木原」

 このアメリカ出張中に、神は頻繁に東京と電話連絡をとっていたので、もしかしたら神から銃使用の件で問い合わせがあり、それに対する回答なのか、それともこの神の手紙を見て慌てた木原が調べて、至急連絡をするために送ったのかは定かでない。木原もこのへんの記憶があまりないという。
 いづれにせよ神のなかでは、この西部ショーをやることは決まっていた。
 そもそもこのライブ西部劇ショーのアイディアは、神の痔から生まれたものだった。木原はこのエピソードについてこう語っている。

 「神が有吉と付き合い始めた頃だったね。パンツがいつも黄色くては有吉の前で格好が悪いと言い出すんだな。神は痔になっていた。僕が、赤坂の病院に通っていたことを思い出して、そこを紹介しろっていう。そこでこの病院に神は入院することになるんだが、その時暇だから、テレビばかり見るわけですよ。そうするとあちこちのチャンネルで西部劇をやっているわけ。神はこれだと思ったわけですよ。テレビだけでなく、映画でもこの頃は西部劇が人気だったしね」

 「雨降って地(痔)かたまる」ということになるのだろうか。
 木原は続けて、今度は笑いながら、こんなことを思い出して語ってくれた。

「いよいよ来る段になって、例のとおりキャッチコピーをどうするかが問題になったわけだ。その時僕は神の痔のことを思い出して、『地(痔)から生まれたサーカス』っていうのをひねり出したわけです。・・・ところで神の痔はあれからどうなったんだろう。直ったのかな」

 痔から生まれたサーカスは、やっかいな代物だったことは、まもなくわかるのだが、神は夢中になってしまったのだ。神にすれば、有吉との結婚で世間を大騒ぎさせたあとの公演である。木原はあの仕事は「有吉への結婚祝い」だったとも語っている。当時のAFAの社員もみんなそんな風に思っていた。神が好きなようにやればいいと。

神がつくった西部劇ショー

 結婚前のメキシコ出張もも、大西部サーカスの仕事をかねていた。そこで闘牛を見た神の構想はさらにひろがる。いままで神は、自分でアイディアを思いついても、それをみんなに振り分けながら、仕事を進めていった。しかし今度ばかりは、外国部の石黒にしろ、工藤にしろ、出番はなかった。なにしろ相手はアメリカなのだから、ロシア語は関係ない。誰もブレーキをかけることができなかった。そして神は暴走をはじめるのである。
 いままでダメだし程度に、ショーの中身に口はだすことはあったが、今回は自分がショーを演出しようというのである。
 それはアメリカから送られてきた彼の手紙を見ればわかる。

「昨8日メキシコより帰りました。・・・・・
 第二部の最後を飾る闘牛は牛を殺されずにケープワークでその妙技を見せるのですから人間の方が殺される危険があり、一流の闘牛士でなければならぬとのことです。
 圧倒的なプロです。
 その前後にメキシコの音楽が入る。このトランペットがメキシコ音楽で今まで出来なかったものだけに素晴らしい雰囲気を出すでしょう。絶対に間違いのないプロです。」

 西部劇と闘牛のショーを一体化したものをつくろうとするなかで、どんどん神の中で構想がふくらんでいく。
 さらに別な手紙で神は構成を披露している。

「〇第一部の西部劇だが、これは1時間半もあり、メキシコ音楽と踊及び闘牛で約30分としとくとも1時間かっぷりあるから、この西部劇をアメリカの劇作家に書かせる事にした。
ストーリー
1、白人騎兵隊とインディアンの挟み打ち
2、幌馬車とインディアンの争い
3、銀行ギャングとクビつり
4、テキサス地方のカーボーイ(ローハイド)
  長角牛をカーボーイが追っていくところetc
このように4つの風景シーンを基礎として闘争、戦、悲しみ、ロマンス、喜劇を入れるつもりです。
何しろ1時間は映画を見る様な具合にいかぬとおもいます。
(中略)
〇牛36に馬が50ですから地方公演はなかなか大変です。それを考えてプランを立てる事。
地方公演が終わったら東京の野球場でやったら如何。
大阪は野外でやりたい。
10月は良いシーズンですから。」

