月刊デラシネ通信 > サーカス&パフォーマンス > 神彰 > 神彰−幻を追った男 > 第五部第十六章

『神彰−幻を追った男』

第五部
 第十六章(最終回) 破綻と破産

内乱勃発
仲介の動き
電撃離婚と倒産
離婚と破産についての声明
離婚の本当の理由
木原の後悔

内乱勃発

 シャガール展が始まってまもなく、神は中国へ出張する。翌年1月から始まる京劇の最終交渉をするためだった。帰国し事務所に戻った神を待ち構えていたのは、富原、木原、工藤ら三人の幹部から突きつけられた不信任状だった。1963年11月8日のことである。神はのちに、この日のことを決して忘れることができないと書いている。

 「理事長が帰ってきたのに、ことばをかける人はいない。訝る私に、やがて彼らは無言のまま、文書を突きつけた。
「なんだ、これは」
 眼を通すと、どうやら不信任状らしい。例の彼らの難解な文章だったからか、あるいは、私の頭が混乱していたからかもしれない。とにかく、咄嵯には文意を完全に理解することはできなかった。
「なにが不満なのだ。君たちを信じてきたし、留守中のいっさいを託してきた仲じゃなかったのか」
「問答無用です。書面で回答してください」
 そのことばどおり、あとは何を話しても返事はない、眼の前に迫った京劇公演の準備は、まったくなされていなかった。
 なんのことはない。ストライキである。私は蒼ざめた。公演準備のボイコットはまあいい。私の恐れていた最悪の事態が訪れたのである。足許が崩れることは、いかなる強敵に襲われることよりも恐ろしい。いや、それより惨めである。
 考えてみれば、毒にも薬にもなる人たちであった。さすがは火焔ビン闘争のころから、地下活動期に至るまでの間を、代々木で鍛えられてきた勇者たちである」(『怪物魂』より)

 神はここで、「代々木で鍛えられてきた勇者たち」と複数形で書いているが、この中で共産党員だったのは、木原だけである。誰よりも信頼をおき、片腕と信じ、兄弟と思っていた木原が、叛乱の先頭に立っていたことに、神は大きな衝撃を受けていた。
 木原は、好んで叛乱の旗を振ったわけではなかった。
 やむを得ず、立ち上がり「ボタンを押して」しまったのだ。
 木原を兄のように慕っていた運転手竹中は、車のなかで神と有吉の会話を耳にするうちに、危機感を抱きはじめる。

 「有吉さんが、神さんにけしかけていたんです。文士くずれの幹部連中を辞めさせろってね。財団法人なんだから、あんな人たちはいらないって、言っていたんです。これは大変だって、木原さんに言ったわけです」

 経理を任されていた横岩丸枝も、神と有吉のプライベートな会話を耳にする機会が多かった。そしてやはり何度となく、有吉が神に対して、AFA幹部たちを追い出すよう進言していたのを耳にしていた。

 「有吉さんが『あんなくだらん連中と一緒にやっていっていいの、ちゃんとした団体にして、文学くずれをやめさせろ』と言ってました、『木原さんこれでいいんですか』って、私は言いましたよ」

 このふたりの話を聞いて、木原は重い腰をあげる。行動にうつると、さすが元共産党員である。妥協など許さない、徹底抗戦に出る。木原はいつのまにか叛乱軍のリーダーになっていた。

 「神ひとりがもうけているという思いは、誰もがもっていたはずです。
 神だから歯向かえたんですよ。
 自分としては賃上げ闘争なのだから、きわめて民主的だったと思ってます。社員向けのビラもつくりましたよ。一種のストライキでしたね。京劇について、マスコミから問い合わせがあってもノーコメントを貫きました。マスコミもなにかあるのではと勘繰りはじめたね。事務所で演説もしたなあ。この時机の上にあった鉛筆削り用のナイフを手にしながら話をしたらしいのですが、このことを神は、木原はナイフで脅したと、皆に言い触らしたらしい。
 ただね、忘れられないんですよ。当時事務所に、駐車場へつながる階段があった。穴のように見えるんですがね。そこを函館から連れてきたドライバーと一緒にすごすごと下りていく神の後ろ姿がね、いまでも目に浮かびますよ。寂しそうだったなあ」

