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日本人の足跡−沢田豊

第5回

沢田豊が所属していた横田一座 ドイツを公演中の横田一座
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以下は産経新聞のHP、産経Webからの転載です。


【日本人の足跡】
平成 13年 (2001) 4月24日[火] 仏滅


日本人の足跡(90) 沢田豊(1886-1957)5


サーカス芸人
【捕虜生活】
逆境の中で新たな技習得

 かわいい第一子は、そのときまだ生後八カ月だった。

 一九一四年八月二十一日、ドイツ北部の港町ハンブルク。横田一座の芸人七人を引き連れて興行中の沢田豊に、ドイツ警察の手がのびた。妻子を連れて寝泊まりしていた大型ワゴン車に、警察官が乗り込んできた。

 「敵国日本の芸人を逮捕する」

 第一次世界大戦で、日本がドイツに宣戦布告する二日前だった。北海からの短い夏の風がそよいでいた街で、沢田ら日本人は次々と拘束された。そして、最終的にハンブルクから南へ約五十キロのゾルタウの収容所へ連行されたのだった。

 前年三月に結婚したばかりの妻アグネスは、乳飲み子の長女、タニコを抱いてぼう然と立ち尽くした。夫の興行先で起きた突然の悲劇。国籍が違うというだけで、新婚夫婦は、敵味方に引き離されたのである。

 戦線の拡大とともに、日本人への視線は厳しく、冷たくなっていく。

 「黄色い猿!」

 そんな言葉まで浴びせられた。沢田にとってそれよりも辛かったのは、妻アグネスが「帝国女!」「猿の娘!」と罵倒(ばとう)されたことだった。

 <戰爭と云(い)ふものが、どんなに絶對的なものとしても、人間個人の愛も亦(また)絶對的なものであることは爭へない…私達夫婦は世界平和に對しては、何人にも劣らない理想家となつてゐます>

 戦争による別離体験は、沢田を深く傷つけた。のちに『日本新聞』に、こう書いて愛の絶対性を説いた。

 ゾルタウの収容所には、一万五千人の捕虜がいたといわれる。沢田ら横田一座の団員も、その中にいた。

 『日本新聞』の沢田の寄稿によると、収容所の部屋には、天井近くの小窓とトイレ代わりの空き缶が一つあるだけだった。食事は、パンとコーヒーだけ。担当の上級少尉がイギリス人と日本人がだれよりも嫌いだと公言。沢田には特に辛くあたったという。

 朝五時に起床、昼食の一時間を除いて夕方六時までぶっ通しの肉体労働。くる日もくる日も、木の根株を抜いたり、大石を砕いて砂利にしたりした。

 しかし、沢田はやはり普通の人間とは違った。捕虜生活に耐え忍ぶだけでなく、逆境にあっても、新しい技の習得を忘れなかったのだ。
沢田ファミリーのプログラム(右下がカーセル)
 監視係のすきを見ては、有り合わせの綱や棒などで軽業を練習した。両わきに二人の娘がぶら下がるてんびん棒を、あおむけになって足でぐるぐる回す足芸「カーセル(回転木馬)」はこの時、編み出されたという。

 そして一四年十月。日独間で相互の捕虜解放協定が結ばれ、沢田ら日本人は二カ月ぶりに釈放された。

 ドイツ当局は、一座に“国外退去・強制送還”を命じた。国内移動を認める許可証を与えて、スイス経由で日本に帰国するルートまで設定した。用意されたのは、スイスと国境を接するボーデン湖を渡る道であった。