 このように、この企画に対する神の入れ込みは半端でなかったのである。自分で西部劇のシナリオを書いてしまったのだ。長い引用になるのだが、神のこのショーに賭ける意気込みが、わかるのではないだろうか。

「プログラムの予定
〇未だ本ぎまりではないが大体のすじを予定してみました。読売至急意見をしらせられたい!
(全員に読んで聞かせた上意見をまとめて送ってください−赤字(引用者中))
第一部
10分@パレード 初め二人のカウガールが三角旗を持ち同じ服装をして登場して場内を駆けめぐる。そして所定の位置に留まる。(スケッチあり)
 次にテイブスを先頭に三角旗の種々な模様入りの旗を持ったカウボーイ15人早撃ち手1人縄芸4人インディアン10人(計30人)が登場し場内せましと早足行進をして一列に並びます。並び完ったら白馬にまたがったカウガールが星条旗を持ち入ってくる、この時アメリカの国歌(全員キリツデアル)次はメキシコの国旗を持って白馬にまたがったカウガール登場、メキシコ国歌、次は日本の順になると思う(メキシコの国旗を持って入る件は未定で打ち合わしておらぬ、此れはマリアチ音楽10人と闘牛士がきまり次第提案するつもりです)
15分Aインディアンのダンス
 パレードが終わったところで場内を赤い感じにする(夕暮れのつもり)
 (ウエスタン音楽と共に駅馬車が登場)
駅馬車(2人)がは出てまいります。場内を二周して中央で露営である火をタキあたたまっている。又は食事、その間にインディアンが伏せながら近づいて弓等を射ち囲んでしまい白人をつかまえる。(スケッチあり)
 此れでインディアンの勝利の踊りが10分くらい
 インディアンの弓の名人が妙技をふるう(3分)勿論白人はしばり首にしよう。太鼓のダンスが熱狂して酒もり
5分B二挺拳銃登場
 その内に一人の若いカウーボーイが通りかかり早撃ち二挺拳銃の妙技(2分)が展開され一人でインディアンを撃退させる。(妙技を見せているところはスポット)
10分C生きている投げ縄
 四人による縄芸十分、男二人女二人だ
15分Dインディアンとカウボーイの戦い
(馬から落ちたりバラエティに絡ませる)インディアンとカウボーイの全員による戦いで全員戦死(「皆殺しの歌」「戦場」九ちゃんの歌)これで戦争はいかにしても結果はよくありませんということを訓へたらいかがでございましょうか             (全員倒れたところで暗転)
10分E場内が暗転、マリアッチ音楽
急にメキシコの甘く力強い音楽が奏でられ(スポット)一列になってマリアッチの音楽家達が出てまいります。三曲ぐらいおわったところで二人のダンサーが入ってきて踊る
30分F闘牛
ファンファーレのラッパが鳴り渡りトレアバレの音楽が一曲あって四名の闘牛士がきらびやかな衣装で乗馬した先導につれられ登場します、観客に挨拶をして闘牛2回
二、第二部(40分)
ロデオは競技でありショーではない。この点を宣伝紹介しる事が必要と思う。ですからこの内容、着目点を前もって紹介に努めなければならず、競技の見かたを説明する事によって一層興味がわきます(過去の成績、タイムなどを知る事が)
ロデオ
1、荒馬乗り  3回
2、乗馬で子牛を投げ縄でとらへた後馬よりおりて両足をしばり何分かかるか? 3回
3、鞍つき荒馬乗り  3回
4、牛たおし
  二人のカウボーイが牛を追い一人が牛に飛び乗って牛を倒してしまう。3回
  大きな牛なのでなかなか倒す事が出来ません。倒すまでの時間を計る 3回
5、野牛のり
  これが一番危険です  5回
  この時は救急車が待っているくらいです
1、3、5共ブザーがなる迄乗って居らなければ失格であり、時間まで乗ったもののなかから順位を採点する。
 この二部でアナウンサーがおおいにしゃべくりまくる。日本側のアナウンサーがこの通訳をやる
〇一九才のレド・マークは早射二挺拳銃の全米チャンピオンでそのガンサバキは素晴らしい。劇中のこのガンサバキは人気を呼ぶと思います。同君はローハイドのフエバーさんのガンの先生でその他西部劇テレ俳優の師範をしている。この青年を西部劇の主役にします
〇メキシコの闘牛はこの三日ぐらいできまると思うが、その時は打電する。
           この様にしたらいかがであろうか?
〇西部劇のスジですがうまいのがあったら考えてアイデアをしらせて下さい。
〇闘牛
 これは人間と野性との真の戦いですから迫力物凄い。しかもこの暴れくるう野牛を殺さずに多くに疲れさせてしまうまでの技を見せる事は、牛をころすよりはるかにむづかしい事で一流中の一流闘牛士でなければ不可能でその上危険な勝負です。人間が殺される可能性があるからです。
 今心配しているのは、たけり狂った野牛をどうして柵へもどすかが問題になっています。
第一部の最後プロは圧巻ですぞ。
第二部のロデオこれは素晴らしい番組を少なくても考えましたが、ロデオはみれば観るほどおもしろく、判れば解る程きょう味のある競技です。此れはフロンテアスピリットではなくフロンティアスポーツと命名した方がよいくらいです。スポーツはルールが解れば非常にきょう味のゆくものですから此れの規則を大衆にしってもらう事が必要です。
スポーツの中で危険なものの一つでよし、迫力もあります
〇最後フィナレパレド
 此れのプロデュースがうまくいった場合バッハロービルのよりも素晴らしい大西部サーカスになると思います。   JIN」