 木原とともにAFAを辞めることになる宮川は、こう語っている。

「すべては、大西部サーカスの失敗が原因です。神さんは、ロシア派が中国ものに対する反発から始まったように『怪物魂』で書いてますが、それはないですよ。やはり有吉さんと木原さんたちとの確執じゃないですか。神さんは、いつも企画に関しては、必ず事前にみんなに相談してました。場合によってはやめることもあったんです。でも大西部サーカスだけは独断ですすめてましたからね。また木原さんや工藤さんには、物書きの先輩の意地もあったかもしれませんね」

 この内紛で、神側についた大西部サーカスの担当者、東の見方は少しちがっている。

 「儲かっていたんですよ、実際は。幹部連中は、それを自分たちが稼ぎだしたもので、神さんが独り占めにしているという不満を持っていたのです。それを幹部連は、書面にして神さんに要求をつきつけたわけです。木原さんを中心にした古参組は、理想ばかり追い、現実を見失っていたんじゃないですかね。この時、古参組と若いグループとふたつに分かれましたね。私は、神さんにつきましたよ。このままだと金はもらえなくなるんじゃないかと思いましてね、それが神さんの側についた理由です」

仲介の動き

 京劇公演の主催者読売新聞社の担当責任者村上事業部長と、日中交流協会の白土事務局長は、AFAでおこった内紛劇を知り、慌てる。このままでは公演そのものに影響するということで、ふたりは仲裁に乗り出した。
 木原は、白土がつくった調停案と、それに対する自分たちの和解案の文書をいまでも持っている。

「調停案(白土案)
一、理事長は協会の経営方針について、可及的すみやかに職員に対し、十分説明する。
二、理事長は職員の給与及び退職金等の制度について合理的な案を作成し、可及的すみやかに職員に対し提示する。
三、職員は直ちに平常の業務につき、秩序を重んじ協会の不利益になる言動などを、一切行なわない。」
「白土案にたいする職員団の調停案
一、理事長は理事会ならびに職員との交流を強化し、民主的運営をはかる。
二、理事長は、過去の経営実体の解明と、現在及び将来の実行方針としての経営方針について、可及的すみやかに、具体的に、十分に説明する。
但し、職員が直ちに平常の業務につくために、現在当面している諸方針は、直ちに解明されなければならない。
三、理事長は、直ちに職員の給与の増額、給与及び退職金等の制度について、職員の十一月七日付、八日付、十一日付申し入れ書ならびに十二日付決議書に表明された職員の真意を十分に考慮した案を作成し、職員にたいし提示する。
四、職員は、第二項但し書にいう解明によつて直ちに平常の業務につき、秩序を重んじ、協会の不利益になる言動などを、一切行なわない」

 結果的には、幹部社員の給料は据え置き、他の社員は賃上げということで、ストライキは終結した。しかし両者の溝が埋まったわけではなかった。
 富原と工藤は、すでにAFAを辞め、自分たちで会社を設立する準備を進めていた。ふたりは木原をこの新会社に参画するように誘った。
 木原は、ふたりに呼ばれて喫茶店でこの話を聞かされたことが、大きな運命の曲がり角になったと振り返っている。

 「あの時ね。ふたりに呼ばれて喫茶店に行ったことが、いまでも悔やまれてならないのですよ。あんな誘いにのらなければ良かったってね。辞めるつもりだったし、この仕事から足を洗うつもりだったんですよ。でもね、結局誘いに乗っちゃったんだなあ」

