月刊デラシネ通信 > サーカス&パフォーマンス > 神彰 > 神彰−幻を追った男 > 第五部第十五章

『神彰−幻を追った男』

第五部
 第十五章 不信のとき

不信のはじまり−神さんから理事長へ
ソ連から中国へ
ひとりの男の退場
シャガール展−ひとつの終着点
ぼくはボタンをおした

不信のはじまり−神さんから理事長へ

 有吉への引き出物となるはずだった大西部サーカス公演は、AFA設立以来の大赤字となってしまった。結果的に神の思いは、空回りしただけだった。そしてその間にAFAの社員の心が、神から少しずつ離れていったのだ。この時のことを女子社員のひとり森五百は、それがある一言からはじまったと語っている。

「神さんが結婚してからしばらくしてでしたね。突然「明日から理事長と呼んでくれ」と言い出したんです。みんなピーンときました。有吉さんがこれを言いだしたんだなあと。私はこれがAFAの解散の引き金になったと思っています。私もそうでしたし、社員のみんな、神さんに全身全霊打ち込んでいたのです。ですから神さんが有吉さんに全て賭けようとしたことがわかった時、膨らんだ風船に針が刺さったように、しぼんでしまったのじゃないかしら。とにかくみんな会社にのめりこんでいた、こんなに生き生きと仕事をしている人たちは見たことがありませんでした。給料も安いのに、よくやっていたと思いますよ」

 経理を担当していた横岩丸枝も同じような感想を述べている。

「有吉さんが来てから、男同士の友情にひびが入ったと思いますよ。それまでは社員は、みんな「神さん」と呼んでいたんです。それをある日突然「理事長」と呼べといいはじめたのです。そのあたりからぎくしゃくしてきたのです。有吉さん自身はみんなの前で「彰、彰」と呼んでいたのですよ」

 結婚した直後に有吉は「私の新婚報告」と題されたエッセイで、「アートフレンドは野武士の集団であり、一人一人をよく見ると、みんな椿三十郎に見えてくる。神彰は、その総大将なのだ。いわば戦国時代に、私が顔を出せる幕はないし、姐御を気取るような貫祿もない。私はおとなしくいえの中に引っ込んで、小説を書いている方がやはり性に適っている」と書いていたのだが、実際はそうではなく、野武士たちのなかに割り込んで入ってきたのだ、それが神とひとつの絆で結びつけられていた社員の間に波風をたてることになった。
 特に新聞社から来た富原、詩人でもある木原、ロシア文学の工藤と石黒と、AFAの屋台骨を支えてきた幹部は、それぞれ文学に対して一言を持っていた、その意味でも侍たちだった。彼らからすれば、文壇で確固たる地位をを築き上げていた小説家有吉の存在は疎ましかったにちがいない。
 ある日酒癖の悪い石黒が、日頃の憂さを思い切り晴らしてしまう。

「神と有吉、僕と石黒とで銀座のバーで飲んでいた時だった。石黒の酒を飲むピッチがどんどんあがり、また目がすわってきた。やるかなと思ったら、案の定、有吉に絡みはじめた。それもすごい勢いだった。酔っぱらってテーブルをガンガン叩き、ついにはそれを壊してしまったんですよ。有吉に向かって「お前の小説には社会性がない」と言うんだよ。有吉も神もカンカンに怒っていた。翌日石黒はふたりの前で平謝りしていたけど、あれは日頃のもやもやしていたのを全部吐き出したんだろうなあ。あとで石黒に「有吉の小説読んだことあるのか」と聞いてみたら、読んでいないという。それを社会性がないと糾弾したわけですよ。彼は「なんとなく気に入らなかった」と言っていたけど」

 こう語る木原が、ある意味で有吉の存在を一番疎ましく思っていたのかもしれない。「木原君、木原君」と相談してきた神が、どことなくよそよそしくなってきたのを肌で感じていた。神は有吉と共に大西部サーカスのあと、中国に行っているのだが、これはそもそも木原と行く予定になっていた出張だった。木原の心に、すきま風が吹きはじめていた。