 名カウボーイとしてその名を知られていたバッファーロー・ビル(1846-1917)は、西部の開拓が一段落し活躍の場を失ったあと、カウボーイの技術をいかし、「ワイルド・ウエスト・ショー」というサーカス団を結成、アメリカ各地はもとよりヨーロッパにまでその名をとどろかせた興行師である。
 このバッハロービルの「ワイルド・ウエスト・ショー」よりも素晴らしい大西部サーカスになるというこの神の一節に、彼の浮かれぶりがよく出ている。アート・ブレイキーで復活し、しかも赤い呼び屋だけでないことを見せつけ、キオの魔術で空前の大入り満員にし、狙っていた有吉佐和子という売れっ子の作家をものにした神は、まさに得意の絶頂にいた。この勢いで彼は疾走しようとしていたのだろう。誰もブレーキーをかけることができなかった。

 3月9日付けのアメリカからの手紙のなかにこんな一節がある。

「昨夜AM2時電話したが応答なしだったので有吉に電話した。日本時間夜6時。
有吉から大西部サーカスのキヨカが大蔵省から下りたと聞いたが
内諾があったのか?それを待っているのだから電報でも欲しい気でいる」(3月9日) 

 AFAの社員たちは、こうした神の意気込みを冷やかに見ていた。この企画に気乗りしてなかったのである。アート・ブレイキーの時も神の思い込みだけで、やめた方がいいとみんな思っていたが、自分たちでいろいろ歩いて調査や営業をしているうちに、当たるかもしれないという気になってきた。しかし今度の大西部サーカスは、当たるかどうかはわからないけど、神の結婚祝いなのだ、好きにやらせようということだった。その裏には神が好きでやっているのだから、その責任は俺たちにない、すべては神が責任を背負うだろう、神だったらなんとかするだろうとみんな思っていたのだ。みんなの意見を聞きたいと言っていた神に対して、社員たちは、真剣に答えようとはしなかった。
 これが結果的には、AFAにとって大きなダメージをもたらすことになる。