 一方神は、この木原だけは、なんとか引きとめたかったし、引きとめることができると思っていた。木原は、神にとって片腕、なくてはならない存在であった。武者小路実篤の娘婿で、いつも一緒に飲み歩いていた武者小路侃三郎が、間にたった。神は侃三郎に、玉青が生まれたお祝いに、木原を自宅に連れてくるように頼んだ。

 「侃三郎に連れて行かれ、神のところにいきました。玉青さんが生れた時でした。この時神と少し飲んだのですが、辞めないでくれと頼まれましたよ。皆を煽ってきたわけですからね、いまさら僕だけ辞めないっていうわけにはいかんでしょう。そう言いましたよ。なんか言いたそうな顔をしてましたがね」

 1963年12月21日木原、富原、工藤の三人が辞表を提出する。前日が給料日だった。神は『怪物魂』でこう書く。

 「私は引き止めなかった。もちろん、私は長い間、それでも彼らを信頼してきた。不満があればいえばいい。そういう機会はいくらでもあった。それを彼らは談合を拒んで文書をつきつけてきた。その点を私は我慢がならなかったのである。
 しかしそれでも私は、円満退社であることを確認したうえで、規定の退職金を払った。 すると残りの課長たち数名も、つぎつぎに辞表を出しては、退職金を懐ろにして去った。」

 木原が辞表を提出したとき神は、乃木大将が明治天皇に辞表をだしたとき、朕はどこに辞表を出したらいいんだと言った話を持ちだして、自分の辛い気持ちを吐露しながら、最後まで引きとめようとしたという。
 AFAを支えてきた3人の幹部が、辞めたことで、実質上AFAは解体したといっていい。まもなく宗像、宮川、竹中、横岩ら6名も辞表を提出した。
 去っていった社員たちのことを気にかける時間などなかった。神は、とにかく京劇の公演を乗り切らなければならなかった。

 「まさに、てんてこ舞いだったが、ついに京劇公演の準備は、危機一髪でできあかった。造反者に造反したスタッフのおかげであった。いま、その名を書きとめて私の謝意を表する。関口博、三上滋之、大川弘、東道輝、田中綾子、前田千枝、安東五十美、森五百である。」

 このように『怪物魂』で、神はこの時残った若い社員たちの名前をわざわざ全部あげ、感謝の言葉を述べている。
 脱退組は、富原孝を代表にした会社「芸術交流協会」を設立、最初の仕事として「ピカソ展」を開催することを発表した。スタッフには、「ピカソ版画展」、そして「シャガール展」をコーディネイトした美術評論家瀬木慎一が加わっていた。
 かつての盟友たちに裏切られただけでなく、自分が可愛がってきたブレーンのひとりが寝返っていたことに、神は呆然となる。そして腹の底から、怒りや憎しみがわきあがってく。しかし彼に怒りをぶつける余裕はなかったのである。AFAの台所は文字通り火の車になっていた。大西部サーカスの失敗から、借金はかさむ一方で、毎月手形を落とすために、神と有吉は金策に走り回っていた。そしてこの叛乱劇である。9人が脱退したあと公演した京劇とインド魔法団で、赤字はさらにふくらみ、傷口を広げる結果になった。神の金策には、限界があった。こうなると売れっ子作家有吉が唯一の頼りとなる。彼女の口添えで、小学館と集英社から、それぞれ二五〇万円を借りるほか、東急からも二千万円の融資を受けるが、興行の宣伝にかけた膨大な経費の手形がおちるころには、それでも足らず、軽井沢の別荘、さらには赤坂の自宅を処分せざるを得なかった。
 いつ倒産してもおかしくなかった。
 しかし倒産の前に、神はまず有吉との関係を清算しなければならなかったのだ。