ソ連から中国へ

 大西部サーカスが帰国した1962年秋、有吉と神は、中国の国慶節に招かれて、作家中島健蔵と、日中文化交流協会事務局長白土吾夫と共に、北京を訪れている。ここで神は、毛沢東、周恩来、朱徳、のちに失脚する劉少奇ら共産党幹部と会っている。狸穴通いをし、ソ連の鉄のカーテンをこじ開け、幻といわれたソ連のバレエ、オーケストラやサーカスを呼んで旋風を巻き起こした神にすれば、国交のない中国と文化交流を実現することは、再び幻を手に入れる格好のチャンスだといってよかった。これがうまくいけば神は、また新たな歴史をつくることができるはずだった。
 周恩来首相に日中文化交流の必要性を直談判した神は、実務担当者として、りょう承志中日友好協会長を紹介され、彼と具体的な交渉をすることになる。神はこの会談で、北京曲技団、故宮博物館展、京劇の三つを日本に招聘したいと正式に申し出た。ボリショイサーカスの成功も頭にあったし、以前女優の杉村春子から、中国で見た中国の曲芸『籠脱け』の人間離れした演技のことを聞いていた神は、まずは北京曲技団を最初に日本に持ってこようと決めていた。ここで神は、北京曲技団の公演を、3カ月後の1963年2月にやりたいと、大胆な提案をする。準備期間はわずかしかなかった。神は木原に命じ、新宿コマ劇場を2月1日から24日まで予約していた。会場を予約したうえでの具体的な提案に、りょう承志は心を動かされる。来年2月に北京曲技団、8月に故宮博物館展、12月に京劇の3つの文化使節を日本に送り出すことを承諾、契約書にサインをする。
 確かにこの契約は、神にとって大きい収穫だったといえよう。未知の国中国の一流の芸術を独占的に紹介できることは、ソ連に次いでもうひとつの大きなカードを手にしたことを意味していた。しかも日中が国交を正式に結ぶ前のことである、黙っていてもマスコミが話題にすることは間違いなかった。
 しかしこの契約を締結するなか、神は大きな過ちを犯したのだ。社員の心が神のもとからはなれかけている時に、一年間で中国だけから、3本もの大型企画をひっぱってくることが、否応なく社員に過酷な労働を強いることが、どんな影響を及ぼすか、神は軽く見ていた。森が言っていたように、みんなアップアップの状態で、仕事をかけもちしながら、しかも安い給料を我慢しながら、働いていたのである。しかも1963年は、神のかねてからの大きな夢であったシャガール展も控えていたし、アート・ブレイキーの公演もある、それだけでなく、モスクワ合唱団、ボリショイサーカスの公演もあった。これをこなすだけでも、大変なことだったのに、さらに中国からの企画が加わることは、社員ひとりひとりに大きな負担になることは必至だった。しかし神は、この時この無謀と思えるスケジュールをどうしてもこなさなければならなかった。大西部サーカスで背負った負債が、あまりにも大きかったのである。自転車操業で、とにかく日銭をかきあつめる必要に迫られていた。

ひとりの男の退場

 二年前と同じようにアート・ブレイキーの正月公演から始まった1963年は、AFAにとって、仕事に追いまくられる年となった。毎月のように公演があった。こんなことはいまだかつてなかったことだった。でも仕事をしなければならなかったのである。
 この年のAFA主催の事業は、このようになっていた。

一月 アート・ブレーキーとジャズ・メッセンジャーズ公演
レオニード・コーガン演奏会
佐藤陽子のバイオリン・リサイタル
二月 アラム・ハチャトリアン指揮の読売交響楽団の演奏会
北京曲技団の公演
五月 ソ連国立モスクワ合唱団の公演
七月 ソ連国立ボリショイ・サーカスの第三回公演
八月 中国永楽宮壁画、及び元代陶磁器展
九月 アメリカのソニー・ロリンズ・クインテットの演奏公演
十月 シャガール展
十二月 中国京劇公演