 私は、その沢田ら団員が移動したドイツからのルートをたどった。

 ボーデン湖ドイツ側のフリードリヒスハーフェン。ここで生まれ育ったという六十歳の女性に出会った。

 「中立国スイスと国境を接するこの町は、戦争の度に混乱をさけて国を行き来する人であふれるのです」

 国境に広がる湖は、フェリーに乗って約五十分でスイス側に渡れるという。

 ボーデン湖には白鳥やカモが戯れていた。湖面には、雪を頂いたアルプスの山々が映り、のどかな景色がどこまでも広がっていた。

 スイス側に到着した。南下すると、平地が多いドイツでは見られない山がちな陸路が続く。急な斜面に陸橋が連なり、線路がトンネルを抜けていく景色は、沢田らにも遠い祖国・日本の風景を思い起こさせたことだろう。

 沢田らは必死の思いで、退去ルートを移動した。そして、チューリヒ湖畔のバーデンズビルにたどり着いた。

 ハンブルクで取り残された妻アグネスは長女、タニコを連れてベルリンの実家に帰っていた。落ち着きを取り戻した沢田は、さっそく妻子を呼び寄せた。そして一座は、サーカスを再開した。

 だが、戦中の混乱でサーカス人気は下火だった。一座の混乱から沢田は一四年暮れに座長の権限を最年長者の三田梅吉に譲り、まもなく脱退。一人で軽業を続けた。しかし、「帝室技芸員」としての誇りを持つ沢田にとって、客の投げ銭目当ての細々とした芸を続けることは耐え難いことだった。沢田は、ビール工場で働くことにした。

 <アルチスト(アーティスト)の生活から、突如ドン底生活に投げ込まれて…私は寂滅を感ぜずには居られなかつた…人間はもう高等な藝(げい)を問題にしない。明日も知れぬ命と魂の爲に、強い酒と性の亂行へと猛進してゐる>(『日本新聞』)

 私は長女、タニコの消息をたどった。彼女は健在だった。乳飲み子は八十七歳になっていた。タニコ・カバリーニさん。現在、バーデンズビルをチューリヒ湖の反対に望む、同じスイス領内のラッパーズビルに住んでいた。
沢田とその家族
 「あのころの生活はとても大変でした。父は仕事を終えると毎日湖に出かけては、夕食にする魚を釣っていました」

 沢田の嘆きは、娘にも伝わっていたのである。

 スイスで、妻アグネスは二女と三女を出産した。五人家族になり、生活は一層苦しくなった。それでも澄み切った空、孤高のアルプスが、沢田一家に貧しいながらも、平和な生活を取り戻してくれたのだった。(奈良支局 田伏潤)

 ≪横田一座≫東京・浅草で明治三十年ごろ、当時の人気軽業一座「江川一座」や「青木一座」と並んで活躍。バランス芸「ピーター」などで人気を集めた。ロシアや欧州へ巡業し、沢田のほか、団長・横田徳三郎の養女、北村トメの足技が評判を呼んだ。

 一九〇九年、徳三郎はベルギーのアントワープに屋敷を購入し引退。一座は「横田一座」と「二見一座」に分かれ、沢田が新生「横田一座」の団長となった。「二見一座」はこの後、イギリスに向かったが、第一次世界大戦のあおりで解散。「横田一座」もハンブルクでの逮捕、収容所連行から結束が崩れていく。

 ドイツの警察の手が迫ったとき、沢田の家族はサラザニ・サーカスの居住用ワゴン車『ヴァゴン七十一號(ごう)』にいた。「日本人を逮捕する」という情報を得ていたサラザニが配慮して貸してくれていたのだが、先に捕まった団員、青山留吉の妻(チェコ人)が沢田の居場所を密告、逮捕された。

 青山夫妻は、オランダに逃亡しようとしたが駅で警察に見つかり、逮捕されていた。そこで青山の妻が<何故(なぜ)あたしの亭主だけ捕へて外の日本人を捉へないんだ>と警察に密告したのだった。

 青山を除く六人の団員は収容所から釈放後、沢田とともにスイスに入ったが一四年暮れ、一座の年長者、三田梅吉が「年下の沢田のもとで働くのは面白くない」と言い出し、沢田は座長の権限を三田に譲った。だが、三田が低条件の興行契約をとってきたため沢田は脱退、一座は自然解散した。


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