電撃離婚と倒産

 1964(昭和39)年5月29日、東京都港区役所赤坂支所に、神と有吉の協議離婚の書類が提出された。
 このふたりの離婚については、6月19日毎日新聞が社会面で「有吉佐和子さん離婚−神彰氏と教会の誓いから二年余」という見出しで、スクープしている。
 記事ではふたりの離婚の原因が「神氏の事業の失敗」で、「負債は二億円」と報じている。そして有吉の親しい友人のひとりで、ふたりが再会した中央公論の座談会にも同席した吉田史子の、「彼女が『このエンゲージ・リングを彼のところに届けてよ』と私に冗談めかして頼んだことがありました。彼女の場合『騒がれた結婚』だっただけに、離婚は避けようと努力していたんです。でも性格の相違で、どうしようもなかったんですね」というコメントを載せている。
 これに対して、有吉は次のような声明を発表している。

 「6月19日付の某新聞紙上に私ども夫婦の離婚問題が、スクープの形で社会面に掲載されましたが、その記事のなかには事実とちがう個所がいくつかあり、私は、新聞記者に対してきわめて不信感をもった。それで、新聞、雑誌そのほか、いっさいのインタビューには応じないことにした。
 私は作家だから、この問題については自分の筆で自分の立場をあきらかにするつもりです」

 有吉が「強引に結婚し強引に離婚した男−神彰氏の妻が初めて公表する離婚のいきさつ」を『週刊文春』に独占特別手記を掲載するのは、6月26日のことである。
 離婚届けが出されてから3週間後、この記事がでる三日前の6月16日、AFAは360万円の不渡を出し、倒産する。
 AFAは、印刷会社に2400万円、運輸会社に710万円、ホテルに445万円、その他合計9千万円の不渡り手形を出すほか、2900万円の国税滞納金をはじめ、借り入れ金が2億円近く残ったままだった。

離婚と破産についての声明

 1964年6月22日発売の『週刊新潮』に「離婚と破産についての声明」と題された神彰の特別手記が掲載されている。

 「長い間、私は沈黙して来た。長い歳月信頼して一切を任せ、私の片腕だ兄弟だと思っていた連中に裏切られ、彼らに言いたい放題を云われたり書かれたりしながら、しかし一流誌はどれも大きく扱わなかったので、その必要もないと思い、男は言葉などで泥仕合をするものではない、仕事で闘えばいいのだと思って私は沈黙してきた。・・・・
 が、遂に書くべきときが来たのだ。私に好意をもち支援してくれた多くの人々のために、また芸術を愛する総ての人々のために、私は事実を書くべきときが来た。その人たちに知ってもらわなけれはならないときが来たから。」

 こうした書き出しではじまる手記で、神は、AFAを去っていった部下たちに対して、激しい怒りをぶちまけている。
 片腕と信じ、また兄弟分とも思っていた仲間に、突然文書を突きつけられ、売上金を押さえられた上、京劇の準備に忙しいさなかに、ストライキまでやられ、あげくのはてに、給料日の翌日に辞表を提出され、「各新聞社や各雑誌社にわれわれの間の往復文書をバラまいたり、私が財団法人を私物化し、収益を着服しているなどとかいたり、しゃっべったりした」と彼らの裏切り行為を働いたかをならべたて、非難をする。特に面倒を見ていた瀬木慎一と片腕だと信じていた木原に対して集中的に攻撃を浴びせている。
 「芸友協会」という会社が、その一回目の仕事にピカソ展をしていたことに、神は怒りをぶちまける。

 「アート・フレンドは英語なので中国では日本国際芸術交流協会という訳名を使った。木原君たちは、まず、この名称を半分盗んで会社を設立し、更に呆れたことにはアート・フレンドの仕事も盗んでいた。
 いまやっているピカソの油絵展がそれだ。私は、瀬木慎一君までが、彼らと呼応して、偸盗を働くとは思わなかった。」

