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『虚業成れり−「呼び屋」神彰の生涯』刊行裏話

第5回 木原との再会

 西武池袋線大泉学園駅の改札を出て、目にした風景に一瞬たじろいでしまった。自分が知っている街ではなくなっていたのだ。たしかあの時は駅前には大きなロータリーがあって、それを渡ったところに小さな商店街があったはずだった。ロータリーは、いまはゆめりあという大きなショッピングビルになっていた。あらためて4年半という歳月のもつ意味をかみしめることになった。

 はじめてこの駅を降りて、木原啓允の住む都営アパートを訪ねたのは、1999年7月26日のことだった。暑い日だった。木原さんは、アートフレンド時代企画部長として、神彰の片腕となり辣腕をふるっていた。アートフレンド時代のこと、そして神彰の表も裏も知り尽くしていた男だった。彼の話を聞くことからこの本の取材が始まった。出来上がった本を読み直しながら、やはり木原さんの話しを聞かなければ、とてもじゃないがこの本はできなかったとあらためて思う。時に懐かしそうに、時に辛そうに、神と過ごしたおよそ7年あまりの出来事を思い出す木原さんの姿は、いまでも忘れられない。私はあの時何度となく「もしあの時アートフレンドが解散しなければ、神と別れなければ」という木原さんの言葉を聞かされることになった。もちろん過ぎ去ったことで、取り戻そうにもできないことを、誰よりも知っているのは木原さん自身である。失ったものの大きさ、それをかみしめるように漏らす木原さんの中に、後悔などという言葉では言い尽くせない深い思いがあったように思う。木原さんのもとで話しを聞いたあの夏のことはいまでも忘れることができない。

 あれから手紙や賀状は折りにふれ出してはいたのだが、木原さんのもとを訪ねることはなかった。ただ本が出来たら、どうしてもこの手で、渡さなければという思いはあった。
 神さんと同じ年、私が会った時は、脳梗塞を患ったあとで、びっこをひきながら歩いており、決して健康とはいえない状態だった。本が出来てから、早くに会いにいかなければとずっと思っていたのだが、どこかで不安があった。神さんの小学校時代の同級生の佐藤富三郎さん、そして函館商業の同級生椎名泉さんのところに電話して、「もう亡くなりましたが」と言われた時のことが頭をよぎり、なかなか電話をかけられないでいた。やっと電話したのが、10日ほど前だった。電話口に木原さん自身がでたときは、正直言ってホッとしたものだ。

 そして今日やっと木原さんのもとを訪ねることがてきた。
木原さんは、ベットで横になっていた。ヘルパーさんに起きたらと言われて、身体をおこすまで、ずいぶんと時間がかかった。今年82歳になる木原さんは、4年半前会ったときよりもずいぶんと老いていた。ただやっと出来ましたと言って、渡した『虚業成れり』を手にとってから、またあのときのように目に輝きを取り戻していた。
 「イブ・モンタンだよねえ、いやずいぶん立派な本になったねえ」と言う木原の目は優しかった。とりとめのない話しをするうちに、玉青さんの話しになったので、神さんと玉青さんのツーショットの写真を見せたら、「ほうこんな大きくなったのか、俺が会ったのは、生まれた時なんだよ、あの時解散するとかでいろいろあってね」と言いながら、記憶が少しずつ蘇えってくるようで、4年半前に聞かせてもらった話しを、またゆっくりとしはじめた。あのときと比べてたどたどしく、そして重い口調だったが、記憶はたしかであった。
 「神は老子を読んでいたんだよ。俺はねえ、あいつから自分のことを書いてくれと言われて、老子の話しを聞かされて、でも老子のことは書けないって言ったんだよ。それに別のことで手一杯だったからねえ。書けなかっただよ」と言う木原の言葉を聞きながら、もしかしたら、自分は木原の代わりに、神さんの評伝を書いたのかもしれないと思った。
 これ以上お邪魔するのも申し訳ないと思い、お暇を告げると、「送ってくれてもよかったのに、わざわざ持ってきてくれてありがとう。じっくり読ませてもらいますよ」と言ってくれた。
 木原さんはこの本を読んでどう思うのだろう。
 『虚業成れり』は神さんの評伝である同時に、神彰に青春に賭けた人々の歴史でもある。それを木原さんから託されて書いたものではなかったのかと思っている。

 自分の手で出来上がった本を渡すことで、大きな肩の荷をおろすことができた。でもなぜなのだろう、帰り道ここへ来ることはもうないのだろうなあと、つぶやいたとき、寂しさがこみあげてきたのは・・・。


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