 無謀であった。
 神の能力も、AFAの侍たちの能力も、これだけの仕事をこなすためには、すでに限界を越えていた。
 まずは中国からやってきた北京曲芸団の公演がひとつ目のヤマとなった。この公演の責任者は木原だった。

 「僕は北京曲芸団を担当したけど、人はよく入りましたよ。ほぼ満員だったのではないですかね。そこそこの儲けにはなったと思います。ただ中国ものということで、警備とかいろいろ大変でした。台湾特務、右翼が入り口に群がったので、警備にはずいぶんと神経をつかいました。中国側の副団長、たぶん警察関係なのだでしょうけど、とにかく日本側の警備についてはやかましかった。毎日チェック、チェックでしたね。
 それと台湾のことに特に神経をつかってましたよ。たしか台湾特務を見分けるために日中文化交流協会に100万を渡して、それをやってもらった。ソ連の時以上に、警備に神経をつかわされたものです」

 東京のロングラン公演のあと、この曲芸団は、大阪、神戸、広島、鹿児島、大分、小倉、姫路、岡山、徳島、名古屋、富山、札幌、青森、新潟と、およそ三カ月にわたって日本縦断公演をしている。
 なんとか最初の中国ものを成功させて、一息ついた時、思いがけない事件が起こる。
 北京曲芸団の全国ツアー中に、ソ連国立モスクワ合唱団の公演が始まっていた。この公演の責任者は、石黒寛であった。彼がまた酒でトラブルを起こしてしまったのだ。
 ソ連時代、来日する一行には、必ずアーティストを管理するためKGBの人間が随行していた。来日中にアーティストが、亡命などしないように監視することが目的であった。彼らは、副団長という名目で一行に加わっていた。これは公然の秘密であった。
 熊本公演の時の打ち上げの時に、石黒はこの副団長に酔っぱらって「お前はKGBだろう」と絡んでしまったのだ。有吉に「お前の小説は社会性がない」と言って絡むのとは訳がちがう。激怒した副団長のKGBの役人は、大使館にこのことを報告する。大使館はすぐに神と木原を呼び出し、今度の事態はきわめて悪質であり、いままでのAFAとソ連との関係を損ねるもので、大使館として厳重に抗議すると共に「AFAが今後もソ連と一緒に仕事をしたいのなら、石黒の解雇を要求する。解雇しないというのなら、外交問題として政府に抗議する」と通告される。
 この強硬なソ連側の態度に、神には抗する手だてがなかった。石黒を解雇することを、神はこの場で約束したのである。
 石黒に引導を渡したのは、またしても木原であった。木原にすれば、石黒はAFAのなかでも、入社時期もほぼ同じで、馬も合い、信頼を寄せていた盟友でもあった。

 「石黒に引導を渡す役割は、僕がしました。今度ばかりは酒の失敗と言って済まされる問題でないことは、石黒が一番知っていました。覚悟はしていました。彼からすれば、クビという決定を受けざるを得なかったわけです。ただ、こんなことも言っていました。『ダメかも知れないけど、ハチャトリアンに相談しようか、彼だったらなんとかしてくれるかもしれない』とね」

 ボリショイバレエやサーカスを呼ぶ時、大きな戦力となった石黒の退社は、AFA斜陽にさらに拍車をかけることになった。身からでた錆と言ってもいいもしれないが、この時神も木原も彼の退場を黙って見守るしかなかったのである。
 石黒事件は、AFA崩壊のプロローグだったかもしれない。このひとりの男の退場が、数カ月後の木原たちの反乱へと繋がっていくのである。
 夏休み、ボリショイサーカスがまたやって来たが、さすがに柳の下にドジョウは三匹いなかった。社会的なブームとなった前回のキオの大魔術のようなアトラクションもなく、各地で不入りが続いた。この公演の責任者外国部長工藤は、団側への支払いの時は、いつもヒヤヒヤものだったと語っていた。