 さらに神は、AFAが倒産に追い込まれたのも、彼らの陰謀だときめつけている。
 「AFAは、予定していたピカソ展もドン・コサック合唱団も、彼らの悪辣な陰謀によって奪われ、三ヶ月の空白を埋める金融の力尽きて遂に解散した」というのだ。
 神は声明文の最後の方で「アート・フレンドは木原君たちに倒されたが」と、AFAが倒産したのを、木原のせいにしている。
 木原は反乱軍のリーダーとなったのだから、このように矢面にたたされることはしようがないと思うが、あれだけ信頼していた男を、ここまで罵倒したことは、あとあとまで尾をひくことになる。木原にはどこかで、「神だったら俺の気持ちがわかってくれる」という気持ちをもっていた。
 しかし木原は、この原稿を新潮の知り合いから、生の原稿を見て、衝撃を受ける。

 「すぐわかりましたよ。これを書いたのが誰かをね。神の字じゃない。有吉が書いたものです。」

 ここにいたっても神は有吉の言いなりになっているのか、木原は神に裏切られた気がした。激昂した木原は、神に対してさらに露骨に歯向かっていくのである。泥仕合のはじまりであった。
 神のこの手記が掲載されて一週間後に、前述したように今度は有吉佐和子が、「強引に結婚し強引に離婚した男」という特別手記を寄稿している。
 その中で有吉は、直接名前を出していないが、AFAが倒産した原因は、神の取り巻き連、つまり木原たちにあったとしている。

 「彼の事業不振の原因については、「大西部サーカス」の失敗から、叛乱軍の悪質な妨害、それから誰それの背信と、様々に云われているけれども、私は今はひとりの作家として冷静にその遠因を見ている。それは彼の身辺には、あまりにも見識のない人間が多すぎたということである。
 経済が思想を生むという言葉通り、彼のまわりには景気のいい彼に太鼓を叩いて、チヤホヤする人間ばかりで、彼を諫めたり戒めたりする者がいなかった。気前のいい彼は人に金品を与えることが大好きで、みだりに振る舞うところがあったが、もらう筋がないといって突き返したものが、私の知る限りでは一人もいなかった」

 神と有吉から裏切り者の烙印を押された木原は、「週刊大衆」でのインタビューに答え、新会社設立の動機は、本来の財団法人AFAのほかに、神と有吉を取締役とする、同じ名前の株式会社をひそかにつくって、借入金を操作し、AFAを私物化したことへの不信であったことを暴露している。これを踏まえて芸友協会は、6月26日神彰を名誉毀損で告訴する。
 AFAが二億円もの負債を抱えて、倒産したことよりも、マスコミは神と有吉の電撃離婚の謎を追いかけ、さらにはかつての盟友たちとの泥仕合を報じることになる。

離婚の本当の理由

 話が前後するが、ふたりは何故離婚という道を選んだのだろう。
 当事者である神と、有吉の手記(これはもしかしたらふたつども有吉が書いた可能性はあるのだが)を読むと、ふたりはいまでも愛し合っているのだが、離婚という道を選択せざるを得なかったことになっている。
 離婚を切り出したのは、神からだった。
 「AFAが倒れたいま、私に彼女の夫でいられる資格があるだろうか。私は男として、自分に彼女の夫である資格を認めることができない。ゼロになった私でも、女房に養われながら再起の日を待つのは、男の意地が許さない。子供にだって父親として顔向けはできない」と神は書く。
 こうした神の「突然の一方的な離婚の申し出」に逆上した有吉は、「倒産が間近いと見越し、私にこれ以上の迷惑をかけたくない」という申し出に、「その必要を私は全く認めることができなかった」といい、この押し問答を三日も四日も続けたあげく、「彼の愛が冷えたわけでない」と認めたうえで、「結局、私は強引に押しまくられて、彼から離婚された」と、有吉は書いている。
 有吉が出産後ようやく書き上げた小説『非色』に手を入れているとき、神はスーツケースを提げてひとり家をでた。有吉は手記でこの場面をこう書いている。