地に落ちたサーカス

 幹部社員が気乗りしないのを見越してか、神は若手の外国部員東道輝をアメリカ駐在に抜擢し、現地での交渉を一任する。東は第一回のボリショイサーカス公演からAFAに入社していたが、それまでは現場のアシスタントが仕事で、本格的な交渉の場に立ち会うのは始めてだった。東は、ロシア語も達者であったが、外語大出身で英語も堪能だった。東は六カ月アメリカに滞在し、交渉にあたることになる。
 有吉との結婚式が終わってすぐに神は、7月の本公演に先立ち、4月に「世界一の早撃ちガンマン」リード・マークをPRのため、急遽来日させる。
 4月14日テンガロン・ハットをあみだにかぶり、ブルーのシャツに黒いズボンといういでたちのリード・マークが、立川の空軍基地内にある射撃練習場に姿を現す。東京のど真ん中に、本物のガンマンが現れ、早撃ちを披露するなら、大きな話題になるだろうが、郊外の立川市、しかも基地の中では、宣伝効果も半減だった。
 この公演には、神の意気込みとは別に、どうしようもない落とし穴、盲点があったのだ。ひとつは、西部劇を再現するために、派手な銃声と硝煙をあげるピストルの撃ち合いが欠かせないものだったのにもかかわらず、当然のことながら公然の場で、本物のピストルをつかった銃撃ショーを警察が許可するわけがなかったことである。いくらショーのためとはいえ、本物のピストルの一時輸入を許可するほど警察は甘くなかった。再三再四の交渉も実らず、結局ピストルの銃口は、弾が飛ばないように塞がれることになる。
 このデモンストレーションも基地内の射撃場で、警察官立ち会いでしかも空砲でということで、やっと許可されたものだった。
 後ろからくる相手を抜く手もみせずにふりむきざまに一発で撃ち殺す早業や、右で撃つとみせかけて、左の拳銃で撃つというトリック、自分に向けられた相手の拳銃をつかんで一回転して相手を倒す捨て身技などを披露したというが、所詮は格好だけなのである。観客は、テレビや映画で見る西部劇以上のものをライブで見れると思うから、入場料を払って見に来るのに、テレビや映画よりもさらに迫力のないものを見せられたら、たまったものではない。宣伝効果は減ってしまうどころか、逆効果になる。
 この時立ち会っていたAFAの社員で、運転手の竹中は、唯一実弾の発射が認められた的に向かっての早撃ちでも、まともに的にあたらなかったと言っている。
 このデモンストレーションについては主催する読売新聞社以外で、ほとんど話題にならず、無視されてしまう。
 さらにもうひとつ大きな誤算、それは早撃ちと共に、大きな話題になるはずの闘牛ショーで、牛を殺してはいけないという達しが最終的に下されたことだった。
 実弾は使えない、さらには闘牛で牛も殺せないという、厳しい条件を突きつけられるなか、神は追い詰められていく。
 いかに素晴らしいシナリオを書いても、ライブの迫力の魅力をそがれたショー、しかもそれがなければ別にテレビや映画で見れるのに、テレビ以下のライブショーになることがわかったとき、すでにこの勝負は終わっていた。
 大西部サーカスは、1962年(昭和37)7月21日、東京体育館で37日間の幕を開けた。体育館のフロア二千平方メートルには、一メートルの厚さの土砂を盛り、馬や牛が観客席に飛び込むことがないように、鉄柵の金網を八メートルの高さに張りめぐらせられる。
 ケーシー・ディブス団長以下、カーボーイ六十名、インディアン三十名、馬七十頭、牛四十八頭、特別参加のメキシコ闘牛ショー、闘牛士六名、マリアッチ音楽隊十名、闘牛用牛十八頭という、神がいままでやってきたショーのなかでもスケールの大きな陣容だったのだが、内容はお粗末きわまりないものだった。
 実弾のない早撃ち、牛を殺さない闘牛、それだけでもこのショーの魅力は半減してしまっていたのに、メインとなるロディオがいけなかった。馬が疾走するのではなく、人工的につくられた体育館の中でノロノロと走るだけだった。