シャガール展−ひとつの終着点

 1963年9月30日上野の国立西洋美術館で、高松宮殿下をはじめ、600人の外交、美術関係者が出席するなか、「シャガール展」の開会式が行われた。十四ヶ国、二十二の美術館、八十一所蔵家、一寺院から集められた四五一点のシャガールの絵画を集めたこの展覧会を実現するために、神は、およそ七年間交渉を重ねてきた。画家を志した彼にすれば、いわば幻の集大成ともいえる事業であった。
 高松宮殿下が開幕のテープをカットするのを見て、神には格別な思いが込み上げてきたにちがいない。シャガールこそが、神に絵筆を折るきっかけを与えたのだから・・・
 彼は『幻談義』のなかで、シャガールの絵を最初に見た時の衝撃をこう書いている。

「画家という芸術家を夢見て上京した私は、シャガール、モジリアニを一目見て唖然としたものである。青年が娘と抱き合って空中に遊び、愛をささやいている幻想的な絵をシャガールはすでに描いていた。そして、人物の眼を青一色に塗りつぶし、眼の玉を描くことを拒否したモジリアニの絵は、現世に絶望して来世に生きる人間像を描くことのみが命のかけがえであったのだろうか。「頬笑み」と「哀感」の両極ともいうべき二人の作品を前にして、それまでの独創的であると自負して構築してきた内的宇宙が、音をたてて崩れた。悲惨の奈落に落ち、身が破滅するまで打ちのめされて、止むなく絵筆を折った人間が、こんどは芸術往来の手助けをするのは、私にあたえられたふさわしい道なのかもしれぬ」

 神が呼び屋への道を歩むきっかけをつくったこのシャガールの『町の上の恋人たち』も今回、ソ連のトレチャコフ美術館から特別に出品されていた。
 世界各国の美術館からシャガールの絵をかき集めることができたのは、神の依頼を受けて、さまざまな美術館と実際に交渉した美術評論家の瀬木慎一の功績であった。当初は無理だと思われたソ連が所蔵していた、海外にまだ出したことのない八点の初期の作品を出展するために、彼は粘り強い交渉をし、とうとう日本に持ってくることに成功した。
 神にすれば、若い時に画集で見た『町の上の恋人たち』を日本で、こんどは実物と再会できたことに、ひときわ感慨深いものがあったはずだ。しかも会期中の十一月六日には、初めての子供玉青が誕生していたことが、さらにこの絵に対する思いを深める。
 この絵には、空中高くとんでいる男女二人が固く抱き合っている姿が描かれている。ふたりの下には、シャガールの生まれ故郷ヴィテビスクの町並みが見える。なによりも微笑ましいのは、塀の隅で小さなお尻を出して小便をしている女の子の姿だ。この少女が、神に生まれたばかりの玉青の姿に重ね合って見えてくる。神はのちにこんなことを書いている。

「 誕生したばかりの玉青もこの一枚の絵のように、幸せな恋人に出会い、空までも、どこまでも一緒になって離れないあたたかい心の絆で結ばれる幸せな女性になることを願う。」

 この時来日していたシャガールの娘イダは、幸福を運ぶ鳥、コウノトリを描いたシャガールの絵を、玉青のためにサインを入れて、山王病院の産室へ届けてくれたという。
 神の片腕、木原も、このシャガール展に全力を注いでいた。北京曲芸団の公演が終わったあと、木原は連日徹夜をかさねながら、図版制作に没頭していた。
 展覧会は大成功に終わった。東京のあと、京都でもこの展覧会が開かれているが、評判が評判を呼び、連日人が押し寄せた。木原が心血注いでつくった図版も、全部売り切れてしまった。
 木原自身一冊だけは、大事に保管していたのだが、誰かに貸してしまったあと、なくなってしまったことをとても残念がっていた。
 このあとシャガール展は日本でもなんどなく開催されているが、これだけの規模で初期から晩年までの作品を網羅した展覧会はなかったといわれている。
 シャガールに対する神の思いを知っていた木原にとって、AFA主催で、これだけ中身の濃い展覧会が開けたことは、大きな喜びとなった。そしてこれで終わりという思いも抱いていた。
 神が夢見た、そして木原も身を粉にして実現したシャガール展が、AFAのひとつの終着点となった。
 大成功に終わったこの展覧会のあと、AFAは解体の道を歩むことになる。