 「私に『さよなら』も云わず、家の客たちは何ごとも気がついていなかった。私が玄関をあけたときには、彼の姿はもう見えなかった。不渡り手形の出る日であった」

 このふたりの手記がでたあと、「才女有吉佐和子の愛ある離婚!?」、「作家をつくりそこねた男と、妻になりそこねた女」、「偽装離婚の渦巻く神・有吉の周辺」などと、週刊誌各誌がこの離婚をとりあげ、その原因についてさまざまな憶測をまじえ大きく報じることになる。
 莫大な負債を背負った男が、作家である妻に迷惑かけないために、ひとり静かに立ち去る。妻は、そんな夫を愛しているからこそ、彼の言い分を聞いて、離婚届けに泣く泣く印を捺した、これがふたりの離婚の真相だとされた。だからこそこのあとも何度となくふたりの復縁説がマスコミで流されることになるのだが、実際には、ふたりのあいだにこうした美談だけでは終わらない、しがらみのようなものがあったように思えてならない。
 有吉は、その声明文のなかでこんなことを書いている。

 「神彰と私は離婚する必要はなかったのに、別れなければならなかった。私が少々名の売れた作家であり、稼げる女である故に。」

 この言葉がふたりの離婚の原因の核心をついているように思える。
 有吉はこの時、新進気鋭の女流作家として、まさにのぼり坂の真っ只中にあった。彼女にとって一番大事なことは、いい小説を書くことであった。作家という職を自ら選択した人間にとっては、当然のことだと思う。神と出会い、この人だったらひっぱってもらえるかもしれない、そしてそれが糧となりいい小説も書けるかもしれない、これが他の男との婚約を破棄してまでも神と結婚に踏み切った最大の理由だった。しかし神が興行という世界で、カリスマ性を失い、借金に追われ、人間関係においても反逆分子を抱えてしまったことを知ったとき、ひっぱられるはずの自分が、逆に夫をひっぱらなくてはならない立場に追い込まれていた。このままでは小説家としての自分もダメになるという危機感が、有吉にあったはずである。彼女は、神という成り上がりものの限界を、小説家として冷静な目で見抜いてしまったといえるかもしれない。これ以上ふたりの関係を続けることは、有吉にとっては、マイナスになることはあっても、決してプラスにはならない話であった。
 しかし彼女は、二年前にほかの男性との婚約を破棄して、神と電撃結婚をしていた。自分から見切りをつけたとは、言えなかったのではないだろうか。
 神はまだ有吉に未練があったはずだ。ただこれ以上同じ籍に入っていることは、莫大な借財を抱えるなか、気鋭の作家としてこれからの活躍が約束されている有吉を巻き込むことになる、これ以上彼女の未来を邪魔したくない、そんな思いがあった。なにせ有吉と結婚する時に、好きなだけ小説をかけばいいと約束していたくらいなのだから。
 ふたりを結びつけていた赤い糸は、神がスーツケースを提げて、赤坂の家を立ち去ったときに切れてしまった。マスコミがふたりの復縁を何度となく報じるが、ふたりを結びつけたこの糸は、二度と絡み合うことはなかったのである。生まれたばかりの娘の玉青は、神の籍にそのまま残るが、有吉が引き取り、育てることになった。
 ふたりの愛憎のドラマの第二章は、ふたりの間の愛をめぐってではなく、この愛娘玉青をめぐって展開されることになる。

木原の後悔

 憎まれ役を一身に背負ったのが木原だったといえるかもしれない。木原になんどか取材するなかで、一番印象に残っているのは、彼が神に拳をあげたことに対して何度も何度も、後悔の念を吐露していたことだった。

