月刊デラシネ通信 > サーカス&パフォーマンス > 海を渡ったサーカス芸人 > 沢田 豊日本人の足跡−沢田豊 > 第4回

日本人の足跡−沢田豊

第4回

以下は産経新聞のHP、産経Webからの転載です。


【日本人の足跡】
平成 13年 (2001) 4月23日[月] 友引


日本人の足跡(89) 沢田豊(1886-1957)4


サーカス芸人
【トップスター結婚】
興行先で得た生涯の伴侶

 如月(きさらぎ)の泉州沖。紺碧(こんぺき)に輝く冬の海を眼下に、関西国際空港を飛び立ち、香港を過ぎたあたりだった。

 「サラザニ・サーカスですか。聞いたことありますよ。ドイツで一番大きなサーカス団だったと…。クローネ・サーカス(連載一回目)なら、小さいころに何度も見にいったことがありますよ」

 旅は、だから面白い。ドイツに向かう機内で、偶然隣に座りあわせた女性、ザビーネ・ハイマルさん(三一)は、沢田豊が活躍したサラザニ・サーカスを知っていた。会話が弾んだ。

 「取材ですか。じゃあ、私が…」

 そう言って私の地図に、クローネ・サーカスの常設劇場の場所をマークしてくれた。ハイマルさんは、クローネ・サーカスの本拠地ミュンヘンの出身だった。彼女の脳裏には、両親に連れられてサーカスを見た少女時代が蘇ってきた。

 「とても大きなゾウや、トラにもびっくりしました。懐かしいです」

 内外を問わず、昔も今も、サーカスが紡ぎだす華やかでスリル満点の舞台は、子供時代の宝物なのである。

 一九一二年、ドレスデンに常設のサーカス劇場「サラザニパレス」を設けたサラザニ・サーカスは、圧倒的な人気アーティスト沢田の活躍などで、子供たちの夢を広げていた。

 最大時でスタッフ二百五十人、馬二百五十頭、ゾウ二十頭…。機中で、ハイマルさんが言ったように、ドイツでは、知らない者がいないほどの大サーカスに成長したのだった。

 そのころ、沢田はトップスターに駆け上がっていた。今年三月、ドレスデン郊外の自宅で会った『サラザニ伝』の著者で、サーカス評論家のエルンスト・ギュンター氏(六二)は言った。

 「団長のハンス・シュトッシュ・サラザニとサワダは、家族同然の付き合いだった。スターのサワダなくしてサラザニもありえなかった」

 そして同じ一九一二年、舞台のヒーローは興行先のベルリンで、生涯の伴侶となる美しい娘、アグネス・シュライバーと出会った。沢田二十六歳、アグネス二十三歳の春である。
妻アグネス・沢田(旧姓シュライバー)
 そのとき、皇帝ヴィルヘルム二世主催のパレードが、大通りを進んでいた。市民で混雑し、屋台が並び、街はお祭りムード一色だった。

 つばの広い帽子をかぶったアグネスは、パレード会場の中心近くに友人と一緒に立っていた。キューピッドが一瞬、いたずらした。娘の頭に突然、一個のビー玉がぶつかった。

 「痛い」

 驚いて顔を上げると、そばの菩提樹(ぼだいじゅ)に登っていた青年が、白い歯を出して笑っていた。怒りが込み上げ、声を出そうとした。その時、「ヘーイ、サワダ」といっしょにいた友人が青年に声を掛けた。

 樹上からおりてきた青年は、照れくさそうに謝った。青年の屈託のない笑顔を見ていると、不思議に怒りは消えた。娘は、いつの間にか談笑の輪に加わっていた。

正装する沢田豊 青年は、お詫(わ)びの印にと、アグネスを皇帝主催の晩餐(さん)会に招待した。沢田は、晩餐会に出席できるほどの有名人になっていたのである。アグネスは、申し出を受けた。

 〈それ迄(まで)隨分浮氣で女から女へ流れていつた私だつたが、この場合には、今迄とは全然違つた美しい氣持で接するを得た〉(『日本新聞』)

 サーカス一筋だった沢田にとって、陸軍音楽隊の隊長の娘で伯爵家にも出入りしていたアグネスのたたずまいは、まばゆく映った。それから何度か会った。新鮮で心地よかった。娘も、沢田に心を開いた。

 二人は結婚を誓った。だが、沢田は常に旅を続ける芸人の身だ。反対されることを心配しながら結婚の許しを願い出た沢田に、アグネスの父親は居ずまいをただして言った。

 「ロシア帝室技芸員という名誉ある地位にあり、各国の国王や皇室直々に御上覧されるアルチスト(アーティスト)である君を、我が一族の中にもつことは、光栄である」

 杞憂だった。父親は祝福してくれた。翌一三年三月、日本の若者とドイツの娘は、ハンブルクで式を挙げた。

 沢田がドレスデン市役所に婚姻届を出したときである。窓口の係員が言った。

 「日本人は子供のころに結婚しているはずだ。二重婚となるので認められない」

 幼くして夫婦となる江戸時代や戦国時代の日本の武家の政略結婚のイメージが伝わっていたのだろうか。ともかく、受け付け拒否である。沢田は役人を怒鳴りちらした。しかし、対応は変わらなかった。一カ月後に訪れたハンブルク市役所で、ようやく婚姻届は受理された。

 結婚した年のクリスマス、長女・タニコが生まれた。幸福に満ちた第二の人生がスタートした。

 ところが、またしても、戦争の悲劇がのしかかる。一九一四年、セルビアの青年によるオーストリア皇太子暗殺事件が発生。第一次世界大戦の暗雲が広がったのである。(奈良支局 田伏潤)

 ≪ヴァリエテ≫第一次世界大戦が勃発したとき、沢田はドイツ北部の港町、ハンブルクのハンザテアターで公演していた。沢田は当時、サラザニ・サーカス、クローネ・サーカスなど大サーカス団を渡り歩いたり、ベルリンの劇場ヴィンターガルテンやハンザテアターのような「ヴァリエテ」でも公演した。

 ヴァリエテは、歌や踊り、サーカスなどを披露する劇場兼酒場の名称だ。キャバレット(キャバレー)と比べてショー的イメージがやや強いが、内容はほぼ同じ。ライザ・ミネリ主演の映画『キャバレー』(一九七二年)に描かれた退廃的なショーや、サーカスなどのスリル満点の舞台が受け、ドイツに大衆文化が花開いた「ワイマール時代」に全盛を迎えた。

 ハンザテアターは今でもハンブルク中央駅東側に重厚な姿をとどめている。ヴァリエテはかつて、ハンブルクだけで百軒以上あったが、今ではほとんどが性風俗の店に変わり、観光案内所によると、ハンザテアターがハンブルクでは唯一の正統派ヴァリエテになってしまった。一方で、伝統的なヴァリエテが残る地方都市も多いという。

 ハンザテアターの現在の入場料は三十マルクから五十マルク(千八百−三千円)。バランス芸やコミックショー、歌を楽しみながら食事やビールを囲む。

 日本にも昭和四十年代に全盛を迎えた「キャバレー文化」があったが、ドイツのキャバレットとは異なり、接客サービスを主にしたものや、客が店員と一緒にダンスを楽しむスタイルが多かった。


目次へ デラシネ通信 Top 前へ | 次へ