ぼくはボタンをおした

 木原は疲れ果てていた。ひとつのケジメをつける時がきているのではないか、そんな思いにとらわれていた。共産党員であった木原は、激化していた共産党の路線対立に巻き込まれていた。1962年2月共産党は、新日本文学会員であった野間宏、安部公房、花田清輝らを、反党活動を理由に除名するが、このなかに木原も含まれていた。
 共産党の変質、さらには神に対する不信感が募るなかでの、AFAの経営不振、それにともない、ますます仕事はきつくなる一方だった。ストレスがたまると酒量も増えてくる。身心ともに疲れ果てていたのだ。もう限界だろう、潮時だろうという気持ちが強くなってきた。そんな思いを、木原は一編の詩に託していた。この年『現代詩』に発表した『ぼくはボタンをおした』を紹介したい。

               1
それから そのとき
ぼくは ボタンをおしたのだ
宇宙の陰と陽 男と女
ブルジョワとプロレタリアート
死者と生者 ソ連と中国
御用詩人と非御用詩人
そして それから
何より
ぼくじしんの魂の 誠実と狡猾
ブチこわしてしまえ その亀裂の癒着した内蔵
マヤコフスキイが挫折した その精神のハイウェイの再建設
だから ぼくは ボタンをおしたのだ
発射!
               2
そのとき、何がおこったろうか?
十五万六千人が銃殺または拷問で死に
五万二千人が重傷を負い
六十七万二千人が拷問で不具になり三十七万人が千余の拘置所に長期収容され
数千の婦人がはずかしめられ
三千人が腹を裂かれ 内臓をえぐられた
南ベトナムの仏教徒はいま・・・・
その日 日本では
六万人が東京多摩湖畔にあつまり
すばらしい!アカハタ祭りだった
「総選挙大躍進タマゴ」がとぶように売れ
みんなニコニコ顔だった
みんなニコニコ貯金の商標みたいに
じつに みんなニコニコしていた
               3
ぼくは 何をしていたろうか?
シャガール展京都開会式に ジャン・カスーとイダがくる
四ヶ月ぶりに ボリショイサーカスが小樽港から帰国する
中国永楽宮壁画展の地方交渉をしながら
ヨガにこって行方不明の
ソニー・ローリンズをさがしていた
それから
マイルス・デヴィスと 中国京劇とインド大魔法の宣伝プランを練っていた
あまりに疲れ果て また大酒を飲んだ
深夜二時 カミさんの前に手をついてあやまっていた
じつに革命的でない
               4
誰もがみな その時 自分の道を生きる
主流に生きる 反主流に生きる
昼を生きる 夜を生きる
ナサケないことに いつも
ぼくは くらやみを生きる
くらやみのなかに ぼくは見つづける
マルキシズムの樹氷!
まず 十メートル四方を組織せよ
歩きだすために
アメリカ ソ連 中国 フランス
すべてが いま ぼくの掌中にある
世界の敵と味方が そのまま
ぼくの一メートル前方にいる
背後にいる
だから そのとき
ぼくは ボタンをおしたのだ
敵は あいつだ
発射!」

 木原は、AFAに別れを告げるために、そして神と別れを告げるためのボタンを押すことになる。もしかしたら木原はその時誰が、敵だったのか、わからないままにボダンを押したかもしれないのだが・・・


連載目次へ デラシネ通信 Top 前へ | 次へ