 「疲れていたんですよ。もう辞めようと思っていた。実際に潮時かなという気になっていた。そんな時に、ちょっと相談があると富原と工藤に誘われて、喫茶店に行ったんだなあ。ふたりはAFAに見切りをつけて、新しく会社を起こす話をしていた。これにのってしまったのが、すべてのつまずきだったと、いまでも思うね。やめとけばよかった。あっさり自分が辞めておけばよかったんだよな」
 「いまだに悪いことをしたと思っている。あの時喫茶店に行って、富原とか工藤の話にのらなければよかった。やめるつもりではいたけど・・・
 神のおふくろさんにも悪いことをした、せっかく一緒に東京で暮らしていたのに。あのあとおふくろさんは函館に引っ込んだわけだよね。
 神のお母さんがつくってくれたキャベツの漬け物はおいしかった。いいお母さんだった。自分が歯向かわなければ、どうなったのだろう。平和にうまくいっていたのに、自分がぶち壊してしまったのではないかと思う時があるんですよ。富原と工藤の誘いに乗って、あの時喫茶店に行ったことが、すべてをダメにしたのではないかってね。
 神がすごすごと、しょぼくれた姿で事務所から出ていくのを見て、ショックを受けたですよ。
 いまでもね、神に悪いことしたって、思う時があるんだなあ」

 いつもこのときの話になると、木原は、辛そうな顔をして、なんども「あの時喫茶店で、芸友の話に乗らなければ」と言っていた。
 横岩丸枝を取材したとき、この話をしたら、横岩は、「木原さんはちっとも悪くない、そんな風に思っているなんて・・」と言ったきり、黙ってしまった。
 木原も神も、互いに本当に分かり合える関係にあった。友だちだった。友情にヒビが入ることだってある。よくあることだ。そして時間をおけば、またヨリが戻ることもよくある話だ。ただこうした泥仕合になったことが、ふたりがまた会うまでの時間を引き延ばす、しこりを残してしまったことは確かであろう。
 神はこの声明文の最後でこう書いている。

 「私は「呼び屋」としての私の任務は終わったものだと思っている。誰もができない困難な時、私は文化交流を始めたのだ。印度、アメリカ、フランス、イタリア等と、国交回復以前に、ソビエトとも、中国とも私は政府の代わりに日本を代表してやってきたという自負を持ってきた。だが、もう誰もが出来る時代が来たのだ。個人の時代は去った。
 だが、この道を切り拓いたのは私だ。アート・フレンドは木原君たちに倒されたが、しかしこの九年間にわたってアート・フレンドが成し遂げた「芸術に国境なく愛し合う」この仕事が多くの人たちに受け入れられて、人々の心に実ったバックボーンまで倒すことは出来ないだろう」

 確かに神のような一匹狼の呼び屋の時代は終わりを告げようとしていたのかもしれない。木原たちが辞めた翌日、1963年12月22日の毎日新聞に「“呼び屋”戦線異状あり」という記事がでている。

 「(1963年)四月から芸能人招へいに関する外貨使用の制限が一部緩和された。一般公演を行うものは五千ドル、ナイト・クラブなどにしか出演しないものは二千ドルを支払えるようになった。その結果“あなたも呼び屋がやれる”というわけで、新しいプロモーションが数多く誕生、この世界は戦国時代を迎えたのである。
 当然、外来タレントの数は多くなり、クラシック70件、ポピュラー80件くらいのアーティストが日本を訪れている。昨年の二倍に当たり、二日ごとに新しい外来演奏家を迎えた計算になる」

 外貨枠の規制緩和、さらには1964年に開催される東京オリンピックをあてこんで、海外のアーティストの来日ラッシュが続く。呼び屋の興行戦争が激化するなか、スワン・プロモーションなど、大手の呼び屋が次々に倒産していった。
 そして呼び屋の戦国時代のなかで、竹中労が「乱世の梟雄」と呼んだ神彰も、倒れていった。
 竹中は、AFAの倒産についてこう書いている。

 「神の魔力は、彼の事業が『国境をこえた』とき、消え失せた。社会主義国相手の殿様商売から、生き馬の目をぬく資本主義の興業界に足をふみこんだとたんに、てもなくつまずいた・・・
 神は、一流ごのみだった。・・・
 それは、いうならば劣等感を裏がえしたゴンゴリズム(事大主義)であった。羅漢や石臼にかこまれ、呼び屋神彰は、壮大で無意味な空中楼閣を−虚妄の巨人伝説を描いてみせた」

