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『虚業成れり−「呼び屋」神彰の生涯』刊行裏話

第4回 プロローグとしての『虚業成れり』

 本が出て、2週間あまり。いろいろな感想、そしてご批判をメールやらお手紙やらで頂戴している。事実と違う点もいろいろ指摘されている。慎重を期したつもりだったのだが、やはり事実とちがうことを書いたことに対しては、反省すべきであり、いずれこのことはこの欄で書きたいと思っている。


 昨日この本を書くうえで、貴重な資料を提供していただいた長谷川寛さんとお会いした。寛さんは、神彰が呼び屋としてデビューするドン・コサック合唱団招聘の最初のきっかけをつくった長谷川濬さんの息子さんである。ずっと前から濬さんのことは気になっていた。もしかしたら神さんのこと以上に気になっていたようにも思える。
 お会いしたのは、濬さんのことを書きたいという意志表示をするためだった。
 最初に寛さんとお目にかかったのは、去年のいま頃であった。たぶんその時に、もう次は長谷川濬のことを書こうと決めていたのだと思う。神さんと同じ函館出身、早くからロシアのことに興味をもち、ネフスキイのもとでロシア語を学び、そして満州に渡り、満映で働き、バイコフの『偉大なる王』を訳し、そして甘粕の自殺に立ち会った男。ある意味で神さんから捨てられ、病気と貧困と闘いながら、ずっと書き続けていた濬さんは、日陰をずっと歩き続けていた人でもある。本のなかでも引用させていただいたが、神さんがマスコミの寵児となり、その記事を掲載した文春の記事を、濬さんは通訳として乗り込んでいたカムチャッカを航行する船のなかで、読んでいた。その時に濬さんの胸に去来していたものはなんだったのだろう。それがずっと気になっていた。
 濬さんにとって、満州はなんだったのだろう。そこには理想があったのかもしれない。しかし敗戦、満州国の壊滅、そのなかで濬さんは多くのものを失う。子供、そして友人の死、さらには健康も。
 長谷川濬の書いたものを、集めはじめたのは、去年の暮れ。『虚業成れり』の原稿を岩波に渡して、久し振りに時間がとれたときからだった。長谷川濬は、神さんに捨てられてから拠り所にしていたのは、満州時代から参画していた同人誌『作文』と『動物文学』であった。そこで彼は、小説や詩や随筆を書き続けていた。まずそれを集めること、それをはやくにしなくてはならないと思っていた。私にとっては、『虚業成れり』は、長谷川濬という男の生涯を追いかけるためのプロローグでもあったようにも思える。

 ホッとしたのは、寛さんが、私の濬さんを書きたいという気持ちを受けとめてくれたことだ。
 『虚業成れり』の本がでたばかりなのだが、もう自分のなかでは、濬さんのことをすぐにでも書きたいとはやる私に対して、寛さんは、「もう少し休んでからにしましょう」ともおっしゃってくれた。この気持ちをいまは素直に受けとめたい。


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