 「神はショックを受けていた。客が入らないという以前の問題だった。あまりにも内容がお粗末だった。どんなことがあっても自分が呼んだものは一流だということが誇りだった男にとって、東京体育館でのろのろ走る馬のロデオを見るのは忍びなかったんじゃないかなあ。
 公演が始まってから、切符のキャンセルも多かった。大阪でも公演することになっていたのだけど、キャンセルした。僕が断りにいきましたよ」

 木原は、無残な結果に終わった大西部サーカスのショーをこう振り返っている。
 この公演が、いままで神とAFAが築き上げたものをぶち壊しにしてしまったのだ。宮川もこんなことを言っていた。

 「いままでの貯金を全部吐き出すどころか、借金まで抱えてしまいましたね。有吉への引き出物かわりだったんでしょうけど。幹部たちはみんな反対していたんです。いま思うと、すべてのつまずきのもとになった公演でした。呼んできた馬や牛は全部買ったんですけど、公演後精肉屋に売ったんじゃないですかね。アートフレンドの内紛はここから始まったと思います」

 神とAFAの墜落は、こうして始まったのである。
 大西部サーカスを神が呼んだ時、ふたりの若い社員がAFAに入社していた。ひとりは、有吉の紹介で入った、新潟出身の大川弘。私が九年間勤めることになる会社の社長となった人である。そしてもうひとりは東大出身で、石原慎太郎の紹介で入社した康芳夫であった。のちに神の弟子を自称し、ネス湖の怪獣探しや、カシアス・クレイの試合、オリバー君の来日などで世間を騒がせることになる。
 康は、この大西部サーカスについてこう書いている。

「こつこつと地道に利益を上げていれば呼び屋としての人生を大過なくまっとうできたかもしれなかった。しかし、呼び屋をやるような人間がビジネスの効率だけで自らの人生を決定するはずがない。ボリショイの成功に満足していればいいのに、一九六二年から六三年にかけて、神は大きなバクチを打ったのだ。アメリカからも大サーカス団を呼んだのである。「大西部サーカス」と銘打った馬、牛、団員数十名の大規模な集団演技団だった。「あれは大失敗だった。神のつまずきの第一歩だよ。僕ら社員から見ても内容はおそまつのひとことに尽きた。サーカスといってもボリシヨイみたいに訓練されてないから、二十頭の牛と三十頭の馬がただうろうろするだけ。全国各地を巡業して歩いたんだが、まったく客が入らない。九州まで行った時、ついに動物に食わせる飼い葉代もなくなり、団員たちは牛を殺して食ってたもの」

 レニングラードバレエの公演の時、安保騒動に巻き込まれた神は、相次ぐキャンセルで、にっちもさっちもいかなくなったとき、ギャラの支払いを延期してもらうことで、苦境を脱することができた。ソ連にすれば、神とのつきあいは、一回だけのことではなかった。過去の実績、そして託さなければならない未来があった。
 しかし今回神が契約した相手は、一回だけの契約しか考えていない。過去もなければ、未来もない。契約は契約だった。興行がいかなる理由にせよ、不入りでも、神が約束したものは全部持って帰った。アメリカのショービズの世界に同情など無用だった。
 竹中労は、『呼び屋−その生態と興亡』の中で、神が「社会主義国相手の殿様商売から、生き馬の目をぬく資本主義の興行界に足をふみこんだとたんに、てもなくつまず」き、「アメリカ興行シンジケートと組んだ「大西部サーカス」というゲテモノに手を出すに及んで、AFAは崩壊した」と書いている。
 竹中が書いているように、神は、社会主義相手から、アメリカものに手を出してことで失敗をしたとは言い切れない。もちろんこれもひとつの原因ではあるかもしれないが、なによりも、神と苦楽を共にしたAFAの社員の心が神から去っていったこと、それが致命傷となったのだ。


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