 そして二億円もの負債を抱えたこの倒産を、竹中は「華麗なる呼び屋の終焉であった・・・」と書いている。

 ソ連という大きなスポンサーに飽き足らず、欲をかいてアメリカに目を向けたとき、神、そしてAFAは崩壊の道を歩むことになったという竹中の説は一理あるが、それ以上に大きな原因があった。それは、神というカリスマを中心に不思議な団結力をもっていた集団AFAが、内部崩壊をしてしまったことだった。確かに道を切り拓いたのは神彰個人かもしれないが、それを実現していったのは、AFAという集団、神彰という男に夢を賭けた若者たちの集まりだった。神という男と一緒だったら、自分たちの夢も実現できる、そんなひとりひとりの力が集積したからこそ、AFAは一時代を画すような仕事ができた。神のためにやっているといいながら、実はひとりひとり自分たちの夢を実現していたのだ。しかしそれが神のためだけの仕事になったとき、みんなの心は自然に神から離れていく。これは俺たちとは関係ないとでもいうように。
 神と有吉との結婚、そしてその結婚の引き出物ともいえる大西部サーカスの企画を神が単独で決めてしまったことが、社員のなかに、そうした気分をつくりだすことになった。 大西部サーカスの大失敗が、それに拍車をかけた。それまでは失敗しても、なんとか次の仕事で取り返すという活力や企画力をAFAはもっていたはずなのだが、あまりにも大きな借金にたじろぎ、なんとかしようという前に、この企画をたてた当事者神に責任を負わせることで、この場を逃れようとしていたのだ。みんなの気持ちがバラバラになり、この苦境に誰も立ち向かおうとはしなかった。すべては神の責任ということで、済ませようとすれば済ませられたからだ。自分たちの夢を実現するために逆境のなかで闘うことでなく、夢を賭けた男に見切りをつけて、楽な道を選んだといえるかもしれない。
 もうひとつは、神の幻が霞んでしまったことにある。いままで神を突き動かしてきたもの、それは幻を追うことだった。幻があったから、それを実現しようとして彼は必死になっていた。ドン・コサック合唱団、レニングラートフィル、シャガール展、誰もできないものを神は呼ぶことに生きがいを感じていた。それは自分の心の底から求めていた幻であったはずだ。それが呼び屋として名声を勝ち得るなか、自分ではなく、世間が求めるもの、それを幻として追いかけてしまった、そこに転落の道が待っていたといえる。

 「人々の心に実ったバックボーンまで倒すことは出来ないだろう」という言葉、そして「私自身は敗北していない。私は昔の一匹狼に舞い戻って、また世界中を飛びまわるだろう。私は人真似が大嫌いだ。誰もが思いつかないような仕事に、もう私の情熱が燃え始めている」という締めくくりの言葉から、神の負け惜しみのようなものが滲み出ている。

 ひとつの時代は終わりを告げた。呼び屋として一世を風靡し、常に世間を騒がせ続け、興行界の頂点まで究めたかに見えた神は、まさに奈落の底へと突き落とされることになる。当時の金で2億円ともいわれる莫大な負債を背負った神は、金や事業だけでなく、芸術も、信頼してきた友人も、愛を捧げた妻も、そして生まれたばかりの娘も、なにもかも失うことになる。さらに呼び屋という、天が彼に与えた仕事のなかで、追い求めてきた幻も失ってしまうことになった。
 40歳を迎えようとしていた神彰は、不惑を、何もないところからはじめることになる。


 長い間連載してきた『神彰−幻を追った男』は、今回で最終回です。出版社のあてはまったくないのですが、この連載は是非一冊の本にまとめたいと思っています。デラシネでの連載は終わっても、執筆は続けていきます。
 アートフレンド解散後、神彰がどのようにどん底から這い上がっていったかについては、いつになるかわかりませんが、本の完成をお待ち下さい。

次号で、この連載を終えるにあたっての感想を書きます。


連載目次へ デラシネ通信 Top 前へ | 次へ